(……)「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する。その証拠は、感覚への愛好である。感覚はその効用をぬきにして、すでに感覚することそれ自体のゆえに愛好されるからである」。『形而上学』の冒頭でアリストテレスはそう述べるけれども、だれより知ることを欲していたのは、「万学の父」とのちに呼ばれることになる、アリストテレスそのひとであったように思われる。アリストテレスがなによりも力を入れて探究したのが生物学的な事実とその細部であったことも、よく知られているところである。アリストテレスは、じっさい、どのような動物であっても観察してみれば、「造化の自然」は「生来の哲学者」に「いいしれぬ愉しみを与えてくれる」と書いていた(『動物部分論』第一巻第五章)。(……)
(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、99; 第7章「自然のロゴス すべての人間は、生まれつき知ることを欲する ――アリストテレス」)
- 八時台に母親が部屋に来ていちどさめた。(……)ちゃんの妹さんがランチに行こうというから行ってくるということで、洗濯物をたのむといわれたが、あいまいな意識で目もほとんどひらいていなかったので返事をしたかさだかでない。それからまたねむり、首を伸ばしたりしてから一〇時半の離床。夢をたくさんみた。ひさしぶりのことだ。高校が舞台で、いぜんあった強くてニューゲーム式のものではないが、卒業後に教室にもどってきているような状況だった。こちらは朝はやい時間からだれよりもはやくひとりで教室に行っており、部屋のなかは薄暗くて窓のちかくの席でも持ってきた本を読めないくらいだった。(……)先生がじきにくる。高校のときの日本史の教師である。その後、ほかの生徒たちもあつまってきて、なかには高校の同級生だけでなく、小中時代の知り合いもいたようだ。(……)の顔を見たおぼえもある。
- 例の、たまにある、迫害される式の夢のバリエーションということになるのか、詳細をおぼえていないが周りの連中から非難されるひとまくがあった。なにかこちらが学級委員的な立場として役割を課せられていたのだけれど、それをうまく果たせずに非難され、謝る、というものだった気がする。謝罪を受けてそのあと(……)が出てきて、数学かなにかの問題をおしえてくれとたのんできた。起きたあとに記憶のなかでこの女子のなまえがすぐに浮かんでおどろいたくらいだが、彼女は小中の同級生である。
- ほか、男女のトイレのまえの廊下で、トイレの番を待つだかで立ち尽くしていた場面もあった。それとつながっていた気がするが、廊下の途中の広めのスペースでやりとりしていたところ、友人のひとりの手がなにかの拍子に変な方向に曲がってもどらなくなる、というできごとがあった。これもうまく記憶できていないが、手首か指か腕かがまったく折れたように、肘のほうにむかってたたまれたようになって、しかもその先端がはまるふうになって固定されてもどせない、みたいなかんじだった。人間の身体にとってあきらかに不可能な状態だったので、大仰に動揺してうろたえながら、ほかのひとりがもどそうとして引っ張ったりするのだが、うまくもどらない。手が折れた本人は、多少は痛いらしいが、そこまでの痛みでもないようで、顔をしかめるでもなくけろりとしている。そこに女子がひとりやってきて、この女子は先ほどから場面にちょっと出てきていたようだったが、女子といっても制服でなく、着物を身につけていたおぼえがあって、冷徹きわまりないような、まったく動きをみせないような無表情をつねに保っていたのだけれど、そのひとがちかよってきて無言で件の腕をなおしてくれた。ひねりを入れながら引っ張ってかんたんに伸ばしていたので、彼女が去っていったあとに、ひねりながらやればよかったのか、と手が折れた男子に声をかけた。この女子ともうひとりべつの女子、そして(……)とがいっしょになった場面もあったはずだが、それはもうわすれた。
- 一〇時ごろになってさめ、快晴のあかるみと熱が溜まった寝床のなかでしばらくまぶたをあいまいな状態にしながら各所を揉んだり伸ばしたりしつつ、夢の記憶をおもいかえしたりしていたのだけれど、そうしてみると高校生のころのことなんて、ほとんど前世の記憶みたいなものだなとおぼつかなくおもわれた。ひるがえっていまのじぶんの生じたいもおぼつかなくかんじられ、それはおきぬけの意識の不十分な覚醒が寄与したものでもあるのだろうが、死をおもった、というか、すでに死後であるかのような、そういうおぼつかなさをかんじた。なんかどうでもいいな、とおもった。じぶんの生じたいがどうでもよく、いずれ大したものでないというかんじ。
- きょうもかなり暑い。天気は晴れ晴れしい。水場に行ってきてから瞑想を一五分ほど。風の音で、枝葉じたいがせせらぐ水のながれとなったかのような持続のひびきがうまれる。
- 食事はきのうの鶏肉ののこり。新聞、文化面に『つげ義春大全』が三月に完結との記事。つげ義春ほんにんは渋っていたらしいが、長男が奔走して実現したという。この長男は漫画のなかに出てくるこどものモデルにもなっているらしい。つげ義春はいま八十何歳かだが、この大全は貸本時代の最初期の作からあつめているといい、そのあたりの原画は紛失していたのだけれど、熱心なファンが保存状態の良いものを提供してくれて刊行できたと。しかし、貸本のころからやっているってすげえなとおもった。ほとんど明治大正的なひびきのことばなのだが、戦後すぐの時期の作品ということだろう。五〇年代、六〇年代あたりか。つげ義春と長男は都内にふたりで住んでおり、いまも漫画の道具は家にあって、生活も楽ではないので息子はおりおりつげ義春にまた漫画を描いたらとうながすらしいのだが、つげ本人は、じぶんのような漫画はもう時代遅れだと言って描こうとしないという。そのことばにはいろいろな気持ちをすこしずつおぼえて、うーん、という複雑な感慨がこちらの心中に生じる。
- 国際面には香港で国家安全維持法が施行されてから六月末で一年をむかえるとのおおきな記事。香港島の西にランタオ島という島があり、そこに親中派の団体が運営する中学(日本の中学・高校にあたるという)があって、その学校では毎週月曜日に国旗を掲揚して愛国心の発露をうながしていると。そこの校長は、ほかの学校でもとおくないうちに、うちとおなじような教育がとりいれられていくだろうとかたっているらしい。じっさい、通識課はこの九月で廃止されてかわりに国歌にあらわされている愛国感情を理解させることを目標とする科目に置き換わると書かれてあったし、とうぜん監視もつよまっているから、通識課をおしえていた教師の、毎年六月四日には天安門事件についてはなしていたけれど、もうそれもできない、という嘆きの声も聞かれていた。
- 民主派の状況は端的な無力と絶望で、周庭も黄之鋒も黎智英も逮捕されて収監されているし、いまはたぶんまだ公安条例違反の判決しか出ていないとおもうのだが、これから国家安全維持法の面での判決もくだされるはずで、そうすると刑期はもっと伸びる。民主派のひとが経営している店に行って多少金を落としたり、そういうふうにしてほそぼそと支え合うことしかできない、という声が紹介されていた。香港人のうちで国外に移住したいと言っているひとのわりあいは増えていて、全体で何割だったかわすれたが半数くらいはあったのではないかとおもうし、一八歳から二四歳の若年層にかぎって言えば八割がそうこたえていると。
- ほか、居間にひとがいなくてしずかだったので、おちついて三つの記事をよんだ。ひとつはハーグの国際法廷でラトコ・ムラジッチが終身刑をくだされたという極々ちいさな記事。一審判決を踏襲したものだと。もうひとつはロシアでナワリヌイに関連する三団体が過激派組織認定を受けそうだというはなしで、三団体というのは、ナワリヌイが一〇年ほどまえにたちあげた汚職なんとかという、政権の不正を暴くような組織がひとつとその関連組織、そしてナワリヌイ派の全国団体みたいなやつで、さいごのものは四月で解散しているという。検察のもとめを受けて裁判所がいま審理しているらしいのだが、もし過激派組織として認定されると、あつかいとしてはISISなんかとおなじくくりになり、団体の活動はすべて非合法になってまったくできなくなると。
- さいごにアメリカ関連の情報で、きのうからはじまったシリーズの中編だが、きょうはバイデンのインフラ計画について。ケンタッキー州とオハイオ州の境にオハイオ川を越えてなんとかいう橋がかかっていて物流の軸になっているのだが、この橋がもう古く、いまの通行量も建設当時に予定されていたものの倍とかで、付近では交通渋滞が頻繁に発生して困っていると。連邦全土にそういう橋はたくさんあるといってバイデンは大規模なインフラ整備計画をつくっており、その財源を法人税の増税によって捻出すると言っているらしいのだが、共和党にしてみれば法人税減税はドナルド・トランプが達成した成果のひとつだから、とうぜんうけいれられない。Mitch McConnellは、インフラ計画は法人税を減税したいがための「トロイの木馬」、すなわち罠であり囮であり表面上の名目だ、と批判している。しかしバイデンとしては分断された国家をふたたびひとつにむすびつけるという大義をとなえて当選しているので、できれば超党派での合意にこだわりたいのだけれど、現実むずかしそう、というはなし。米国の上院はいま民主党と共和党がちょうど五〇ずつ分け合っていて、野党はフィリバスターを利用すれば討議を時間切れに追いこんで法案をながすことができるところ、フィリバスターを回避するために討議の打ち切り動議を出す手があるらしく、しかしそれを可決するには六〇人の賛成がいるという特殊ルールがもうけられているらしい。ただ、さきごろの追加経済法案のときにはそれもさらに回避して、このルールが適用されない例外的な措置を取って成立させたというのだが、この例外的な措置というのがどういうものだったのかはよくわからない。フィリバスターについてちいさな説明が記事に付されていたが、その記述によれば、いままでにひとりの議員がおこなった最長の演説記録は、一九五七年に公民権関連でなされた二四時間数分のもの、とあって、こいつマジでどうやったんだよと笑った。ほんとうにずっとしゃべっていたのだろうか? 検索すると、この議員はJames Strom Thurmondというひとで、Wikipedia上では「南部民主党の代表格」と称されている。「1948年の民主党大会では、党の大統領候補者としてハリー・S・トルーマン大統領が指名された。この時の民主党の綱領には、ミネアポリスのヒューバート・ハンフリー市長らリベラル派の主張するマイノリティ(主にアフリカ系)の公民権擁護のための法律(公民権法)の制定が盛り込まれた。ちなみに、先に制定された共和党の綱領にも公民権法の制定が盛り込まれていた。南部の民主党員は人種隔離政策を支持しており、トルーマンの綱領に反発した。この結果南部出身の民主党議員、知事、それに一部の南部出身の民主党員はトルーマンに反旗を翻し、州権民主党(ディキシークラット)を結成した。当時サウスカロライナ州知事であったサーモンドは同党の大統領候補者に指名され、ジム・クロウ法の擁護と人種隔離政策の継続を訴えた」とあり、ただのクソ野郎じゃないか。「上院でも彼は南部民主党員の主張を代弁した。1957年に公民権法(1957年の公民権法)が審議されると、24時間18分にわたる演説を行い、議事を妨害した。これが上院史上最長の議事妨害である。結局、同法は共和党と北部民主党の賛成を得て可決された」とのこと。その後彼は共和党に鞍替えしている。
- 風呂場の洗剤を詰め替えておいた。
- ジンジャーエールを飲みつつRachel Nuwer, "Will religion ever disappear?"(2014/12/19)(https://www.bbc.com/future/article/20141219-will-religion-ever-disappear(https://www.bbc.com/future/article/20141219-will-religion-ever-disappear))をすこし読んだあと、八日をしあげて投稿し、今日のことも多少書いてから書見。三宅誰男『双生』。クソおもしろい。まずもって語と文の構築のされ方磨かれ方がふつうにいままでの日本文学のなかで最高峰なので、それだけでもう読んでいておもしろい。文のレベルにかぎってもここまで隙なくつくっているひとはほかにいないはず。テーマ系はよんでいればいろいろむすびつきはするが、十全に気づけるとはおもえないし、発見がなにか統一的な絵図をなしておもしろい読みにつながるかも不明。
- 三時ごろまで。音楽をながしたいがために窓を閉じて暑いなかで読んでいたのだが、BGMのCarole Kingを止めると、窓外からはなし声がきこえて、どうも母親が(……)ちゃんの妹を連れてかえってきて野外の風を浴びながらはなしているらしいなとみえた。トイレに行ってきてから、窓をあけて、音楽を聞きたかったのでひさしぶりにデスクにつき、Gonzalo Rubalcaba Trio『At Montreux』をヘッドフォンからながしてきょうのことを記述。(……)ちゃんの妹さんはその後まもなく帰ったようだった。
- あと、洗濯物を二時まえに入れにいったのだが、そのときにベランダの日なたのなかにすわりこんで多少肌に陽の光を吸収させておいた。じっと座りこんでいるとむろんしだいに肌のうえやからだのまわりに熱が溜まってきて暑いのだが、じっとしているしそれほどながい時間ではなかったので、意外とそれほど汗は湧かなかった。陽の勢いとじりじりした質感は、いうまでもなくすでに夏。きょうも最高気温はたぶん三〇度くらいなのではないか。さいきんはホトトギスが深夜だけでなく日中にも頻繁に、朗々と、盛んに、ためらいなく使命のようにして鳴きまくっている。
- 記述が現在時に追いつくと四時半くらいだったはず。そこからベッドにあおむけになり、目を閉じて休息。五時で市内のチャイムとともに起きて、上階へ。アイロンかけ。なぜかわからないが、暑気のためなのか、めちゃくちゃ疲れているかんじがあった。それで母親がなんであれことばを発しているのを聞くだけでもいくらか不快になるようなありさま。きょう会ったのは(……)ちゃんの妹さんではなく、(……)ちゃん本人だったらしい。妹さんが過干渉で、ひとりでいるのが不安で(……)ちゃんの家によく来て、おばあちゃん(というのはたぶん姉妹の母親のことだとおもうのだが)の悪口を言ったり、(……)ちゃんがどこに行くにも拘束しようとする、とかいうはなし。この(……)ちゃんというひとも精神的に調子が悪くて鬱症状かなにかをもうけっこうながくわずらっているのだが、妹がそういうふうにあれこれ干渉してくることもあっておおきなストレスをかんじているらしく、病気とも合わさって四キロ痩せたという。母親は、スリムになってうらやましいよ、とか受けたらしいのだが、この人間はほんとうに、他人の心情をおもんぱかってことばに気をつけるということを知らないあさはかな愚物だなとおもった。年々脳が溶けていっているかのように、愚かな言動が目についてきているような気がする。(……)ちゃんは、でも病気で痩せたんだからぜんぜんよくないよと嘆いたと。
- なぜかクソ疲れていたので、アイロンかけを終えると、公園で食べたモスバーガーがあまっているということでもあったので、食事の支度をすまないがまかせることにして、部屋に帰ってまたベッドに寝転がった。あおむけになって両手のひらをひろげたかたちで腕をからだの脇に伸ばして置き、目を閉じて、死体を模すようにしてほとんどぴくりともうごかずにからだをやすめ、擬似的な死を通過することで生を活性化させようとこころみたのだが、甲斐あって三〇分ほどやすむと心身がだいぶまとまって、あたまもからだもすっきりし、復活した感があった。回復するまえは、希死念慮までは行かないが、マジで生きるのが面倒臭いしすべてどうでもよいからさっさとこの世からおさらばしたい、みたいな倦怠が支配的だったのだが、心身がまとまればそういうニヒリズムもおのずとかくれる。
- 音読。「ことば」の1と2。1はもう暗唱できる。2も石原吉郎の文で、「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」の冒頭。人間は死においてひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ、とかたっている箇所。
- 六時半で食事へ。先日台所に大量にあった赤紫蘇はそのへんに生えていたのを採ってきたのかとおもっていたが、買ってきたものだったらしい。梅の実とあわせてカリカリ梅をつくるためのものだと。ハンバーガーほかで食事。ものを口にはこび、手のうごきをとめて咀嚼しつつ、夕刊の文字を追うことをくりかえす。朝刊でモスクワの裁判所がナワリヌイ派の団体を三つ過激派組織に認定するか否か審理されているところだとつたえられていたが、その結果が出て、認定されたと。米国は大いに批判。しかしこれでロシアの反体制運動、というか反プーチン運動はたぶんほぼ死んだということになるのではないか。ロシアもそんな調子だし、中国や香港もそんな調子だし、タイやミャンマーもそんな調子だし。一面にはもうひとつ、米国がファイザーから五億回分のワクチンを購入して、一〇〇か国以上の国に提供する方針だと。COVAXというしくみをつうじて分配するのではないかとのこと。バイデンがとなえる国際協調路線への復帰を印象づけるねらいだと述べられていた。ひらいて三面にも米国関連の話題があって、まず、バイデンは就任後初外遊でいまイギリスにいるらしいが、ボリス・ジョンソンとのあいだで新大西洋憲章なるものをむすぼうと合意したと。いわゆる権威主義諸国にたいして民主主義国の結束をつよめようという目論見の一環だろうが、そういう構図にくわえて、「大西洋憲章」などという一九四一年の用語が反復されると、まるで大戦前夜だなという錯覚がたたないでもない。四一年だとじっさいには二次大戦はもうはじまっていたわけだが。検索してみると大西洋憲章が発表されたのは八月一四日らしいので、独ソ戦がはじまってもうすぐ二か月のころあいであり、太平洋戦争に突入する四か月ほどまえにあたる。
- 一一日からG7の会合がはじまるといい、そこでバイデンとプーチンがはじめて首脳会談する予定らしい。ほか、ドナルド・トランプが大統領令でTikTokとか微信とかの使用を禁じて、たしかTikTokの米法人を追い出すみたいな動きもあった気がするが、バイデンがその大統領令を撤回すると。しかし、「敵国」である中国のアプリを利用することのリスクやその対策をあらためて調査しなおして対応を決めると。
- 食後、茶を飲みつつRachel Nuwer, "Will religion ever disappear?"(2014/12/19)(https://www.bbc.com/future/article/20141219-will-religion-ever-disappear(https://www.bbc.com/future/article/20141219-will-religion-ever-disappear))を読了。
さらに、自分に見えていないものの存在を信じられるためには他者が必要であるという議論を展開するとき、ドゥルーズが考えているのは外界の知覚だけではありません。自己もまたこの他者構造によって成立していると言うのです。というのも、一秒前の自分、一時間前の自分、一週間前の自分、一か月前の自分、一年前の自分……、そうした自分はもうここにはいません。私には見えません。でも、その存在していない自分が今の自分と同一であると思えなければ、そこから自己というものが成立してこない。つまり、自己が成立するためには、今ここに見えていないものを存在しているものとして扱う想像力の力が必要であり、その想像力の生成のためには他者が必要だというわけです。言い換えれば、他者という資源を失う無人島状況では、自己自体も崩壊していくことになる。
- ほか、「『複眼人』(呉明益/小栗山智・訳)を読了した。最後の最後まで全然おもしろくなかった。なんでこんなもんが世界中で絶賛されとんねん。ほんまに世界文学っちゅうのは低レベルやな。クソくだらん。そりゃだれもムージル読まんわ」とあって、けなしっぷりにわらうのだが、この呉明益というなまえを検索してみると、台湾のひとで、白水社の「エクス・リブリス」から出ている『歩道橋の魔術師』の作者であり、これちょっと気になっていたのに、とおもった。くだんの『複眼人』のAmazonページには、「こんな小説は読んだことがない。かつて一度も」というル=グウィンの称賛が引かれているのだけれど、まあル=グウィンだって言ってしまえばやはりエンタメ寄りのひとだろうし、出版もKADOKAWAから出ているあたりまあねえ、とならないではない。
- ブログ後、日記。記述が現在時においつくといま八時四四分。それにしてもマジでクソ暑い。この時間になっても、腕や背など肌のうえに熱が乗っているのをかんじる。夜気の涼しさもときどき散ってはいるのだが。
- 「知識」を九時一〇分くらいまで音読してから入浴。
- 風呂からもどってきて、2020/6/10, Wed.をいま読んでいる。つぎの一段があった。
坂道を上っていけば、木洩れ陽などむろんないのだが木叢のなかの葉っぱの一部が軽い白さを宿し放ってはいて、それはつまり雲の向こうに衰えかけた西陽の微弱な明るみが反映しているわけなのだけれど、そう言うよりはむしろ、雲そのものの色が滴ってきて染みこみ広がったような弱い白さである。途中の道脇に楓の樹が一本生えており、その若い緑の連なりはほかの樹の葉といくらか違う感覚を目にあたえて面白い。たぶん、葉の線が直線的だからだろう。もちろん厳密に直線ではないのだが、他種のものよりも丸みがすくなく比較的まっすぐな輪郭線で構成されており、葉の指のおのおのがやや尖ってぎざぎざしているそれが何枚も重なりひろがることで、全体的には不定形で密集的にまとまった明緑の色塊を作りなしていて、ほかにない鮮やかさを瞳に差しこんでくるのだ。英単語を借りるならば、crispな感じ、とかちょっと言ってみても良いのかもしれない。
- なんだかずいぶん妙な書き方をしているというか、風景をとりあげているわりに描写という感触ではなく、やたらに分解し分析して説明しているようなかんじで、変な書き方をするなあとおもった。かんじかんがえたことをこまかくくみとりたいという志向はかんじとられる気がするが。
- 一年前のこのころは兄にメールをおくっていて、この日に返信がとどいているが、それは六月七日が兄の誕生日だったからなのだ。ことしはかんぜんにわすれていた。すこしもおもいつかなかった。
- 熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)を書抜き。きょうはかなりおちついて打鍵できた。書抜きも面倒臭いので、読んだときに書き抜こうとおもっていた箇所をあらためて読みかえし、いまの目で見てそれほどでもないとおもわれた箇所は写すのをやめようとおもったのだが、きょうの箇所はふたつともやはり写しておきたいという判断になった。一年かそこらで知見などそんなに変わらない。
- Joshua Redman Quartet『Spirit of the Moment: Live at the Village Vanguard』をききながら休息。ディスク一の三曲目まで。冒頭の"Jig-A-Bug"はよい。Joshua Redman、Peter Martin、Chris Thomas、Brian Bladeというメンツ。このバンドはどいつもこいつもうまく、ずいぶん統制されているなあという印象。九五年の録音で、Joshua Redmanは六九年の生まれだから二五歳か二六歳のときの演奏で、そうかんがえるとやはりめちゃくちゃすごい。Redmanのプレイは非常に知的というか、知的と言うとすこしちがう気がするが、隅から隅までおどろくほどにあぶなげなく制御されているかんじがあって、構築的センスとその構想を実現してしまう演奏力はべらぼうに高い。とちゅうでいくらかリズムをずらしながらブロック的なフレーズをいくつかこまかく吹いてつなげるところがあるが、それですら、フォービートの感覚から外れているのに、あいまいにやっているのではなく明晰にととのっているし、フレーズとしてもはやめなのにこともなげに、小気味良いくらいの軽快さでながれに乗っていく。機動性がすごい。ピアノのPeter Martinもうまくて、このひともこの時点で二五歳くらいなのだが、さいしょから終わりまでやはり隙なくながれるし、速弾きをしてもリズムが厳密で一音の輪郭もはっきり立っているから追いやすい。後半でモーダルな、あるいはややアウト気味の音使いになるが、それ以降のフレージングはすごく格好良い。ほかの参加作も聞くべきすばらしいピアノだ。
- 斎藤環「人は人と出会うべきなのか」(2020/5/30)(https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec(https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec))を読んだ。
- さいきんよく実感されるのは、人間生きているだけで疲れるなということで、まえまえからむろんそのことは知っていたが、さいきんはとりわけてそれが身に染みる。生とは絶え間のない疲労だ。なんであれ、なにかの行為や行動をするだけでじぶんの心身は疲労する。だからほんとうに休めるときというのはまったき意味でなにもしていないときしかなく、だからじぶんにとって瞑想が重要なのだし、道元が座禅は安楽の法だと言ったのもたぶんそういう意味もふくんでいたとおもうのだけれど、ただ瞑想だって本質的に疲労からまぬがれているわけではなく、瞑想をやればやったでそれにともなう疲れだってある。なにしろ存在しているだけで疲れるのだからしかたがない。
- 詩の1番をほんのすこし改稿。多少足したり、行替えの箇所を変えたり。冒頭から後半まで、いちおうことばのつらなりとしてながれはできているとおもわれ、読んでみてもおおきく変えようとはおもわないのだが、それでいて良い詩かというととくにそうはかんじない。ともあれひとまず完成はさせたい。終盤からの締め方がまだわからない。
- 四時直前に就床。