2021/6/13, Sun.

 可能態という存在の次元を承認して、それを現実態との相関関係においてとらえることで、他方では、自然の全体が生成の相のもとにあらわれ、また目的論的に統一された像をむすぶ。たとえば、河の流れはさまざまな土壌をはこび、それを河口に沈殿させる。潮流はこの泥土を海岸に打ちあげ、あるいは浜辺に堆積する。偶然か人為がそれに手を貸して、引き潮が泥土をはこび去ることを妨げれば、肥沃な土地がひろがってゆく。死滅した魚貝類の死骸が、栄養をさらに提供して、沃土のうえにはやがて植物が繁茂してゆく(カントの挙げた例)。
 この場合、河の流れと潮流は、養分をゆたかにふくんだ大地が海とのさかいにひろがる可能性を準備しており、現実にあらわれた土地はまた、植物の育成を可能にする条件をととのえることになる。河川と海とは沃土の可能態であり、植生は豊穣な土地の現実態である。生態系の(end107)こうした推移は、しかも不断に生起しており、生態系の相は絶えず遷移する。すべては生成の途上にあり、あらわれる極相のそれぞれは、べつの相を可能態として、そこから生じた現実態であるとともに、到来すべき他の相に対しては可能態となる。――可能性が現実性へと変わるとき、そこでは必然性、目的と条件とのかかわりを介した必然性が問題となっている。可能態から現実態への移りゆきのすべてを、偶然の結果と考えることはできないからである。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、107~108; 第7章「自然のロゴス すべての人間は、生まれつき知ることを欲する ――アリストテレス」)



  • 起床はけっこうおそくなり、正午まえ。瞑想OK。
  • 父親は献血に行ってきたとか。それでついでにたこ焼きを買ってきていた。元(……)だったビルの入り口のところで売っているもよう。ほかは前夜のあまりでチキンとかカキフライとか。いくらか切られて生のまま放置されてあった白っぽいキャベツがあったのでそれも。切片の端にほんのすこしだけ、炙られたように黒くなっているところがおりおりあったので、それはちぎって取る。レンジで熱してしんなりさせて食べようとおもっていたと母親は言ったが、生のままでも充分やわらかいキャベツだった。
  • 新聞は書評面を。入り口では『飛ぶ教室』が紹介されていたがよく読んでいない。この作品は、光文社古典新訳文庫の版でだいぶむかしに読んだ。「禁煙さん」とか「正義さん」だったか、そんな呼ばれ方のおとなたちが出てきたことと、ウーリという弱虫みたいな男子がたかいところから飛び降りた事件についてまわりの男子がいろいろ評してみせるなかにアフォリズム的なことを言ったやつがいたのと、位置づけとしてはたぶん主人公にあたる少年が夜に町の家々の灯をみながらこのどのひとつの明かりのもとにもそれぞれひとの生があるのだ、みたいな感慨をいだく場面があったことと、こどもたち同士のたたかいが『イーリアス』を模しているのではないかとおもったことくらいしかおぼえていない。
  • 書評欄本面は、『アウシュヴィッツできみを想う』みたいなタイトルの書を紹介していた。オランダ出身の精神科医アウシュヴィッツに入れられて、解放されるまえに収容所内で書いたらしい。妻だか恋人だかといっしょに入れられたのだが、この医師は収容所内で、相対的に見て囚人のなかではきわめて幸運だったといわざるをえないが医療員的な地位をえることができ、それで妻のいる女性収容棟にも出入りすることができ、彼女をはげまして生き延びさせるというのが彼の生きる目的になった、というような紹介文が書かれてあった。ほか、『古代エジプト全史』という雄山閣の本や、先崎彰容が出した新潮新書の国家論がちいさな記事で。あと、『探究する精神』みたいなタイトルの、科学者の自伝も紹介されており、これはおもしろそうだなとおもった。幻冬舎新書。大栗博司『探究する精神 職業としての基礎科学』というやつだ。素粒子分野の物理学者で、ぜんぜんわからんがなんかかなりすごいほうのひとらしく、評者は、この自伝を読むと、そういういいかたなどほんとうはしたくないが、どうしても「天才」との印象をいだかずにはいられない、みたいなことを言っていた。なんでも、少年時にアインシュタイン特殊相対性理論を理解させてくださいと稲荷神社に拝みに行ったとかいうエピソードがあるとか。
  • ほか、のちに夕食時に読んだものだが、亀井俊介坪内逍遥についての書。さいしょ亀井秀雄と混同しかかったのだが、亀井俊介はたしか岩波文庫のエミリー・ディキンソン詩集を編訳していたひとだったはず。三二年生まれとあったからもうほぼ九〇歳のはずだが、その歳でこういうしごとをするのだからすごい。坪内逍遥の文学論を精読しなおして再評価するみたいな本らしく、坪内逍遥はきちんと理論をまなんだ人間でないからそこが弱点とされ、ドイツに行って美学理論など受容してきた森鴎外からけなされていたらしいのだけれど、むしろ理論先行でないかたちでじぶんなりの文学との向き合い方接し方を手探りでもとめ見出していったそこが魅力であり、その射程はいまの時代にも充分に通用するものなのではないか、というようなはなしのようす。坪内というとシェイクスピアをだいたいぜんぶ訳していたはずで、それはわりと読んでみたい気がする。
  • あと、なまえをわすれたがブルガリアだか出身の学者による、『模倣の罠』とかいう国際政治についての本。いま権威主義体制の国々が自由民主主義側のしくみやかんがえをいかに表面的に都合よく盗用したか、みたいな分析らしい。プーチンのロシアはおもてむきだけ選挙制度などとりいれつつも実態は不正がまかりとおっている「詐欺師」だ、と断じられていると。文中に触れられていたのだが、ハンガリーオルバーン・ヴィクトルはもともと民主化の旗手だったという。そうだったの? とおもった。
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  • いま風呂を出てきて、もう日付が変わるまえ。日記を書きたいのだが、どうも気力が湧かないので、やる気が出るまでひとの文を読むかというわけで、津野海太郎「最後の読書: 03 子ども百科というテーマパークで」(2017/7/5)(https://kangaeruhito.jp/article/491(https://kangaeruhito.jp/article/491))を読みはじめた。瀬田貞二という児童文学者について。平凡社の『児童百科事典』という全二四巻の編集者として紹介されており、津野とこの事典の接点をかたるなかで、「このエッセイを『グラフィケーション』という企業PR誌に寄せたのが四半世紀後の1978年で、このとき『児童百科事典』の現物はもう私の手元からは消えていた。その10年ほどまえにアングラ演劇にのめりこみ、あっというまに食えなくなって、子どものころからの蔵書を3千冊ほど、早稲田の古本屋に売り払った。そのなかにこの百科がふくまれていたのだ」と書かれている。前回前々回で鶴見俊輔幸田露伴をモーレツ雑食多読派などと称していたが、このひとじしんも、「子どものころからの蔵書」が三〇〇〇冊以上もあったのだから、相当なものではないか。
  • つづけて南直哉「お坊さんらしく、ない。: 一、「老師」はつらいよ」(2021/5/20)(https://kangaeruhito.jp/article/70551(https://kangaeruhito.jp/article/70551))も読んだ。本人はじぶんが「坊さんらしくない」と言っているけれど、したの言い分など、やはりいかにも仏教者らしいものだなあとおもってしまったのだが。

 考えてみれば昔からだ。学生のときは学生らしくない、会社員のときは会社員らしくない。ついに坊さんになったら、それでも坊さんらしくない。
 逆もある。出家した後、いろいろな人から言われた。君は新聞記者になればよかった、証券会社に向いている、暗に立候補を誘われたこともある。
 つまり、私はどこにいても、何をしてもズレているのだろう。ただ、もう私はそれに馴れた。悲観するような歳でもなくなった。さらにいえば、このズレや違和感はあってもよいし、むしろ持っていたほうがよいのではないかと、最近は思う。
 板に付いてしまったら、もう動けまい。違和感なく満足してしまえば、足腰は重くなるだろう。そう思うと、ズレの感覚は何かの可能性を予告するものかもしれない。
 思えば、地位や敬称の意味や、それが要求する態度や振る舞いを規定するのは、安定した社会集団の秩序だろう。「社長」という役職の意味、「老師」などの尊称のランクを決めるのは、それを設定する集団における秩序体系である。
 ならば、この集団が解体するなり、変化すれば、「板」が壊れて「付く」どころの話ではなくなる。すると、往々にして人は「浮足立つ」ことになり、不安に駆られて行動が拙劣になりかねない。
 常にズレている人間は、要するにどこにいても「ここが居場所」という気がしない。どこであろうが「仮住まい」にしか思えない。いつも浮足立っているから、「落ち着いて」浮足立っている。