2021/6/17, Thu.

 ストア学派の「対話法」は、「意味するもの」と「意味されるもの」の区別をふくんでいる(『列伝』第七巻六二節)。意味されるもののうち重要なものは、語や句、文の意味、「表示されるもの」(レクトン)である。現在の目から見て興味ぶかいことは、ストア派がその意味論において、意味 [﹅2] と指示 [﹅2] との区別に近いものに言及している点であろう。表示するものは音声である一方、表示されるものは、非物体的である(セクストス『論駁』第八巻十二節)。指示されるもの、指示対象は、これに対して、ストア学派の理解からすればおしなべて物体的なものでなければならない。――「明けの明星」と「宵の明星」の指示対象(Bedeutung)はおなじものである。その意味は、けれども、おなじではない。現代論理学の始祖、フレーゲが Sinn と呼んだものを、ストアのレクトンはふくんでいるのである。表示される意味(meaning)は、非物体的なものである一方で、指示対象、指示されるもの(reference)はかならず物体的なものであるとする立場に触れることで、問題はすでにストア学派の自然学におよんでいる。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、124; 第8章「生と死の技法 今日のこの日が、あたかも最期の日であるかのように ――ストア派の哲学者群像」)



  • この日の前半と終盤は怠惰にふけったので、たいしたことはやっていない。五時半ごろで家事へ。アイロン掛けをおこなって多数のシャツを処理する。襟の隅に皺が寄らないようにかけてくれと母親にもとめられているのだが、これが意外とむずかしい。処理し終えるともどって、書見。三宅誰男『双生』(自主出版、二〇二一年)。この日は173から195まで。ほか、音読もひさしぶりにけっこうたくさんやった。そのあいだはダンベルを持ったり脚を引っ張ったりしているので筋肉もわりとほぐれた。ベッド上で柔軟もやったのでよろしい。からだをやはり鍛えたいというか、筋肉の面でも多少は頑健にしていきたい。音読はさいきんなまけがちだったが、声を出して文を読むと、そんなにおおきな声でなく低くちいさく読んでいるだけなのだが、やはりなぜかあたまが晴れるような意識が冴えるようなかんじになる。声を出せば、あるいは口を動かせばそれで良いのだったらひとと会話をしたり歌をうたったりするのでも良いはずだが、それらをやってもそうはならない気がする。BGMにはひさしぶりにFabian Almazan。Amazon Musicでわりとさいきんのトリオ作品もながした。メンバーはLinda OhとHenry Coleといういつものメンツ。Linda OhはFabian Almazanの連れ合いだったらしい。このひとは大学の卒論だかなんだかで、Dave Hollandのソロに見られるインド音楽のリズムからの影響みたいなテーマをあつかったらしく、コアだなあとおもった。
  • いま九時まえ。夕食後で茶を飲みながら(……)さんのブログを読んでいる。六月一六日付とその前日の一五日。後者の冒頭の引用をメモしておきたい。

熊谷 当事者研究に影響を与えた人物に、精神科医ヴィクトール・フランクルがいます。彼も「責任」という言葉を使いますが、一般的な責任とは少し異なっています。彼は人間を、人生から問いを投げかけられている存在と捉えたうえで、「私は人生にまだなにを期待できるか」ではなく、「人生は私になにを期待しているか」を考え続けること、それが責任なんだと言っているのです。人生がわたしに何を問いかけているか考えることに責任が宿ってくる。フランクルの言う責任は、必然的に自分の人生を振り返ることを要求します。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.406)

  • 「どこの世も足の引っ張りあいばかり星々は告げよ明日の天気を」という一首をつくった。
  • 日記はそこそこやって、一三日から一五日までをようやくかたづけた。やっつけしごとだが。しかしそれで良いのだ。