2021/6/24, Thu.

 「創世記」は「はじめ(アルケー)に神は天と地とを創造した」とはじまる。この「はじめに」は「時間にしたがって」(カタ・クロノン)という意味ではない。時間は、世界のあとに生成したからである(二六節)。あるいは「創造にさいして万物は一挙につくられた」とするなら(六七節)、時間と世界は同時に成立するのである。――プラトンもまた時間は世界とともに生みだされた(end153)と考えた(『ティマイオス』三八b)。プルタルコスは、世界と時間はともに「神の似像」であるという(「プラトン哲学の諸問題」問題八)。問題は、重要な哲学的・神学的な意味をふくんでいる。アウグスティヌスは、論点をめぐって、「私たちが、いつか [﹅3] とかあるとき [﹅4] とか語る場合、そのことばは時間に属しているけれども、なにかが造られるべきあるとき [﹅4] は、神のことばにおいて永遠である」と註することになる(『創世記逐語的註解』第一巻六節)。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、153~154; 第10章「一者の思考へ 一を分有するものはすべて一であるとともに、一ではない ――フィロンプロティノス、プロクロス」)



  • 起床は正午まえと遅めになってしまった。水場に行ってきてから瞑想。一五分強くらいだったはず。特段の印象はない。上階に上がって、天麩羅のあまりやその衣ののこりを焼いたお好み焼き的な料理などで食事を取る。新聞で見たのは立花隆の訃報。そこで得た情報はきのうの記事にすでに書いた。
  • 帰室したあとは茶を飲みつつウェブを見てまわり、ベッドで蓮實重彦夏目漱石論』(講談社文芸文庫、二〇一二年)を読みはじめたのが二時くらいではなかったか。Carole King『Music』とcero『POLY LIFE MULTI SOUL』をBGMに。三時半くらいまで読み、そこからしばらく「ことば」を音読したのは、ギターを弾きたくなっていたのでそのまえに手首や指をほぐしたかったからである。音読の片手間にそうすることがおおいので。「知識」のほうの音読はよいのでは? という気になってきている。知識をつけることなどどうでもよいのではないかと。知識は大事だとはおもうし、なんでも知っておぼえておくにこしたことはないとはおもうのだが、なんかこういう受験勉強的なやりかたには必然性がないというか、知識をつけることじたいが目的になっているというか、そうするとけっきょくそれは物知りな人間になりたいというだけのスノビズムではないか? という気がされてきて、そうだとするとそれはくだらないという気持ちになるので。
  • その後、しばらくギターにあそぶ。まあそれなり。音のはこびをそこそこ見やすくなってきてはいる。曲もやりたいのだが、あまりおもいきりジャカジャカやるのに気がひけていつまで経ってもそちらに行けない。いいかげん、なにか一曲くらい弾いて歌えるようになりたいが。
  • 爪を切り、五時でうえへ。アイロン掛け。未処理のシャツが溜まっていたのでそれらをかたづけていく。食事の支度は母親にまかせて、何枚ものシャツをすべてかけおえると、階段とちゅうや自室のそとにはこんでおく。ついでに、クリーニング屋からかえってきた礼服を、したにもっていってと母親が言っても父親があとでもっていくよと取り合わないので、こちらが衣装部屋にはこんでおいた。それで室にかえり、またベッド上で書見。しかし腹が空っぽなのでたびたびエネルギー不足になって、本を置いて目を閉じる時間がおおかった。
  • 七時まえで夕食へ。夕刊一面には蘋果日報が二四日で停刊となったという報があった。さいごの日はいままでで最大の一〇〇万部を発行し、スタンドには長蛇の列ができたと。一面には、われわれはリンゴを支持するという読者の声が載せられ、なかには、社説かなにかで、香港の報道の自由は暴政によって破壊されたという文言がしるされているらしい。また、めくると、三面には、米情報機関が、米軍の撤退後半年から一年でアフガニスタン政府が崩壊する可能性があると報告した、との記事。タリバンが各地で活発化しているようだし、アフガニスタンはマジでやばいのではないかという気が素人目にもされる。タリバンが政権を奪還して元の木阿弥になるか、勝敗は措いても内戦になるかするのではないか。そこにISISの残党がからんできたりしたらいっそうやばいし、いぜんにも書いたけれど、内戦やタリバンの復活ということにもしなれば、この二〇年はいったいなんだったのか? と、米国がこの二〇年でアフガニスタンにのこしたものはいったいなんだったのか? ということにかならずなり、ただでさえ中露におびやかされている米国の威信とか信用とか魅力とかいったものは相当な打撃をうけざるをえないはず。
  • 食後はまた茶を飲みつつ、きのうのことを記した。八時半くらいでしあげて投稿。それから瞑想。八時三八分から九時ちょうどまで。そとからはラジオらしき音声が聞こえていて、下の家の(……)ちゃんらしきひとがそとに出てなにかしているようだ。こどもに声をかけて、~~、もう寝るの? とか、いまイカ焼いてる、とか言っていた。ラジオは、わりと早口でひくくもたかくもない音域の若い男性の声が、「つねに上から目線の自己愛型人間」についてなんとかかんとか語っていたようだが、こまかな内容は聞き取れなかった。いわゆるメンタリスト、みたいな呼称をされているたぐいのひとなのだろうか。ラジオの音声の裏、はるかむこうからは、たぶん川を越えて対岸の集落の道路を走る車の音が、風のひびきのように、あるいはそれと混ざってはろばろとつたわってきた。
  • 九時で入浴。暑い。暑いので冷水シャワーを浴びるのが気持ち良い。かわりに、湯のなかにじっとしていることはあまりできない。出ると(……)さんからもらったというカルピスを一杯つくって、帰室してここまでさっと記述。一〇時半。
  • 三首作成。

 独房の夜を知ってるものたちの連帯の詩を雲にたくして

 死後もまた住めば都さ地獄にも陽気な悪魔はいるでしょうから

 老若も男女もひとしく踊りゆき花は無惨な恥じらいの遺体

  • 歯磨き中とその後で七首作成。

 ほほえみがつくるあなたの頬のかげに問いを封じて名を受け取った

 放蕩にくるしむ朝のくりかえし血は水となり過去をよどませ

 祈れただきょうもだれかが忘れちまう電気羊の夢のはざまで

 むらさきの蟬の声だけ降る暮れは無常を知って雨に濡れたい

 あやふやなつながりだけが好ましい信じなければないものだから

 パーティーは不条理の世に火をつけて夜はいつでもこのいまのこと

 愛を知ることをうそぶくカモメども種族主義者の身のほどを知れ

  • 101: 「依頼 [﹅2] と代行 [﹅2] は、物語の水準で遭遇する人間たちがとり結ぶ関係であるにとどまらず、説話技法の水準で、話者の成立の契機ともなっているという事実こそが重要なのである。実際、作品の公式の話者であるはずの猫 [﹅] が、誰かがふらりと苦沙弥の家にやってくるその瞬間に、語りの視点を新たな訪問者に委託してしまう『吾輩は猫である』の説話的構造を思い起してみるまでもなく、漱石的「作品」のほとんどは、幾人もの代行者たちが語りついでゆく物語 [﹅2] の物語 [﹅2] なのである」
  • 115: 「だから、この東京での会話を過度に活気づける琴の音は、小野にとっては過去の危険を掘り起し、藤尾にとっては未来の危険を準備するきわめて不吉なものなのである。それは小野と藤尾との仲を決定的に引き裂き、「女詩人の空想」の戯れを完璧なまでに打ち砕くことで結末を迎える『虞美人草』の物語の、いわば負の中心に位置しているのだ。その意味でこの小説は全篇が不可視の存在の奏でる琴の音に憑かれているということができる。琴が聴えてしまったことが決定的なのだ。そしてその事実を意識しているものは、琴の主をはじめとして誰ひとりとしていない。というのも、琴そのものは物語の中にはいささかも描かれてはおらず、たえず視界からは身を潜めたまま、裏側から物語を操作するものだからである」
  • 127: 「それは、たえず更新される現在としてこの上なく希薄なものなのである。ヴァイオリンや琴の音は、それ故、漱石的「存在」をひたすら希薄な表層へと誘うそれじたいがいかにも希薄で捉えがたい符牒だといってよい」
  • 12: 「(……)ただこちらの存在を希薄に漂わせて、その人影の通過を待っていることだ。存在が薄まれば薄まるほど不意撃ちには好都合だし、漱石の記憶から解放される人影の、「作家」としての蘇生もまた容易となろう。記憶喪失の演技者は、自分であることを忘れた匿名の「作家」とともに言葉の海へと漂いでる。現在であることしか知らぬ言葉たちのたゆたい」
  • 68: 「これまで敬太郎や三四郎を主人公や作中人物と呼ばずにひたすら漱石的「存在」と記してきたのは、それが物語 [﹅2] にとって必須の心理だの性格だの欲望だのに従属することなく、むしろ物語 [﹅2] を支える濃密な説話的機能によって不断の現在としてある言葉の連らなりと同調する役割を帯びているからだ。漱石的「作品」とは、現在であることしか知らぬ言葉たちの戯れの場にほかならない」
  • 76: 「鏡と化した存在、あるいは存在と化した鏡。鏡を確信しえた騎士ウィリアムが到達しえたこの状況は、あたかも二つの向いあった表層が、たがいの表面に推移する影の戯れを完璧に模倣しあい、その模倣の運動がぴたりと同調しあうことで現在というもっとも希薄な瞬間を生きることにほかならない」
  • 76: 「この現在へと一体化することへの執着、怖れ、歓喜、後悔といった態度が、漱石的「作品」にそのつど異質な相貌をまとわせることになる」
  • 77~78: 「『彼岸過迄』の敬太郎がひたすら曖昧で希薄な存在であったのはそのためである。おそら(end77)く敬太郎は完璧な模倣を実現したとはいえまいが、鏡の表層に更新される不断の現在への執着によって「作品」に加担する漱石的「存在」の一人とはなりえているのだ」
  • 129: 「花は、見られることで瞳を孤立させ、必然的に距離をきわだたせる。そして匂いによって異なる感覚主体に同一空間の共有を許す。だから花の香りは、琴の響きのように複数の人間を同時に愛撫する触覚的な環境ともなりうるのだ」
  • 137: 「漱石が書き残した多くの長篇にあっては、彼自身の筆に抗いかつまた読む意識をも刺激する一定の言葉の磁場ともいうべきものが張りめぐらされており、物語は、そこで「遠い」の一語に触れて始まり、複雑化され、また終熄する。繰りかえすが、それは「遠さ」という概念ですらなく、ひたすら「遠い [﹅2] 」という一語の配置が示す運動といったものが問題なのだ」
  • 138: 「そして、漱石を読む [﹅5] とはすでに述べたようにその錯綜した言葉の磁場を、客観的世界にも主観的宇宙にも還元されないどこにもない場所 [﹅8] として解放することにほかなるまい」
  • その後また書見。一時半ごろまで。それからカップヌードルのカレー味を用意してきて、すすりながら(……)さんのブログを読む。二一日付。千葉雅也の新篇について、「「マジックミラー」のほうが「オーバーヒート」に比べて、短編ということもあってか、けっこうカッチリまとまっている感じ。このテキストを素材として色々と思弁を練ることもできそうだし、「デッドライン」のときも思ったが、五感がものすごくみずみずしい(「感じやすい」)。これは傑作だと思う」とあるので気になる。これらが載っている『新潮』の六月号はおおくの書店で売り切れたらしく、編集部が、それは千葉雅也への注目をあらわすものだと豪語しているという情報を先日新聞で読んだ。
  • ほか、こちらの感想を受けて、『亜人』と『双生』について説明されている。「『亜人』はエピソード間のつながりがかなり明瞭であったし、(……)くんのいう「意味の物語」も一読すればだいたい全体像をつかむことができるようになっていると思う。だからこそ、ノイズとなるエピソードや記述を断絶=リセットの機会として頻繁に挿入し、その「物語」の脱構築可能性(別の読み方)を担保する補助線をちりばめておいたのだった」、「関係性と無関係性で記述-エピソードの流れにグルーヴをもたせたものである」とあって、そうか、『亜人』ってそういうものだったのかとおもった。さいしょに読んだときはとにかくどこをとっても文自体がめちゃくちゃ磨き抜かれているというそのつよさにやられただけで、なんかぜんぜんわからんけど文がどれも格好良いしすげえ、というそれだけで読んだし、その後再読したときも、意味論的な要素の布置をしっかり追うほどのちからがまだなかったので、また読んでみなければなるまい。『双生』については、「意味の物語のみちゆきがあまりよくわからない」というこちらの感覚は「まったくもって正しいと思う」との承認とともに、「みちゆきは無数にあるのだが、その無数のありかたが読み手をわからなくさせる=水路や塹壕のような迷宮に導く」と補足されていて、この説明はただしくこちらの感覚と相応している。いたるところからいたるところに向けて線を引けるのだけれど、それらが統一的な像をなす気配がなく、したがってまたとうぜん、表象の物語とそれがどう重なるのかもつかめない、というかんじ。
  • 文体については、「文章に関してはクロード・シモンとか古井由吉とか金井美恵子とか蓮實重彦とか日頃から読んでいる層であれば問題なく読めるんではないかとこちらは想定していたのだが、どうもそうでもないのかもしれない」と述懐があり、まあクロード・シモンを愛好するような人間であれば行けるかもしれないなとはおもうが、クロード・シモンを「日頃から読んでいる層」などほぼいないはず。つづけて、「序盤をもう少しリーダブルに、つまり、文章を短く区切りなおしてやったほうがよかったのかもしれないなと思った」と反省がなされているけれど、出征までの文体はやはりあれで良かったとこちらはおもう。というか、この小説のなかでこちらがいちばん印象にのこっている箇所のひとつが、フランチスカの登場の瞬間で、あそこは完璧にはまっているとおもっているのだけれど、あそこを完璧にはめるためには、それまでの文体がやはりあの凝縮性、へんないいかただが、ある種おどろおどろしいようなものでなければならなかったのではないかとおもう。
  • あと、ついでにもうひとつ、序盤でおどろいたのは20から21にかけてページをまたがりながら一一行にもわたってつづいている一文で、これは文のかたちとしてかなり貴重なものなのではないかとおもう。

 (……)故人の実力者であることが端々に知れる豪奢な白塗りの、かつては死者を寝かせた棺桶そのものを材として作りなおす手筈であったとされる小舟の船尾に、水面を照らしつけるようにして燃え盛る篝火の太くしなる竿の先端に吊りさげられているのと、風除けの和紙に四角く囲まれている灯火の当人をふくまぬその年の山間の死者と同じ数だけならべてあるのを載せたのが、女人をのぞく遺族らの手によって屋敷に北接する水路に浮かべて流されると、各々の持ち家付近でいまかいまかと待ち構えていた家長らが運ばれてきたものを正しい順路で送り出せるようにと、持ち手の先端に赤い飾り紐と鈴の巻きつけられた棹のその夜ばかりは人目をはばかることなく触れることがゆるされているのを差し、次の家のものに知らせる儚い音色を鳴らしながらさだめられた無言に徹して流れに導きをつけた。

  • これを一文でやってしまったのはすごいでしょう。内破ギリギリのところまできているのではないか。たとえば古井由吉なんかも、たまにやたらながく文をつらねることをやっていたおぼえがあるが、ただ彼は基本的には、「~して、~して」というつなぎ方をするタイプだった気がするのだけれど、ここの記述のばあいは読点をともなう箇所の置き方が一様でないし、リズムがぜんぜんちがう。こころみに中核だけを部分的に抜き出してみると、つぎのようになる。「(……)白塗りの、(……)小舟の船尾に、(……)(篝火の)吊りさげられているのと、(……)(灯火の)ならべてあるのを載せたのが、(……)流されると、(……)送り出せるようにと、(……)(棹の)ゆるされているのを差し、(……)導きをつけた」。あいだを埋めるながながしい修飾部も、「の」を利用した前後入れ替わりのかたちが多用されていて、「(灯火の)ならべてあるのを載せたのが」のところなどは三つもつながれているからちょっと笑うくらいだが、うえの抜き出しを見ればあきらかなように、大枠としては「小舟の船尾に(……)と(……)を載せたの」という、これじたい「の」を利用したクソながい名詞的まとまりがあり、そのなかでまた、「と」と「を」につながる名詞(「篝火」と「灯火」)が「の」を活用した前後逆転もしくは分裂の修飾技法によって膨張的に長たらしくなっているというわけで、この複雑な入れ子構造はすごい。こんな一文をつくった人間はたぶんここ一五〇年の日本にほかにいないとおもう。
  • うえまで書き足したあとはまた『夏目漱石論』を読んだり、『双生』のことばをすこしだけながめたり。『夏目漱石論』はきょう、110から175まで。蓮實重彦がめずらしく登場人物の内面に踏みこんでいると見える箇所があって気になったのだが、翌二五日に読みすすめたところとも合わせて、それらはのちほど、余裕があったら記したい。