2021/6/25, Fri.

 知性は一であろうとして、いまだ一ではない。「そのような知性に先だつ、驚嘆すべきものがある。それが一者であり、一者は存在ではないのである」( [プロティノス『エンネアデス』] 第六巻第九章五節)。

それゆえ一者は知性ではない。むしろ知性よりも先なるものである。知性は存在のうちのなにかであるが、一者はなにかではなく、存在するものそれぞれよりも先なるものであるからである。したがって、一者は存在(ト・オン)でもない。存在なら、いわば存在というかたち(モルフェー 形相)をもっているけれども、一者にはかたちがなく、知性の認識するかたちもないからである。つまり、一者の本性は、すべてのものを生みだすものであるが(end160)ゆえに、万物のどれでもない。したがって一者は、なんらかのもの〔実体〕でも、どのようなもの〔性質〕でも、どれだけのもの〔量〕でもない。また、知性でも、たましいでもない。一者は動いているものでも静止しているものでもない。場所のうちにあるものでも、時間のうちにあるものでもなく、それだけで、単一の形相をなしている。(同、三節)

 一者は、「単一の形相をなしている」(モノエイデス)。あるいは、より正確にいえば「形相を欠いたもの」(アネイデオン)であるともいわれる。形相(エイドス)とは、存在において見られるかたち(モルフェー)であり、存在を多としているものであるからである(同)。
 一者は、太陽がすべてのものを照らすように、万物にあふれ出る(同、四節)。大木のいのちが枝の一本一本にいきわたって、なおひとつのいのちであるように、絶えず水が湧出しながら、ひとつの水源でありつづける、山深く、静謐な泉がそうであるように(第三巻第八章十節参照)、一者は万物であり、万物は一者から生じる(第五巻第二章一節)。プロティノスの世界が「流出 emanatio」によって成立するとされる理由がここにある。たましいは、かのもの、つまり一者を目ざすことで、「存在を超越したかなた」にいたらなければならない(第六巻第九章十一節)。たましいは、そのとき「知性的な光に満ちあふれて」、自身が「光そのもの」となる。自己は、「そのときむしろ神である」(同、九節)。ここで説かれているのはやはり「脱我」(エクスタシス)(end161)であり、「神秘的一致 unio mystica」であることになるだろう。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、160~162; 第10章「一者の思考へ 一を分有するものはすべて一であるとともに、一ではない ――フィロンプロティノス、プロクロス」)



  • 起床はまた正午直前と遅めになってしまった。夢のわずかな記憶がふたつある。ひとつは山梨の祖母の家が舞台で、縁側に接した庭から家のなかをのぞいているもの。縁側、というか廊下を越えた先に畳敷きの部屋があるわけだけれど、そこに先日亡くなった(……)さんがいて、それは幽霊らしい。なにかを叫びたてるだか、感情をたかぶらせたようにさわがしくうごくだか、なにかそういうかんじの激しいうごきを見せていたのだが、こちらのそばには山梨の祖母がいて、もうひとり、母親だったか、もしくはすでに亡くなった母方の祖母がいたかもしれない。こちらの祖母は(……)さん(祖父の妹)からみると、義姉妹ということになる。それでこちらは(……)さんがいるということを知らせて注意をうながすのだが、幽霊なので彼女らにはそれが見えない。
  • もうひとつは学校が舞台で、教室で授業だかはなしあいだかがなされている最中に、キリンジの"双子座グラフィティ"をうたいだしたやつがいて、数はすくないが何人かが声をあわせて歌はつづき、こちらも机に突っ伏して横をむきながらも気楽にかるい声でうたっていたのだが、そうすると教師に怒られたというもの。教師は男女ふたりいて、こちらの席は廊下側のいちばんうしろだったようで、こちらから見て正面奥の黒板まえにふたり立っていたのだが、そのうち男性のほうがこちらのそばまで来て、そんなに厳しく怒るというかんじでもなく声をあらげてもいなかったが、低い調子で注意された。女性のほうが(……)さんの像を取る瞬間があったようだ。
  • 離床して水場に行き、もどってくると瞑想。一七分かそのくらい。上階へ。無人。洗濯物がすでに取りこまれてあったが、いまわずかながらベランダに薄い日なたが生じていたので、タオルだけまた出しておいた。食事はきのうの炒めものののこりや、冷凍食品の焼き鳥を食べた。それらをおかずに白米を腹に取りこんでエネルギーを全身にまわす。新聞は国際面を。蘋果日報が廃刊に追いこまれて、香港のほかのメディアもやばい、という記事。民主派の「立場新聞」というネットメディアがとくにやばいだろうと見られているらしい。このメディアは蘋果日報のさいごの編集作業を映した動画を配信したりしたらしい。とくべつ民主派寄りとみなされていないメディアも萎縮して、民主派のひとのインタビューを載せたりしなくなっていると。親中派メディアは余裕だから民主派メディアについて、彼らはいったいあと何日自由でいられるだろうか、などと、いやらしいことを言っているらしい。香港の件は一面下の編集小欄でも触れられており、そこに小熊秀雄の詩が引用されていた。正確な文言ではないが、手を切られたら、足で書こうさ、足を切られたら、口で言おう、口をふさがれたら、尻の穴で歌おうよ、みたいなやつ。なかなかである。岩波文庫の『小熊秀雄詩集』は岩田宏が編纂している。
  • あとアフガニスタン。米軍が撤退したあと半年から一年でアフガニスタン政府が崩壊するかもしれないという可能性を米情報機関が表明しているわけだが、NATOや米軍に通訳や調理人などとして協力してきたアフガニスタンのひとびとが、軍が撤退したらタリバンに裏切り者として殺されるのではないかと案じて、守ってほしいとデモで訴えているというはなしがあった。じっさい、タリバンに殺害されているそういう協力者はこれまで相当数に上っているようだ。数千人とかあったか? 米国はいちおう特別ビザをもうけてそういうひとがアメリカに渡れるようにしているようなのだが、それが発給されるのにばあいによっては数年かかるという。米議会は超党派でこの問題に対処しており、このビザの発給件数を二万件だか増やそうという法案が通っただか審議されているだか。
  • あとは欧州で移民難民問題が再燃していると。アフリカや中東から地中海をわたってスペインやイタリアに着く人数が増えているといい、今年一月から五月までの人数は、イタリアルートだと前年同期比で二. 五倍になっているとか。スペインルートも増えており、たいして東地中海、ギリシャあたりからはいってくるルートは半減していると図にあった。コロナウイルスによる経済的困窮などが要因にあるようだ。EUの規定では難民は彼らが到着した国が対応するということになっているのだが、そうするととうぜん沿岸国の負担がおおきくなりすぎるので、イタリアのドラギ首相はEU全体で対処するべき問題だと訴えている。ただ、ドイツではメルケルがここで退陣するし、フランスもマリーヌ・ルペンの「国民連合」が反移民をとなえて勢力を拡大しているから、移民に寛容な政策はとりづらいと。
  • 食器と風呂をあらい、茶をつくる。急須に湯をそそいで待っているあいだに、ソファに片足を乗せながら臑の側面を揉み、ベランダのタオルを入れた。帰室するとLINEに返信してここまで記述。二時を越えたところだ。
  • 蓮實重彦夏目漱石論』(講談社文芸文庫、二〇一二年)を読んだ。きのう気になったところとつながっている論述がそのあとに出てきたのだけれど、そこで言われているのがどういうことなのかいまいちわからず、第六章が終わる198まで読みつつもそれいじょうさきに行く気が起こらず、止まってかんがえるなどしていた。
  • いま六時直前。そろそろ出勤がちかづいてきている。ナスの味噌汁一杯だけの食事を取ったあと、歯をみがきながら(……)さんのブログを読んだ。二二日付。一年前の記事から引かれているしたのはなしは、くだらなすぎてクソ笑った。

食後なんとなくスマホをいじくっていたところ、去年の10月にダウンロードしたものらしいが、上海にある寿司店の誤植だらけのメニュー表の写真が出てきた。メニューには中国語のほかに英語と日本語が添えられているのだけれどそのほとんどすべてがでたらめで、中でもいちばん面白かったのはカニカマで、カニカマは中国語で蟹肉棒というらしいのだけれどもその蟹肉棒を粗悪な翻訳アプリにかけたのだろう、和訳として「カニじィチンポ」という文字列が添えられているのを見て吹き出し、死ぬほど笑い、おもわず母親にも見せたあげく、我慢できなくなってモーメンツにまで投稿した。女子学生が大半であるのにくわえてほかの教員たちもきっと見るにちがいないそんな場におれはいったい何を投稿しているのだろうという話であって、(……)さんなどここ一ヶ月ほど「今日の一句」と銘打って毎日お気に入りの俳句や短歌や小説の一節などを紹介したうえでそれにちなんだじぶんの思い出を語るといういかにも教師らしい試みをモーメンツ上でやっているというのに、おれは「カニじィチンポ」かよみたいな、これが一流大学と二流大学の差であるなという話であるのだが、ひとまずひとしきり笑ったところで入浴。

  • ところでいいかげん、「くだらなすぎる」と「くだらなさすぎる」のどちらが文法的にただしいのかいちおう知っておこうとおもって検索したのだけれど、「なさすぎる」とか「なさそうだ」になるのは、形容詞としての「ない」だけで、動詞に付与される打ち消しの助動詞「ない」や、「~ない」で終わる形容詞は「さ」が入らないらしい。だから「くだらなそうだ」「くだらなすぎる」がいちおう正解なのだけれど、じっさいのところこのあいだの混同はふつうに流通しており、「くだらない」のばあいだったらこちらの感覚としても、「くだらなすぎる」と「くだらなさすぎる」のどちらも行けるな、というかんじがある。「情けない」だと、「情けなすぎる」と言うのは変なかんじが生まれて、「情けなさすぎる」のほうが適切にかんじられるが。この語のばあいは一語の形容詞というより、「情け」が「ない」という意味的分割感もしくは結合感がつよく、「ない」が独立してかんじられるので、そうしないと変になるのだろう。「くだらない」はもともと「くだる」という動詞の否定形のはずなので、「くだらなすぎる」がほんとうはただしい。しかし、「~~しない」に「すぎる」をつけるとなると、「~~しなすぎる」よりも、「~~しなさすぎる」のほうがこちらの感覚としてはぴったりくる。いずれにしてもこういった誤用も、そのうちなし崩しに正式な日本語としてみとめられるようになるはず。
  • 午後、けっこう雨が降っていたのだけれど、出るころにはいちおうとまっていたので、傘はもたず。時刻は六時五〇分ごろ。出発するまえに、ceroなどながしてストレッチをしながら歌をうたったのだった。それでいつの間にか電車までの時間がすくなくなり、猶予が乏しかったので、めずらしくはやあるきでせかせかとすすむ。公営住宅前までくると(……)さんが車の陰にいたので、こんにちはとあいさつをおくると、降ってくんぞ、とかえったので笑いながら空を見るが、くすんだ雲が諸所にうすくひっかかってはいるものの、かるい水色もおおく見えるので、いますぐどうというわけでもなさそうだ。坂道に折れてからも大股で脚を勤勉にはたらかせながらずんずん上っていったので、のぼりきるころには筋肉が熱を持って息が切れた。甲斐あって、電車にはふつうに間に合った。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路、最寄り駅でコーラを買ったが、その自販機のダストボックスがいっぱいで、どの穴にもペットボトルが突っこまれてあふれかかっているようなかんじだった。しばらくそういうようすを見かけていなかった気がするのだが、ハイキングに行った連中が捨てていったのだろうか? つまり、緊急事態がいちおう解除されて、山に行くものたちが増えたのかなとおもったのだが。
  • 坂道をおりたところの十字路で、高校生くらいの男女が立ち話をしていた。めずらしい。たぶんちかくの子なのだろうが、このあたりでこのくらいの若者がどこに住んでいるのかがまったくわからない。(……)ではなかったようす。
  • 帰宅後は休息を取ってから、一一時半をまわって夕食へ。肉のソテーなど。キムチをそのままぶちこんでつくった赤いスープというものがあったが、ふだんのスンドゥブのほうがうまい。こちらはキムチをあまり好まず、じぶんから食おうという気が起こらない。テレビは『逆転人生』を映していて、バーテンダーの世界大会で一位になったひとが出ており、劇的な人生というか成功物語として手本みたいにわかりやすいストーリーになっていたが、それでもひとの生というのはなんでもおもしろいものだ。このひとは奈良で陶芸家の両親のもとに生まれて、幼少期、家には芸術をこころざすひとびとがよくあつまっており、彼らが夢をいだいて熱く生きるなかでそだったのだが、物心つくころにはじぶんにそういう夢とかやりたいこととか才能とか情熱とかがないことに気づき、両親の影響でいちおう美術高校には行ったものの、生の目標も目的もなく、屈託と空虚をかかえながらなんとなく生きていた。バイトでバーテンダーをやっていたのだが、それである日どこかの店にいって飲んだモスコミュールがやたらうまくて衝撃を受け、開眼し、その店のバーテンダーに頼みこんで弟子にしてもらい、習練をかさねて、日本のバーテンダーコンペティションみたいな大会に出るのだが、はじめて立ったその舞台で極度の緊張におそわれて、ミスをくりかえして散々な結果に終わってしまう。そこまでの緊張を体験したのは生きてきてはじめてのことで、そもそもそれまでそういう、なんらかの挑戦みたいなことをしたことがなかったから、じぶんがこんなに緊張する人間だったのか、ということにもそこではじめて気づいたのだという。大会にはその後も何度も出場するのだが、そのたびにやはり緊張をはらいきれずにミスがかさなり、うまくできない。そのあたり、緊張というのはからだに染みついた呪いのようなもので、と言っていたが、これはパニック障害を患っていた身としてよくわかることばだ。それでやっぱり俺は駄目かなとあきらめかけていたところに、ワールドクラスというバーテンダーの世界大会の案内状に遭遇し、これに賭けてみるかと決める。ちょうど、奈良のバーテンダー仲間の先輩に、過去にこの世界大会に出て上位まで行ったひとがおり、そのひとからはなしを聞くに、日本の大会は模範的な型が決まっていて、どれだけそれにちかづけることができるかという勝負になっているが(だからこの点、いかにも伝統芸能的な、あるいは近代以前の美術みたいなことになっているようで、ほんとに、茶道みたいなかんじです、と言われていた)、世界大会だと個々人のユニークなスタイルや個性が評価されると。まず予選審査みたいな段階でも、あなたを表現するシグネチャーカクテルをつくってくださいということをもとめられ、このひとは生まれ故郷の奈良をイメージしてヒノキの木片を添えたりもしたオリジナルカクテルで通過し、南アフリカの本選へいく。そこではスピードチャレンジというのがあって、制限時間内に一〇品のカクテルをつくらなければならず、これはそれよりすくない六品ではあるが日本の大会でもあった競技で、そのときは例によって緊張のために大失敗に終わっていた。そこで彼がどのように対策をしたかというと、失敗する練習をする、というわけで、これはちょっとおもしろかった。かんがえうる失敗のパターンをあらいだし、そのそれぞれについてどう対処するかをかんがえ、じっさいにそのように失敗したときの練習をする、ということだ。たとえば、材料を切るときに指を怪我してしまったとする。それにたいしては、お手製のベストをつくって身につけ、裏地に貼られた絆創膏や指サックをすぐにぱっと取って手当てができるようにする。これも、絆創膏をポケットに入れていたのでは、パニックですぐに取り出したりカバーを剝いたりすることができないので、右手でぱっと剝がしてそのまま左手の指にすぐ貼れるように仕込んだ。また、なにか忘れ物をしてしまった、という可能性にたいしては、じっさいに知人の店にわざと忘れ物をして出向き、そのときそこにある材料や器具でカバーする、という練習をする。そういう努力の甲斐あってスピードチャレンジでは緊張を克服し、一〇品つくって三〇秒あまっていたので、即興で二品を追加するほどのパフォーマンスが披露できた。いわく、最初の二分くらいはほんとうに記憶がなくて、なにをやっていたのかもわからないんですけど、ふと見ると、無意識のうちに、正しいカップに正しい材料を入れてたんですよ、それでちょっと笑けてきて、俺、できてるやん、って、これもしかして、行けるんちゃう? ってなって、とのこと。また、失敗する練習をしたことで、じぶんを俯瞰して見られるようになったというか、緊張しながら一生懸命やってるんですけど、あたまのうしろあたりでそれを笑いながら見てるじぶんがいるようなかんじになりました、ということも言っていて、やはりそういうことなんだなあ、ことはメタ認知なんだなあとおもった。
  • その後風呂にはいったのち、帰室するとBen Ehrenreich, "How Do You Know When Society Is About to Fall Apart?"(2020/11/4)(https://www.nytimes.com/2020/11/04/magazine/societal-collapse.html(https://www.nytimes.com/2020/11/04/magazine/societal-collapse.html?login=email&auth=login-email))を読んだ。一時すぎくらいから読みはじめて、なぜか一気に読んでしまい、さいごまで行ったころには三時をまわっていたはず。Joseph Tainterといって、社会や共同体がどのように生じ発展するかではなく、どのように滅び崩壊するか、という研究を確立した大御所を中心に、そのあたりのことを紹介する記事。Tainterはgrand theoryというか、どのような社会にも見いだされる崩壊法則みたいなものを打ち立てようとしているようで、彼によれば、もっとも本質的な要因は、災害とか戦争とかではなく、complexity、すなわち複雑性だという。つまり、共同体や社会はさまざまな問題に対処しそれを解決するために、官僚制度とか、階級制とか、経済的分配の仕組みとかを開発、整備していき、complexityを増大させていくのだが、その先でcomplexityが自壊に至るというのだ。たとえばローマ帝国をかんがえるに、さいしょのころ、古代ローマは近隣を略奪することで自国に繁栄をもたらし、それでうまくまわっていけていたのだが、だんだん国力が増大し国が拡大していくにしたがって、それを維持しなければならなくなり、しかも維持するだけで多大なコストがかかるようになるから、あらたな利益を得られなくなり、共同体の諸方面で問題が起こったり不満が爆発したりする。共同体が小規模で単純だったさいしょのうちは、かんたんに積極的な利益がえられたのに、社会が発展して複雑化するにつれて、はじめとくらべてめちゃくちゃコストをかけても利益を回収できるどころか、現状を維持するだけで精一杯、となるわけだ。そのようにして脆弱性が高まったところに、紛争とか災害とか疫病とかが発生することで社会は崩壊にいたると。だから問題を解決して社会を繁栄させようという人間の大いなる知性が気づかぬうちにその崩壊への道を一歩一歩積み重ねているという、まさしく古代ギリシア悲劇のようなアイロニックな法則が見いだされるというのがこのひとのかんがえらしい。それにたいしては、そもそもcollapseという概念の有効性をうたがってその正確なところをかんがえなおそうとする動向などがあり、とりわけ女性やindigenousの出自を持つ研究者からそういう問い直しがむけられているようだが、そのあたりの詳細は面倒なので省く。
  • そのあとはだらだらして、四時二〇分に就寝。