2021/6/30, Wed.

 人間は、じぶんの理性のうちに変わることのない真理を発見する。感覚的な事物のうちには内在しない、完全な「ひとしさ」、ものには帰属しない、真に「ひとつである」ありかたを、精神がとらえる。すなわち、「完全なもの perfecta」(『真の宗教』三〇/五五節)をとらえるのである。もちろん、人間の理性、人間の精神それ自体は完全なものではありえない。だが、私がもし、私のうちに「より完全なものの観念 idea entis perfectioris」を有していなかったなら、私はどのようにして、じぶんが不完全なものであることを知りえただろう(デカルト省察』三、(end177)第二四段落)。それゆえ、「理性的なたましいを超えた不変な本性が神であること、第一の知恵が存在するところに、第一の生命、第一の本質が存在することは疑いえない」(『真の宗教』三一/五七節)。有限で不完全な理性の内部で完全なものが、相対的なもののただなかで絶対的なものが、内在のうちで超越的なものが、内面において神という絶対的な外部性が出会われる。だから、とアウグスティヌスは語っている(同、三九/七二節)。

外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている。そしてもしも、きみの本性が変わりゆくものであることを見いだすなら、きみ自身を超えてゆきなさい。しかし憶えておくがよい、きみがじぶんを超えてゆくとき、きみは理性的なたましいをも超えてゆくことを。だから、理性の光そのものが点火されるところへ向かってゆきなさい。〔中略〕きみが真理それ自身ではないことを告白しなさい。真理は、自己自身を探しもとめないけれども、きみは探しもとめることで真理に達するからである。

 「外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている noli foras ire, in teipsum redi, in interiore hominis habitat veritas」ということばを、フッサールがみずからの、ほとんど最後の思考を系統的に展開しようとした遺稿の末尾に引用している。世界を取りもど(end178)すためには、世界の存在をまず判断中止によって中断しなければならない、と説いたそのあと、いみじくもデカルトの名を冠した論稿のおわりに、である。フッサールの、この引用は、フッサール自身の立場について誤解を招く。フッサール現象学が、意識の「内部」を問題としていたように響くからである。引用された表現だけでは、アウグスティヌスそのひとの思考も、同時にまた誤解にさらされることだろう。アウグスティヌスはかえって、内在をつうじた超越について、語りはじめているからだ。問題は「きみ自身をも超えて」ゆくこと、自己の超克、他なるものに向けた超出、神への超越にある。フッサールも、あえてアウグスティヌスを引くならば、直後につづく一文まで引用を採るべきだったのである。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、177~179; 第11章「神という真理 きみ自身のうちに帰れ、真理は人間の内部に宿る ――アウグスティヌス」)



  • きょうははやめに、一〇時に起床することができた。四時に消灯したので滞在は六時間。よろしい。寝床をぬけると背伸びをして、水場に行ってもろもろすませてきてから瞑想。きょうははじめてから一〇分くらいは深呼吸方式でやってみた。からだをしぼるようなかんじで息を吐けるところまで吐いて、それいじょう吐けなくなったら解除して吸気をとりいれるのをくりかえす。これは一点集中型だからあきらかに能動的であり、能動性をなるべくなくす方向のやりかたとはちがうが、これはこれで良い。単純に深呼吸をつづけているとからだがあたたまってほぐれてくるので、このやりかたもおりおりでとりいれたほうが良いかもしれない。とちゅうからはいつもの不動性にうつった。ヘリコプターらしきものがすぐうえの空をとおってバリバリと巨大な音を降らせていくときがあったのだが、なんだったのだろう。(……)天気はあいかわらずの曇りで、ただこの朝はわりとすずしく、深呼吸していても汗が湧いてくる気配もなかった。
  • 一〇時一二分から三八分まですわって上階へ。炒飯などで食事。(……)から退職して一年ということで、メロンと葡萄がとどいたという。大粒のその葡萄も三粒だけいただいた。新聞は国際面。エチオピアでティグレ人勢力が州都メケレを奪還し、政府も一時停戦を発表と。先般おこなわれた下院選の開票がいまおこなわれているところらしい。ティグレ人民解放戦線(TPLF)は州全体を掌握するまで戦闘をつづける意向。
  • 北京の「鳥の巣」という巨大体育館で、共産党の歴史をたどる映像をながすもよおしがひらかれたと。「偉大なる道程」とかいうタイトルの二時間超の映像で、共産党のいままでの歴史と功績をふりかえるものなわけだが、鄧小平とか胡錦濤とかの時代のことはおのおの一〇分くらい、毛沢東時代でさえ一七分だったのに、習近平政権になってからのことは三三分だかついやしているらしく、自賛の色がつよくなっていると。胡錦濤温家宝、また江沢民も欠席しており、健康不安がときおりささやかれる江沢民はともかく前二者はその自賛が不満で欠席したのではないかと言われているようなのだが、そんなに単純なはなしでもなかろうとおもう。
  • 共産党創立一〇〇年をまえにした連載では、アリババなどについて述べられていた。さいきんおおやけにすがたを見せず拘束説すらながれていたジャック・マーすなわち馬雲がなにかのおりにあらわれたらしいのだが、アリババは独禁法違反で政府から罰せられている。それはどうも、同社がSNS上の情報を操作したというか、都合の悪い情報を検索にかからないようにしたことが党には看過できなかったという事情もあるらしい。アリババ幹部の不倫スキャンダルがあかるみに出たときに、同社がそういうことをしたらしいのだが、情報操作は政府の専権事項だと党としてはおもっているから、そこに踏み入ったのはゆるされないということだ。中国ではさいきんアリババのようにIT方面の民営企業が圧迫される一方で、国営企業は支援されており、「国進民退」という状況が見られると。これは改革開放期などに「民進国退」が起こったその逆である。それで、中国経済の活力だったIT産業は衰退をまぬがれない、という声もあるようだ。
  • 皿と風呂を洗い、茶をついで帰室。一服しながらウェブを見たあと、きのうのことをさっとしあげて投稿し、きょうのこともここまでしるせば一時一二分。
  • 出勤まではだいたい三宅誰男『双生』(自主出版、二〇二一年)を読んだだけだったはず。ちょっと読んでは本を置き、手帳をかわりに手に取って気になったぶぶんをメモしながらすすんでいるので、ぜんぜん進行しない。きょう読んだのも31から39まで。しかしこのくらいのペースでちびちび読んでいくのが良い気がしてきた。
  • 四時半ごろに出勤路へ。道をいくと電動の草刈り機みたいなかんじの音がひびいてきたのだが、これは(……)さんの宅で庭の木の手入れをしているものだった。たぶん息子さんのほうではなく、本人だったとおもう。公営住宅まえまで来ると左の間近に建物がなくなって空がひらくので、ちょっと開放的なすこやかさをおぼえた。雨は降っていないものの、雪ん子よりもちいさな、生まれたての赤子の粒が宙に生じて散ってはおり、風というほどでもないゆるい空気のながれに盛んに感応してあたまのうえをひらひらと、顕微鏡をのぞいたときにうごめいている微生物のように法則なく交錯している。(……)さんが家から出てきていたのであいさつを交わし、坂道をいそがず踏んでいった。木下坂はむろん濡れたまま乾いていない。出口ちかくで鳥が二羽くらい、葉から葉にうつって身をこする音やそのあいだの羽ばたきが聞こえ、すがたもすこしだけ見えた。
  • 電車に乗って移動し、職場に行くまえに年金を払うためにコンビニへ。ついでに、歯ブラシがもうだいぶ古くて毛の根元がオレンジっぽく変色しているようなありさまだったので、新しい歯ブラシと歯磨き粉も買っておく。さいきんぜんぜんコンビニに寄っていなかったが、半セルフレジみたいなかんじになっていた。店員が品物を読み取り、客が画面に触れて支払い方法をえらんで処理するかたち。じぶんは現金なのでもたもた紙幣をとりだして挿入したが、そろそろキャッシュレスに移行したほうが良いのかもしれない。携帯をスマホに変えたらそうするか。あるいはSUICA
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • それで八時四〇分くらいに退勤。雨が少々はじまっていたが、こまかくて大したものでなかったので、傘は借りず。電車に乗って瞑目に休み、最寄りへ。コーラを買って駅を抜け、濡れた夜道を行く。木の間の坂だと音が高まってつよくなったのかそんなに降っているのかと錯覚するが、じっさいに身を打ってくるものはない。
  • 帰宅して部屋にもどってコンピューターを立ち上げ、LINEをのぞくと、昨日付で(……)くんから連絡がはいっており、通話できないかとあったのだがあいにくきのうはログインをしていなかった。それで謝り、あしたなら休みなので何時でも大丈夫とつたえると、即座に返信があって、休みなら六本木に映画を見に行かないかという。それとともにデヴィッド・バーンスパイク・リーの共作名義になっている『アメリカン・ユートピア』のYouTubeURLがおくられてきて、めちゃくちゃ良い映画だったという。(……)くんはきょうこれを見てきて、あしたあさってと連日再鑑賞しにいくらしい。David ByrneというのはたしかBrian Enoといっしょにやってたひとだよなとおもったのだが、そちら方面についてじぶんはなにも知らないし、音楽もぜんぜん聞いたことがない。ByrneはTalking Headsのひとで、Enoはそのプロデューサーをやっていたのだ。七〇年代はじめにはRoxy Musicにいたらしい。Roxy Musicは胸を出した女性を映したけばけばしいようなジャケットの作品がたしか有名で、ハードロックに傾倒していた高校生時代にたぶんなにかの雑誌で写真だけは見かけていたおぼえがあるが、これは四枚目の『Country Life』というやつだった。それで、誘われでもしないとじぶんは映画というものを見ないし、(……)くんとも会えるしというわけで即座に了承の返事をしたのだったが、その後食事のさいに母親にあした六本木に行くとはなすと、都心だからやめたほうがいいんじゃないのと感染を懸念する言がかえり、正直(……)に行くのとリスクでは大して変わらないとおもうのだけれど、まあたしかに万が一ということもあるし、その万が一の可能性をつぶしておくかと決めて、食後に(……)くんには前言撤回の連絡を入れた。「とても残念ですが、儒教的美学を発揮して親を安心させておくことにします」とか言い訳しておいた。
  • 食事は天麩羅の余りなど。夕刊を見たはずだが、特に思い出されることがない。これはべつの日の報だったとおもうが、フランスの地域圏選挙でマクロンの与党もマリーヌ・ル・ペンの国民連合もともに敗北し、共和党社会党が勝ったという報道も二八日あたりに見かけた。来春の大統領選はマクロンとマリーヌ・ル・ペンの一騎打ちになるだろうと見込まれていたらしいが、その予測がここで変わるかもしれないとのこと。マクロンはともかくル・ペンの勢いが削がれたならとりあえず良かったのではないか。共和党がけっこう復活してきているような印象の情報だった気がするが、あと環境政党もそこそこの存在感を見せているのかもしれない。欧州だと環境政党ってたぶんだいたいどこの国でも一定の支持を確保していて、大きくはないが安定した勢力をずっと維持している気がする。すごい。
  • 風呂をすませてきたあとは大したことはせず、だいたいだらだらして休んだ。Newsweekの記事を読もうとしたのだけれど、読んでいるさいちゅうに、なんか英語を読む気分でないなとなったのでやめた。あとFritz Reiner & Chicago Symphony Orchestra『Dvorak: New World Symphony and Other Orchestral Masterworks』をちょっと聞いた時間があった。"新世界より"の第二楽章まで聞いたのだが、第一楽章を聞くにマジでクソ大仰だなと、雄々しいとしか言いようがない音楽になっていて、こういうのってやっぱり近代の、ナショナリズムが高まってきた時代の音楽なのかなあとかてきとうにおもったりもする。第二楽章は一転して優美でじぶんとしてはこちらのほうが好きなのだけれど、"遠き山に日は落ちて"のメロディが終わったあとのパートが個人的にはいちばん良い。弦楽器がピチカートでポン、ポン、としずかにやっているうえを旋律がゆったりただようかんじのところだが、これほぼドラクエのフィールド音楽の雰囲気じゃんとおもった。
  • あと、七月二日が祖父の命日ということで(……)さんからゼリーと葉書が届いていたのだけれど、帰宅して、階段を区切る腰の高さの壁のうえにその葉書が置かれてあったのを読んでみると、「心算」などという語がもちいられていたので、やはり古い時代の人間だなとちょっと笑い、母親にこれ読めると問うたのだけれど、ね、むずかしいことばつかってるね、読めないよと母親は言う。こころづもり、だとおもうよと言ってその場でしらべてみるようにうながしたのだけれど、母親の検索によれば「つもり」とも読むようなので、たぶん(……)さんはそちらのつもりで使ったはず。こころづもり、だと長いし。しかし、つもりを心算と漢字で書くとは、夏目漱石あたりの感触だ。