2021/7/1, Thu.

 繰りかえし引用されてきたように、アウグスティヌスは、こう書いている。「ではいったい、時間とはなんなのだろうか。だれも私にたずねないときには、私は知っている(si nemo ex me quaerat, scio)。たずねられて説明しようとすると、知らないのである si quaerenti explicare velim, nescio」(『告白』第十一巻第十四章)。過去は過ぎ去って、いまでは存在しない。未来は、かなたにあって、なお存在しない。現在はいつでも流れさってしまい、ほとんど存在しない。こう答えることができるだろうか(同、第二〇章)。

未来も過去も存在せず、また三つの時間、つまり過去、現在、未来が存在するということもまた正しくない。おそらくはむしろ、三つの時間、つまり、過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在が存在するというほうが正しいであろう。じっさい、これらのものは、こころのうちに三つのものとして存在し、こころ以外の、どこにも見いだされることがない。過去についての現在は記憶であり、現在についての現在とは直覚であって、未来についての現在とは予期なのである。

 そもそも、現在は「ひろがり spatium」をもっていないのであるから、人間は、いったい(end182)どのようにして時間を測ることができるのだろうか。「私のこころはきみに対して、じぶんが時間を測ると告白しないであろうか」(第二六章)。「私のこころよ、私はきみにおいて、時間を測るのである」(第二七章)。――過去は記憶として、未来は期待として、それぞれ精神のうちに宿る。ひろがりをもたない現在において、しかし私は精神の延長として時間 [﹅] を測る。問題は、こうして解決したのだろうか。アウグスティヌスは、時間を「運動の数」と考え、こころだけが数えるものであるのなら、「こころが存在しないかぎり時間の存在はありえない」(『自然学』第四巻第十四章)とする、アリストテレスの見解と一致するにいたっただけなのだろうか。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、182~183; 第11章「神という真理 きみ自身のうちに帰れ、真理は人間の内部に宿る ――アウグスティヌス」)



  • 正午ごろの起床に立ちもどってしまった。滞在は八時間。昨晩から雨が降りだして、午前中にはつづいており、けっこう盛った時間もあったようだが、起きたときにはやんでいた。水場に行ってきてから瞑想。沢が増水しているのでそとの空間のひびきがふだんとちがい、Sの子音がひろくわたってあたりを覆い、そのためなのか天気のせいで数がすくないのか鳥の声もあまり聞こえず、散発的な小球がころがるなかにウグイスだけが一羽、あきらかな声をくりかえし浮かばせる。
  • 上階へ行くと母親は天麩羅を揚げていた。トイレに行くというのでフライパンでバチバチ拷問を受けている鶏肉をしばし見張り、そのまま食事へ。天麩羅は鶏肉のほかに、明日葉かなにか混ぜたかき揚げのたぐいや、インゲンなど。醤油をかけたそれらをおかずに米を頬張りながら新聞を見る。国会議員の所得一覧が出ており、(……)。国際面から、香港の言論が萎縮しているという記事を読んだ。国家安全維持法の施行から一年である。この法によっていままでに逮捕されたひとは香港政府によれば一一七人だかそのくらい、そのうち六十何人かが起訴されている。蘋果日報は停刊に追いこまれて創業者も編集長も論説委員も逮捕されているが、明報などに政治論説を二十五年くらい書いていたという著名な論者(たしかなんとか子強というなまえだった)も、政治的な論説を書いても社会を変えることができないとわかったと言って、執筆停止を発表したという。読売新聞がはなしを聞いたところでは、民主派の知人たちがつぎつぎと逮捕されるのを見てつらい気持ちになる、と言っていたらしく、意欲を失ってしまったようだ、とのこと。
  • (……)
  • 皿と風呂を洗って、茶をつくって部屋に帰った。きょうの天気は曇りで、ニュースの予報で、いま伊豆諸島付近は激しい雨になっており、きょうからあしたにかけて太平洋側で大雨と言っていたので、夕刻か夜には降り出すのではないか。気温は比較的低めで、茶を飲んでも汗だくにならないくらいには涼しい。
  • 二時ごろから、Room Eleven『Six White Russians & A Pink Pussycat』をながして書見。レス・バック/有元健訳『耳を傾ける技術』(せりか書房、二〇一四年)を読みはじめた。これにくわえて『双生』をすこしずつゆっくり読んでいくつもり。この『耳を傾ける技術』はたぶん良い本だとおもう。まだ30くらいまでしか読んでいないが。いわゆるカルチュラール・スタディーズの文脈に属する本のようで、他者や世界にむかって感覚をひらき個人的な経験や生をすくいとるthe art of listeningとしての社会学、というようなことを提唱するものなのだけれど、社会学というか作家的エッセイにちかいという印象。作家が学問的知見をとりいれてやるにせよ、学者がアカデミズム的作法からつかの間出てやるにせよ、そういうものはわりと好きな性分である。三時半くらいまで読み、そこからきょうのことをここまでしるして、四時を越えた。
  • Larry Young『Unity』を聞きつつあおむけになって休息。このアルバムのトランペットはたしかWoody Shawで、サックスとドラムがだれなのかおぼえていなかったが、サックスはたぶんJoe Hendersonだったかなとおもった。冒頭の"Zoltan"での、メロディをあまり明確にしない、もごもごしたような吹き方とかそれっぽいし。ドラムはあきらかにElvin Jones。シンバルを頻繁にパシャパシャやるところとか、キックとか、スネアのこまかな絡め方とかが彼そのもの。#2 "Monk's Dream"の、オルガンと二者だけのテーマでもお構いなしにそうしているあたりを聞くと、わかりやすい。検索するとサックスもやはりJoe Hendersonだった。このアルバムは六五年の一一月一〇日録音、六六年八月リリースで、おもったよりも後ろの時期だった。
  • レス・バック/有元健訳『耳を傾ける技術』(せりか書房、二〇一四年)より。
  • 9: 「私たちの政治的議論を困難にしているのは物事に対する疑いではなくて、むしろ確信が強すぎることなのです」
  • 9: 「たとえば、人種差別的な考え方を戯言として斥けたとしても、それがどれほどの範囲にわたって共感を生み出しているかを測定したり理解したりすることはできません。(……)私たちは人種主義者の議論がどのようなものであるかを知る必要があります」
  • 10: 「理解することは、賛成したり正当化したりすることではないのです」
  • 11: 「二番目のレッスンは、関心を向けるという単調で日常的な倫理を私たちは必死になって発展させなければならないということです。「私にとってあなたはつまらない――こんな言葉を他人に向けて言うのであれば、それは狂気の沙汰か正義に対する罪である」と哲学者のシモーヌ・ヴェーユは書いています」: Simone Weil, 'Human Personality' in George A. Panichas ed. The Simone Weil Reader (New York: David McKay Company, INC, 1977) p. 313.
  • 12: プリーモ・レーヴィ『レンチ』より: 「まさに物語を語る技術が多くの前例と誤りを参考にして厳密に作り上げられているように、耳を傾ける技術もまた同様に古くて尊いものなのだ」: Primo Levi, The Wrench (London: Abacus, 1987) p. 35.
  • 13: 「積極的に耳を傾けることによって生まれるのは、たとえそれが一時的なものであっても新たな社会関係であり、究極的には新たな社会なのです」
  • 20: 「私たちが持ち歩く小さなノートは、思考のメモ帳であるだけでなく、私たちの言語への愛、言葉との恋愛の記録でもあるのだから。問題なのは、時としてその愛のために私たちは独自の言語を作り出してしまい、その結果、伝達者としての能力を弱めてしまっているということなのだ」
  • 23: 「こうした人々の痕跡をつなぎ留めておきたいという欲望は、社会学の一つの根拠である。本書の多くの部分はそうした希望のもとに書かれている。「生の中に」残されたその痕跡を認めること、そして、そこに幾重にも堆積する生命力と呼べるようなものを記録し、書き記し、注意深く考察することが、本書の使命である」
  • 23: 「母について語らない選択、自分自身のためだけに語るという選択は、デリダにとって何の解決にもならない。「他なる時間の深みに彼女の死を置き去りにして、彼女のもっとも小さな足跡すら記録せず、自分自身についてここに書くだけだとすれば、私は同じように罪の意識を感じないだろうか」。ふさわしい言葉を見つけることはできない。しかし沈黙もまた不可能なのだ。考えること、語ること、そして記述することはいつも一つの裏切りとなる。語られているその人に対して、あるいは私たちが知っているのに語られないままである物事に対して」: Jacques Derrida, 'Circumfession', in Geoffrey Bennington and Jacques Derrida, Jacques Derrida, trans. Geoffrey Bennington (Chicago: University of Chicago Press, 1993), p. 37
  • 24~25: 「9・11後の世界において、現実の死は著作権のように憎(end24)しみに許可を与えるために、あるいは戦争の掛け声として用いられている。その犠牲者は、より多くの犠牲者を生み出すことを正当化するために利用されている。私たちは、生きている人間の行為を権威づけるために死者が呼び出されるあり方に注意を払わなければならない」
  • 25: 「それ [死] はまた、私たちが話し、書くときにその背後にあるかすかな静けさのようなものかもしれない。末期患者のケアをする医者や看護師は、私たちに最後まで残される感覚は聴覚だと考えている [註19] 。聞くことは、私たちが世界に関わる最後の結びつきなのだ」: 註19: Elizabeth Ford Pitorak, 'Care at the Time of Death', American Journal of Nursing 103, no. 7 (July 2003): 42-52.
  • 28: エーリッヒ・フロム/堀江宗正・松宮克昌訳『聴くということ――精神分析に関する最後のセミナー講義』(第三文明社、二〇一二年)より: 「批判的思考は一つの特質、一つの能力である。それは世界に対する、すべての事象に対する一つのアプローチなのだ。それは敵意や否定、価値を認めないという意味で批判的なのでは決してない。反対にそれは、生に奉仕するために、私たちを麻痺させる障害物から個人的にも社会的にも生を救い出すためにある」: Eric Fromm, The Art of Listening (New York: Continuun, 1994), p. 169.
  • 331, 註6: Joachim-Ernst Berendt, The Third Ear: On Listening to the World (New York: Henry Holt, 1985)
  • うえのヨアヒム・エルンスト・ベーレントというのはベルリン生まれの音楽ジャーナリストで、父親は告白教会の神父でありダッハウで殺されたらしい。ドイツでジャズ関連のしごとをずっとしてきたようで、著作もいくつかあり、近年発掘されたBill Evans Trioの『Some Other Time: The Lost Session from The Black Forest』にもエンジニアなどとしてかかわっていたようだ。
  • 夕食にはタマネギの味噌汁をこしらえた。天麩羅がのこっていたのでそれだけ。
  • 夜はずっとなまけてしまった。Fritz Reiner & Chicago Symphony Orchestra『Dvorak: New World Symphony and Other Orchestral Masterworks』をどこかの時間で聞いた。交響曲第九番の第三楽章まで。この第三楽章のテーマ(クラシックだと「主題」というのか?)はおもしろい。走行的な刻みのうえにやや変拍子気味のメロディが乗って、現代ジャズにもありそうなかんじ。起承転結だとまさしく転の趣向。