2021/7/2, Fri.

 そうではないように思われる。アウグスティヌスにとって問題であったのは、過去、現在、未来の、時間の三次元を有するかぎり、「私の生は分散である」ことである。生は、「ためいきのうちに」過ぎ去ってしまう。「私は、秩序を知らない時間のうちに分散している」(『告白』第十一巻第二九章)。――分散し、過ぎ去り、現在において散り散りであるような存在が、じぶん自身によって支えられているはずがない。私の存在はむしろ神によって支えられている。神の永遠のうちでは、かぎりある生も過ぎ去らない。「永遠においては過ぎ去るものはなにもなく、全体が現在にある totum esse praesens」からである(同、第十一章)。「神は、かつては存在した(end183)が、いまは存在しない、また、いま存在するが、かつては存在しなかった、ということがなく、またいつか存在しないであろうように、かつて存在しなかったのでもない。神は、全体として偏在する」(『三位一体論』第十四巻第十五章)。全体が現在である、神の永遠のうちで、私の生も過ぎ去ることがない。私の生の全体は、神に対して現前する。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、183~184; 第11章「神という真理 きみ自身のうちに帰れ、真理は人間の内部に宿る ――アウグスティヌス」)



  • 常のごとく正午まえに離床。瞑想もおこなった。昨夜来、雨で、ずっと音がしており、たしか一〇時かそのくらいに覚めたときだけ音がとまっていたのだが、この正午はまた降っていた。厚くなってひろく拡散する沢のひびきのなかで、スズメかなにかが、あれはたぶん地鳴きにあたるのだろうか、ふたつのものが一瞬だけこすりあわさるような鳴きを点じている。
  • 食事時、父親がテレビでなにか時代劇映画を見ていて、わりと良さそうなかんじではあった。放浪の武士である寺尾聰が主人公らしく、どこかの藩の殿様に気に入られて剣術指南役に抜擢されるものの、家老みたいな連中はそれが気に入らなくてうんぬん、みたいなストーリーだったとおもう。この殿様のしゃべりかたが、なんといえば良いのか、素人臭いと言うべきなのか、リズムが独特で、演技っぽい演技ではなく、演技をつきぬけて特殊な自然体にいたっているのか、それとも演技の定型に達していない大根なのかよくわからないがおそらく前者なのでは? みたいなちょっと妙に朴訥な雰囲気だった。なんという映画なのかなとおもいながら訊かずにいたのだが、父親がCMをおくるさいに、画面上部に『雨あがる』というタイトルを見いだした。それで検索してみればこれは山本周五郎が原作で、黒澤明が未完のままのこした脚本を長年助手だった小泉堯史というひとが完成させてつくったらしい。二〇〇〇年公開。
  • 出勤までは主にレス・バック/有元健訳『耳を傾ける技術』(せりか書房、二〇一四年)を読んだ。
  • 出るまえにもいちど瞑想できたのでよろしい。二時五〇分くらいから三時一〇分まで。やっているあいだ、なんだかやたらと眠かった。ただ、眠いからといって意識があいまいになったり、からだが前後にぐらついたりということはなかった。明晰な意識のまま眠いという矛盾したような状態。出勤まえのエネルギー補給はちいさなくるみパンふたつですませ、歯を磨いて服を着替えればもう出発の時刻。この日のことをすこしだけでも記しておきたかったが果たせず。
  • いいかげんに髪を切りたいので、書見をきりあげたあたりで美容室に電話を入れたのだがつながらず。コロナウイルス情勢をかんがみてたぶんまた昼までの営業にしているのではとおもったが、勤務後に携帯を見たところ、なぜか五時ごろにおりかえしが来ていた。できたら日曜日に切りたい。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 夕食時、テレビはABBAの"Dancing Queen"にまつわる物語を紹介していた。いまのスウェーデンカール・グスタフの王妃はシルヴィアといってドイツ出身らしいのだが、ミュンヘン・オリンピックを見に行ったグスタフの世話をしたことで見初められたこの一般女性が結婚してスウェーデン王室に入るとなったときに、国民のあいだではそこそこ反対が起こって妃は逆風にさらされたのだけれど、結婚前夜祭ではじめて披露されたABBAの"Dancing Queen"がまさしく彼女へのメッセージのようにひびいて元気づけたというはなし。それまでむろん王室のこういうイベントでポップソングを演ずるということはなかったのだが、演出家の女性が大胆に采配して新時代を画するこのこころみが成功したと。"Dancing Queen"は歌詞としてはシルヴィア妃に向けられたような内容になっており、彼女をはげますためにつくられたという認識もひろく行き渡っているようなのだが、じっさいには結婚前夜祭のしごとをもちかけられるよりまえに完成していたらしい。ABBAも当時は派手な格好をして売れることだけを狙った軽薄な一発屋みたいな評判で、七〇年代のスウェーデンは反体制などの政治的メッセージを歌うロックが支持を集めていたらしく、そういうなかで、ABBAなんてあんなのを聞いているのは恥ずかしい、という風潮があったという。
  • レス・バック/有元健訳『耳を傾ける技術』(せりか書房、二〇一四年)より。
  • 30: 「本書で取り組むすべてのテーマに通じる一つの重要なポイントは、モノや場所には気づかれない生があって、それに関心を向けるということである――権力は形式にまみれ伝統的な知識は小さなものをすぐに忘れ去るために、そうした生は隠されたままになっていたり、見えないほどに色あせてしまっているのだ。社会学は世俗的な世界がもつ光源にかかわる学問実践である。文脈に逆らって世界を読み、中心的な物語の一部でありながらもそこからはじき出された物語を探し求める実践なのだ」
  • 331: 註7: ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』真野泰訳、新潮社、二〇〇四年
  • 36: 「科学者や社会学者もまた、世界の見方について実は同じような両面――洞察と盲目――を持っていることを認めなくてはならない。私にとって社会学的想像力を身につけるとは、この両方の地平を同時に見ようとし、聞こうとすることを意味する。すなわち、この漠とした世界の様々な影響下に生きる人々が語る物語の中にある、洞察と盲目との両方に関心を払うこと、そして私たち自身の前提や、ともすれば時期尚早の判断を、謙虚に正直に再考していくことをそれは意味するのだ。モニカ・グレコの美しい表現をかりるなら、私たちは「自分の無知について無知になっては」ならない」
  • 36~37: 「おそらく教授とバスの運転手との違いは次のようなことだ。教授は完全なる権威をもって愚(end36)かなことをいうことができ、バスの運転手は素晴らしい洞察を示す権限を与えられていないということである」
  • 38: 「ノルウェーの犯罪学者トマス・マシーセンは、監視をめぐるベンサムフーコーの強力なモデルは、もう一つまた別の構造と一致するという。「多数」を観察し、その声を録音し記録をつけている「少数」がいるだけではなく、いまや「少数」を観察し調べる「多数」がいるのである。マシーセンはこれをシノプティコン(全ての者が見る)社会と呼ぶ。もはやジョージ・オーウェルの有名な予言のように「ビッグ・ブラザー」が私たちを監視しているだけではない。私たちもまた、「ビッグ・ブラザー」を監視しているのである」
  • 40: 「観察者の先入見」に疑問を呈すVIA [ビデオ介在/予防所見] の参加者のように目的のある証言とは違って、『ビッグ・ブラザー』のような現実の見世物化が生み出すのは一種の道徳的食人主義である。そこで視聴者たちは、悪行、犯罪、俗悪、堕落のイメージを消費することによって、彼ら/彼女らの道徳的誠実さを育成するよう導かれているのだ」
  • 41: 「バリー・スマートは次のように述べている。社会学的思考とは「相続された保証や安全なしに生きようとすること、行為や合理性、価値の多様なイメージと物語とともに生きようとすることを必要とする」と。私たちはいま、迷いや疑いで苦しむ世界に住んでいるのではない。不安や懸念が世界中から湧き出る現在、その井戸を埋めようとする誤った思い込みこそ、私たちの世界を苦しめているものなのだ」
  • 41: 「道徳的食人主義が生み出すのは、最悪な事態がいつも期待されているという状況ではないかと私は感じている。「私たちの人生の白い筋は、その周りを全部できるだけ暗くしてしまえば輝いて見える(ただ目に見えるものになる)」とウィリアム・ハズリットは一八二六年に書いた」: William Hazlitt, 'On the Pleasure of Hating', in Geoffrey Keynes (ed.), Selected Essay of William Hazlitt (London: The Nonesuch Press, 1944), p. 244. (邦訳=ウィリアム・ハズリット『ハズリット箴言集――人さまざま』中川誠、彩流社、一九九〇年)
  • 42: 「グアンタナモで三年間を過ごしたイギリス人イスラム教徒のモアザム・ベッグがいうには、告訴も裁判もなくただ拘留された状態で監獄に入れられるというのは、囚人を「有罪判決が下った罪人よりも悪い状況に」追い込むのであって、彼らの自殺は「絶望がなさしめた行為である」という」: 'Guantanamo suicides as "PR move"', BBC News On-Line
  • 42: 「膨大なサンプルを対象に聞き取りを行う世論調査やMORIのマーケット調査のような洗練された調査技術は、こうした情報氾濫の一因となっている。C・ライト・ミルズはこうした種類の調査を「抽象化された経験主義」を生み出す「無内容な巧妙さ」と呼んでいる」