2021/7/11, Sun.

 ヴォリンガーは、『ゴシックの形式問題』(一九一一年、邦訳名『ゴシック美術形式論』)の終り近く「スコラ派の心理」と題した章で、ある問題について古代教父からはじまって同時代にいたる数多の論者の回答を列挙検討したあげく、自身の結論はかならずしも要領を得ないかたちで提示しておわるスコラ哲学の叙述スタイルを、それは結論が目的ではなく、討論の上昇していく(多声音楽的な)旋回運動が、ゴシック建築の尖塔などとおなじく、神をめざし、神を讃える運動過程であり、「ゴシックの超越主義」の体現にほかならないと説く。ここでは思考の運動過程それ自体が肝要なので、目的たる結論に到達することをひたすら重く見るルネサンス以後近代の思考とは土台ありかたがちがう、というのである。
 (小林康夫編『UTCP叢書1 いま、哲学とはなにか』(未來社、二〇〇六年)、11; 坂部恵「いま、哲学とは何か」)



  • この日は昼から(……)くんと(……)で映画を見る予定だったので、九時に鳴るようアラームをしかけてあったが、それが鳴り出すのを待たずに覚醒し、そのまま起床もできた。携帯が叫びださないよう、先んじて設定を変更し、その声を封じておく。それからたしかベッドにもどって仰向き、ちょっと脚をマッサージしたおぼえがある。じきに水場に行ってきて、瞑想。いつもより時間がはやいためなのか、窓外の音響があまりにぎやかでない気がされて、軽い水音のひろがりはあるものの、そのなかに鳥の声がとぼしいような印象だった。
  • 前日の日記に書き忘れたのでここにしるしておくが、昨晩、部屋にゴキブリが出たのだった。ひさしぶりのこと。今年ははじめてである部屋はだいたいいつも汚いので、もっと出てもおかしくない気がするのだけれど、意外とそんなに頻繁には出ない。たしか書き抜きかなにかしていたのか、ヘッドフォンをつけていたのをはずして背伸びをしていると、なにかカサカサした音が聞こえて、そのときちょうど本を無数に積んであるラックを横から目の前にして背伸びをしていたのだが、壁もしくは押入れに一番近いひとつの塔の側面に黒い虫がたかって翅をちょっとひらくようにしているのを視認し、うわゴキブリやんとおもったのだった。都合よくキンチョールが部屋にあったので吹きかけた。ゴキブリは苦しんで落ちるが、ラックの下はCDをおさめたボックスなど置いてあって壁にも接しているので、ゆくえが知れない。しゃがみながらちょっと見ていると、押入れの暗がりのほうにうごきを見いだしたのでまた吹きかけ、すると虫はすばやく移動して床のうえをわたり、入り口のほうの壁際をたどって棚の裏や下を抜けて反対側の隅のほうまで行ったようだが、そこはやはり棚やらスピーカーやらが集まっているので手を出すどころか充分にちかづくことすらできない。それでもいちおう隙間からもうすこし毒ガスを放っておいた。しばらく悶えうごめいている音が聞こえていたが、そのうちしなくなったので、たぶん死んだはず。それにしてもこの翌日にはムカデも出ているので、いいかげん掃除して埃を除いたりいらない新聞をかたづけたりしないと駄目だなとおもった。
  • 上階へ。父親は山梨に行っていてこの前日に帰ってきたのだったが、あっちで飲みまくっているようだ、と母親が言う。持ってきた酒の缶とか瓶とかがすごいからと。そりゃあうるさくいう人間もおらずじぶんひとりで好きにやれるのだから、思うぞんぶん勝手にしているだろう。食事を取りながら新聞を見るに、アメリカでアジア系のひとびとも対象にされたヘイトクライムが増えているが、ヘイトクライムとして司法的に立証するのはなかなか困難なようで、被害者の感情を法制度がすくいとれていない、というような記事があった。つかまっても起訴される数がすくなかったり、起訴されてもヘイトクライムとしてではなかったりするらしい。ほか、香港の区議会の議員が香港政府に忠誠を誓わなければならないという制度に反発して一斉に辞職したという報。書評面からは伊藤整の日記が全四巻で出たという記事を読んだ。選者は苅部直。いま検索してみたところ、全四巻ではなくて八巻のようだ。伊藤整は一冊も読んだことがないしまったく知らないが、わりと気にはなる。
  • 出発までのことはわすれた。服装はPENDLETONの、やや乾いたような茶色でこまかなチェック柄のシャツに(これ(https://pendleton.jp/?pid=158848738(https://pendleton.jp/?pid=158848738))ではないが方向性と雰囲気としてはこれに近い)、United Arrows greeb label relaxingで買ったブルーグレーのスタンダードなボトムス。一〇時四五分ごろ、道に出た。風がながれていたようだ。空には雲もこびりついているものの、青さがのぞいていて陽射しもあり、道脇の葉があかるくみずみずしくなっている。坂道の序盤、はいってすぐでまだ樹がたてこんでいないあたりにも日なたがひろがっていて、すすめば沢の水音がまたすこしふくらんで空間を擦っており、そこはもう樹冠があるから路上は薄蔭に領されて濡れているなかに木洩れ陽がところどころ不規則にひらいて穴をもうけ、まだらであいまいなそのスクリーンに入りこんだ枝葉の影がうごいたりうごかなかったりしている。真新しい緑の葉っぱがいくつか湿った路面に落ちていた。街道まで来て横断歩道にかかれば、道路のうえには電柱の影が乗り、そのてっぺんで鳥が一匹ばたばたふるえているらしきさままできちんと反映されている。
  • 駅のホームでベンチに就く。風は汗ばんだ身を過ぎて左右にかろやかにながれていき、ながくとまることはなく、するすると湧いて汲み尽くせぬ泉といった調子で吹きつがれた。アナウンスが入って電車が来るところで立ってホームの先のほうへ。着席して待ち、降りると乗り換え。発車がすぐなのでともかくも手近の口から乗り、車両内をあるいてふらふら揺らされながら先のほうへとわたっていく。二号車のとちゅうで座をさだめた。この朝のことを手帳にいくらかメモしてからは瞑目のうちに休み、映画にむけて心身をまとめて英気を養う。
  • (……)のてまえで目をひらき、いくらか腕を伸ばしたり首を曲げたり。雨にならないかと懸念していたが、窓のそとはあかるめの曇り、ひかりの色が明瞭ではないとしても宙にかすかながら艶はある。着くと降り、階段に殺到していくひとを逃れてすこし待ったあと、うえの通路にあがった。トイレに行って放尿。ハンカチで手を拭きながら出ると改札を抜け、人波の一片として大歩廊を行く。ひとは多いが、日曜日の(……)にしてはまあそれなりに隙間があるかな、という印象だ。ひとびとはひとりも例外なくマスクをつけながらも、にぎやかに活気づいて行き交っている。北口のてまえで右手に階段を下りて(……)にはいった。(……)くんがわざわざ遠いところから来てくれるしひさしぶりに会うしということで甘味を買っておこうとおもったのだ。Butter Butlerで良かろうと見込んでいたのだが、エスカレーター脇のマップを見ればその名がなく、どうもなくなったらしいと判ぜられた。うまいのに。あまり売れなかったのだろうか? 味が濃厚すぎる感はもしかしたらあるかもしれないが。ともかくフロアをすすみ、ほかになんかねえかなとあたりをちょっと見て、DOLCE FELICEの店舗にフィナンシェがあったので、これでいいだろと即決し、八個入りの品を一箱頼んだ。そのサイズは用意されていなかったらしく、受付をしていた女性のうしろからベテラン風情のひとがちょっとお時間いただきますがと言ってくるので了承する。会計をしてあたりを見回したりウィンドウのなかを見たりしているあいだに、持ってこられた袋入りのフィナンシェをひとつずつ箱に詰めてくれていた。そうして受け取ると礼を言って去り、そとに出て階段をあがり、北口広場の植込み区画の段に腰掛ける。それで(……)くんにメールをおくっておいて、あたりをながめながら時を待った。目の前の駅舎からひとが絶え間なく続々と吐き出されておのおのの目的にむかって過ぎていくそれらのながれの、基本的には匿名的な画一性におさまって目にもさだかにつかずただ通っていくのがひとつの大きな無名をかたちづくっているそれが群衆だが、ときに服の柄なり色なり歩き方なりでたまさか浮かび上がってにわかに具体性を帯びながら焦点化されるひともないではない。ないではないものの、それもまた場違いな異物として疎外され分離しきるわけでなく、つかの間きわだってはほどよいアクセントのようにして集団的無名性のなかに帰り還元されていく、これが都市の包容力というものだなとながめた。そこにいる無数のひとびとのあいだに基本的になんのつながりもなく、ただ偶然その場に居合わせたというだけの関係でありながら、その無関係において風通しよくひとつのまとまりをなしている、断続と並列としての共存性。空を見れば左手、東のほうはややよどみの混ざった雲もひろがって雨が案じられるが、陽の感触がわずかに透けてきてすこし暑い。駅舎を出てすぐ脇の一画には、あれは大学生なのかなんなのかわからないが、みなワイシャツにスラックスで勤め人風情の格好ながらあまり労働のにおいのしない青年らに女性も何人か混ざった一団が溜まっていた。聞こえる音はひとのうごきが織りなすざわめきや、背後のビルの広告モニターが降らせる音声や、すぐ右の案内地図のまえに立つひとらが交わす会話くらいで、ここでサウンドスケープを録っても正直あまりおもしろくなさそうだなとおもった。
  • 片脚の先をもう片方の腿に乗せた姿勢でそうしてながめているうちに(……)くんから電話がかかってきた。場所を告げて、駅舎の奥に目を向けながらまたしばらく待っていると、いつの間にか(……)くんが目の前にあらわれていた。まえをとおりかかるようなかんじでこちらをうかがうようにしていたので、認知を示し、あいさつ。背、伸びた? と聞いたのは、なんとなく、こんなに背丈があったかなという印象だったからだが、よく言われるのだという。ふだん背を丸め気味にあるくからだろうとのこと。それで(……)方面に向かい出し、通路にはいりながら、前回会ったのはたしか二〇一九年の二月ですからね、とはなす。新宿で、とかえるのに、二〇一八年は一年間死んでて、復活してすぐのころに会ったんですよ、と記憶の根拠を補足する。高架通路をあるいていくあいだ(……)くんはこちらを見て、なんか変な言い方ですけど、柄悪いですね、と笑った。といっても悪い意味でなく、格好いいとおもいますと足されたが、「昭和ギャング感」があると言う。そんな馬鹿な、と笑わざるをえなかった。いままでじぶんはじぶんのことをそこそこスタイリッシュな優男として自認していたのだが。(……)くんの父親がけっこう不良だったらしく、「酷似しています」とのことで、たけし映画に出てきそうとの評がくだったが、インテリヤクザ風の雰囲気ということだろうか。髪を切ったばかりなので、多少するどい雰囲気の見た目になっていたのかもしれない。そのスタイルをきわめてほしいというので、きわめたくねえ、と笑った。
  • (……)くんは煙草を吸いたいというので、いったん地上に下りることに。歩道橋前で階段をくだり、ほんとうは路上喫煙は駄目なのだが、路地でやろうということでビルの合間の地味な細道にはいったところが、火がないことが判明したのでいったんちかくのコンビニに。簡易なライターを買ってもどり、もう映画のはじまりまであまり時間がなかったが、(……)くんは一本吸った。煙を吐き出すときなど、けっこう苦味走ったような、燻し銀的に渋い表情をするなとおもった。これから見に行く『アメリカン・ユートピア』と西谷修の『不死のワンダーランド』をからめたはなしをちょっと聞く。そうして再度歩廊に上がり、(……)へ。ビルにはいるとエレベーターで一気に八階にのぼった。(……)である。ここに映画館があるのは知っていたものの、映画を見つけない人種なので来たのははじめて。(……)のほうすらほとんど行ったことがない。わりとちいさめのシアターで、けっこう良さそう。いまホームページを見てみると、近日公開作品にショアー関連のものが四つもあってすごい。あと濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』(村上春樹原作)。行ったほうが良いのではないか?
  • 係員に(……)くんがQRコードを見せて入場。二番シアター。はいるまえにトイレへ行き、用を足してから上映室内に移ってはじまりを待つ。(……)
  • 今回観たのは、David ByrneとSpike Leeの『アメリカン・ユートピア』である。おもしろかったし、良かった。映画館にぜんぜん行かない人間なので、いざこうやって出向いて二時間じっと集中して観ているだけでも相当におもしろい。冒頭、表示されるAMERICAN UTOPIAというタイトルは二段になっていて、下段のUTOPIAという文字がさかさまになっていたのだけれど、それを目にするとやはり意味にとらわれている者の性で、これ逆向きになってんのはなんか意味合いあんのかな、ユートピアっていうともとはウー・トポスで非 - 場所というか非在というかどこにもない場所、ということだから、それを反転させるというのはどこにでもある場所ということなのか、しかも一曲目は"Here"だしこの場所にユートピアをつくりだしていわば召喚するみたいなことなのか……とかなんとかかんがえてしまったわけだけれど、そこはあまり深読みするべきところではない気がする。映画というものがむずかしいのは、こういうことをかんがえていると目の前に提示されている映像と音声を追うことがおろそかになってしまい、絶え間なくつづく現在から離れてしまうことだ。だからたぶん、あまりそういったことはかんがえず、かんがえるのは映画のあとの時間にまかせて、映画を観ているあいだは目の前にあらわれているものを追うことに専心するのが良いのだろう。ところでこのショーのさいごの曲が"Road To Nowhere"で、'We're on the road to nowhere'とくりかえされるのだけれど、nowhereとutopiaはまあおおかたおなじ意味と見て良いだろうから、このさいごの曲の意味合い、すなわち、われわれはいまだ見ぬ未知の(すばらしい)世界への路程をたどっているとちゅうだというメッセージ性を踏まえるならば、UTOPIAの文字がさかさまになっていたことにもいちおうの解は出せなくもない。つまり、アメリカ人(AMERICAN)と来たるべき未知の理想郷(UTOPIA)が向かい合っており、理想郷を目指すわれわれアメリカ人をユートピアが正面からむかえてくれる、というようなイメージが生まれるだろう。読みとしてはかなり安直なものではあるが。たぶんさいごの一曲前の"One Fine Day"だったのではないかとおもうのだが、丘の上の家、とか、星々に導かれて、みたいな文言が歌詞にふくまれていて、たしか「丘の上の町」というイメージはアメリカ建国時のひとつの理想像というか、いわば原初的アメリカの神話的イメージみたいなものだったはずだし、星々に導かれて、ということばを聞けばやはりみんなStar Spangled Bannerをおもいだすのではないだろうか。だからその点をつなげるならば、未知のAMERICAN UTOPIAは同時にアメリカの始原的理想へのただしい回帰であり、その十全な実現である、というメッセージ性も生まれてくるのではないか。ひるがえっていまのアメリカはもちろんその理想からはかけ離れてしまった社会だということになる。それはじっさい、だれが見ても明白なはずだ。
  • ショーの終盤にいたるとそういうかんじで集束していくのだが、それまでの展開はメッセージとか意味合いの面で統合しようとすると、かならずしも明晰にまとめられない印象だった。それはとうぜんのことだ。音楽のショーにそこまで統一的な意味論的コンセプトは必要ないともおもうし、またもともとばらばらに存在していた既存の曲を組み合わせてながれをつくるわけだから、大きな道行きに関連づけて回収できない余剰というのはむしろ豊富にある。そういう認識はあとで(……)くんともはなして一致した。彼も言っていたが、Byrneの場合もともとの曲がそんなにわかりやすい歌詞になっておらず、ナンセンスな部分もあるし、また一曲のなかで立場が変わっているように聞こえることなどもあり、どちらかというと意味的に拡散気味な詞を書くひとのようだ。そういうわけで、意味提示の観点からするとまとめにくいという感触を得つつ視聴していたのだけれど、ただそれでもおりおりにByrneがはさむMCや歌詞の一部などからおおまかな立場はあきらかである。要するにふつうに真面目な左派ということだが、MCでは選挙の投票率について触れたり、このバンドのメンバーは出身がさまざまで、移民がいなければ僕らのショーや仕事もなりたたない、と直截に断言されたりもする。投票率についてはなしたのがどの曲のまえだったか忘れてしまったが、彼はまず二〇一六年の大統領選のさいにじぶんがおこなった投票促進活動についてかたった。いわく、投票に行くということを署名してもらうだけのものだが、これが意外と効果がある、というのも、署名をすることで投票に行くとじぶんじしんに誓った気になるからだ、とのことだった。とはいえドナルド・トランプが選ばれた一六年の大統領選の投票率は五五パーセントだったらしい。地方選ではさらなる惨状が呈されて、Byrneがいうには地方選挙だと投票率は二〇パーセント台ということだったはず。そこで、二〇パーセントという割合を視覚化してみましょうと言われ、観客席のうち二〇パーセントにあたるひとびとだけにライトが当てられて、彼らはウォー、とかイェー、みたいなかんじでにぎやかに歓声をあげるわけだが、そこでByrneは、しかも平均年齢は五七歳です、と情報を補足し、観客を示しながら、ほら、あのようにね、みたいなかんじで冗談を投げ、大統領選の五五パーセントに満足していてはいけません、とか言って締める、というながれだった。
  • バンドメンバーについては出自がさまざまであると触れられたほかに、雑誌記者とかライターから、あのショーはほんとうにじっさいに演奏してるの? 録音をながしてるんじゃないの? とよくいわれる、というはなしがあった。本物のその場の演奏さ、といつもこたえるけれど、それでも、あれは嘘なんでしょ? と言ってくるひとがいるので、信じてもらうためにこうすることにしました、とByrneは言って、パーカッションからはじまってひとりずつ出身となまえをおおきく叫び紹介しながら、楽器がひとつずつくわわって演奏がかたちづくられていく、というやり方で"Born Under Punches (The Heat Goes On)"がはじまったわけだが、ここは感動した。この"Born Under Punches"から、けっこう終わりに向かってなだれこんでいくようなかんじだったな、という印象がのこっている。バンド構成はByrneにダンサーがふたり、あとベースとギターとキーボードにさまざまなパーカッションからなるリズム隊だった。ダンサーはひとりが白人の男性で、このひとはやや道化チック、と言って良いのかわからないが、濃いめのメイクをしており、もうひとりは黒人の女性で、(……)くんはこの女性がめちゃくちゃ好きだと言っていた。ベースは若い黒人男性、キーボードはいかにも熟練のスタジオミュージシャンといった風情の男性で、ギターが、こちらはずっと男性だと見てしまい、Princeみたいなやつがいるなとおもっていたのだけれど、クレジットでなまえがAngieとあったので、女性だったのだとおもう。あるいはトランスジェンダー的なひとなのか。演奏やパフォーマンスはだれも格好良く、見事な仕事ですばらしい。パーカッションでは、たしかブラジル出身と言われていたような気がするが、あれはコンガなのかよくわからんがそういうかんじの音を担当していた男性がいて、このひとが"Blind"のとちゅうでソロをあたえられたのが、Donny HathawayとかCurtis Mayfieldとかのライブでやられるあのパーカッションソロの時間を引き継いでいるなというかんじがしてこちらとしては嬉しかった。パーカス隊であと印象的なのはリーダー的な位置づけだった金髪の白人女性で、このひとの表情がとても良いということは(……)くんも言っていた。
  • セットリストを参照しながら順番におもいだすことをしるしていくと、#5 "This Must Be The Place (Naive Melody)"というのは変なダンスが披露されていたやつである。ショーのあいだ、変なダンスとかうごきはわりとおりおりあったのだが、この曲ではなんか包丁でものを切ってそれを片寄せるみたいなうごきがふくまれた妙なダンスが中心として提示されていて、(……)くんはこの映画をもう五回も見ているからおぼえてしまったと言って、あとでうごきをトレースしていた。そのつぎの"I Zimbra"もよくて印象にのこっている。この曲のまえにはMCがはさまれた。そこでダダイストが言及されたのだ。クルト・シュヴィッタースというダダまわりの人間が"ウルソナタ"というものを作曲している、ちょっとやってみましょう、とか言って、ウン! ウン……バババ、ウンバババ、ウン……バババ、みたいな意味不明の声がしばらくくりひろげられ、こんな調子で四〇分くらいつづきます、とあってひと笑い。で、"I Zimbra"というのは、Brian Enoのすすめでフーゴ・バルが書いた詞を曲にしました、と言っていたとおもうのだが、いちおうことばはあるものの何語なのか不明で、全篇でここだけ字幕もついていなかったのだが、これが良かった。たしかここでパーカス隊が増えて、金髪の女性が率いるマーチングバンドみたいな数人がはいってきて、前後に活発にうごきつつみんなで声をあわせて歌う、というかんじだったが、ことばの意味はわからないからあるのは単旋律でいくつもかさなった声と多種のリズムとからだのうごきである。これがじつに躍動的でちからづよく、すばらしかった。"Born Under Punches"以前でいちばん印象にのこっているのはここである。ステレオタイプなイメージに回収してしまう危険をおぼえないでもないが、これはやはりアフリカを参照したものだったのだろう。全篇をとおしてパーカス構成もわりとそんな音だし、『Remain In Light』ではFela Kutiを取り入れもしたらしいので。また、MC中にダダについて、戦争や国家主義の思想を越えた理想を追求しようとするひとびとがあらわれたのです、みたいなことが言われていたので、字幕がなくなり意味をはなれて音と律動と肉体の勝負になったここのパフォーマンスがそのことばとかさなった、ということもあった。ただ、そのかさねかたというか、思想と意味を超越した無意味の理想、みたいなことをあまり称揚しすぎるのもなんとなく危険な気はしているが。
  • #9 "Everybody's Coming To My House"はスタジオ版『American Utopia』にはいっていた曲で、ここにもMCがあった。いわく、この曲は高校生に合唱でやってもらったのだが、そのバージョンが良い、じぶんのバージョンだと、みんなが家にやってきてあそんで、と言っていながらも、どこかそれを歓迎していないかんじがあるんですね、「いつになったら帰るんだ?」という雰囲気が、歌詞にはっきり書かれてはいなくてもかんじとれる、ところがハイスクールの子たちがやったバージョンにはそういうものがなかった、だれでも受け入れるあたたかい包容力があったんです、僕もそっちがいい(とここでひと笑い起きる)、でもどうやったらいいのか? ……こういう人間なんでね、と、ややニヒルな諦観で締められながら曲がはじまって、まあ曲調が曲調なので、たしかにあまりあたたかみはない気がしたが、それでも、曲のさいごで五人くらいの合唱だけで終わったところは、雰囲気としてその点ちょっとすくわれているような気がした。またこの曲の、その高校生がやったバージョンがエンドロールのうしろでながれて、そこの映像はByrneとバンドメンバーたちが自転車に乗って街中を走り、最終的にみんなそろっておそらくByrneの家らしき建物にはいっていく、というもので、それで作品全体が終わるのだけれど、だから"Everybody's Coming To My House"をそういうかたちで回収し、肯定的にすくって終了、となっているわけだ。とうぜん、この曲でいわれる"house"をアメリカ合衆国におきかえて、移民を受け入れ擁護する姿勢を示したものとしても読めるはず。その場合、サビの歌詞で、みんなが僕の家に来て、だから決してひとりになることはない、みんなずっと帰らずにいるんだ、みたいなことを言っているので、けっこうつよい主張になるはず。
  • #12の"Toe Jam"も歌詞としては意味がわからんが曲は良かった。彼女が僕の足の指のあいだで踊る、みたいなことを言っていたのだけれど、toeというのはつま先のことだったはずだから、こちらは足の指一本一本のあいだというイメージを持ってしまって彼女どんだけちいさいの? とかおもっていたのだけれど、たぶん両足のつま先のあいだということだろうか。どちらにしてもあまり意味はわからないが、曲はなんというのか、ディスコ風味と言って良いのかわからないがなかなか良く、けっこうそういう、ファンキーだったりややソウルチックだったり、踊れる感じの曲もあってよろしかった。で、このつぎの一三曲目が"Born Under Punches"。
  • たぶん#16 "Everyday Is A Miracle"のまえだったとおもうのだが、このショーはステージにいる私たちと観客のみなさん、僕たちとあなたたちだけです、みたいなことが言われたところがあって、で、さらにそのあと#18 "Burning Down The House"のとちゅうで'burning down the house!'とあわせてうたっている観客の顔が映った瞬間があり、こちらの視覚的能力と記憶がたしかならばこの映画で観客の顔がちかくからはっきりと映されたのは終盤のここがさいしょだったとおもうのだけれど、"Everyday Is A Miracle"でああ言っていたのだから、そのあとからもうすこし客の顔を映すカットも入れていったほうが良かったんじゃないか、とはおもった。この映画についてこちらが苦言めいたことを言えるとしたらそれだけで、あとはふつうに不満をかんじずにずっと楽しんでいた。"Burning Down The House"のさいちゅうに客の顔が映ったのは二回で、どちらもこの文言を演者にあわせて叫ぶ瞬間であり、二回目のほうの記憶はさだかでないが、一度目に映ったひとはおそらくアジア系と見える女性だった。
  • そのつぎは"Hell You Talmbout"という曲で、ぜんぜん知らなかったのだけれどこれはジャネール・モネイというひとのカバーであり、ここも作品のハイライトのひとつだとおそらくみなが言うだろう。やはりアフリカ的印象をおもわせるリズムと合唱でもって、'hell you talmbout'ということばと、'say his name!'もしくは'say her name!'という叫びがくりかえされる曲なのだが、'hell you talmbout'という文言はたしか、「なにを言っているんだ?」「なにについてはなしているんだ?」というかんじの訳になっていたとおもう。だから、hell, what are you talkin' about? ということなのだろう。そして叫ぶようもとめられているなまえというのは米国の人種差別的風土によって不当に命をうばわれた黒人のひとびとのもので、Eric GarnerからはじまってつぎがTrayvon Martinだった。このふたりの名はこちらも知っている。Eric Garnerはカロリン・エムケの『憎しみに抗って』のなかで、警官の絞め技によって殺されたひととしてけっこう詳しく語られていたし(George Floydのときにもほぼおなじことが反復された)、Trayvon MartinはRobert GlasperやAmbrose Akinmusireの作品中でも名を呼ばれているからである。このショーがおこなわれた時点ではGeorge Floydはまだ生きていたとおもうが、曲中にはふくまれていないなまえとして、そのあとにほかふたりくらいとともに提示されていた。呼ばれたなまえのなかにEmmett Tillがはいっていたのがやはり印象的で、特筆するべきだろう。彼の写真だけ白黒で、あとは全員比較的近年のひとびとだったとおもうが、Emmett Tillをふくめたのはすばらしい選択だったとおもう。もちろんここで名を呼ばれなかったひとたちも無数にいるわけで、だからさいごにはAnd Moreという文言がきちんと表示されていた。なまえがくりかえし叫ばれるときには、悲痛な表情でそのひとの写真を抱え持った人間が映されたのだけれど、あれは遺族のひとだったのだろうか?
  • そういう一曲があり、そして"One Fine Day"、"Road To Nowhere"で締めくくりである。"One Fine Day"は楽器はなしで全員で合唱する曲で、生にはどうしたっていろいろ苦難があるけれど、いつかある麗しい一日にものごとは変わるかもしれない、みたいな内容で、このながれで来られるとやはり泣いてしまう。合唱というのにも弱い。みんなできれいに声をあわせられるとどうしても感動してしまう。"Road To Nowhere"はさいごでバンド全員が隊列となって客席のほうに降りてきて、ひとびとのあいだを練り歩きながら'we're on the road to nowhere'からはじまるサビをくりかえし、そのまま退場して終わるのかとおもったところがそうではなく、一周してもどってきたところでおさめて幕が下りる、という終わり方だった。そのあと終了後の舞台裏がちょっと映されて、メンバーがたがいに最高だったね、と言い合ったり、Byrneについて世界のスーパースターだとか言ったりしたあと、白いダウンジャケットに身をつつんで帽子もかぶったカジュアルな格好で劇場から出てきたByrneを出待ちのひとたちが拍手と歓声でむかえ、そのなかを彼は自転車で去っていき、そうして先に触れたエンドロールに移行した。
  • 映像は、基本的にはスタンダードなライブ映像というか、映画監督の手や意図があからさまにはいっているなとかんじさせるのはもう終盤になってからで、つまり"Hell You Talmbout"くらいだったのだけれど、一日の公演ですべての画をまかなったはずがなくツアー中何日分も映像を撮っているはずだから、ふつうにひとつながりのコンサートに見えるのだけれど、こまかな編集はきっと無数にはいっているのだろう。天井のほうからステージをとらえて演者のうごきを俯瞰する画も何度かあったし、あと、(……)くんも言っていたが、ステージのうしろのほうの下部から撮ってByrneの裸足が(演者はみな(照明のせいかもしれないが)少々青が混ざったようなグレーのスーツを着た格好で、裸足だった)後退してきてアップになる画もあったけれど、正面からのカットではとうぜんステージ奥にカメラなど置かれていない。だからその都度いろいろな方向から撮ったり、あるいはもとめる画を撮るために公演以外でも撮影をしたのではないか、ということだった。
  • David Byrneというひとは一九五二年生まれだというからもうほぼ七〇歳で、この公演のときも六七か八かそのくらいだったはずだけれど、パフォーマンスの全体的な印象はとにかく危なげがないということに集約される。ときにコミカルなようなダンスはともかくとしても、からだの動かし方は堂に入っているし、歌は、なんというかそんなになめらかに技巧的に歌い上げるというタイプではないけれど、低音から高音まで幅はひろくどこでもよく出ているし、シャウトもするし、声色のつかいわけも多少ある。またトークもやや皮肉ぶったユーモアをまじえてお手の物といったかんじで、はなしているさいちゅうに音楽がはじまってそのまま歌にはいる曲もいくつかあったが、そのタイミングのつかみ方や推移もよどみがない。さすがにキャリアがながいわけで、「貫禄」という重々しいことばが似合う雰囲気ではあまりないが、確立された風格というべきものははっきりとただよっているのではないか。バンドメンバーはだいたいみんなどこかしらで笑みを見せ、生き生きとかがやかしい表情を撒き散らしながら躍動しているのだけれど、Byrneだけはステージのあいだあからさまに笑顔を見せることはなかったとおもう(劇場から出てきて出待ちのひとにむかえられたときと、エンドロールで自転車に乗っているあいだはたしか笑っていた)。それも板についた知的な平静さという印象をつよめるもので、無表情とかポーカーフェイスといえばそうなのかもしれないが、だからといって愛想がないとか陰鬱そうだとかいうわけではなく、安定的に成熟した理性の顔、といった印象。
  • 映画が終わると観客たちがみなごそごそとうごきだして出口に向かうのに同じて、われわれもなにもはなさずにとりあえず室を出る。出たところで、良かったねえ、とこちらから笑いかけた。(……)くんはこれで五回目の視聴だったわけだが、五回観て、五回ともきちんと泣かされるのがすごい、と笑った。エスカレーターまえまで来て、とりあえず飯食います? とたずね、このうえがレストランフロアだからちょっと見てみましょうとなり、エスカレーターに乗って一階のぼる。感想をはなしながらフロアをちょっとまわったが、そとで食べられるものを買ってそとに食べるか、それかささっと食べて喫茶店か屋外のすわれるところでも行くのが良いかということになり、ひとまずビルを出ることに。それでエレベーターに乗って一気に下り、高架歩廊のとちゅうに抜け出た。このときたしかまぶしいひかりがとおっていながら落ちるものもけっこう多い天気雨になっていたはず。あそこにエクセルシオールがありますよとおしえてそちらにむかい、店舗横まで来ると(……)くんが「(……)」の看板を見つけ、「(……)」あるじゃないっすか、食いてえ、ともらした。じぶんは世間知らずで食い歩きをちっともしないので知らなかったのだが、牛たんの店だという。じゃあここで食いましょうというわけでエレベーターに乗ってのぼり、降りると目の前がもう店で、すぐまえはカウンターで左方がテーブル区画になっていた。待つあいだにまた感想をちょっとはなし、とおされると斜向かいの位置関係ですわり、注文。こちらは薄めの肉が五枚のビーフシチューつきのセット、(……)くんは厚めの肉が三枚のおなじくビーフシチューつきのセットにした。彼がトイレに行っているあいだに品がとどいたので食いはじめてしまったのだが、もどってきた(……)くんがすわるやいなや、サラダ逆ですね、と口にするので、え? と困惑した。一瞬おもいいたらずわからなかったのだが、サラダのドレッシングをきかれたさいに、こちらがシーザーサラダ、(……)くんがチョレギをたのんでいたのが逆になっていたのだ。それで、ついさっきじぶんでシーザーって言っておきながら、ぜんぜん気づかなかったと笑い、しかしもうこちらは口をつけてしまっていたので、交換せずにそのまま食うことに。食事前は感想を言い合っていたが、食べるあいだは例の「黙食」なるニューノーマルとやらを実践しようというわけで、ほぼ黙って無言で見交わしながらもぐもぐ咀嚼し、味わった。はなしがはさまらないとそれだけじぶんの食事に集中するから、これはこれで味をよく見られるということはある。食べ終えるとあまり間を置かず、ともあれ出ようと言って退店へ。映画館のチケットが二〇〇〇円くらいだったが、(……)くんがたのんだ分もちょうどそのくらいだったので、ここの料金を出すことでチケット代をはらったとしてもらうことに。そうして札を挿入する式のレジで会計し、ビルを出る。そういえば店のBGMはジャズギターで、なにかしらききおぼえがあるかんじではあったのだがあまりよくきこえなかったし同定はできず。雰囲気としてはクール系というか、Billy Bauerなんていうなまえをおもいだすようなかんじではあった。
  • エクセルシオールカフェで飲み物を買ってモノレール線路下の広場に行こうと決定。それでカフェにはいり、じぶんはアイスココアを注文。トイレに行きたかったので、つくられたココアが差し出されたさいにすいません、トイレだけ借りていいですか? と許可を取り、(……)くんにバッグとココアを見ておいてくれるようたのんで上階のトイレへ。BGMは女性のボサノヴァ。Emma Salokoskiのソロアルバムをおもいだしたが、それではない。ボサノヴァなどぜんぜん知らんしElis Reginaにしかきこえなかったのだが、たぶんちがうのではないか。もどると退店し、モノレール下へ。
  • みおぼえのないスロープができていた。その脇をとおって広場へはいる。このとき空の北側半分が灰色をふんだんにはらんでくすんだ雲でおおわれており、雨の予感がちかくうかがわれたのだが、まあ良かろうとすすみ、(……)くんがまた煙草を吸いたいというので、もうまちなかはどこも禁煙だから人目につかないよう、あれはモノレール線路をささえるやつだったのか巨大な柱に寄ってそこにかくれるようにして一服した。じぶんは煙草を吸わないので、ココアをすするのみ。煙草吸ったことないですかときかれるので肯定し、煙草を吸おうっていうモチベーションを得たことがないです、と受けると、まわりに吸うひとがいないとそうですよね、と返答があった。たしかに、じぶんの周囲で煙草を吸っていた人間は同居していた母方の祖父くらいのものだが、その祖父もじぶんが物心つくころにはもうやめていたのか、吸っているところの記憶はまったくない。かろうじてにおいはまとわりつかせていたような気がするが。それでたしか、煙草が嫌いな母親が文句を漏らしていたのではなかったか。
  • それからベンチに移り、風の左右にながれていくなかで雑談をする。映画の感想を述べたり、(……)くんが持っていた本を見せてもらったり。彼はAction Bronsonというひとの、F*ck It, I'll Start Tomorrowという本を持っていた。クソ面倒くせえ、あしたからやるよ、というところだろうか。このひとはもともとシェフをやっていたラッパーらしく、この本は自伝のたぐいらしい。F*ck, That's Deliciousという料理番組も持っていて、仲間たちとともにカロリーのたかいうまいものをつくったり食ったりするだけのもので、その動画もちょっと見せてもらったのだが、みんなからだがでかくて肉が厚く体型がだいたいおなじなので笑う。ただ彼らは食べるいっぽうで贅肉をはびこらせるばかりでもなく、筋トレをやたらやって熱気と汗をまとわりつかせているので、それも笑う。アメリカのこういうやつらってなにをめざしてるんですかね、と笑ってしまったが、たぶんふつうにムキムキなからだをつくりたいのと、あと筋トレしないとマジで太ってしまってやばいからうまいものを思う存分食べるためにがんばっているのだろう。こちらももうすこし筋肉をつけたい。
  • この本はぜんぜんむずかしくないっすよ、(……)さんだったらすらすら読めるとおもいます、というので、そんなことあるまいとおもいながらちょっと見せてもらったのだが、たしかに英語としてはかんたんだった。ただやはり、ときどきわからない単語はある。それはたぶん、新聞記事とかにはあまり出てこない、俗っぽい言い方とか、スラングにわりとちかいような語とかだったのだろう。そういうのも勉強になる。(……)くんはほか、ミヒャエル・エンデの『モモ』も持っていて、それはいま(……)さんとドイツ語で読んでいるのだという。このとき持っていたのは岩波少年文庫の邦訳で、装丁もなかなかきれいだし、訳文も良さそうでふつうにおもしろそうであり、岩波書店はなんだかんだ言っても良いしごとをする。訳者は大島かおりというひとで、みおぼえあるなとおもって訳者紹介を見てみたところ、ハンナ・アーレントの名があったので、そうだアーレントの訳者だとおもいだした。『アーレントヤスパース往復書簡』とか『アーレントハイデガー往復書簡』とかを訳しており、のちほど書店で『全体主義の起源』にも名があるのを確認した。Wikipediaを見るとかなりたくさん翻訳のしごとをしており、第三帝国関連の書も多い。ウィリアム・シャイラー『ベルリン日記』とか、D.シェーンボウム『ヒットラーの社会革命 1933~39年のナチ・ドイツにおける階級とステイタス』とか、エマヌエル・リンゲルブルム『ワルシャワ・ゲットー 捕囚1940-42のノート』とか。ワルシャワ・ゲットーは気になる。バーバラ・タックマンも訳している。ローザ・ルクセンブルクの『獄中からの手紙』も訳している! アーレントの、『ラーエル・ファルンハーゲン――ドイツ・ロマン派のあるユダヤ女性の伝記』というやつも気になる。
  • 雲が分割線を越えて半分のみならずほぼ一面にひろがった薄白い空のもと、めのまえを左右にそぞろあるいていくひとびとをながめながら、(……)ってかんじがしますねと(……)くんは言った。(……)くんの地元(……)とくらべると、服装が多少洒落ているのだという。彼はまた、きのうも六本木で『アメリカン・ユートピア』を観てきたらしいのだが、そのときは(……)さんといっしょで、(……)くんが、煙草吸えないの面倒くせえ、ポイ捨てして反抗しようぜ、みたいなことをもらしたときに、彼がルジャンドルのあるエピソードをかたってくれたのだという。いわく、ルジャンドルの大学にたぶんアナーキズム方面の革命思想左翼みたいなやつがいて、そのひとが大学の構内のトイレでないところでウンコをして、これが俺の反抗だ、アナーキズムだ、みたいなことを言ったときに、ルジャンドルは、きみのそれをだれがかたづけるとおもっているんだ、とクソ正論をかましたというので爆笑した。それでおもいだして、なんかあの、ずっと野グソしてるひと知ってます? と聞くと、(……)くんも知っていた。数年前にネット上で記事を読んでクソ笑ったのだけれど、トイレで用を足すのではなくて野外で排便することをずっとつづけているひとがいて、ただそのひとはとうぜん埋めたりなんだりして配慮しており、わりと環境方面のかんがえの裏付けがあってやっていたはず。トイレットペーパーをつかうのもよくないとかで自然の葉っぱでもって尻の穴を拭いており、そのためにどれが肌触りが良くてケツを拭いても痛くない葉っぱかというのを知り尽くしているのだが、これはシルクのような肌触りで高級なティッシュにも引けを取らないですよ、とかなんとか語っていたのをおもいだし、それをはなして笑った。
  • 四時くらいになって、そろそろ書店に行きましょうとあいなった。飲み物の空容器を捨てる場所がどこかにあるのかないのか、テイクアウトをほぼしない人種なのでぜんぜん知らず、持ってるのわずらわしいなとおもいながらもモノレール下広場に接した一階の入り口からとりあえず(……)にはいったところ、そこにゴミ箱があったのでありがたく無事捨てることができた。それで書店へ。哲学思想の棚から見分。棚にはいってすぐのところにいつもみすず書房の本が特集されているのだが、見たことのないものがいくつかあり、なかに、『エルサレム以前のアイヒマン』というやつがあったので、こんなん出てたんかとおどろいた。ほしい。だがみすずはどれも高くて、おいそれと手が出せるものではない。その横の棚は「書物復権」だったか、わすれたがそんなような文言の帯が一様に付されたやつが集められており、古い名著とかを再版しているものなのだけれど、そこにカルロ・ギンズブルグの『チーズとうじ虫』があるのを発見した(……)くんが、これ読みたいんですよねと言った。けっこうむかしだが読んだことがあるので、うろおぼえの記憶で内容をすこし述べる。これも当時はそんなに細部まで理解できたわけでないので、また読みたいところだ。このとき棚に置かれていたのは見たことのない装丁のやつで、旧版のものだろうとおもい、この本だったら歴史学のほうにあるとおもいますよ、「大人の本棚」のソフトカバーのやつが、と言ったのだが(しかしいま検索したところ、「大人の本棚」ではなくて「始まりの本」シリーズのほうだった)、めくってうしろのほうを見てみると、これが新装版なのだった。訳者は変わっていないし、たぶん改訳はされていないのではないか。
  • それから棚をたどっていき、これ読みたいっすよね、とか、これもおもしろそうとかいろいろ見たのだけれど、よくおもいだせないし、くわしく書くのも面倒臭いので省略する。ここでこちらが買うことにしたのは、中村隆之『野蛮の言説 差別と排除の精神史』と、アルベール・メンミ/菊地昌美・白井成雄訳『人種差別』。前者はいぜん来たときに見つけていて、これは良さそうな本だなをおもっていたのだった。後者もずっとまえから存在は認知していたものの、ぜんぜん有名ななまえではないしそんなに注目していたわけではないのだが、三〇〇〇円だし買うかという気になった。それで文庫のほうへ。移動しながら(……)くんが、人種差別関連だとちくま新書レイシズムのやつもいいらしいっすよというので、ぜんぜん知らなかったと受けつつ新書の棚をチェック。梁英聖 [りゃん・よんそん] 『レイシズムとは何か』が発見されたので、じゃあこれも買いますと即決し、そこから選書のまえをとおって角の平凡社ライブラリーを見たが、目当てのマリー・シェーファーの『世界の調律』は、たしか二〇〇六年くらいのものだからないかなとおもっていたとおりなかったのでしかたがない。(……)くんがこのシリーズもいいですよねと言ったほうにむけば文庫クセジュの区画なので、テーマがけっこうどれもおもしろいですよねと受けながら見てみると、ジョルジュ・ベンスサン/吉田恒雄訳『ショアーの歴史――ユダヤ民族排斥の計画と実行』というのを発見したのでこれも買うことに。これで四冊。
  • それから岩波文庫を冷やかしつつ棚の反対側の端に行き(岩波では『楚辞』があたらしく出ていたのだが、これは古井由吉が生涯の一〇冊みたいなものに挙げていたとのこと)、きょう来た目当てのもうひとつというか、(……)くんに言われて買おうとおもっていたミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』を保持。ちくま学芸文庫山田登世子訳。それで文庫の区画を出て、海外文学もちょっと見ることに。(……)くんは、ここやばいっすね、ずっといられますね、待ち合わせして遅刻されても、ここだったら五時間くらい余裕で待てますね、と言っていた。壁際の海外文学にむかうまえに詩のあたりをちょっと見たのだが、棚のレイアウトが変わっていて、いぜんはもっと右、短歌を越えて文芸評論にはいるそのてまえあたりにあったはずの『ユリイカ』が、棚のいちばん左、いぜんは詩論のたぐいがあった位置に来ていた。そして、詩集はともかく、詩論のほうはすこし縮小されたような印象だったがどうか。(……)ほか、『ユリイカ』にはceroの特集号などもあって、そんなのあるの知らなかったので手にとってみたが、たしかここに黒田卓也が寄稿していたのではなかったか? それか(……)のほうだったか? それで、これGlasperなんかとやってるトランペットですよ、と紹介しておく。(……)]
  • 詩の棚では石原吉郎の『望郷と海』があったので(みすず書房の「始まりの本」版)、これはとてもいい本ですよとすすめておいた。シベリアに抑留されていたひとで、と補足。そこから右に移行していくと文芸評論の区画に古井由吉が死んだあとに出たエッセイ集が二、三冊あり、競馬についての文章だけをまとめたやつもあったがそのとなりに、タイトルをわすれたのだけれど書くこと読むことみたいなやつもあり、(……)くんはこれを読んだようで、先ほどきいた生涯の一〇冊というのはこのなかで見たのだという。それでめくり、該当箇所を見てみると、さいしょにあがっていたのが『オイディプス王』、つぎがギリシア悲劇集、そして旧約聖書と来て、『詩経』、『楚辞』とつづくものだから、もうちょいマイナーでこっちが知らなそうなやつあげてくれよ、と笑う。(……)くんも、古井由吉じゃなかったらただ古典を読んで偉ぶってるひとみたいな、と笑っていた。ただ、『詩経』と『楚辞』がはいるのはさすがだなとおもうが。六冊目はなんだったか、芭蕉かなにかだったか? あとは森鴎外のなにかと、夏目漱石の『思い出す事など 他七篇』、さいごが徳田秋声の『黴』で、このあたり独自性が垣間見える。夏目漱石で『思い出す事など』をえらぶのか、というかんじだし、徳田秋声もなかなかあげるひとはいなさそう。これで九冊だが、あと一冊はおもいだせない。そういえばムージルはあげられていなかったとおもうのだが、それは良いのか? また、女性のものも一冊もなかったはずで、そのあたりやはり古い時代の人間の感は否めない。あとあれだ、永井荷風の『断腸亭日乗』だ。毎日しこしこ日記らしきものをやっている人間としては、これもさっさと読みたいのだが。これたしか、毎日天気だけを一行でみじかく記しつづけている一時期があって、後藤明生だか小島信夫だったかが、死後に蔵書を見たところ、特に意味もなさそうなその一行に線をひいていた、みたいなはなしをどこかで見かけたようなおぼえがある。
  • そうして海外文学へ。詩をなにか買って帰りたいなとおもっていたが、パウル・ツェラン全詩集にせよゲオルク・トラークル全集一巻にせよ高すぎる。ペソアの『不安の書』も読みたいが、あれも五〇〇〇円くらいしたはずなので躊躇する。(……)くんに紹介しておいた。ともあれ、なぜかさいきんは、やはり詩を読まなければ駄目だなというこころになってきている。世界のあらゆる言語で詩を読みたい。棚を大雑把に見分していき、(……)くんに、『歌え、葬られぬものたちよ、歌え』を、このあいだ発見したんですよ、タイトルが格好良くて、と紹介。彼もこれおもしろいらしいですよ、とかいくつかおしえてくれたが、忘れてしまった。フォークナーの未発表作品みたいなのが刊行されたというのもおしえてもらい、それは棚の中部に表紙を見せた状態で置かれていたのだが、ビニールでつつまれていたのでなかを見ることができない。諏訪部浩一訳『土にまみれた旗』というやつだ。ヨクナパトーファ・サーガの「第一作となる傑作の「真の姿」を、フォークナー研究の第一人者が待望の初邦訳。『サートリス』オリジナル版」とのこと。あと白水uブックスにラルフ・エリソンの『見えない人間』があるのを発見したので、これあるじゃないですか、と示しておいた。
  • 海外文学の棚では、山口晃訳『ヘンリー・ソロー全日記』が出ていたので、これも買っておくことに。全日記というわりに(二段組とはいえ)そんなに厚くなかったのだけれど、ほんとうに全部訳してあるのだろうか。とおもって調べたが、そうではなかった、昨年出ておりこのときじぶんが買ったのは1851年のもので、一八三七年から六一年までのすべてを全一二巻でこれから刊行予定だという。すばらしいといわざるをえない。非常に楽しみである。ソローだとおなじ山口晃が訳している『コンコード川とメリマック川の一週間』というのもずっとまえから読んでみたいとおもっているが、やはり高いので手を出せていない。まあ、まずなによりも『ウォールデン』を読めというはなしだが。むかし、たぶん二〇一五年か一六年あたりに、講談社学術文庫の版で読んだのだけれど、そのときは訳が気に入らずにこれは読まなくていいなとおもってしまい、とちゅうで切ったのだった。あれはほんとうに訳が駄目だったのか、それともじぶんのレベルが低かっただけなのか。
  • そのあと(……)くんが語学を見たいというのでそちらのほうへ。とちゅうで漫画の区画の端の、有名なレジェンドみたいなやつがあつまっているところを多少見て、手塚治虫読みたいっすねえとか言い合い、そうして語学のコーナーへ。洋書の棚を見てみたが、まあ大した本はない。先般ノーベル文学賞をとったルイーズ・グリュックの詩を数十年分まとめたペーパーバックが三〇〇〇円少々であって、(……)くんは、これ買いますわといったん手にとっていたのだが、のちほど、いまは必然性がないので、ともどしていた。それからドイツ語とかフランス語の区画を見分。関口存男の本がけっこうある。なんだったか、『関口存男の生涯と発言』みたいな、交流のあったひとの証言とか本人のエッセイ的文章とかがまとまった本があるのだけれど、見てみれば一万円するので、クソぼったくりじゃないっすかと笑って断念。ぜんぶ青空文庫に入れてほしいのだが。(……)くんは(……)さんとドイツ語の勉強をしており、彼女にすすめてつかってもらう単語帳や参考書をもとめているらしかった。それでこちらがてきとうに、音読で身につけるみたいな文言がタイトルになっているやつを見てすすめてみると、これいいっすね、これにしますとなった。なんか青いカバーのちいさな本だったのだけれど、じっさい、いくつかのテーマごとに章が分けられ、それぞれに短い文章がたくさん用意されてあって、それをまるごと読みつつ語彙を習得していくみたいなかんじのやつで、やはりこういうふうに文脈があったほうが圧倒的におぼえやすいはず。文章も、身近な生活についてとか、EUの成り立ちだったかなにかについてとか、文化面とかけっこういろいろあって、そんなにつまらなくなさそうだった。あともうひとつ、ミネルヴァ書房の『はじめて学ぶドイツ文学史』みたいなやつも発見し、こんなのありますねと見てみると、これがなかなかよろしいもので、中世のたぶん騎士譚みたいなやつからはじまって、ゲーテとかビューヒナーとかあのあたりを経由し、ツェランだのムージルだのイェリネクだのハントケだのを経て現在のなまえも聞いたことがない作家まで網羅されており、なによりそれぞれの作家につき作品原文の一部が訳とともに付されているという丁寧なつくりで、ムージルなんて『特性のない男』のどこかの一節が取られていたので、とてもよいしごとだなあと称賛した。編者は柴田翔というひとで、どこかでなまえを見たことがあるなとおもったが、講談社文芸文庫にはいっているゲーテの『親和力』の訳者なので、それだ。じぶんでも小説を書いており、六四年に芥川賞を取っているらしい。
  • それで会計に。(……)くんはいま手持ちがないというので、こちらがまとめて会計し、あとで金をもらうことに。それでレジで払い、(……)くんの品は彼に受け取ってもらい、こちらの六冊は紙袋に入れてもらう。あらためて一覧をしめすと以下。

・中村隆之『野蛮の言説 差別と排除の精神史』(春陽堂ライブラリー、二〇二〇年)
・梁英聖 [りゃん・よんそん] 『レイシズムとは何か』(ちくま新書、二〇二〇年)
・ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年)
山口晃訳『ヘンリー・ソロー全日記 1851年』(而立書房、二〇二〇年)
・ジョルジュ・ベンスサン/吉田恒雄訳『ショアーの歴史――ユダヤ民族排斥の計画と実行』(白水社文庫クセジュ、二〇一三年)
アルベール・メンミ/菊地昌美・白井成雄訳『人種差別』(法政大学出版局/りぶらりあ選書、一九九六年)

  • 人種差別関連が四冊はいっているあたりわりとハードな字面で、(……)くんも、ガチの政治学のひとみたいな、ともらしていた。彼が買った品の精算のためにレシートを見ると、「ビジネス書」というくくりの本が一冊あって、ビジネス書ないでしょ、と笑ったのだが、これは値段からするに、『野蛮の言説』か『人種差別』のどちらかだったようだ。どちらもあきらかにビジネス書ではない。
  • そのあと地上のコンビニに行って金をおろしてもらい、精算し、駅へ。いいかげん書くのが疲れてきたので割愛するが、きょうはたのしかったです、ひさしぶりに会えて良かったです、ありがとうございましたと言いながら駅通路をとおりぬけ、改札をくぐったところであいさつをして別れ。電車内ではだいたい寝ていた。もしくは、意識を失わずとも瞑目にやすんでいた。地元についてからの帰路もとくにおぼえはない。帰宅するとロシアの兄夫婦からビデオ通話がきていたところで、ソファにすわって、(……)ちゃんと(……)くんのようすをいくらか見たが、これも詳細ははぶく。ふたりとも元気そうで、やんちゃだから(……)さんはたいへんだろうが、それでも兄夫婦もふくめてみんな顔の血色は良い印象だった。