2021/7/12, Mon.

 スピノザが哲学の可能性の条件として表現の自由を主張したのは『神学・政治論』のなかでであった。この本はしかし、一六七〇年に出版されると、たちまち発禁処分を受けてしまう。哲学を神学から明確に切りはなし、哲学は神学的な権威とは関係なく自由に展開されなくてはならないと述べたことが、無神論という非難を引きおこしてしまったのだ。表現の自由を主張した書物が表現の自由を奪われるというのは、皮肉なはなしである。スピノザはこの書が引きおこしたスキャンダルのせいで、まだ完成していなかった主著『エチカ』の出版の可能性までうしなってしまう。スピノザにふりかかったこうした事態をめぐって、ドゥルーズは次のように述べている。

思惟の自由が保たれ、その活力が失われないかぎり危険はなにもないが、それが奪われるようなことになれば、他のどんな抑圧が起きてももはや不思議ではないし、またすでにそれは現実のものとなってもいよう。どんな行動をとってもいまや有罪とされるおそれがあり、全生活が脅威にさらされるからである。
 (『スピノザ――実践の哲学』鈴木雅大訳、平凡社、一九九四年、九頁)

 (小林康夫編『UTCP叢書1 いま、哲学とはなにか』(未來社、二〇〇六年)、26; 萱野稔人「哲学と思考の自由」)



  • 一一時三五分に離床した。きょうも晴れており、ベッド上に薄日向が彩られている。しかし、午後一時過ぎ現在だと曇ってきており、空のとおくでかみなりがたびたび唸っているのも聞こえるので、雨が来そうだ。水場に行ってきてから瞑想をおこなった。はじめてすぐに、そとではなくて室内からカサカサしたような擦過音が聞こえたので、なにかいるなとおもって目を開け、首をまわすと、机のうえに置かれた棚のうえに壁に接して積んである本の塔の端、壁と本の隙間にムカデがいたので、今度はムカデかとおもった。先日ゴキブリも出たので。ゴキブリはたぶんふつうに家のなかに棲んでいるのだろうが、ムカデはおそらく、窓を開けて寝たりしているのでそのあいだにそとからはいってきたものだろう。網戸にしているのだけれど意に介さずどうにかしてはいりこんでくるようで、この時期、暑くなってなおかつ雨も降って湿る時節にはけっこうあることだ。むかし、部屋にもどってきたらベッド上に馬鹿でかいやつがいてクソビビったことがあった。このときのものはさほどおおきなムカデではなかった。おとといの深夜と同様、キンチョールを取って吹きつけると、ムカデはすぐに苦しんでそこにとどまっていられず床に落ち、うねうねとのたうちはじめた。そこは机とベッドとスピーカーにかこまれた壁際の隙間といったかんじの場所で、だから直接手を伸ばすことは困難だが、キンチョールをかさねて噴射し、するとムカデはかなりすばやいうごきでおどるようにして溜まった埃をからだにまとわりつかせながらころげまわった。最終的にベッド脇の床上まで来てそこでほぼ力尽きてちいさくまるまったので、そのすぐとなりにあった新聞を一枚取ってつつみ、始末。それから枕のうえにもどって瞑想をふたたびつづけた。暑い。
  • 上階へ。食事はカレーと生サラダ。それぞれよそって卓につき、きょうは新聞が休みなのできのうのものをまたひらきながら食べる。母親はまもなくしごとにむかうところ。そとにいた父親もはいってきた。新聞はまず国際面。アジア総局長のひとが、ミン・アウン・フラインについて記していた。いぜんインタビューしたときの印象では、強権的なクーデターを起こしそうなかんじではなく、軍人というよりおだやかでにこやかな政治家という風貌だったが、さいごにとつぜん、インドのナレンドラ・モディ首相は偉大な政治家だといいだしたのが引っかかったと。それまでインドのはなしは出ていなかったので。それでかんがえてみるにインドとミャンマー国軍のつながりはつよく、インドが輸出している武器の半分はミャンマー向けだし、今年二月のクーデターとその後の状況を受けてもインドは沈黙をまもっていると。ミャンマー国軍としては中印の対立を利用して、インドともむすびついて中国にちかづきすぎないようにバランスを取ろうという腹ではないかとのこと。
  • ほか、加谷珪一という経済評論家のインタビュー的な記事。日本はいままでずっと世界有数の経済大国とされてきたが、バブル崩壊以後のいわゆる「失われた三〇年」とやらでその地位もあやうく、物価を見ても欧米やアジアの一部より低くなっており、もはや経済的先進国ではないので、国内消費に主眼を置いた「豊かな小国」に転換していくべきだというはなし。このひとがいうには日本経済の問題点はふたつあって、ひとつは労働生産性の低さであり、もうひとつは薄利多売だという。欧米などに比べると日本はいわゆる生産性が低いというのだが、それは基本的に雇用過剰だからで、なんでもある試算によれば日本企業のなかには仕事がないのに雇われて会社に属しているひとが四〇〇万人いるとかいうはなしで、そういうひとびとが転職するなりでべつのところに行き、きちんと仕事を割り当てられてはたらけば余剰がなくなって生産性は上がるだろうと。ただそのためにはむろん、転職をうながすような行政の支援や環境整備が不可欠で、すぐにスキルを身につけられる職業訓練プログラムみたいなものを充実させるべきであるとのこと。一方、日本には高度成長期の大量生産観念が根強くのこっていていまだに薄利多売が支配的だが、高くても消費者がもとめるような付加価値を持つ商品をつくって利益をあげることを目指すべきだとのこと。そういう転換によって、バブル後三〇年の衰退から脱出できる。ただ、そこから脱出したとして経済的大国にもどれるわけではない。いまだに日本の経済力も輸出競争力も高いということを前提としている議論が多いが、現実そんなことはなく、これから人口も減っていくし、輸出大国ではなく国内消費主導の「豊かな小国」方針に切り替えていくべきだというようなはなしだった。
  • 食器をかたづけ、すでに取りこまれてあった洗濯物をたたみ、風呂も洗い、氷を入れた冷たい水を持って帰室。Notionを準備。きのう買った本を記録しておく。今年はもう七月もなかばなのにまだ一三冊しか買っておらず、合わせて二五〇〇〇円しかつかっていないので大したものだ。二月末にいちど、五月あたまにいちど、そしてきのうの三回のみ。それからきょうのことをつづるといまは二時で、やはり先ほどから雨が降り出し、それがけっこう勢いのつよい、じゃぶじゃぶながすような夏の雨である。
  • あとはおおかた忘れた。労働があったが、そのあいだのことも行き帰りのようすももはや遠い。往路、最寄り駅で、青と白が混ざってひとつのやわらかな色がなめらかに敷かれた空に、それとほとんどおなじ色だがわずかに浮かび上がって、断続する吐息のような雲がいくつか置かれているのを見た。
  • 書見は三宅誰男『双生』(自主出版、二〇二一年)をまた読んでいる。この日は41から90まで。70の、「かつての日課をまるでふたりしてなぞるかのように水路に沿うてそぞろ歩きしていると、水のなかに墨をひとしずくずつ垂らしていくように暮れていくあたり一帯の気配にあらがうようにしてするどくひきしぼられつつある痩身の西日が、立ちならぶ蔵造りの向こうからわずかな間隙を縫って射しこむ一本の長槍となり、かたわらに立つフランチスカの髪を真っ白に磨きあげた」という一文を読んで、例のごとく、もうこれだけで満足、というかんじになった。風景や描写にたいするじぶんのこういう嗜好偏愛はいったいなんなのかよくわからないが、ここもふくめて、単純に文を追うことの快楽というか、すばらしさをかんじられる書見の時だった。小説にもいろいろあって、物語とかしかけとか意図とか思想とか風俗とか分析とかおのおのはらまれているわけだけれど、けっきょくはやはり一文と一語をただ追うことのすばらしさが必要なのではないか。どこかしらにはそれがふくまれていなければ、小説をやってもあまりしかたがないのではないか。それはきわめて単純素朴なようだが、じつはまったく単純ではないことがらなのではないか。単に文章が磨かれてあったり締まっていたり修飾が豊富だったり言葉遣いが新鮮だったりすればいい、ということではない気がする。もっと総合的な、リズムみたいなものがやはりあるだろう。それは文体、ということでもおそらくない。文体未満のところではないか。