欧米の哲学者たちには、自己のミラー・イメージとして以外には、「日本」「アジア」という文脈が不在である。日本からすれば、相手には自分が見えていない。哲学における「自分の不在」は、西洋近代に触れた日本の哲学者たちに途方もないコンプレックスを与えたが、それと同時に、奇妙な優越も(end142)与えたのである。「自分の不在」は、自己創造の自由を与えたのである。それは、井上哲次郎におけるように国粋主義的な誇大妄想(「世界に一あって二なき優秀のもの」)に通じることもあった。和辻哲郎におけるように、西洋近代の哲学にたいする絶え間ない修正への熱情ともなった。いずれにせよ、自分とは見えない存在であって、自分をまずは創生することが日本の哲学者たちの課題であったように思われる。相手に自分が見えないなかで、自分の姿をつくりだすことは簡単である。ときには、日本的特殊性の衣を着て華麗な思想の舞を踊ってみせて、相手の賞讃や賛同を獲得することもできる。
(小林康夫編『UTCP叢書1 いま、哲学とはなにか』(未來社、二〇〇六年)、142~143; 北川東子「「哲学―女性―東アジア」という流れのなかで」)
- 一一時ちょうどに離床。九時台くらいから覚めていて、けっこう軽かったが起き上がれず、目を閉じて気力が身に湧いてくるのを待ち、起床した。天気は曇り。水場に行ってきてから瞑想。きのうは休日だったし寝るまえに脚をほぐしもしたので、からだはすでにわりとひっかかりなく軽い。窓外に水音はあきらかでなく、鳥がひかえめながらきらきらとしたような声を散らし、とおくではカラスがずっと鳴きつづけている。目をあけると一七分ほど経っていたが、これで一七分なのか、という感をやはり得た。二〇分は越えた印象だった。
- 急須やゴミ箱など持って上階へ行き、かたづけて食事。きのうのタコフライののこりや煮込み素麺に、五目ご飯。新聞は例によって国際面を見た。イスラエルで八党連立政権が発足して一か月が経ったが、ヤミナの党首であるナフタリ・ベネット首相は左派やアラブ系に配慮して運営をすすめていると。西岸に入植しているユダヤ人数十世帯に退去を指示したという。ヤミナの方針としては、もちろん本来は入植推進支持のはず。ハマスにも抑制的な対応を取っており、ハマスは新政権発足以来風船爆弾での攻撃をたびたびおこなっているが、反撃は範囲をかなり限定しており、五月の衝突後の停戦合意が決定的に崩れないようにしていると。その一方で、内政面で亀裂があらわになった。先週くらいに、イスラエル人と結婚したパレスチナ人にたいして市民権をあたえないという法律の延長案が審議されたらしいのだが、そこで与党にはいっているアラブ政党の議員二人が反対し、リクードがそれにつけこんで反対をくわえ、法案は否決されたという。リクードはむろん、法律の内容自体にはむしろ賛成する立場で、ネタニヤフ前政権では毎年提案して可決させてきたというのだが、今回は連立政権を妨害したいがために党略的にうごいたわけだ。
- ほか、キューバで反政府デモがつづいており、また南アフリカの暴動もつづいていると。食事中に雨が降り出し、雷を先触れとしながら例によってすぐにスピードを上げて、一時激しく騒いでいた。食器をかたづけ、風呂も洗うとさっさと下階にもどり、Notionを用意してさっそくここまで書けば一二時二〇分。きょうは三時には家を出なければならないので、猶予がないのだ。
- と、そう書いたのだけれど、けっきょく、まあ準備時間がすくなくてもどうにかなるんじゃねとおもって遅めの電車で行った。そのため、ストレッチもできた。出発までのあいだは三宅誰男『双生』と、(……)さんのブログを三日分読んだ。
- 三時四〇分ごろ出発。玄関を出ると、扉のまえから階段からその下の地面からあたりはどこも濡れており、キャップ風の帽子をかぶった父親が階段下にいる。雨が降ったこともあるが、彼がケルヒャーの高圧洗浄機をつかって昼からずっと掃除していたのだ。行ってくると告げて道へ。雨はいまは止んでおり、とおく去ったものの置き忘れめいた粒が宙をとぼしくおよぐのみ、空は雲の独占領域だが白さはそう暗くもない。公営住宅前にかかると右手から鳥が一匹飛び立ち、スズメらしきそのちいさなすがたが路上を横切り公団の棟を越えていくさまの、何度かあさく屈折しつつすばやくて、大風になすすべもなく吹き飛ばされる木の葉の軌跡だった。坂道に折れてまたいくらかふくらんだ沢音のなかにはいると風が身に触れ、その感触の、ながれて身を過ぎていくというよりは道をブロック状に埋めた壁のようである。壁といっても圧迫も抵抗もなく、そのなかをとおっていける希薄なかるさではあるが、からだの前面をすべて覆って消えず、歩を踏み出して身をまえに運ぶごとに両耳の入り口でかすかな振動のひびきがきこえる。
- 雨後のことで大気はじめじめしており、肌がべたついて、駅につくころにはかなり暑かった。曇天の西北に弱々しい太陽の位置もかろうじて見透かされる。ホームの先へとあるいていき、やってきた電車に乗ると席で瞑目して到着を待つ。座って目を閉じやすんでいるあいだに、なぜか勃起した。エロいことをかんがえていたわけではないし、尿意が溜まっていたわけでもない。まるで意味のない無償の勃起というのは男性には往々あるものである。降りるころにもまだ固まっていたので、片手をポケットに入れて目立たないようにしながら改札へ向かった。
- (……)
- 一〇時ごろ退勤。職場で借りた傘を差し、ゴミ袋をふたつ持ってマンションのほうへ。殺風景でひろくもないロビーをとおりぬけてゴミ捨て場に行き、すでにいくつも置かれてある袋の奥のほうに重ねて乗せておく。そうしてもどり、駅へ。(……)それでわかれてなかにはいるとSUICAに五〇〇〇円チャージしてからホームへ。ベンチで休みはじめたころには雨がにわかに増長し、空間を駆けて打ちつけるその激しい音響にあたりは完全に占拠され、四方八方くまなくつらぬかれて音のカプセルに閉じこめられたようなかんじであり、あのなかではなしをするのだったらとなりにすわっていても声をいくらか張らなければならないくらいだっただろう。電車に乗ってからもしずまっていたものがまた高まるひとときがあり、いきおいを増すとなると最高点への到達までがとにかくすばやく、躊躇も屈託もなく一挙にまっしぐらに激化する。それでまた長続きせずに数分で落ち着いたりするものだから、こらえ性なく情緒不安定な精神のようにたわむ大気だ。
- 最寄り駅に、傘をひらいて降り立つ。屋根のもとへとあるき、自販機でコーラを購入。駅を抜けるとまた降りがかさんできて、木の間の坂道を下りるあいだ樹冠が投げ落とすしずくの群れがバチバチとつよく、風は下方から、あるいは沢がまたながれとひびきを厚く激しくしている斜面の下から浮かび上がってくるようなかんじで、空間に浸透し、身をつつむ。平ら道に出るころにはますます雨は興奮し、頭上の傘表面で立つ打音は千人の小人がそこで一斉に足踏みをしているかのような、掃射的なさわがしさだが、それも二、三分すすむうちに未練を見せず他愛なくおちついた。
- うえの往路や帰路の描写はこの日帰ってきたあとに、あるいは翌日だったか、まだ記憶がさだかなうちに書いてしまったもので、やはりあるいているあいだに風景だの天気だの自然だのに触れたときのことが印象にのこるので、それは忘却に奪い去られるまえに書いてしまいたいという欲求がある。ほか、ウェブ記事では金井美恵子「切りぬき美術館 新 スクラップ・ギャラリー: 第13回 ほうれん草、台所、五右衛門風呂」(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2017/05/post-14.html(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2017/05/post-14.html))とSally Adee, 'Redux: Who’s afraid of Roko’s Basilisk?'(2018/8/10)(https://www.lastwordonnothing.com/2018/08/10/redux-whos-afraid-of-rokos-basilisk/(https://www.lastwordonnothing.com/2018/08/10/redux-whos-afraid-of-rokos-basilisk/))を読んでいる。Roko's Basiliskのはなし。細部がどういうことなのかよくわからんのだが。
- 三宅誰男『双生』(自主出版、二〇二一年)より。
- 149: 「まるでびっしりと結露した硝子のそこだけ拭きとられてある一部に誘 [いざな] われるようにして所を得たかのような、あらがいようもなくすみやかな一部始終であった」
- 168: 「酔いにゆがんだ視界でくりひろげられる放埒と消尽の、そうしてみるともはや隠れ里と山間の別もなくひとえにいちじるしい夜」
- 171~172: 「つぶらな炎をやどした線香のじりじりと灰と化していく先端がついに自重に耐えかねて落下するように、沈黙がみずからを沈黙たらしめる重苦しいその緊張を保てなくなると、あるかなしかの風にそよぐ葉の音や酔い潰れて眠りほうけている男らの鼾、焚き火にくべられた木の枝の爆ぜる甲高い音やその周囲を火の粉に混(end171)じって飛び交う巨大な蛾のひと打ちごとに鱗粉を撒き散らすほど太いはばたきなどが、幕間の咳払いのごとく矢継ぎばやにたちさわぎはじめたのだった」