2021/7/15, Thu.

 カベルがソローに見出す日常経験の現象学において、去ることを通じた世界と自己の緊密性の回復は、自己の内部と外部の双方において「隣人関係」を築くことである。それはたんなる同一化としての結合関係ではなく、あくまで隣にあるという関係、懐疑主義の「実存的真実」として、自己と自己、自己と世界の間の分離性、距離、知りえなさを承認する関係である。神秘の経験とは、慣れ親しんだ日常性を――自己という最も馴染み深い同一性すらをも――異質な他者として出会い直すことである。こうした意味で自己超越は、自己忘却や瞑想によってではなく、「読む」という行為、思考するという(end177)行為のなかで、言語を通じて、見慣れた枠組みや固定したものの見方に対する「執着」から身を引き離してゆく、離脱の経験である(Stanley Cavell, "The Politics of Interpretation (Politics as Opposed to What?). ", Themes Out of School: Effects and Causes. Chicago: The University of Chicago Press, 1984, p. 54)。(……)
 (小林康夫編『UTCP叢書1 いま、哲学とはなにか』(未來社、二〇〇六年)、177~178; 齋藤直子「教育としての哲学・哲学としての教育――カベルの『センス・オブ・ウォールデン』を読む」)



  • 一一時過ぎに覚醒。しばらくこめかみや眼窩を揉み、脚をマッサージしてから起床。一一時四〇分だった。きょうは休日だし遅くなったし瞑想はいいかなという気持ちがないでもなかったが、水場に行ってくるあいだにやはりやろうというこころになったので座った。そこまで暑いという感触の日でもない。窓のすぐそと、かなり近間でヒヨドリが一匹、あまり盛り上がらず気まぐれに鳴いていた。じきにミンミンゼミの声もきこえてきて、これは今年はじめてのことである。
  • 上階へ。居間は無人。母親は職場で会議だとか言っていた。父親は山梨に行ったのだとおもわれる。炒飯が冷蔵庫にあったのでそれをレンジに入れて加熱。二分待つあいだに居間のソファに座って脚を揉んだが、南窓から見える空は雲がひろく明確なかたちをなさずにかさなってつながり、合間に覗く青さも前にフィルターをかけられてややけむったようになっている。あたたまった炒飯を食いながら新聞を読んだ。芥川賞直木賞の発表があり、前者は石沢とかいったかそのひとと、李琴峰というひとふたり。直木賞もふたりで、いっぽうは澤田瞳子だった。なまえは見たことがある気がするのだが、それいじょうなにも知らない。李琴峰もそんなかんじだが、台湾出身のひとで、日本語を母語としないひとが受賞するのは楊逸以来とあった。楊逸もなにもしらない。このあたりのものも読んでいかねばならない。
  • 国際面にはハイチの大統領暗殺の続報。武装集団はアメリカ麻薬取締局(DEA)を装っていたらしく、実行者のひとりはじっさい、過去にDEAに情報提供者として雇われていたという。下手人はぜんぶで二八人だったかそのくらいいたらしいが、うち二〇人ほどはコロンビアの傭兵で、退役軍人が多く、左翼ゲリラとの戦闘経験も豊富らしいというから本物の連中だろう。ほか、元議員三人が指名手配され、またフロリダを拠点としていた六三歳くらいのハイチ人医師が主犯的な計画者として逮捕されたと。どうもこのひとが兵など人員をあつめたりむすびつけたりしたもよう。いま政府は六番目の首相に指定されていたひとが暫定首相として戒厳令を出し対応しているが、大統領に首相として指名されていたひとが本来はじぶんが緊急時の代役であると主張して不満を漏らしているよう。混迷がはなはだしそうだ。
  • ほか、上海協力機構が会合をひらいてアフガニスタン情勢を懸念すると発表したとか、日米豪印のいわゆるQuadが最先端技術分野における協力で合意したとか。新疆ウイグル自治区アフガニスタンに隣接しているので中国はイスラーム過激派の流入を警戒しているとあったのだが、そうか、そういう地理関係だったかとはじめて認識した。Quadはビッグデータの共有をする方針らしく、それは対中的な意味合いがつよくて、中国は人口が莫大だから一国だけで一三億人分だかそれくらいのデータをAIに読ませることができるわけだが、四国でまとまってデータを共有すれば一九億人分とかになって中国にも負けないと。ただ、四国のなかではインドが対中面で温度差があるらしく、対中包囲網的な色合いが濃くなってくれば距離を取るかもしれないとのこと。
  • あと経済面に、米国がウイグル自治区の綿とかソーラーパネル部品とかをつかっている企業に、アメリカの国内法に違反するおそれがあると警告を発したとの報があった。これは昨晩の夕刊にも出ていてそこでも読んだが。日本でもミズノとかグンゼとかワールドとかが新疆綿をつかっているらしい。ワールドというのはTAKEO KIKUCHIがはいっている企業だ。ユニクロもすこしまえにフランスで法的対応をされていたはずだが、企業勢はだいたいのところ、きちんとした労働環境が確認された製品のみをつかっている、万が一取引先での人権侵害があきらかになれば対応する、というくらいのスタンスのようだ。衣服はともかく、機械の部品とかは、正直供給網をおおもとまで追うのが困難だという事情もしくは本音もあるようで、人権への配慮はむろん大事だろうがいっぽうであからさまに新疆製品の使用をやめると中国内で不買運動を起こされるという懸念もあるもよう。H&Mが先般そうなっていたはずだ。
  • 文化面に中国共産党一〇〇周年を期して三人の識者が寄稿していたのでそれも読んだ。国分良成岡本隆司と益尾知佐子。さいごのひとは初見の名。国分良成は書評委員なので書評欄でよく名を見るし、岡本隆司中公新書のなにかをいぜん読んだはず。前者ふたりが現中国共産党の歴史的継続性をかたるのにたいし、益尾知佐子は共産党が独自に発展させてきた論理とかしくみとかを見るべきだ、というような語り方だった。国分良成はいわゆる中華思想華夷秩序観念に言及して習近平は完全にそこにもどっていると言っていたが、益尾知佐子は中華思想(のみ?)で現共産党を理解するべきではない、と明言していた。岡本隆司は、これはこちらが読んだ新書でも述べていたはずだが、儒教によってつくられた「士」(上層支配階級)と「庶」(下層被支配階級)の階層構造とそのあいだの格差は歴史上いままで一貫しており、そういう構造においてひとりの統治者(皇帝)の思想に全国民がしたがうという体制がずっと取られてきたから、習近平もその点ではそれを踏襲している、というような言。
  • 食器と風呂を洗っていると母親が帰宅。このとき、風呂場の窓のそとに見える道には隙間なく日なたが敷かれていたが、空気の感触はさして暑くはなく、はいってくる風もさわやかなふうだった。しかしのち、書見のあいだには雨が落ちたひとときもあったはずで、ここのところの毎日は一日のなかでかならずいちどは雨が生まれては去る。
  • 茶をつくって帰室。一服し、昨年の日記を読み返す。二〇二〇年七月一五日はブログに投稿されていなかった。去年のこの一時期はきちんと書こうとかくまなく書こうという観念にとらわれてかえって手が出ずうごかなくなってしまい、メモだけ取って正式に書かなかった日がけっこうあるのだ。それを読みかえし、大雑把な下書きのままで投稿しておいた。
  • それから書見。三宅誰男『双生』(自主出版、二〇二一年)をすすめる。177から215まで。181から182の、隠れ里の小僧が母親と暮らす家の内の空間描写が、一見派手ではないが意外とすごいなという印象。190から191の、「お前の夫は俺の兄弟ではないか?」と問う「彼」に小僧の母親が、「これからそうなるんでしょう」とこたえるあたりの雰囲気はかなり古井由吉っぽい感。193から194の、ここではもはや「小隊長」と名指されることがなくなった「破れ提灯」の一幕も、ずいぶん絵になっているな、というかんじ。(……)さんが小隊長は類型的キャラクターに寄りすぎているのでは、と言って、(……)さんもそれをなかば肯定していたとおもうが、たしかにそれはわりとそうでここも一種エンタメ的な演出の色は濃いものの、なんかそれがうまく絵になっているなという感触だった。「お前と母がこの男を父にするのだ」という重要な発言もあるし。あと、脱走兵を乗せて墜落した飛行機の調査に来た進駐軍の男が、(同行の二世の男によって)「彼」と名指されているのにいまさら気づいた。この小説で「彼」という語によって指示されるのは、たぶん主人公の「彼」と、この進駐軍の男だけなのではないか。手帳にメモを取りながら読むのはやはり面倒臭いので、ともかくこの二度目もふつうに読んでしまい、こまかな分析もしくは精読は、コンピューターをつかって気づいたことを前から順に書き記していく方法で気が向いたらやろうかなとおもっている。
  • 切ったのは三時半過ぎだったか。小沢健二『LIFE』をながしてストレッチ。ストレッチがやはり大事である。合蹠のポーズでずっと停まっているということをひさしぶりにさいきんやっているが、やはりこれはやるべきである。そのあときょうのことをここまで書き、いまは五時を越えたところ。
  • そのあと、まだうえにはいかず、noteのアカウントをあたらしく作成した。先日、毎日なにかしらの翻訳文をInstagramにあげるというこころみをさいきんはじめた(……)くんに、(……)さんもそういうのやってみたらどうですか、画像で溜まっていくんで、なんか蓄積感ありますよとすすめられて、Instagramなどじぶんの居場所ではないとおもいながらもなぜか日記を書いているさいちゅう、ここの風景描写はまあ切り取って他人に見せてもいいかなとおもうことがあり、それでじっさいやりはじめてみたのだったが、Instagramにあげた文とおなじものを画像ではなくてふつうのテキストとしても記録しておくかとおもって、その場所にnoteをえらんだのだった。つくっては消してをくりかえしているが、まあまたひとまずやってみるつもりだ。いかんせんブログだとながすぎてよほどの物好きでないと読まないので、一部だけというかたちでべつの場所に集積してみるのもよいだろう。わざわざ抜き出して他人の目にさらそうという気になる箇所は、風景描写というか天気の記述にほぼかぎられる。やはり風景には罪がないので。完全にないわけではないとしても、ほかの部分にくらべるとかなりすくない。Instagramスクリーンショットをあげているだけだが、noteでは「じぶんの文: 1」というかんじで番号をつけておくことにした。あと、本を読んでいてこれはひろく読まれてほしいという記述があったら、「他人の文」としてそれも投稿することに。いまのところ「他人の文」はひとつ、「じぶんの文」は一〇番まで投稿されている。
  • Instagramにあげた文章の箇所をここさいきんの日記からわざわざふりかえってさがしだし、noteに投稿したあと、幻戯書房とか国書刊行会とか、あるいは新刊情報を紹介しているようなアカウントをいくつかフォローしておいた。SNSは新刊情報の収集にはおおいにやくだち、つかえる。ほかの面での価値はあまりない。自己顕示くらいだ。
  • この日のこともあとはおおかたわすれた。『双生』は238まで六〇ページほど。ほかはとりたてて日課記録ものこっていない。一一日日曜日の日記が終わって投稿されているから、それにちからをついやしたようだ。ただ、投稿する際、はてなブログの投稿ページで字数が表示されるけれど、それを見ると二万五〇〇〇字くらいだったので、そんなもんか、とおもった。終盤は面倒臭くなってきたし記憶も薄れていたのでけっこう書き飛ばしてしまったのだが、二万五〇〇〇字だとめちゃくちゃ多いってかんじでもないな、という感覚になる。たしかいままでで一日分でいちばん多かったのが四万字くらいだからだろう。
  • 三宅誰男『双生』(自主出版、二〇二一年)より。
  • 180: 「母親はいかにも幸の薄い、憂いを帯びたといえば聞こえはいいかもしれないがほとんど陰気な、その若さにもかかわらずすでに余生を生きていることに自覚的な表情と身ぶりによって儚くいろどられた、存在そのものが薄衣のように透けてみえる女だった」
  • 228: 「濁り知らずの午前の光が細かく反射する海面の、銀色の火花がたえまなく爆ぜるようであるのに本来ともなっているはずの喧騒をすべて吸いこみでもしたかのようにふくれあがった雲が、水平線の少し上に場違いな氷河のごとく浮かんでいた」
  • 230: 「時の流れとはいわば、この世界にあふれかえりつづけている無数の拍子をひとつのはるか巨大な拍子として編みあげ、構成し、そのたびごとに一として数えなおすことを可能にする新たな単位をたえまなく作りあげていく運動にほかならないのではないか?」