2021/7/17, Sat.

 (……)近代哲学は一九世紀末に、激越な敵対関係(たとえばフランス哲学対ドイツ哲学)によって分割された国家哲学というかたちで現われたのであり、近代初期の日本や中国の知識人たちは、そうした哲学を前にして困難な選択を迫られたのである。ヨーロッパの非常に特殊な歴史が今度は極東において猛烈な国家哲学を引き起こした――その効果は今日も消えていないかもしれない――としても、それはごく自然なことである。何より、そこで哲学という名を担ったのは、たんなる理想でもなければ言説でもない。それはまずもって、ひとつの制度である。極東における近代哲学の創設は、ある新たな制度のただなかで生産され、そして再生産されていた新たな規律秩序の強制と並行していたのである。すなわち、ヨーロッパ型の大学である。この出来事は、(人類学的な意味での)文化史のなかに断絶をもたらす結果となった。にもかかわらず、文化的伝統についての自己反省も厳密に哲学的な用語で行なわれるとされたために、これはヨーロッパ以上に深刻な問題となった。
 (小林康夫編『UTCP叢書1 いま、哲学とはなにか』(未來社、二〇〇六年)、207; ジョエル・トラヴァール/郷原佳以訳「哲学的なものと非 - 哲学的なものに関する考察――人類学者の視点から」)



  • この日は朝九時まえからの労働。そのため早起きしたが、出発までのことは忘れた。往路は母親に車でおくってもらったのだ。車なら八時半ごろ出れば良いが、電車だと運行の関係で八時には家を発たなければならず、猶予がだいぶ違うので。それで七時まで寝床にとどまることができたよう。
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  • (……)いったん退勤。駅にはいってホームに行くとベンチは埋まっていたので立ち尽くして電車を待つ。小学校の裏を埋める丘の緑が実に濃く、あざやかで、樹々をうねらせて雲のようにしている風がホーム上にもとおって身に触れ、暑いけれどじめじめしておらずさわやかな陽気だ。
  • 帰路のことは割愛。帰宅後のこともとりたてておぼえていない。『岩田宏詩集』(思潮社、一九六八年)を読み、あとなにか音楽をヘッドフォンからながしつつ寝そべってやすんだような気がする。会議の刻まで飛ぼう。六時にふたたび職場に出向いた。(……)
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  • 17: 「はげしくオーボエを吹く女/恐怖のしずくの目 弓の口/砂漠を背負う男たちのかたわらで/乳房にささえられ 時計のようにしずか」(「ぼくらの国では ――ピカソ氏に」)