2021/7/18, Sun.

 このような仕方で、現代の同じ社会空間のなかで二つの思想世界を関係づけることは、中国ではほぼ不可能である。中国のナショナリズムは激越な反伝統主義だからだ。国民党から毛沢東政権に至る一世紀のあいだ、知的エリートや政治的エリートは、中国の遅れを生み出した「封建的」イデオロギーだとして、「儒教」の根拠を破壊した。「書院」がなくなれば、儒家思想が創造的なかたちで表われる手段はひとつしかない。つまり、近代的な大学の規範に合わせて、自らを発展させていくのである。かくして、儒教を標榜する近代中国の哲学者たちが自身の伝統と取り結ぶ関係は、悪化するばかりだ。ほとんどの場合、この関係は想像的な関係となっている。つまり、成聖の理想についての近代的な思弁と、現実の儀式的ないし瞑想的実践――かつては成聖の理想の手段であった――とのあいだには、深淵が開いているのである。(……)
 (小林康夫編『UTCP叢書1 いま、哲学とはなにか』(未來社、二〇〇六年)、212; ジョエル・トラヴァール/郷原佳以訳「哲学的なものと非 - 哲学的なものに関する考察――人類学者の視点から」)



  • 暑い。快晴の夏日。そのあかるさと熱のせいかたびたび覚めていたが、けっきょくはいつもどおり一一時の離床。水場に行ってきてから瞑想をする。ともかくただ座ってじっとするのみ、というかんじでわりとできた。只管打坐ってたぶんこういうことかな、というのをそこそこ理解しつつある。『正法眼蔵』ほか道元のテクストもさっさと読まねばならないが、じぶんのかんじでは、座ってじっとする、というただこれに尽きる。というかたぶんほんとうは座っている必要すらなく、ただじっとするというのが本質で、姿勢はなんでも良いのだとおもうが、座っている姿勢がいちばん安定してじっとできるということだろう。臥位もけっこう良いとおもうのだけれど、臥位だとやはりわりと眠ってしまうだろうし、眠らないまでも意識がやや曖昧化することもおおいだろうし。
  • 窓外では数日来おなじようにセミが、あれはニイニイゼミなのかなんなのか知らないのだが、拡散する蒸気のような声を吐き出しつづけていて、しかしおおかた一匹のみでかさなりあってはいないから夏もまだまだ入り口、それを背後に鳥たちが無数の接吻のようにしてピチュピチュ鳴きを散らすその先にウグイスの狂い鳴きもまだ聞こえる七月後半であり、きょうはカラスもいくらか鳴いて、カラスの声はやはりほかとは違って独特の闖入的なようなニュアンスをいくらか空間にあたえる不遜さがある。
  • 上階へ。台所では煮物が煮られているところで、鮭もあると言ったが、ハムエッグを焼いた。米に乗せて食う。新聞は書評面を瞥見したあと、一面から二面にかけて寄稿されていた御厨貴の文。先般国立公文書館が開館五〇周年をむかえたらしい。五〇年ということは一九七一年開館ということだから、ずいぶんおそくないかとおもった。それいぜんにも前身的な施設があったのだとおもうが。Wikipediaを見ると「沿革」の欄に、「従来、各官庁の公文書はそれぞれの官庁で保管されてきたが、公文書を保存し公開するため江戸幕府以来の古文書・古書を含む内閣文庫の所蔵資料を移管して 総理府の附属機関として東京都千代田区北の丸公園国立公文書館を1971年(昭和46年)に開館」、「国立公文書館法に基づき2001年(平成13年)に独立行政法人化。行政執行法人(旧・特定独立行政法人)であるため、職員の身分は国家公務員となっている。公文書の収集・管理体制が諸外国に比べて遅れていることが指摘されてきたため、2007年12月、政府では体制を強化し、将来的に公文書館独立行政法人から国の機関に戻す方針を発表した[3]」とあった。「公文書の収集・管理体制が諸外国に比べて遅れていることが指摘されてきた」と書かれているが、御厨貴も、日本の官僚や政界には公文書保存をかろんじるような姿勢がむかしはあったが、平成あたりからそれがだんだん是正されて、官僚や政治家にも一般の社会にも文書保存の重要性がひろく理解されたとおもう、みたいなことを述べていた。それにつづけて、安倍政権下で(森友問題などのことだろう)公文書の扱いがきちんと問題化されたのはその意識のたかまりの証左である、みたいなことを言っていたのは論理逆転ではないかとおもうが。とにかく文書記録すなわちテクストをないがしろにする国家や共同体や人間は例外なく愚かである。それは愚かさの条件のひとつである。ところで、あたらしい国立公文書館が二〇二八年に開設される予定らしい。
  • 食事を終えると椅子についたまま南窓にちょっと視線をおくりだしたが、一滴分も雲に侵入されることなくあかるいひかりがかよっている窓外をうごかず見つめていると、その風景が、窓ガラスにというほどちかくとはおもわれないとしても、果ての空をスクリーンとしてそこに描き塗られたように平面的にかんじられてくる。風はいくらかあるのかもしれないが、山の襞はとおいし樹々がうごいているのか否かさだかでない。それにしてもあらためて見ると窓枠に区切られたその風景のうち、八割くらいは緑色が占めていて、上端のほうに覗く澄みきった水色のもとで、秋のように砂っぽいまでは行かずともかなり乾いた感触のさらさらとした緑が濃淡のかたよりもほぼなくわずかな段差をこまかく組み合わせながら壁なしているなかに、家とか建物のたぐいはほんのすこし見え隠れするのみである。
  • それから食器と風呂を洗い、茶をつくって帰室。ふつうに茶を飲めば汗だくになるので、エアコンをつけて一服しながらウェブ記事を読んだ。昨晩のつづきでMark Harris, 'Inside the First Church of Artificial Intelligence'(2017/11/15)(https://www.wired.com/story/anthony-levandowski-artificial-intelligence-religion/(https://www.wired.com/story/anthony-levandowski-artificial-intelligence-religion/))。Anthony LevandowskiというもともとGoogleにいたかなにかで自動運転技術開発をしていたらしきひとが、人間の知的能力を超えたAIを一種の神として奉じるWay of The Futureという組織を宗教としてつくっているのだが、それの概観的なはなし。この記事の時点ではまだとりかかったばかりでぜんぜん本格的な整備はされていないようすだが、いまはもっとかたちができているのだろうか。そのつぎに金井美恵子「切りぬき美術館 新 スクラップ・ギャラリー: 第15回 板の上の猫(と餅)」(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2017/10/post-16.html(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2017/10/post-16.html))も読み、それで一時半くらいだったか。書見に移行した。『岩田宏詩集』(思潮社、一九六八年)。『頭脳の戦争』のなかにはいっている「ショパン」がびっくりするほど良い。この詩のさいごの、「8 モスクワの雪とエジプトの砂」の部はいぜんから良いとおもっていておりにふれて最高だと表明していたが、あらためて読むとほかのところもいろいろ良いところがある。まあ主題としてはポーランド独立とか革命とか戦争とかナショナリズム的なところがあるので、それで感動してしまうのどうかなあという気もじぶんにたいしてあるにはあるのだけれど、しかし良い。
  • 三時前くらいまで読んだだろうか。そうしてエアコンを止め、窓をひらき、熱気がみるみるうちに満ちてくるなかできょうのことをここまで記述した。カラスがあいかわらず何匹もでカアカアと鳴きを空にわたしているし、先ほどホトトギスの叫びもきこえた。さて、きょうは、いま日記が一二日までしか仕上げて投稿できていないので、なるべくかたづけたいのだが。(……)
  • それから、一三日火曜日から一五日木曜日までを一気に記す。とはいってももう記憶がないのでそれぞれわすれたといいながらほんのすこしずつ足しただけのやっつけしごとだが。それからベッド縁から尻をあげ、コンピューターをデスクにうつして三宅誰男『双生』からのメモをそれぞれの記事に。BGMとしてRed Hot Chili Peppers『By The Way』をヘッドフォンからながしたのだが、"Can't Stop"にはいったところで例のカッティングにひっかけられ、一時打鍵する指をとめて、目を閉じて首とか膝とか脚とかからだをちょっとうごかしながら気持ちよくなった。なんだかんだいっても気持ちの良いリズムではある。それでメモを終えると三日分一気にブログに投稿し、いまは五時が目前。『双生』から取ったメモのなかでとりわけ好きな文となると、70の「かつての日課をまるでふたりしてなぞるかのように水路に沿うてそぞろ歩きしていると、水のなかに墨をひとしずくずつ垂らしていくように暮れていくあたり一帯の気配にあらがうようにしてするどくひきしぼられつつある痩身の西日が、立ちならぶ蔵造りの向こうからわずかな隙間を縫って射しこむ一本の長槍となり、かたわらに立つフランチスカの髪を真っ白に磨きあげた」という一文、101の「頭上で輝く太陽のまぶしさを罪人のように厭うて顔を斜めに背けると、それ自体は奥行きをもたぬ均質さで一様に青く澄みわたっている空の、そのところどころに浮かぶちぎって放り捨てたような綿雲が、針の停止した時計のようにはばたきひとつしない海鳥の影とともに、船尾から水平線のほうまで満遍なく点々と続いているのが目にとまった」という一文、228の「濁り知らずの午前の光が細かく反射する海面の、銀色の火花がたえまなく爆ぜるようであるのに本来ともなっているはずの喧騒をすべて吸いこみでもしたかのようにふくれあがった雲が、水平線の少し上に場違いな氷河のごとく浮かんでいた」という一文なのだけれど、じぶんでそうして確認してみながら、けっきょく空とひかりじゃん、とおもった。とにかく空とひかり、あとたぶん雨と風あたりが好きな人間らしく、それらがしかるべきように書いてあればだいたいそれでもう好みになるのではないか。しかし、やはり、一文だなとおもう。物語とか語とか場面も良いけれど、一文という単位がもつなにか。円環的完結性、といえばそうだが。
  • 上階へ。ベランダに干されていた毛布などを取りこみ、アイロン掛け。いくつもあった。ほとんど一時間かかったのではないか? かけているあいだ、さいしょのうちは南の山や川沿いの木立にまだ陽がかかって橙色に薄明るんでいたのだが、だんだんと色がしりぞいていき、じき、川沿いの樹壁のうえに明暗の境界線があらわれ、それが見るたび上方に推移していて、だからといって上部に追いやられていく残り陽は色濃く濃縮して粘るわけでもなく、去っていくもののしずけさにかえって褪せている。
  • 兄のだかなんだか押入れにしまってあった布団を出して干すかなにかしたらしく、おさめてくれというのでアイロンかけを終えると仏間にあったのをもちあげて、元祖父母の部屋の押入れに収納する。それでもう夕食にしたのだったかどうかわすれたし、なにを食ったのだったかもおぼえていない。(……)

 (……)

  • 風呂では髭を剃った。もどってくると、一部取って部屋に持ってきていたこの日の新聞を読んだ。国際面をすべてと、「あすへの考」と書評。「あすへの考」は台湾有事についてで、中国がマジで軍拡しており、九五年の台湾危機のさいには西太平洋に展開している米国の軍事力が充分まさっていたので中国はなにもできなかったのだが、いまでは中国のほうがぜんぜん多く、二〇二五年時点の推計では、この地域に展開できる軍事力として、中国は空母三隻、戦闘機一九五〇機などと述べられている。米国は九九年時点で戦闘機一七五機、二五年でも二五〇機である。一九五〇ってなんやねん。とはいえふつうに台湾に侵攻して本島を占領したとしても国際社会から総出で非難されたり対抗されたりするのは明白なので、そうそうやらないだろうと。中国側としてはもちろん本島を取って中台統一をなしとげたいわけで、そのためには米国が介入してくるよりまえ(四八時間はかかるとみこまれているらしい)に電撃的に侵攻する必要がある。となるとサイバー攻撃など駆使して事前に台湾の政府機能とかインフラとかを麻痺させてから上陸、すみやかに占拠、というシナリオが想定されると。それは二〇一四年にロシアがクリミアを併合するときにやったのと同種の戦法だ。
  • 面倒臭いのでほぼ割愛するが、国際面で触れておきたいのは、ベラルーシのルカシェンコが設置した委員会で憲法改正草案が公表されたという件で、大統領経験者の不逮捕特権がしるされているというからプーチンとおなじやりくちである。書評で気になったのは尾崎真理子がとりあげている半藤末利子『硝子戸のうちそと』と、中島隆博がとりあげているフロランス・ビュルガ『そもそも植物とは何か』。あと、仮名垣魯文の本を翻刻して訳した『安政コロリ流行記』や、五百旗頭真監修『評伝 福田赳夫』(苅部直が評者)。半藤末利子というひとは半藤一利の連れ合いらしいが、夏目漱石の孫なのだという。夏目漱石の孫世代がまだ生きているとは。