2021/7/19, Mon.

 そうした比較研究は、もっとも極端な場合――もっとも滑稽でもあるのだが――、二つの文化あるいは二つの哲学の「代表者」を直面させて議論させ、相互におのおのの特殊性について問いかけさせるという幻想によって成立している。こうした態勢が、一般に、紋切型の反復か定式化にしかならないのは、何よりも、ひとつの文化あるいはひとつの国家哲学の伝統を代表することなど誰にもできないからである。
 こうした態勢の罠は、まったくの善意からであるにせよ、恐るべき「文明の衝突」とよく対比される「文化の対話」の罠と類似している。つまり、政治的相互性を知的(そして哲学的)相互性と誤解してしまうのだ。哲学の場合と同様、文化と文化もけっして互いに対話することはない。諸文化をたえず関係づける多様な相互関係は、対話的な性質のものではない。もし対話という語を論証に基づいた対称的な交換――そこでは共通了解によって暴力はできるかぎり中性化されている――という意味で理解するならば、対話状況に難なく身を置けるのは、個々人だけである。そして個々人は、ひとつの文化に属しているのではない。個々人は解釈者にすぎず、自らの源泉を文化的空間――普通はそれ(end236)自体がすでにハイブリッドなものである――の手前や彼方に見出している。結局のところ、問題は「表象=代表〔représentation〕」という語の両義性によって表わすことができる。個々人は、自分の文化を自らに [﹅3] 表象する〔想像する〕ことはできない。個々人は、自分が浸っている不統一な世界に対してまったく部分的な解釈を有しているだけであり、そしてその解釈は、同じ部族のなかで、他の無数の解釈によって反論を受けることになる。個々人は、自分の文化を自らに [﹅3] 表象する〔想像する〕ことができないのだから、他の文化に対して [﹅4] 自分の文化を表象することもできない。つまり、文化的伝統の表象不可能性 [﹅6] によって、文化的伝統のスポークスマンになろうとする者の代表不可能性 [﹅6] も説明がつくのだ。委任によって政治的共同体の代表者になることはできても、文化的共同体の代表者(二つの意味において)になることはできない。おそらくそれゆえに、差し向かいの対面は、往々にして、自由な知的探究のために要請されるというよりも、承認のための政治の命法に支配されており、イデオロギー的性格を帯びることが多いのだろう……。
 (小林康夫編『UTCP叢書1 いま、哲学とはなにか』(未來社、二〇〇六年)、236~237; ジョエル・トラヴァール/郷原佳以訳「哲学的なものと非 - 哲学的なものに関する考察――人類学者の視点から」)



  • きょうもめちゃくちゃ暑い。(……)八時半にアラームをしかけてあった。そこで覚めるが、携帯を止めるために起き上がったからだがやはり重い。ベッドにもどると脚をほぐすつもりがまどろんでしまい、九時に復活して寝坊はまぬがれた。水場に行ってきてからいつもどおり瞑想。あれはなんの鳥なのか、スズメかツバメか、ちょっとさえずったあとにかならず低域で、ゼンマイを巻くような、蛇腹的なかたちの地鳴きを添える鳥がいて、それがちかくで盛んに鳴いていた。座ったのはみじかめ。一五分も行かなかったのではないか。
  • 上階へ行き、食事。きのうのお好み焼き的なものがあまっていたのでそれだけ。新聞は二面。ワクチンにかんするデマ情報がネットをかいして全世界にひろまっているために接種がすすまないとの記事。これはきのうかおととい、テレビのニュースでも触れられていた。そのなかに、ワクチンを打つと磁石がくっつくようになるとかいう噂がふくまれていて、いやこれはギャグだろとおもわず笑ってしまったのだけれど、ほかには不妊になるとか遺伝子が組み替えられるとかいった医学的不安から来るものや、ワクチンを介してチップがからだに埋めこまれて政府に管理されるという陰謀論めいたものまでいろいろあるようだ。それで米国でも接種がすすまず、先月から今月までで接種をすませたひとの割合が八ポイントくらいしか増えていないとかで、バイデンが、SNS企業にたいして、彼らはひとを殺しているとかなりつよい口調で非難を表明したらしい。TwitterなりFacebookなりもそれぞれ一定の対応は取っているようだが。ほか、政府の大学改革の方針が出るとかいう話題。生活費支援や能力におうじた高給を導入するよう大学側にうながし、改革にとりくむ大学には支援金を配分するとか。
  • 食後、食器を洗い、風呂もこすって洗うと下階へ。一〇時になるまえくらいだった。それで通話がはじまる一〇時半まで、しばらく脚をほぐしながら書見。『岩田宏詩集』(思潮社、一九六八年)である。いぜんは書きぬこうとおもわなかったところでもあらたに目に留まるものがある。一〇時半直前で隣室に移り、ZOOMにアクセス。
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  • 通話が終わったのは一時。コンピューターを自室にもどし、またすこし脚の肉をやわらげて血をからだにまわすことにした。『岩田宏詩集』をひきつづき読みすすめ、詩本編は終えてエッセイのほうにはいった。二時ごろに切って食事を取りにいく。母親はすでにしごとに出ており、父親は日盛りのまばゆい戸外にいるようで、書を読んでいるあいだ、我が部屋の窓外に伸びてきているゴーヤかなにかの蔓をいじって調節する棒が見えていた。母親が素麺を茹でていってくれたらしく、それをありがたくいただく。食べるまえに、すでに取りこまれてあったタオルを、これだけ晴れていればもうすこし出してもいいだろうとベランダに吊るしておいた。ふたたび新聞を読みながら食べる。今度は国際面。ドイツ西部やオランダやベルギーあたりの洪水の報。数日前から出ていたが、ドイツでの死者が一五〇人を越え、メルケルは一八日に現地入りしたと。ベルギーでも死者は二七人をかぞえている。この地域では洪水はめったに起きないらしく、半世紀以上暮らしているという土地の古老らしき老婆によれば、前回おおきな洪水が起こったのは四五年くらいまえだと。今回の災害を地球温暖化や気候変動とむすびつけてかんがえる向きがとうぜんつよく、ドイツはおりしも九月に総選挙をひかえていてメルケルがそこで引退するわけだが、いま緑の党が勢力か支持率で第二党についているところ、今後の情報発信やひとびとの環境への関心によっては与党を超えるのではないかとも見られているもよう。
  • ものを食べ終えると皿を洗い、米がもうなかったのであたらしく磨いでおいた。それからさきほど出したタオルをしまう。空は爽快かつあざやかな水色の快晴、雲も山際にまちがいのようにあらわれたはぐれものがちいさくあるばかり。取りこんだタオルはたたみ、肌着のたぐいもついでにたたんでおいてから冷水を持って部屋にもどった。飲みつつきょうのことを、通話中のことはのぞいてここまで記述。いまは三時をまわったところ。
  • 68: 「きみらの試みは無力なバナナだったか」(「グアンタナモ」)
  • 69: 「きみらをわれわれにつないでくれ/女中が絶望的に破片をつなぐように/きみらをわれわれにつなぎあわせてくれ/電報のように無邪気に厚かましく」(「グアンタナモ」)
  • 82: 「われわれを罵ってくれ/上下左右前後内外にわたって」(「鎮魂歌」)
  • 94: 「われら/笑いの苦役を強いられ/王なき道化に反抗する者/われらはほんらいまじめなのだ/螢光灯のせいで/多少ものすごく見えるだけだ」
  • 103: 「たとえば詩と演劇との交流あるいは綜合化という場合、それは詩劇または劇詩という中間の新ジャンルを作ることではなくて、一見ふつうの劇であり詩であるものを、よくよく見れば、ちょうど二重写しのように、別のジャンルのかたちが浮かびあがってみえる、そういう精神装置を作ることでなければならない」(「演劇性について」)
  • 104: 「個人の名において度外れの金額と関係する者は、たぶん例外なく一種の変質者になるだろう」(「産み出すものの死」)
  • 112: 「つまり、新しいのに新しくない体験をつねに強いられている状態、それがわたしたちの日常である、とでも言えるだろうか」(「誉むべき錯覚」)
  • 113: 「なぜなら錯覚をすべて排除した精神衛生の良好な人間には、日常的手順のなかで器械のように動きまわることしか残されていないではないか。どろんとした老廃の愚かしさ、野卑な居直りの精神など、すべてそういう人間の特性である」(「誉むべき錯覚」)
  • 113: 「既視感の定義を裏返すなら、新しくないと感じられる体験は、つねに新しいのである。これが狂人への道だとすれば、わたしは歴史の創造に狂気を参加させなければなるまい」(「誉むべき錯覚」)
  • 128: 「魅かれる作品というのは、必ず、その作品の向う側というか、裏側次元というか、とにかく、その詩の、字のうしろを、馬のようなものが走っている」(川崎洋岩田宏の作品について」)
  • 129: 「詩は、言葉が作り出しながら、言葉とは関係のないもの――というような気がする。/詩とつき合っていない時のぼくらは、いつも言葉とぴったり」(川崎洋岩田宏の作品について」)
  • ルート・クリューガー/鈴木仁子訳『生きつづける ホロコーストの記憶を問う』(みすず書房/みすずライブラリー、一九九七年)より。
  • 8: 「わたし自身、訊ねられれば話もする。けれども訊ねる人はあまりいない。戦争は男のものなのだ。だから戦争の思い出も男のもの。ファシズムだってそう。賛成だったにせよ、反対だったにせよ、ファシズムは純然たる男の問題。それともうひとつ、女には過去がない。女は過去をもってはならない。失礼な話だ、ほとんどぶしつけというものだ」