(……)この稿があきらかにしたいのは、いわば「プロレタリア」であることへのレヴィナスのまなざしにほかならない。じっさい、私はこの身のほかになにものももたず [﹅8] に、この地上に生みおとされる。〈私〉はもともと存在という鎖いがいになにも所有していない。逆にまた、レヴィナスにとって、〈他者〉はたんに「異邦人」であるばかりではない。〈他者〉はまた、「プロレタリア」である(73/102)。なにものも所有しない [﹅10] 裸形のものが〈他者〉なのである。(……)
(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、14; 第Ⅰ部 第Ⅰ章「問題の設定 ――〈身〉のおきどころのなさの感覚から――」)
- 一〇時半ごろ正式な覚醒。もちろん暑い。陽射しも盛ん。こめかみやら腹やら喉やらを揉んでから一〇時四五分に離床した。いつもどおり、水場に行ってきてから瞑想。きょうはかんがえごとの割合が多い時間だった。(……)くんへの返信など。下の(……)さんの家の子どもか(……)さんのところの子か、あるいはいっしょになっているのかもしれないが、小児特有の狂ったようなにぎやかさと情熱で数人さわいでいた。なにか、ごっこというか、設定をもうけて演ずるみたいなことをしていたような気がする。島についた! とかなんとか言っていた。海賊か? 『ONE PIECE』か?
- 上階へ。居間は無人。きのうのしょっぱすぎた炒めものと味噌汁で食事。新聞からはパキスタンがアフガニスタンからの難民で困っているという記事を見た。タリバンが各地に攻勢をかけるにつれて難民も発生しており、パキスタンのイムラン・カーン首相は、パキスタンにはこれ以上難民を受け入れる能力や経済力がないと言って、タリバンを批判しながら一時国境を封鎖したりもしているらしいが、そもそもタリバンをもっとも支援してきた国がパキスタンなので、身から出た錆だという冷ややかな見方もあるという。難民による誘拐身代金事件が起こったりもしており、難民にたいして良い印象を持たないひともおおいようだが、それはどこの国でもどこの地域でもおなじだ。あと、感染者データを見たけれど、きのう一日は東京で一八〇〇人超とかで着実に増えており、きょう明日「(……)」のひとびとと会いに行くのだけれど正直あやういかな、というかんじも多少はおぼえる。地域面を見るかぎりでは(……)あたりはさほどでなく、基本、新宿より都心が主要感染地のようだが。東京のまわりだと埼玉、神奈川、千葉も何百人規模だが、山梨はプラス五人とかそのくらいでさすがだ。
- 食器をかたづけ、風呂を洗って茶を用意。急須に湯をそそいでしばらく待つあいだ、ソファに座って脹脛を揉んでいたが、暑い。肌表面や肌着の内に熱がこもって汗もとうぜん避けられない。茶をつくると室に帰り、エアコンをつけて一服した。それからこの日のことをここまでつづって一二時半過ぎ。二時台後半の電車で行けばちょうど良いか、という印象。それまでにからだをととのえたい。
- 書見した。ルート・クリューガー/鈴木仁子訳『生きつづける』。収容所問題から感傷を排除することについて多少おもう。第三帝国下の収容所で殺されたひとびとの死をその有意味性においてすくいとるのではなく、その死が徹底して無意味であったということ、ほぼなんの意味もなく彼らは殺されたのだということを核心に置き、そしてそのことにおいてこそ怒らねばならないのではないか。死者の死に意味をあたえてそれをすくうことができるのは、もしそれができるとするならば、遺族とか、知人とか、子孫とか、ユダヤの出自にいるひととか、なんらかの意味でちかしい立場にあるひとだけではないのか。すくおうとすることがそういうひとびとのしごとなのだとしたら、部外者としてのじぶん(たち)のしごとは、怒ること、つつしみをもって怒り、無意味さをかんがえ、とらえることではないのか。意味は物語に通じ、物語は感傷に通じるだろう。
- 84の記述は印象深い。「ゲッティンゲンで、博士志望の学生や大学の教授資格試験に臨む学究たちと昼食をともにする。ひとりがこんな話をする。ぼく、エルサレムでハンガリーの老人と知りあったんです、そのおじいさんはアウシュヴィッツに収容されてた人なんだけど、ところがこの人ったら「そういう口の下から」アラブ人を糞味噌に言うんだなあ、連中はみんな悪党だって。アウシュヴィッツにいたって人が、なんだってあんな言いかたができるんでしょうね、ドイツ人がそう訊ねる。わたしは突っかかり、たぶん必要以上にきつい口調になる。あなた、いったいなにを考えてるの、アウシュヴィッツはなにかの学校だったわけじゃないのよ、ましてや人間性や寛容を教える場所だったはずがないでしょう。強制収容所からいいものなんて、なんにも生まれなかった。なのに、よりによって心が浄められただろうって? あれはもっとも無益で、もっとも役に立たない施設だったんです、たとえほかはなんにも知らなくったって、これだけは肝に銘じといてもらいたいわ」。こちらも、この学生らとおなじようにかんがえてしまっていたので、不明を恥じる。そして、クリューガーの言はたしかに真実だと感じるのだが、いっぽうで、プリーモ・レーヴィがそれと対立することばを述べていたこともおもいだすのだ。いわく、「もし後に私が知識人になったのだとしたら、それは確かにそこで得た経験が助けになったのだった。(……)私の場合には、リディア・ロルフィや他の多くの「幸運な」生き残りと同じように、ラーゲルは大学であった。それは私たちに、周囲を眺め、人間を評価することを教えてくれた」(竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』(朝日新聞出版、二〇〇〇年)、163)。なおかつ、クリューガー自身も迷っている。先のエピソードを語った直後の段落で、「わたし自身は苦境下の人間というものについて、のちにも応用できるなにかを収容所で学んだとは思っていないのか? わたしは比較を拒絶していない、だからこそ? それに、わたしが歯ぎしりして怒るのは、知ることに異議を唱えようとする人、ろくすっぽ見もしないで、ああいう場所だと人は行動の責任能力なんかなくなるものさ、と決めつけたがる人にではなかったろうか?」(85)と書いているからである。ことがらの明晰な一般化は困難である。したがって、順当なみちすじとして、事態を個別に即してとらえることが要請される。「どんな場合でもそうであるように、ここでもまた真実は具体的なのだ。強制収容所体験が人生にはたす役割は、あやしげな心理学の法則から導き出せはしない。各人各様なのだ。収容以前の出来事、以後の出来事、そして収容所でひとりひとりがどう生きたかによって、それは異なる。収容所は、それぞれの人びとにとって唯一無比だった」(85)と。これもまた疑いなく真実であるとおもう。そして、その真実は、収容所をかんがえる際に、共通の基盤的前提に据えられなければならない真実だとおもう。しかしなおかつ、そこで止まるのではなく、なんらかの一般化をこころみることが、ひとにとって不可避である以上に必要なことなのではないかとも同時におもう。
- 一時四〇分くらいで切りとし、LINEを覗くと、四時に(……)とあった。即座に電車を調べて、(……)で行くとおくる。そうしてトイレに立ち、ついでに上階に行って洗濯物も取りこんでおいた。もどるとストレッチである。下半身をよくほぐしておき、二時二〇分ごろから外出の準備。歯磨きをさっとすませて上に行き、急須や湯呑みを洗ってかたづけておくとボディシートで肌をぬぐった。そうして着替え。裾がすこしみじかめのオレンジのズボンのことをおもいだしたので、それを履くことにして、自室の押入れの暗がりから引っ張り出す。いぜんより腹が痩せたので腰回りがどうかとおもったが、ゆるすぎず、わりとちょうど良いかんじだった。上はGLOBAL WORKのカラフルなチェックシャツ。靴下はカバーソックスで夏っぽくした。服を買っていないので、二年くらいまえの夏とよそおいが変わっていない。
- ギターケースに荷をまとめて上階へ。タオルだけたたんでおき、トイレに行って放尿すると洗面所で髪にワックスをすこしつけた。後頭部に寝癖があっていろいろな方向にこまかく立っていたようだが、どうにもならない。短髪なので目立ちはしないはず。
- 出発である。ケースは手に持ってはこぶのではなく、背負った。そうすると背中が熱くなって余計に汗をかくが。道脇の林にセミの声が増えている。公営住宅前には日なたがひろく描かれており、陰はとぼしいから避けようがなく、はいれば熱くまぶしくつよいのに目をほそめる。なかなかの重さである。(……)さんの庭の隅に生えているサルスベリがひかりに抜かれて葉をかたくしており、金属質にかたまりながらも風に揺れうごく葉たちに貼られた白さと陰影がくっきりきわだったそのなかで花のピンクを点じられたすがたが、視界を治めるあかるさのころもにつつまれていた。
- たしか最寄り駅についたあたりで、「秋晴れのかみなりだけを記録する天使にもっともちかいひとびと」という一首をつくった。
- (……)までのあいだは、半分は瞑目に休み、半分は手帳にメモを取っていた。あるいは逆の順番だったかもしれないが、どちらでも良い。駅に降り立ち、腹が減っていたので、スタジオ前にちょっと食べようとおもい、階段を上がってすぐ脇にあるパン屋に寄って見分。女性店員が愛想よく声をかけてくるのであいさつし、「プルニエ」という一六〇円のものを選んだ。ただ、四時からスタジオですぐに行くものだとおもっていたらそうではなく、五時からだったので、このパンは食べる機会を逸してしまい、のちほど帰宅後の深夜に胃に取りこまれることになる。女性店員は、お忘れ物がないように、と二回言った。ギターケースが大きいので、荷物が多いように見えたのか。
- そうして改札を抜け、右に折れるとさっそく三人のすがたが見える。(……)が手を挙げるので返し、ちかづいてあいさつ。(……)の髪型が、左右に分けてやや垂らした先をほんのすこしうねらせたようなものになっていたので、売れない芸術家風の、いいかんじの胡散臭さだと褒めておいた。彼はこの翌日に髪を切り、分けるのはおなじだが短めの髪が垂れずあたまに乗ったようなかたちになって、そうすると今度は胡散臭さがなくなり、きっちりとまとまって生真面目めいていたが。スタジオにはまだ行かず、行きたいところがあると言うのであるきだしてついていくと、(……)へ。六階で服でも見るのかとおもったところが、これはもう半年過ぎたがこちらの誕生日プレゼントとして眼鏡を買ってくれるということだった。ただそのまえに六階に下りて、ボディバッグがほしいという(……)のために「(……)」という鞄屋にはいったが。見分。入り口からすこし奥にはいったところの壁際にボディバッグのたぐいがそろっていて、(……)が身につけていると男性店員がうしろから説明をはさんできて、たいていの品は縦向きなんですけど、それは横向きになっていて、からだにつけたままものを出せるので楽ですよ、というはなしだった。(……)はこの品が気に入っていたようだがけっきょくこのときは買わず、翌日に(……)などでも見たものの、やっぱりあれがいちばん良かったなとなっていたようで、大阪に帰るまえ、二四日に(……)に寄って買うと言っていたがじっさいに入手したのかどうか聞いていない。
- 店を出ると一階あがって、「(……)」へ。ここで、こちらの眼鏡をプレゼントしようとおもっていたのだといわばサプライズ企画が明かされたわけだが、それにたいしてじぶんはぜんぜん驚かず、ああそうか、ありがとう、とおだやかに受けてしまったので、反応の薄さを突っこまれていた。それで品々を見分。まあだいたいこのへんかなというのはすぐに決まる。さいしょは『PEANUTS』とコラボレーションしていてスヌーピーがデザインにはいっている(つるというのか、耳掛けの接合部がちいさなスヌーピーの顔になっていたりした)シリーズの品がデザインとして良いのでこのあたりにしようかなとおもいつつも、『PEANUTS』に特に興味はないしスヌーピーいらねえんだけどなとその裏側を見ると、まあ似たようなデザインの通常の品があったので、このへんにするかと目星をつけた。選んでかければ、どれもよく似合うという評価をもらえる。(……)くんが、俺だったら横の部分(つる)が金色になってるのは避けるな、というのでこちらもその言にしたがい、ワインレッドのフレームで、レンズは真円ではないがけっこうそれに近い、丸っこい楕円の品に決めた。たしかまえに来たときも、これが良いとおもったのではなかったか。一一月後半くらいになって冬がちかづいたころの、水気をややうしなってあまりつやめかず渋いように、しかしおとろえず色味はあざやかに紅葉したモミジの赤、といったかんじの色。
- きょう視力検査とか手続きとかもろもろやって眼鏡を買うのわりと面倒くせえなと正直おもっていたのだけれど、三人のようすが買うながれになっていたので、どうせじぶんでは面倒がって買いに来ないしここは受動性に徹してこのながれに身をまかせようというわけで、品を持ってレジへ。購入までのしくみがわからなかったのだが、カウンターの女性にはなしかけると、まずあちらで登録をと店内に設置された機械モニターをしめされたのでそちらに。画面や文字のパネルに触れて情報を入力し、登録をすませて出てきた紙を先ほどのひとに持っていくと、いくらか質問をされた。ずっとかける用途かそれともあるときだけかと問われたので、まあふつうにものはよく見えないしなとおもって常用を選択。コンタクトも使っていないし、眼鏡を買うのもはじめてであると言っておき、三番目の順番で視力検査をしますので、呼ばれるまで店内でお待ちくださいというのに了承し、三人のところにもどった。(……)もさいきん外に出るとまぶしくて目が痛いからサングラスを買うと言って一品えらんで会計に行ったのだが、そこで、二品まとめて買うと一〇パーセントオフで連れといっしょでも適用されるという表示を見つけた(……)くんがそれをつたえに行き、こちらの品とまとめることになった。時刻は四時半すぎくらいだったはずで、(……)はその後、五時になっちゃうからスタジオに先に行っていると言って離脱。こちらは店内の視力検査ブースのてまえ、腰をかけるための椅子やブロックが用意されてある待合スペースに移った。そこは店外の通路と接した場所で、すぐ背後には(……)くんと(……)が立って待ちながら談笑しており、こちらのギターケースは(……)に持ってもらっていた。前方には手洗いスペースがあって鏡がついているのだが、うしろの(……)は、脚を組んでじっと待っているこちらや彼らのすがたがその鏡に映りこんでいるのを見て、なんかちょっと絵画みたいじゃないかと言っていた。フーコーが『言葉と物』のさいしょでとりあげているというベラスケスのあの絵画、タイトルをわすれたがスペインの王族と、あれはその侍女なのかなんなのか矮人を描いていたはずの絵をおもいださないでもなかった。
- それでそのうちに呼ばれて視力検査へ。若い男性が担当してくれる。さいしょにいちばんてまえにある一台で予備検査的なことをおこなった。台に顎を乗せて機械をのぞきこむだけで、片目ずつ、映った像、文字だかなんだかわすれたがそのピントが調節されてはっきり見えるようになり、それだけでもう終了だった。それから奥の検査機のひとつに移り、ここでも同様に顔を機械にぴったりつけながらのぞいて、スタンダードな視力検査、つまり一方向がかけた円みたいなあるいはそれぞれの方向をむいたCみたいな記号がうつされるのを受けて、穴があいている方向をこたえるという例のやつがおこなわれた。かなりちいさくなっても、いちおうこたえられるにはこたえられるので、じぶんはおもっていたよりも意外と目が悪くないのかもしれない。なにをやっているのか知らないが、これだとどうですか、と言って店員がなにか調節して、すると視像がややぼやけるようだったので、そうすると見えづらくなりますね、などとこたえてすすんでいき、そのつぎにレンズをためすための簡易的な眼鏡みたいなものをわたされて、見え方がどうか確認した。さいしょは〇. 八くらいにあわせたレンズだったらしく、これをかけるとものがめちゃくちゃよく見えて視界が非常にクリアになりおどろいた。「(……)」の店舗のむかいにはユニクロがあって、(……)と(……)くんが待っている通路のむこうに女性の写真パネルかなにかがとりつけられた柱があったのだけれど、かけないとそれがぼやけてどうにもならないところ、レンズをとおすとはっきりすがたがまとまるのだった。ただ、これだとけっこう度が強いようにもかんじられ、立ってちょっとうごいてみるとくらくらとする。そう言うと店員はもう一段階下げたレンズを用意してくれ、おなじように試すのだが、視界の明晰さではやはりわずかに劣るものの、こちらのほうが良いだろうなとおもわれた。ただいずれにしても、つけて歩くとレンズのなかの像とその外側の隙間に覗く像との格差ということなのだろうが、ちょっとくらくらするような感覚はあって、たぶんそのうち慣れるものなのだろうが、それをかんがえるともっとレンズの範囲がおおきい品にすればよかったかなとおもわないでもない。
- それで決定し、ブルーライトカットを三三パーセントで入れてもらって、またすこし待つ。すぐに呼ばれ、会計をすませ、五時四〇分以降にできると書かれた証明書的な用紙を受け取り、退店。すでに五時が近かったはず。急いでスタジオへむかわなければならない。エスカレーターを下りていき、ビルから駅通路に出て、ひとびとの群れのなかを南へむかってあるきながら、(……)くんに視力どれくらいなのと聞いてみると、眼鏡をつけていて〇. 五とかいっていたか? だからかなり悪いのだとおもう。彼のばあいは映画用など、より度がつよい眼鏡も持っていると言っていたはず。駅舎をぬけると右に折れて歩廊を行き、階段をくだってさらに右手へ。西陽に漬けられてあちいあちいと言いながらすすみ、(……)から変わった(……)というビルに至り、なかにはいった。建物も設備もなにも変わっていないはずだが。店員はどうなのか知らない。はいるとすぐのところにアルコール液が用意されているのだが、これがドラムペダルに取りつけたもので、ペダルを踏むと液が出るついでにシンバルがシャンシャン鳴る趣向になっていてちょっと笑う。
- カウンターの店員にあいさつをかけながら階段をのぼっていき、(……)に知らされていた室へ。五時一〇分か一五分くらいだったか? そうして準備。入り口から見て左方にの角ドラムセットがあり、そこには(……)がつき、ドラムセットの角から縦方向に正面の隅にはベースの(……)くんがつく。入り口は室の右端についているが、そちらの壁際にはマーシャルとRolandのJazz Chorusが置かれてあるのでこちらはそのあたりへ。アコギだし、まあJazz Chorusで良いだろうと選択。じぶんはむかしからわりとJazz Chorusをつかって、エフェクターでひずみを確保することが多かった。マーシャルもむろんつかったが。それで準備したが、アコギ本体についたボリューム調整のノブとアンプのほうをうまく適合させるのがむずかしくて手間取った。本体のボリュームノブをひらきすぎると途端にハウリングするからかなり下げなくてはならないのだけれど、ちょっとひらくだけでかなり変わるから、アンプのほうのボリュームをどのあたりに据えるかがむずかしかった。それでもいちおう設定を終えて、弾けるように。
- (……)
- 七時で終了。かたづけをして、物品をなるべくもとの状態にもどし、室を出て階下へ。スタジオ代はひとり一四〇〇円ほど。これはあとで飯を食うときに精算された。(……)が音源をながしていたスマートフォンをあやうくわすれかけて取りにもどったのを待ち、店員にあいさつをして退出。駅へもどる。眼鏡を取りにいくのだった。それで、そのうえのレストランフロアで食事を取れば良いのではとなった。営業は八時までなので時間はすくないが。裏通りからロータリーに出る角で八百屋の兄ちゃんが威勢の良い声をあげているのを横にすぎ、エスカレーターに乗って駅舎にはいり、ビルへ。こちらが眼鏡を取りに行っているあいだに三人にはレストランフロアにあがってもらい、店を決めておいてもらうことに。それで七階で下り、「(……)」へ。カウンターで用紙を差し出すと横手のスペースに誘導され、そこでやりとり。かけてみてつけ心地などを確認し、ケースを選んだ。スタンダードな黒の箱型のやつにした。そこそこ重いが、さいしょのひとつなのでまあ良い。(……)が買ったサングラスもあわせて受け取り、礼を言って退店。一階あがるとすぐそこに(……)と(……)くんがいて、背後から寄って声をかけると、そこにあった「(……)」か、韓国料理かだと。こちらはどちらでも良かったが、「(……)」のウィンドウを見るとうどんのセットがあって、うどん食いてえなとおもっていると、韓国料理のほうを見に行っていた(……)が来てあっちでいいかというので了承。店の入り口横に、画面とカメラの範囲にはいれば自動で体温を測ってくれる装置があったので計測。三六. 四度だったはず。アルコール消毒もして入店し、テーブル席に。店は「(……)」というなまえだった。こちらは豚トロ焼き定食みたいなセットを注文。(……)はチヂミ、(……)くんはビビンバのたぐい、(……)もチーズがやたらたくさん乗ったあれもビビンバだったか? べつの品だったかもしれないが、チーズがたくさん乗っていたのはたしかである。注文してまもなく、(……)がトイレに行くというのでこちらも立って小用へ。通路を行くあいだ、(……)は、(……)くんのあるきかたのモノマネするといって、リズムに乗るような、一歩ごとに足を柔軟に伸び縮みさせてからだを上下に揺らすようなあるきかたを披露したが、たしかにやつは高校時代そういうかんじのあるきかたをしていたおぼえがある。ダンス部で音楽も好きだったので、つねに乗っているような振舞いだったのだ。
- 用を足してもどってくるとまもなく品が届いたはず。(……)がもどってこないうちにこちらのものと(……)のものがとどいてしまったが、時間もすくなかったので先に食べはじめた。キムチというものをあまり好まず、食べつけない身であるどころかほとんど食わない人間なのだが、このときのものはあくどいかんじがなくてふつうにうまかった。肉もうまく、米といっしょに頬張って咀嚼する。店員には韓国のひとが多いようで、名札にはたとえば(……)という文字などが見られる。なかにひとりだけ、日本人らしき発語の女性があった。男性の店員は見た範囲ではいなかったようにおもう。われわれのテーブルが接した壁には絵がひとつかかっていて、それに(……)が目を留めて、これなんの場面なんだろうと疑問をもらしていた。たしかによくわからないもので、おそらくは身分の高めな女性が寝所で寝るまえに下男に服を脱がせてもらっているところかとおもわれたのだが(画面手前には布団が敷かれてある)、屏風というか衝立的なものの陰から顔を出してそれを覗き見しているふたりの人物がいる。女性の服は、日本の平安貴族の十二単ほどではないだろうがいくらかかさねがなされていたようで、何色かの段が袖のあたりに見えていて、あるいはあれはじっさいにはいくつも重ね着しているわけではなくて一枚でそういうふうに見えるデザインなのかもしれないが、父親が見ている韓国ドラマでこういうかんじの衣装を見かけたようなおぼえがあるから、たぶん身分の高い女性なのではないか。寝所、(意味不明な)窃視、脱衣というテーマというか状況設定にくわえて、女性の胸もとに線がちょっとだけ入っていてつまり谷間をほんのすこし見せるようになっていることもあって、多少エロティックな雰囲気をかんじないでもなかったが、なぜ飯屋にそのような絵をかけているのか?
- 会計はテーブル上でなされた。店員が八時をまえに金銭を置くための台というか、どこの店のレジにもある薄いあれを持ってきたのだ。それでスタジオ分もふくめて精算。金が揃うと店員を呼んで持っていってもらい、会計が済むとサービスとして飴が配られた。(……)
- そうして退出。ふたたび熱を測っておいた(食事のまえとまったく変わっていない)。アルコール消毒もして、階をくだっていく。ビルを出てもまだ解散にはならず、(……)がおのずから北口のほうにあるきだし、モノレール下に行こうというのでついていく。アイスを食いたいというのでコンビニに寄ることに。じぶんもわりと食いたかった。それで歩廊を行き、とちゅうのエスカレーターで下りて、(……)に入店。店の片隅に設置されたアイスのはいったボックスを覗き、こちらはすぐにメロン風味のワッフルコーンに決定。それを選ぶと、意外なチョイスだといって笑われた。財布を取り出したりなんだりが面倒臭かったので、(……)にまとめて会計してもらうよう頼んだのだが、この日その金をわたすのをわすれてしまい、帰宅後におもいだしたので、この翌日に飯屋で渡しておいた。それでコンビニを抜け、横断歩道で信号を待つあいだにもうアイスを食べはじめてしまおうとカバーを外そうとしたのだが、これがなぜかめちゃくちゃ固くきっちりと嵌まっていてぜんぜん外れず、あまりつよくやりすぎると勢いあまって落としてしまったりとかアイスが欠けてしまったりするということを幼少期の経験から知っているのでなりふり構わずもできないのだが、それにしてもかなりつよくひっぱっても外れず、ぜんぜんはずれないんだけどと笑いながら苦戦しているところに、こちらの右に立っていた高年女性が、このひとは先ほどからなんとなくわれわれにはなしかけたがっているような雰囲気を出していたのだが、ひねるといいよみたいなアドバイスをかけてきたので、いやぜんぜん外れないですよと受けながらそれにしたがってひねってみるもやはり外れず、いやいやそんなわけないでしょというかんじで受け取って余裕の笑みでいた(……)くんも、まもなく、あ、これはマジだわとおどろき、こんなに外れない? と難儀するので、すげえ品にあたってしまったなと笑った。けっきょく(……)くんが爪を縁に差しこんで無理やりもちあげるみたいなかんじで外してくれて、無事食べられるようになったこちらは礼を言って、これでやっと食べられますよと隣の老女にも笑いをかけ、信号の変わった横断歩道をわたりながら一口やりはじめた。老女はなんとかのこしながらわれわれよりも先にスタスタいって、(……)のなかにはいっていった。たしかちいさいリュック的な背負いを身につけていたような気がされ、くわえて片手にビニール袋を持っていた。(……)は、あのおばあちゃんおもしろかったね、ひねるんだよ、って、いきなりはいってきて、と印象を受けたようで、これ日記に書いてよというのでああ、書くわ、と応じた。
- そうしてモノレール線路下の広場にはいって、先にすすんでいる。けっこうひとがいて、やはり若者らが散発的に組をなしてあつまっているわけだが、なかにはアコギをジャカジャカやって歌っているやつなどもいるので、(……)くんだか(……)だかは、入れるじゃん、と言ったりもする。複数人ですわれるような場所はそういうひとびとにだいたい取られており、けっこうすすんで、広場の東側に飯屋がならんだあたりで、その飯屋のまえに段があったのでそこにたむろすることに。腰を掛け、アコギを出してブルースをてきとうに弾いて過ごした。
- そのうちに、明日何時にあつまるかというはなしになった。あつまるというか、(……)は(……)家に泊まるわけだし、こちらが何時に出向くかということで、何時に来れる? ときかれたのだが、明日やることといって(……)のバッグを見繕うことと、(……)にある「(……)」という店で飯を食うことと、あと(……)についてはなしあうくらいで、(……)としてはこちらに午前中とかはやい時間から来てもらってはなしあいをしたかったようで、今日場所を(……)にしたのもこちらがそう遅くならず帰ってはやく寝られるようにとの配慮がふくまれていたようだが、こちらは毛頭はやく寝るつもりなどなかった。また、この前日に、労働後の帰路、一一時過ぎに最寄り駅で電話して、(出先でLINEが見られていなかったので)明日どうなったかと聞いたときに、明後日ならまあそこそこはやい時間から行けるとおもうとこちら自身そう言ってはいたのだけれど、日記を書いたりもろもろする時間も確保したかったので、何時に来られるかと聞かれてもどうしようかなと迷い、ぐずぐず明言せずに、明日はなしあうことってなにがあるのとか聞いて、どれくらいの時間で足りるか、どういうスケジュールで行くかあたまのなかで計算していたところ、(……)はだんだん消沈したようになってきて、たぶんこちらがはやくから積極的にでむくほど乗り気でないことにがっかりしたのではないかとおもうが、それならはなしあいはいい、通話でもやろうとおもえばできるし、みたいなことを言い出すので、まいったなとおもった。また、(……)が午前中に髪を切りにいく予定があるとか、彼のバッグをどのタイミングで見るかとか、「(……)」は遅い昼飯のつもりで三時に予約してあったのだが、はなしあいを先にするなら六時くらいに変えたほうがいいかもしれない、といったもろもろの要素があるなかで、こちらは、はなしあいといってそんなにながくかからないだろうし、きょうよりすこしだけはやく、三時ごろに(……)にでむいてはなしあい、飯屋に行くまえにバッグを見るというのはどうかと提案したものの、あまり賛同の雰囲気にはならず、けっきょく(……)が、バッグは髪を切りにいくときか、最悪明日見るからいい、予定どおり三時に(……)で飯を食い、それから(……)家にもどってそこで夜まではなしあえばよいのではないかと案を出して、ではそれで、とまとまった。こちらとしては(……)がどうしたいのか、そこのところをはっきり聞きたくて、(……)の理想はなに? ときいたのだけれど、そうすると、いや、やりたいことの時間をうばってしまうと申し訳ないから、なにも言えないな、ってなってた、という返答が来たので、それならばしかたがない。(……)
- そのうちに、というか、資料はないにしても、もういまここで先に多少はなししておけばいいんじゃね、とおもい、そう口にすると、(……)も、ちょうどいまそうかんがえていたと言って、(……)をいくつかはなしだしたので、ギターをいじりながらそれを聞いた。(……)
- それで、一〇時半まえくらいになって、そろそろ帰ろうとなり、ギターをしまって駅へむかってあるきだした。あたりには、スケボーに興じたり、自転車で前輪をあげるウィリーに情熱を燃やしたりする若者らがおりおりあらわれる。さらに、とちゅう、(……)の横あたりにあるベンチに男女が腰掛けていたのだけれど、事情は知れないもののその女性のほうが泣いていたのを受けて、過ぎたあと(……)くんが、いや、モノ下(「モノレール線路下広場」ということで、高校時代からこの略称が一般的である)おもしろいな、ドラマがあるなと言って目をかがやかせるようにしていた。
- それで駅までもどり、改札をくぐって、通路のとちゅうであいさつを交わし(コロナウイルスの情勢下にもかかわらずふつうに握手をしてしまったのだが)、こちらひとり(……)のほうに下りて帰路へ。電車内ではたぶんほぼ寝ていたはず。そのあとの帰路もわすれたし、帰ってからのこともわすれた。金井美恵子「切りぬき美術館 新 スクラップ・ギャラリー: 第20回 子供の領分と絵の空間 青柳喜兵衛と小林猶治郎|1」(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2019/06/1.html(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2019/06/1.html))を読んでいるが。前者の画家のなまえは、「きひょうえ」と読むらしい。
- 81~82: 「残されたもの、出来事の起こった場所や石組みや灰燼に後生大事にしがみついてさえいれば、解決できなかったものが解決できるのではないだろうか、わたしたちはそう期待する。過去の犯罪の醜悪な、現実感のない残骸をとおしてわたしたちが敬っているのは、死者 [﹅2] ではない。収集したり保存したりするのは、わたしたちが [﹅6] それをなにかしら必要とするからだ。わたしたちはこの残骸によっていったん居心地の悪い思いをしておき、しかるのち(end81)に慰められたいのだろうか? 大量殺人や子ども殺しなど、タブーがいちじるしく破られたあとに残る解決できない難題は浮かばれない亡霊と化している。わたしたちはその亡霊にふるさとのようなものをあたえているのだ、ここなら化けて出てもいいですよ、とばかりに」
- 84: 「若いふたりは気負いもなく、ごく自然にわたしの子ども時代に関心を示したが、がんとしてポーランド人とユダヤ人の違いを認めようとせず、ポーランド国民の反ユダヤ主義をどうしても自分たちの省察に組みこもうとしなかった。虐待された人びとは、是が非でも善人でなくてはならないわけだ。でなければ、加害者と被害者の対比の構図をどうやって維持できる?」
- 86~87: 「その男の奥さんに、ホスト側の奥さんがわたしの来歴を話して聞かせた。返事はこうだった。「あのひとが収容されたはずはありませんよ、若すぎますもの」 それを言うなら(end86)「生き残るには若すぎますもの」だろう、収容されるのに若すぎるもなにもなかった」
- 87: 「政治囚の一部はそもそも反ユダヤ主義的な環境で育った人たちで、優越意識をもち、ユダヤ人を軽蔑していた。俺たちは自分の信条ゆえに拘留されているけれど、ユダヤ人ときたら、逮捕されるなんの理由もないんだから、というわけだった」
- 89~90: 「ひとたびここに立って胸が一杯になれば、たとえそれがなんのことはない、お化け屋敷の戦慄にすぎなかったとしても、感じた人は感じなかった人より高等な人間になった気がするだろう。感動したことそのものに鼻の高い人が、感動の質を問いただすはずがあろうか? 思うに修復をほどこした過去の恐怖の残り滓のこんな展示は、かえって感傷を招きよせはしないか? それは一見対象に注意を呼びかけているようで、じつは対象から目をそらさせ、感情の自己投影に横すべりさせているのではないだろうか?」