2021/7/27, Tue.

 〈始原的なもの〉は、しかしそのようなしかたで視覚的に領有しつくされることもありえない。〈もの〉はいまその前面しか見えないとしても、他の無限の面が原理的には呈示されうる。〈もの〉は視覚的に無限に領有されうる、のかもしれない。だが、とレヴィナスはいう。「〈始原的なもの〉はひとつの側面しか有さない。海のおもてや、畑の表面、風の切っ先、といったようにである」。「〈始原的なもの〉の深さは、視点を引き延ばし、大地と空のうちに消失させる」。あるいは、ひとがけっして水平線に接近することはできず、地平線に近づくこともできないという意味では、「〈始原的なもの〉はおもてをま(end32)ったく有していない」(138/194)。
 ひとは光と大気にかこまれ、水の流れに区切られて生きている。ひとびとはまた、「世界のこのかたすみ」で、生まれ育った「この街」で生きている(145/204)。そうしたとき、たんに「ひとは〈始原的なもの〉に浸っている」(138/194)だけである。「〈私〉をささえる大地の堅固さ、〈私〉の頭上の空の青さ、風のそよぎ、海の波浪、光のかがやきは、なにかの実体に貼りついているのではない。それらはどこでもないところから到来する」。それらは、「私にはその源泉を所有 [﹅2] することができずに不断に到来する [﹅7] 」(150/210)。
 世界にはたしかにさまざまな〈もの〉が存在し、それぞれが「同一性」(identité)を有しているようにおもわれる。つまり、それぞれの〈もの〉はおなじもの [﹅5] でありつづけているかにおもわれる。ひとはそれになまえをあたえ、ある場合には、はじめて〈もの〉を命名すること自体が、その所有となり、支配となる。地上とそこに住むものたちを、神から託されたアダムのようにである。そのかぎりでは、「〈ことば〉をもった人間によって住みつかれた大地には、恒常的な〈もの〉たちがみちみちている」(148/207)。だが、〈始原的なもの〉にはおなじ [﹅3] でありつづける実体がない [﹅5] 。際限(ペラス)をもたないもの、〈始原的なもの〉を、ひとはけっして所有できない。
 ほんとうはしかし、〈もの〉の同一性も「不安定」(instable)なものであるにすぎない。建物はやがて朽ち果て、樹々も倒れ、石ですら風化する。「〈始原的なもの〉への〈もの〉(end32)たちの回帰」はとどまることがない、とレヴィナスはいう。であるとすれば、ひとが〈始原的なもの〉を所有することはないのはもとより、ひとは結局のところ、なにものも所有しえない [﹅11] のではないだろうか。じっさい、「〈もの〉は現に残骸となる途上にある」。残骸はなにものの残骸ともわかたれず、残骸を焼く煙はいたるところに棚びいてゆく。時の移ろいのなかで、〈もの〉はすべてまた移りゆき、かたちを失い、いっさいは消し去られる(148/207 f.)。〈もの〉はやがて大地へ、大気へ、水へと還帰してゆく。〈始原的なもの〉とは、その意味でもまさにアルケーの名にあたいする。すなわち、すべてがそこから生まれ、いっさいがそこへと滅んでゆくもの(アリストテレス [註25: Cf. Aristoteles, Metaphysica, 983 b 8-9.] )、と呼ばれるにあたいする。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、31~33; 第Ⅰ部 第2章「自然の贈与 ――始原的な世界を〈口〉であじわうこと――」)



  • 一一時一〇分に離床。きょうは曇りで、そこまでの暑さではない。床を離れると部屋を出て洗面所に行き、顔を洗って口をゆすぎ、うがいをした。トイレで用を足すともどって瞑想。一一時二〇分あたりから四〇分まで。(……)さんの宅で母親が子どもに、もうおーわーり! とか大きな声で言っているのが聞こえていた。
  • 上階へ。両親は買い物などに出かけているもよう。芸もなく卵を焼くことに。さいごのふたつである。卵だけというのもボリュームがすくないので肉をくわえたかったが、冷凍の廉価なこま切れ肉があるとおもっていたのがない。かわりに一パック豚肉が保存されていたので、それをレンジで解凍し、いくらか取って切り、フライパンで炒めた。そこに卵を割り落として、合間に小鍋のワカメの味噌汁を椀によそい、丼に米も盛っておいて焼けたものをそのうえに。そうして卓に移って食事。新聞を見る。いわゆる「黒い雨」訴訟で首相が政治判断をおこない、広島高裁判決の上告を断念したという記事が一面にあった。四五年八月六日の原爆投下直後に煤などをふくんだ「黒い雨」が降り、それによって被爆したひとが一定数いるところ、政府の指定した援護区域みたいなものの外にいたひとにたいしては被爆者健康手帳が交付されず、それにたいして八四人の原告が訴え出ており、広島高裁はこの八四人全員、健康被害が出ていなくとも被爆者と認定されるべきであるという判決を出していて、政府はもともと上告する方針だったのだがここで断念、という経緯。健康手帳交付の実務をになう県や市も政府にたいして上告断念をもとめていたらしい。首相は、原告のひとびとも高齢化しており、病をもっているひともいるので、救済するべきだと判断した、というような言を述べたもよう。原告側の弁護士かだれかは、首相の決断を歓迎する、四〇年におよぶ訴えがようやく聞き入れられてうれしい、とのコメント。ほか一面はオリンピックの報で、卓球の水谷隼および伊藤美誠のペアが卓球王国中国の選手を負かして金メダルと。さいしょの二ゲームとられたが、その後三ゲーム取ってフルゲームで逆転したという見応えのある試合だったよう。このふたりは地元がおなじ静岡県で、水谷の両親が運営する卓球教室に伊藤がかよっていたとかで、実家はすぐ近所で家族ぐるみの付き合いらしく、一二歳はなれているが兄妹のようなかんじで、その絆の勝利、みたいな文調だった。ほか、スケートボードでなんとか椛という一三歳の女子が金メダルを取って、日本人史上最年少での金メダルとのこと。
  • 食器をかたづけると風呂へ行って浴槽を洗う。緑茶を用意。あたらしい茶葉をあけた。といっても前回のとおなじ品、狭山茶である。急須に一杯目の湯をそそいで待つあいだ、自室にゴミ箱やティッシュ箱を持ち帰り、居間にもどってくるとソファについてちょっと空を見上げる。偏差なく真っ白である。風はなさそう。ただ、先ほどかすみ雨が通ったときがあったので、戸口のきわに吊るされてあったバスタオルをいちおう入れておいた。
  • 茶を持って帰室し、一服しつつウェブをまわって、きょうのことをここまで記せば一時四六分。
  • 例のごとく書見へ。ルート・クリューガー/鈴木仁子訳『生きつづける ホロコーストの記憶を問う』(みすず書房/みすずライブラリー、一九九七年)である。四五年の二月。いわゆる「死の行進」の一環ということになるが、クリスティアンシュタットから徒歩で別所へ移動するとちゅうに、著者は義姉と母親の三人(プラス、チェコ人の女性三人)で逃亡する。その後最終的にバイエルンはシュトラウビングという小都市におちつき、そこで空爆を体験しながら、終戦、米軍の進駐をむかえることになる。
  • 三時ごろまで読み、ストレッチにはいった。尾骶骨の先のあたりがすこし痛かったので、指圧しておく。きのう合蹠をやりすぎたのだろうか。それでもきょうもやるわけだが。姿勢を取ってストレッチをしたあと、筋肉をゆるめたときに伸ばしたあたりをすこし揉んでおくと余計に良い気がする。
  • 三時半ごろでうえへ。両親は帰宅済み。母親は居間のテーブルにつき、父親は玄関で外気を浴びるように腰掛けにすわりながら新聞を読んでいた。野菜炒めがあるというのでそれをいただく。レンジで熱し、椀に盛った白米とともに持ち帰って、金井美恵子「切りぬき美術館 新 スクラップ・ギャラリー: 第22回 「机上芸術」と正座の人たち 清方と雪岱|1」(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2021/05/-1.html(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2021/05/-1.html))を読みながら食べる。炒めものはモヤシとブナシメジなどをあわせたもので、カレー風味の味つけがされており、味は薄いがけっこう辛くて、白米の熱で口内が刺激された。成島柳北という名を知る。「天保生れの特異な漢詩人、維新前は「二千石の騎兵頭」、文明開化後は新聞記者、随筆家」らしく、『柳橋新誌』なる書を書いているらしい。中村光夫の『虚実』という本に「パリ・明治五年――成島柳北の『日記』」という篇がはいっているという。そのさいごにかたられているというエピソード(パリのサーカスで成島柳北が「美少女の曲馬芸」を見て、幼少期から和歌漢詩の鍛錬をしてきた者として「一詩がおのづから成」るものの、「念頭にもなかった情景と言葉が「詩」を作ろうとすると、「自然と顔をだす」ことに困惑」し、西洋という「別の世界を表わさなければならない事態に直面し」ておぼえた「空虚」と快さに、「これを文字にする術が、西洋にはあるのだらうか」という独白をいだいて終わるらしい)に記憶があるので、いぜんも金井美恵子がどこかでとりあげていたのかもしれない。パリ滞在の日記は、『幕末維新パリ見聞記―成島柳北「航西日乗」・栗本鋤雲「暁窓追録」』として岩波文庫にはいっているようだ。また、いまWikipediaを見てみたところ、「後には大槻磐渓の紹介によって、1874年(明治7年)に『朝野新聞』を創刊、初代社長に就任。1875年(明治8年)には、言論取締法の「讒謗律」や「新聞紙条例」を批判した」とあり、そう言われてみると高校日本史でもなまえを見たようなおぼえがある。「成島家は19世紀前半から『徳川実紀』、『続徳川実紀』、『後鑑』などの編纂を続けており、柳北も長じてこれに従った。徳川家定、家茂に侍講するが[3]、献策が採用されないため狂歌で批判し、1863年文久3年)8月9日に侍講職を解職される」というのも笑った。
  • 食べ終えるとほぼ同時に記事を読み終え、上階に行ってつかった食器をかたづけ。もどると歯ブラシを口に突っこんでガシガシやりつつ(……)さんのブログをちょっと覗いた。Pitaもしくはピーター・レーバーグが死んだとあって、死んだの、とおもった。とはいえじぶんはノイズ方面についてはなにも知らないし、聞いたこともない。ただ、むかし「(……)」というブログを読んでいて、そこでノイズミュージックまわりがよくかたられていて、そのなかにPitaとかMegoという名もよく出てきていたので、それでおぼえていた。ほかにカルコウスキーとかいうひともよく名を挙げられていたはず。これはZbigniew Karkowskiというひとだ。
  • ここまで書き足して四時半まえ。きょうも労働。今週は毎日労働で、来週もそうである。というか夏期講習中は盆の休みを除いてずっとそうである。土曜日は基本休みになっているものの、今週は追加されたし、今後もはいらないともかぎらない。
  • 外出まえに瞑想をおこなった。二〇分ほど。それで着替え。荷物、といってもぜんぜんすくないが、それもバッグに入れて出発の準備がととのうとすこし時間があまっていたので、音楽を聞くことに。Red Hot Chili Peppersの"Throw Away Your Television"と"Cabron"を聞いた(『By The Way』: #10 - #11)。先日からときどきこのアルバムの曲をすこしずつ聞いている。べつにたいしておもしろくはないが。『By The Way』でくりかえし聞きたい曲を挙げるとしたら、やはり"Can't Stop"になってしまうかな、というかんじ。"Throw Away Your Television"も悪くないが。ベースのリフはふつうに格好よいし、後半で、あれはギターなのかノイズ的な音がはいっているのも良い。John Fruscianteはたしか精神的にやばかった時期があって、そのころにつくったソロアルバムはノイズかなんかかなりコアな方面の音になっていたはずで、ロックファンからは到底理解されるようなものではなかっただろうし、こちらも図書館で借りてすこしだけ聞いたおぼえがあるがとうぜんすこしも良いとおもわなかったとおもうのだけれど、いまとなってはむしろちょっと興味がある。
  • 五時を越えてうえへ。出発。マスクをつけて玄関を出る。母親も青紫蘇を取るとか言っていっしょに出てきて、そこにちょうど下の(……)さんらしきトラックがとおったので愛想笑いで会釈していた。それを背後にのこして道をいく。林から降ってくるセミの雨は厚くなっている。きょうは曇り日だし、この時間になるとさほど暑くはない。とはいえ、(……)さんの宅のまえをすぎると家屋にかくれていた太陽が右手、北寄りの空に顔を出し、一瞬でまた梢にかくれたもののまぶしいひかりを送ってきた。坂道に折れると(……)さんがラフなかっこうで道端の草をむしっている。あいさつをかけて、かがんだからだや足もとがいくらか危うそうなのに、お気をつけてとのこしてすすんだ。左から来る木洩れ陽は路上に灯るというよりは地にはあまり触れずに右手の壁のうえに映ってあかるみをひらき、まえをすぎるこちらの影もそのなかでつかの間揺れ、とおっていくあいだヒグラシの声が左右からかわるがわる、かなりの近さで発生し、微妙に音のたかさが違う弦楽器風の鳴きはどれも、波というか潮騒の往復のようにして、光暈めいてゆたかな余白をまといながら意外なほどおおきくふくらんでは木立をつらぬいて宙に浸透し、またおさまって去っていく。すぐ脇のガードレールそばは薄暗いが、そのむこうにはまだあかるい夕づく陽をいっぱいに浴びて緑をかるくあざやかにした樹々たちが安らいでいる。
  • 坂を抜けて街道に出るとひかりがさえぎられずにとおって身に触れてくるので暑い。横断歩道を渡り、駅にはいって階段通路を上るあいだも、左前から斜めに光線が照射されて、まるで狙い撃ちにしてくるように終始粘り、そうなるとさすがに涼しい夕べだとはいえない。ホームにも日陰がすくないが、入り口そばのわずかな地帯にはいり、屋根をささえる柱でちょうど太陽がかくれる位置を探ってひかりを避けながら立った。風はとぼしく、線路まわりに伸び上がった草はほとんど揺れない。太陽が支配権をおよぼしている北西の空は小川にながされた薄衣みたいな雲に淡く触れられていて、その雲ばかりでなく地の水色も間近のみなもとからそそがれるひかりを吸ってそれじたい透けるように澄んでいる。北側は東のほうももうすこし濃い水色がひろがっているのだが、ふりむいてみれば南は雲が溶けた筋肉のようにつらなっていて、いくらか淀んだ様相だった。丘のほうを埋めているヒグラシの音をききながら立ち尽くしているとスズメが数羽つれだってどこかからあらわれ、線路を越えて正面、梅の木の梢とそのうえの電線にとまる。見ていればまた数羽つれだってそこにわたっていく。おおかたは電線のうえにおちついて、横に何匹もならんでとまっているすがたの、指人形というか逆向きに生えた実のようなかんじで、左右にいたいけにうごくものもあり梅の梢に飛び降りるものもあり、梢は上部に陽を受けているが風がないからスズメがそこに降りるときだけ日なたと蔭の細片がいりまじるようにうごき震えるのだった。
  • ルート・クリューガー/鈴木仁子訳『生きつづける ホロコーストの記憶を問う』(みすず書房/みすずライブラリー、一九九七年)より。
  • 219: 「わたしは眩暈のしそうな、ドイツ人の経験とは一致しない幸福感にまだつつまれていた。ドイツ人がすべてを失ったと感じているのに、わたしたちはすべてを、たとえば生命を手にできる希望に満ちている。シュトラウビング到着は、ほかの難民にはどん底であり、わたしには歓喜の頂点だった。自由な人びとが受付であれこれ不平を申し立てている光景は、わたしたちが体験した大量移送からは想像もつかない」
  • 228: 「強制収容所を生きてきて、そのはてにふたたびトラウマを背負わなければならなかった女たち。スターリンの軍隊は、罪を犯した国の女だけを襲うほどの繊細な差別主義者ではなかった」