2021/7/29, Thu.

 現にある私は、衣服を身にまとうことで、かろうじて身体の境界を外界にたいして確保しているにすぎないのではないだろうか。私は私の衣服を〈所有〉し、それを身につけることで、〈始原的なもの〉のなかでわずかに自己をたもっているといってよい面がある。
 そもそも、私が私の身体を〈所有〉していると考えること自体に、ほんとうはなんの根拠もないのではないか。私が所有しうるのは、とりあえず私にとって外的なもの [﹅5] であろう。身体はしかし、現にある私にとって「外的」なものではない。私にとって外的ではない [﹅2] ものを私は所有できない。また、じぶんがたしかにみずからの権能によって手にしたものが私の所有に帰するのであるとすれば、身体はさしあたり〈私のもの〉ではない。私が私の身体をたずさえて誕生したことについて、私はゆび一本ふれてはおらず、私はそのことに「インクの一滴」も寄与してはいない。私は大海を所有していないのとおなじように、私の身体も〈所有〉してはいない [註26: このいいかたは、むろんロックにたいするノージックの揶揄に由来する。] 。
 そうであるとするならば、私はまず衣服という私にとってさしあたり [﹅5] 「外的」なあるものを手にし、そののちに私の身体を、それが〈私〉である身体を手に入れることになる。(end39)そう考えることも、いちおうは可能である。「裸形の身体としての身体は最初の所有物ではない。それはまだ、所有と非所有とのそとがわに(en dehors de l'avoir et de non-avoir)ある」(174/244)。レヴィナスそのひともそう説くとおりである。
 レヴィナスのいう〈すみか〉は、そして、〈衣服〉とおなじ意味をもち、〈ころも〉と地つづきのところで考えられている。私はたしかに、衣服を身につけることでじぶんの身体の境界を意識するにいたる。だが、〈ころも〉一枚で、寒風の吹きすさぶ大地を、あるいは温暖な大気のなかを放浪しつづける者はやはり、身体の皮膚的なさかいめ [﹅4] を、いま現に私がそうしているようには意識できないのではないか。じっさい、衣服、あるいは〈ころも〉、つまり身をつつむもののいくらかは、私が手にいれなければならない最低限のものであるが、家、あるいは〈すみか〉もまた、私をおおい、身体をつつみこむものとして、〈ころも〉の延長であるととらえることもできるだろう。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、39~40; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)



  • 一一時二二分の離床。九時ごろから覚めていたのだけれど、やはりなかなか起きられない。むずかしいものだ。またアイマスクを導入しようかとちょっとおもっているのだが。きょうの天気も曇りに寄ったほうで、寝床にあきらかな陽射しはなく、起きてすぐ汗だくというほどではない。いつもどおり水場に行ってきてから瞑想をした。(……)さんの家で母親が子どもに怒っている。アブラゼミもさいしょは一匹で鳴き、鳥の声が隙間にはいって聞こえていたが、じきに何匹かかさなってはげしく噴出していた。
  • 上階へ。両親は墓参。(……)さんと(……)さんが来るので。洗面所でうがいをしてから、例によってハムエッグを焼き、米に乗せる。液状にたもった黄身を崩し、醤油をまぜて食す。新聞は一面でコロナウイルス情報があり、東京はきのう一日で新規感染者が三〇〇〇人超、過去最多を連日で更新し、全国でも九五〇〇人とかだったか、これも過去最多だと。あとは角田光代が新聞連載「タラント」を終えての感慨などをはなしているのをちょっと読み、国際面でベラルーシの記事。ベラルーシを経由して隣国リトアニアに行く移民難民(ほとんどはイラクのひとで、ほかコンゴ共和国ギニアなどアフリカ系のひともいると)が増えており、去年一年では七二人程度だったところが、今年は一月から七月二五日までで二七三五人だかをかぞえて三八倍になっていると。それは、ルカシェンコ大統領が人権や反体制派の件で対立しているEUにたいして報復の意味合いでおくりこんでいるのではないかとみなされているらしい。ルカシェンコはじっさい、快適なヨーロッパにむかうひとびとをわれわれは止めはしないと表明して、移民難民の移動を黙認することを明言したという。五月に航空機を強制的に着陸させて反体制派メディアの創設者を拘束する事件があって、EUが反発し、それいぜんから反体制派の抗議のたかまりもあったわけだが、リトアニアへの流入は特に六月から増えているらしい。同国には、スベトラーナ・チハノフスカヤも退避しているので、嫌がらせめいているわけだ。
  • 食器をかたづけ、風呂洗い。窓外の道路に日なたが敷かれており、浴室内の空気ももやもやとして、熱気がつたわってくるかのようだ。ただ、居間に出て茶をつぎながら南を見ると、このときはたいしてあかるみも見えず、曇り気味になっている。とはいえむろん暑い。とつぜん雨が落ちてきてもおかしくなさそうな雰囲気ではある。
  • 帰室して一服しつつ、さっさときょうのことを書きはじめてしまった。ここまで記すと一時。天気がやはり怪しく、空はおおかた雲に埋められて白と灰と薄青があさくうねっているので、これはもう入れてしまったほうがいいなというわけで上階のベランダにいき、取りこむだけ取りこんでおいた。
  • きょうは書見のまえに、「読みかえし」記事にあつめてある書抜きをいくらか読みかえした。いぜん「知識」と題していたノートで、タイトルなどまあどうでも良いのだけれど、書き抜いた記述のなかから再読したいものを集積しておいておりおり読みかえしていこうと。まえと同様、一項目二回でどんどん読みすすめていくことに。知識として積極的に身につけることはやはり面倒臭いのでやめ、ともかくも再読しておのずからのこっていくことに期待。デスクまえに立って手首を曲げたり、ダンベルを持ったりしながら読んだ。BGMはElizabeth Shepherd『Rewind』。
  • そうして一時半すぎくらいから書見。ルート・クリューガー/鈴木仁子訳『生きつづける ホロコーストの記憶を問う』をすすめる。女性として生まれまた社会化され枠づけられたひとのかたりもどんどん読んでいかねばとおもう。305あたりまで行く。もう終盤。ところでこの著者はもうけっこうな歳のはずだがまだ存命なのだろうかとおもっていま検索してみたところ、つい昨年に亡くなっていた。八八歳。女性の立場から文学を読むことや、あとは低俗さ(キッチュ)についてもものしているようなのだが、たぶんほかの著作は邦訳されていないのではないか。
  • 二時半くらいで切ってストレッチへ。そのときBGMはJimi Hendrix『Blue Wild Angel: Live at the Isle of Wight』に移行していて、ディスク1の#6の"Lover Man"がかかっていたのだが、これが格好良く、こういうスタイルのブルースロックやっぱり格好よいなとおもった。その後の"Freedom"、"Red House"、"Dolly Dagger"もどれも格好良く、ソロを聞いてみてもたしかにすごくて、七〇年当時でこのスタイルでここまで弾けるひとってたしかにいなかったのかもしれないとおもった。ClaptonがおなじころにCreamはすでにやっていたはずだが。Beckもトリオはもうやっていたのか? Eric ClaptonJeff BeckJimmy PageJimi Hendrixと、たしかに六〇年代後半になってこういう連中が出てくるまでは、ここまでエレキギターでソロを展開することに傾注するやつらっていなかったのだろう。六〇年代だと、ファンキージャズの方面でもまだそんなにエレキをひずませてガンガンやるみたいなことはなかったのではないか。七〇年代にはいるとチョーキングをやりはじめるイメージだが。
  • 三時をまわって上階に行き、キュウリとなんだかよくわからない野菜がはいったスープをもってきて食し、ここまで加筆。きょうはきのうまでよりすこしはやく出なければならず、もう猶予がすくない。マジでぜんぜん二二日二三日を終わらせられないのだがどうすれば良いのか。
  • (……)
  • 帰宅後の休身中に、斎藤美奈子「世の中ラボ: 【第124回】小池百合子はモンスター?」(2020/8/5)(http://www.webchikuma.jp/articles/-/2109(http://www.webchikuma.jp/articles/-/2109))を読んだ。昨年の都知事選前に出版されて「ベストセラー」になったという石井妙子『女帝 小池百合子』が、ほうぼうから良い評判が聞こえるけれど、「いくらなんでも予断がすぎる」ものであり、「ネガティブな証言だけを集めてモンスターのような小池百合子像に仕立て上げていく」そのやり口は「フェアとはいえず、ノンフィクションとしての質が高いとも思えない」と評している記事。この本はたしかに読売新聞の下部広告でも何度か目にしたし、なんか売れてるとかおもしろいみたいな評判はネット上のどこかでも目にして、それなりの興味をいだいていたものだけれど、この記事を読んだかぎりでは、斎藤美奈子の評価は正当なようにおもわれる。単純に証言者の断言的な「決めつけ」に頼って裏を取っていないと指摘され、記事下部の本紹介では、「世評は高く、小池嫌いの読者には受けるだろうが、小池本人をはじめキーパーソン(細川護熙小沢一郎小泉純一郎ら)に取材していない、証言者の声を検証せずに「事実」として伝える、週刊誌の記事に頼りすぎ、類推や憶測が多いなど、ノンフィクションとしては疑問も多い本。仮に小説だとしても、悪意が強すぎる」とまとめられている。もうすこし記事中の評言を見てみると、「とりわけ問題なのは、この本がきわめて質の悪い予断に添ってストーリーを組み立てている点だ」と言われており、「著者がことさらこだわる」ものとして、「小池の頬のアザ」にまつわる解釈がとりあげられている。「〈アザのことなんか、まったく気にしていない〉し、〈百合子ちゃんはすごく前向きだった〉という同級生の発言を受けて著者は書く。〈この言葉を聞いた時、私は小池がいかに孤独な状況にあったかを察した。アザをまったく気にしていない。そんなことがあるだろうか。気にしていないように振舞っていただけだろう〉」というはなしで、ここで小池がおちいっていたと推察されている「孤独な状況」からしてふつうにうたがわしく見えるというか、根拠薄弱に収束させすぎじゃない? というかんじはあるし、一六年の都知事選のさいに石原慎太郎が吐いた「大年増の厚化粧」という品のない揶揄を受けて、「生まれつきの頬のアザを化粧で隠しているのだと語った」小池にたいする解釈も、「〈小池はこの時を、待っていたのかもしれない。彼女の人生において、ずっと。そして、ついにその日を、その時を、迎えたのだ。生まれた時に与えられた過酷な運命。その宿命に打ち勝つ瞬間を、ようやく摑んだのだった〉」というありさまで、通有的な物語に毒されすぎという感はいなめない。ノンフィクションというより、大衆小説の作法だろう。斎藤美奈子も、「いくらなんでも予断がすぎる。対象が誰であれ、ひとりの人物像を描く上で身体上の欠陥を起点にするのは完全にルール違反だ」と言っており、ふつうに正論だとおもうし、「もし小池百合子の暗部を暴くのであれば、いつどんな経緯で彼女は日本会議に入って後に抜けたのか、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式の追悼文送付を見送った背景には何があったのかなど、政治家としての本質にかかわる部分を追及すべきではなかったか」というのもそのとおりであるとしか言いようがない。
  • 文中に言及されている原武史『〈女帝〉の日本史』はちょっと気になる。NHK出版新書。『皇后考』もわりと気になるが、あれはやたら分厚かったはず。この新書の内容としては、「徳川時代の『列女伝』は〈女が政治をする、あるいは権力を握ると、その国は滅ぶ〉という説を広めた。そして〈権力をもった女性が否定的に語り継がれていく場合、非常に淫乱な女だったという話が再生産されるわけです〉」とすこしだけ引かれているが、政治的権力欲と性欲というのはかさねて見られる傾向があるのかもなあとかおもった。女性だけでなく、「英雄色を好む」とかいうのもそのたぐいだろう。とはいえ、対象が女性のばあい、そこに「淫乱」という語が付与される。それでおもったのだけれど、「淫乱」というその語じたいは中立的なのかもしれないとしても、じっさいにそのことばがさしむけられるのはおおかた女性にたいしてばかりではないか? と。男性について「淫乱」という語をあてることがあまりないような気がするのだが。「淫乱」を分割すると「淫ら」と「乱れる」にわかれるわけだが、「淫ら」は男性にももちいることができるとしても、性的な放縦を「乱れる」というばあいも、おおかた女性にかぎられるような気がするのだが。もしそのイメージがある程度正当だとすると、性的に「乱れる」のはもっぱら女性ばかりなわけである。つまり、男性が性的に奔放でも、それは「乱れ」ではないとみなされていることになる。「乱れる」というのは、「乱雑」とか「散乱」というような語をかんがえてもわかるように、秩序立った状態、あるべき正常な状態から逸脱した異常性という意味を持つ語だから、女性は性的に貞節であるというか、エロスに奔放だったり積極的だったり能動的だったりしない状態が女性の「正常」だということになる。そういう通念はむろんいままでの歴史上だいたいずっと採用されてきた男性の幻想的理想なわけだけれど、もう一語のレベルからしてそれが見えるのではないかと。
  • 夕食時、テーブル上に、きょう墓参に来た(……)さんや(……)さんがくれた品々があって、たとえばGRANDUOの緑色の袋のなかに鰹節とかふりかけとかがはいっていたり、横浜のどこかのホテルだかの品だったはずだが、肌色もしくはクリーム色風味のおおきめの紙箱のなかにチョコレートブラウニーやコーヒーがはいっていたりするのだが、そのそばに母親がドラッグストアかどこかで買ったらしい化粧品がビニール袋にはいっていて、見てみるとマスカラと、眉をえがくためのペンシルみたいなやつで、たしかマスカラのほうがINTEGRATEで、ペンシルのほうがマキアージュの品だった気がするのだけれど、このふたつのメーカーはこちらでも名を聞いたことがある。過去にテレビのCMで目にしたことがあるのだろう。マスカラのほうのパッケージに「マツイク」というカタカナの語が見られるのは、睫毛育成、ということなのか? ペンシルのほうのパッケージ表面には、「木の葉型芯」ということばとともにイラストが描かれているのだけれど、その絵の芯先端のかたちはどう見ても木の葉様には見えない。どのあたりが木の葉型なのか。母親にきいてみても不明。いままで化粧という文化に興味を持ったことがないが、化粧自体はともかくとしても、それにつかう道具類とかは見ていてけっこうおもしろいところがある。メイク用品にかぎらず、どういう分野でも、おのおの微妙な差異をはらんだ多種多様な品々や道具がおびただしくあるというそのバリエーションをおもったり、それらが商店でずらりとならんでいるようすを想像すると、けっこう面白味をかんじる。
  • ルート・クリューガー/鈴木仁子訳『生きつづける ホロコーストの記憶を問う』(みすず書房/みすずライブラリー、一九九七年)より。
  • 284: 「強制収容所に売春宿をイメージしている人もいて、わたしが強姦されたかどうかを知りたがった。そういうときは、いいえ、でももう少しで殺されるところでした、と言って、「人種の冒瀆」 [訳註: ユダヤ人と性的関係をもつドイツ人は人種を汚すとして辱めを受けた] という概念を説明した。というのも、絶対とは言わないにしても、かなりの程度までユダヤの女たちを守ったのが、ほかならぬその悪意に満ちた概念だったことをおもしろいと思うからだ」
  • 285: 「自分に価値がないような気がした。他人の目で自分を見つめた。自分は解放されたのでなく、這い出したのだ、いぶり出しで家からぞろぞろ這い出した南京虫みたいに、と何時間も考えた。そうしたイメージがナチのプロパガンダのなごりであったことは間違いない。ただ、女を蔑視する時代に、わたしが自分自身を蔑むのも無理はなかった」
  • 300: 「友だちは補いあうものだ。補うとは、欠けたものを完全にすることをいう。補いを必要とするには、あらかじめ毀れていなくてはならないけれど、同じ毀れかたをしている人はいらない。自分とは違う毀れかたの人がいるのだ」
  • 304: 「わたしのシモーヌは生き方の徹底性において、哲学者シモーヌと似ている。付和雷同を許さないものが彼女のなかにある。丸めこまれない。へつらわない。色目を使ったことがない。命令されるとがんとして譲らないが、必要とされ、頼まれればたちどころに譲る」