他者との関係じたいが、あるいは私という「〈同〉のエゴイスティックな自発性」を問いただす「〈他者〉の現前」(la présence d'Autrui)そのものが「倫理」と呼ばれる。すな(end79)わち「私の思考と私の所有にたいする〈他者〉の異邦性、つまり〈他者〉を〈私〉に還元することはできないということが、まさしく私の自発性を問いただすこととして、すなわち倫理として現成する」(33/46 f.)のである。他者とは私との絶対的な差異であることそのものが、〈倫理〉なのだ。
この倫理の関係のなかで、私は無限の〈責め〉を負う。なぜ〈責め〉であり、なぜ「無限の」なのか。関係の絶対的な出発点がこの [﹅2] 私であり、私が逃れようもなくほかならない [﹅6] 私でしかない以上、〈呼応〉しないこと、応答(réponse)をこばむこと自体が、関係の内部での [﹅4] 一箇の反応となってしまい、関係から [﹅2] 逃れ出ようとすることそのものが関係への [﹅2] 回答となってしまうからである。つまり「呼応可能性」(responsabilité)としての〈責め〉(responsabilité)からは逃れようがなく、〈責め〉は終わることもなく、完結することもない。責めは、とりつくされることがない。他者を無視 [﹅2] することは、むろん他者にたいするきわめて「有意」な応答であり、いったん応答したかぎりは以後の〈私〉の対応はすべて有意性 [﹅3] の桎梏の内部に囚われつづける。
このことはしかも、およそ私がとりむすび、あるいはより適切には巻きこまれる [﹅6] 、いっさいの関係についてあてはまる。たんに私の切符を確認にくるだけの車掌、私にシェービング・クリームを手わたすだけの店員にたいして、私がかれらをたんなる「類型」とみなし、そのようにふるまうとき、私はやはり一種の応答をしている。シュッツがそ(end80)う書きとめているように、「私がシェービング・クリームを購入する店の女性店員、私の靴をみがく男性は、もしかすると、私の友人たちの多くよりはるかに興味ぶかいひととなりのもちぬしであるかもしれない [註62] 」。類型化された他者との、それじたい類型化した応接も〈邂逅〉でありえ、〈私〉は〈めぐりあい〉の時を不断に逸しつづけている、のかもしれない。すべての呼応は「外部性」という「驚異」(325/448)への応接 [﹅2] になりえ、出会いは邂逅 [﹅2] となりうる。――ほんとうは、しかしそこに問題があるのではない。女性店員であれ、靴磨きの老人であれ、あるいはかけがえのない親友、恋人であれ、みなえらぶところなく〈他者〉であり、おなじように近く [﹅2] 、ひとしく遠い [﹅2] のだ。目のまえに他者が現前しているということは、どのようなケースにおいてであれ、そのまま「可視的なあらわれよりも直接的な現前であるとともに、遥かな現前、すなわち〈他なるもの〉の現前」(62/87)である。
もちろん、「責めが無限であるということは、それが現実的に無際限であるということを意味しているのではない [「責めが」以降﹅] 」。そうであるならば、〈責め〉は現実には端的に不可能である。責めの無限性とはかえって、「責めが引き受けられれば引き受けられるほど、責めが増大してゆくということ [「責めが」以降﹅] 」を意味している(274/379)。――責めの無限性 [﹅3] とは、その量的なかぎりなさのことではない。責めが無限であるとは、問いただしがつねに他者からのみ私に到来するという、抹消不能な受動性 [﹅3] を表示することがらであるにすぎない。(end81)註62:
A. Schutz, Collected Papers vol. 2, p. 70.(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、79~81; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)
- 一一時五五分離床と、なぜか遅くなってしまった。きょうも天気は灰色に寄って薄暗い曇りで、雨がいつ降ってもおかしくない色合い。遅くなったので瞑想をサボった。上階へ行き、食事はカレーうどんやきのうの天麩羅ののこりなど。父親は山梨に行ったという。新聞からはまず、エチオピアの記事。中央政府が攻撃を再開するというはなしだったとおもうが、北部ティグレ人勢力のみならず南の勢力、オロモ人みたいななまえだった気がするが、そちらの武装勢力(野党から分離した組織で、オロモ人はエチオピア内で最大の民族であり、その代表を標榜しているとあった)もティグレ人との共闘を表明し、したがって紛争は全国規模へとひろがるだろうとのこと。もうひとつには中国関連の記事。中国がコロナウイルス関連で米国を批判する論拠としたスイス人学者のFacebook投稿があったらしいのだが、在中国スイス大使館が、この学者はスイスに存在しない人間であると発表したらしい。調べてみるとFacebookのアカウント開設も投稿のわずか三日前だったから、工作というかフェイクの可能性が高く、中国の批判の根拠がうしなわれたと。
- テレビはさいしょ、ひねくれ女のひとり飯、みたいなドラマが映されており、寿司屋だったので、寿司食いてえなあとか、こういうまわらないカウンターの寿司屋っていままで行ったことないんだけど、とか母親とはなしていた。そのあと、芸人のヒロシが各地にでむいてやはり飯屋をさぐるような番組にうつり、舞台は千葉県常盤平で、駅のちかくの裏道でやっていた移動式自動車喫茶みたいなものにさいしょ行き当たり、オルゴールの音色を聞かせたという豆のコーヒーなどヒロシは味わっている。そのときほかの客で女性三人の一団がいて、ヒロシはそのうちのひとりに、水森亜土さん? と聞いていて、偶然そういう有名人に出会ったのかなとおもったのだったが、あとで検索してみると水森亜土というひとはイラストレーターや女優などいろいろやっているひとで一九三九年生まれだったので、このときの質問は、その女性のファッションとか服装について、水森亜土さんが好きなんですか? とか、水森亜土さんの描く絵のスタイルですか? とかたずねるような意図だったのだろう。そのあと移動式カフェの店主女性におそわって若いアーティスト連中があつまっているという駅前のビルにヒロシはでむく。階段をあがっていくとちゅうから、階上からギター一本の伴奏でなにかをうたっているようすが聞こえてきており、そのギターの音があきらかにチューニングがあっていない濁ったひびきだったので、チューニング合ってねえだろとこちらは笑ったのだったが、だんだんちかづいていくにつれてかたちが明確になってくる曲にはききおぼえがあった。これなんだったかなとおもいながら(すでに風呂洗いをすませたあとで)茶を用意しているうちに、(いっぽうでBob Dylanだったかなとなんとなくなまえが出てきていたのだったが)ああそうだ、"No Woman No Cry"だ、Bob Marleyだとおもいだした。大学の軽音楽サークルの部室みたいな一室で、そこそこ若めの男性らがアート作品をつくっているらしかった。
- きょうも「読みかえし」ノートを読み、またプルーストを書見。「スワンの恋」のパートにはいっており、『失われた時を求めて』はいままで集英社の鈴木道彦訳でいちおう二回ぜんぶ読んでいるのだけれど、その二回目、前回読んだとき(何年前だったかわからないが、たぶん二〇一六年か一七年くらいではないか)はたしか、この「スワンの恋」の部は恋愛小説としてかなりおもしろいなと感じ、ほとんどエンタメ小説のようにして物語的な面白味をおぼえてガンガンページを繰ってすすんでいったおぼえがある。今回はそこまで物語に引っ張られる感覚というものはおぼえていないが、とはいえ恋愛者の心理や行動(占有欲求としての恋愛の側面からうがった)が、プルースト特有のときどき理路がよくわからなくなる抽象的な考察ならびにかなり具体的にこまかいところまで描かれる比喩イメージをまじえながら詳細に記述されていてたしかにおもしろい。気になるのはやはりスワンがオデットをボッティチェルリの描いたシスティナ礼拝堂にある絵のなかの一女性とかさねて見ているというそのあたりの精神のはたらき、つまり芸術作品と現実の人間を二重化して見ることが恋愛感情におよぼす影響とかそのエゴイズムとかがひとつ。あとはオデットの家が日本趣味もしくは中国趣味にあふれていることも風俗的な側面からすこし気になる。ひとつのクライマックスというか盛り上がりとしてあげられるのはやはり、ヴェルデュラン家のサロンに行ってオデットが先に帰ってしまったことを知らされたスワンが、彼女をもとめて夜のパリを放浪するところからはじまる一連のながれ、とりわけそのあとオデットと行き会うにいたっていっしょに馬車に乗り、そのなかではじめて情事をおこなうその場面だが、ここでスワンが彼女のからだに手をつけるにあたって口実としてえらばれるのが、彼女が胸元につけていたカトレアの花(菊とならんでオデットのお気に入りの花)が馬車の揺れで乱れて取れそうになってしまったのでそれを挿しなおしてもいいか、ということで、いいですか? 挿しなおしても……おいやではないですか? それにしてもこの花はほんとうに匂いがしないんでしょうか、顔をちかづけて嗅いでみてもいいですか? おいやではないですか、ほんとうのことをおっしゃってください、とか言いながらスワンはオデットをはじめて「占有」するにいたるわけだけれど、ここは前回読んだときもそうだったのだが滑稽で、アホだろとおもって笑ってしまう。気取りがすぎるというか、いちおう洗練された教養のある知的文化人としてあからさまにガツガツあいての肉体をもとめるようなことはできずに駆け引きをするということなのだろうが、その洗練された迂遠さがかえって反転的にスワンのおこないや欲求の卑俗さや軽俗さを強調しているようにかんじられる。このさいしょの情事のあともしばらくはおなじ口実がつかわれるのだけれど、そのなごりで、こういう口実が必要でなくなったあとも「愛戯」のおこない、すなわちmake loveもしくはセックスをするときには「カトレアをする」という隠語がもちいられるというその後のくだりもこいつらアホだろと笑ってしまう。ただいっぽうで、そういうふうに造語が生み出されるというそのこと自体、その経緯とかようすそのものはおもしろいが。また、さいしょの情事にいたるまでの経緯の段落(さきほどのセリフがあるところ)と、その後の「カトレアをする」について述べた段落とのあいだには、スワンがオデットの顔に手を添えてオデットは首をかしげながら見つめかえし、スワンはいまからじぶんのものにする女性がじぶんのものとして「占有」されるまえの最後の表情の見納めにとその顔を記憶しようとしているかのようだ、みたいな記述の段落があるのだけれど、その前後が滑稽なわりにここは非常にロマンティックで正直良いなとおもってしまう。この、じぶんがものにするまえの女性の最後の表情の見納め、という男性のエゴイスト的発想には、前回読んだときにかなり驚いてすげえなとおもったのだった。今回読んでみると、発想そのものはべつにそんなにおどろくほどのものではないのかもしれないなといっぽうではおもいつつも、じっさい文章を読むにやはりなかなかすごいなとおもうかんじも他方にあり、比喩も独特で、子どもの晴れ姿を見に急ぐ母親、なんてあたりははまっているのかいないのか、ここにふさわしい比喩なのか否かよくわからないようなかんじでもある。
彼はあいている一方の手をオデットの頬に沿うようにしてあげていった、彼女は彼を見つめた、彼女との類似を彼が見出したあのフィレンツェ派の巨匠の手になる女たちの、物憂げな、重々しいようすをして。その女たちの瞳のように、彼女の大きな、切れ長のかがやく瞳は、まぶたのふちまでひきよせられていて、さながら二滴の涙のように、いまにもこぼれおちそうに見えた。彼女は首をかしげていた、フィレンツェ派の巨匠の女たちがすべて、宗教画のなかにあっても、異教の場面にあっても、そうしているのが見られるように。そして、おそらく彼女がふだんから慣れている姿勢、こういうときにはうってつけだと知っていて忘れないように心がけている姿勢、そんな姿勢で、彼女は顔をささえるのに全力を要するように見えた、あたかも目に見えない力がスワンのほうにその顔をひきつけてでもいるように。(end391)そして、彼女が心にもなくといった風情で、そんな顔を彼の唇の上に落とそうとする寸前に、その顔をすこし離して、さっと両手でささえたのは、スワンであった。彼が思考のなかであんなに長いあいだはぐくんできた夢を、思考に駆けよらせてはっきりと認めさせ、その夢の実現に立ちあわせる余裕を、彼は自分の思考に残してやりたかったのだ、あたかも非常にかわいがってきた子供の表彰の席に参加させるために、その母親を呼んでやるように。おそらくまたスワンは、自分がまだ占有していないオデット、まだ自分が接吻さえしていないオデットの、これが最後の顔だ、と思って見るその顔に、旅立ちの日に永遠にわかれを告げようとする風景を眼底におさめてゆこうとする人の、あのまなざしをそそいでいたのであろう。
(マルセル・プルースト/井上究一郎訳『失われた時を求めてⅠ 第一篇 スワン家のほうへ』(ちくま文庫、一九九二年)、391~392)
彼はもう一方の手を、オデットの頬に沿って上げていった。彼女は、物憂く重々しい様子で、じっと彼を見つめたが、それはかねがね彼がよく似ていると思っていたフィレンツェの巨匠の描く婦人たちの目つきだった。彼女らの目のように大きく切れ長で、きらきら光っているオデットの瞳は、飛び出さんばかりに瞼の縁まで引き寄せられて、まるで二粒の涙のように今にもこぼれ(end94)落ちそうに見えた。フィレンツェの巨匠の婦人たちが、宗教画のなかでも異教の情景のなかでもみなそうやっているように、彼女も首をかしげていた。そして、たぶん彼女のいつもの姿勢なのであろうか、このようなときにふさわしいことを心得ていて、忘れずにそうするように気をつけている姿勢をしながら、まるで目に見えない力でスワンの方に引き寄せられているかのように、自分の顔を抑えるのに必死になっている様子だった。そして、まるで心ならずもといったように、スワンの唇の上にその顔を落とすより早く、スワンの方が彼女の顔を両の手にはさんで、少し自分から離してそれを支えた。彼は、自分の思考が大急ぎでそこに駆けつけて、こんなに長いこと温めてきた夢を認め、その夢の実現に立ち会えるように、その余裕を与えてやりたかったのだ――ちょうど親戚の女性に声をかけて、彼女がとても可愛がっていた子供の晴れの舞台に列席させるように。おそらくまたスワンは、まだ肉体を所有していないオデット、まだ接吻すらしていないオデットの、最後の見おさめにと、あたかも出発の日に永久に別れを告げようとしている眼前の風景を目のなかにしまいこんで持ち去ろうとする人のように、その視線をじっと彼女の顔に注いでいたのだろう。
(マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へⅡ』(集英社、一九九七年)、94~95)
- 鈴木道彦訳とあわせて引いたが、ふたりの訳のちがいを読みくらべるのも興のあることだ。一文の組み立て方、各情報の順序のちがいなど、なかなかおもしろい。ニュアンスにはっきりしたちがいが発生するのは、「(……)彼女は顔をささえるのに全力を要するように見えた、あたかも目に見えない力がスワンのほうにその顔をひきつけてでもいるように。そして、彼女が心にもなくといった風情で、そんな顔を彼の唇の上に落とそうとする寸前に(……)」/「(……)まるで目に見えない力でスワンの方に引き寄せられているかのように、自分の顔を抑えるのに必死になっている様子だった。そして、まるで心ならずもといったように、スワンの唇の上にその顔を落とすより早く(……)」の箇所ではないか。井上究一郎のほうだと、「ささえる」ということばがつかわれているので、オデットが苦心しているのは「姿勢」を保つことだという印象になり、スワンのほうに引き寄せる力に抵抗する、というニュアンスが比較的すくないが、鈴木道彦訳だと「抑える」ということばによってそこがよりストレートに表現されている。そして、それによってさらに、恋心もしくは欲望や陶酔によって、無意志的にスワンのくちびるへとじぶんの顔をちかづけてしまう、という含意が生まれうるもので、そのあとの「まるで心ならずもといったように」といういいかたはその理解にもとづいているのだろう。ひるがえって井上究一郎訳だとそのぶぶんは「心にもなくといった風情で」といういいかたになっている。「心にもなく」という表現はおそらく鈴木道彦訳と同様に無意志的であることもふくまれうるのだろうけれど、それよりは、本意ではない、というニュアンスをあらわすことがおおいいいかたではないか。そのように読むならば、鈴木道彦訳にはらまれていたロマンティシズム(「恋心もしくは欲望や陶酔」の介在)はここでむしろくだかれて、井上究一郎訳では対照的に、スワンを恋するふりをよそおって彼をよろこばせようとおうじる冷静で打算的な女オデットという像がたちあらわれるはずである。なかなかおもしろい。
- また、例の子どもの晴れ舞台の比喩のなかでは、声をかけて呼んでやるあいてが「母親」と「親戚の女性」でちがっているが、フランス語ができないし原文もわからないのでこれはなぜなのかわからない。さいごの一文のなかでは、鈴木訳の、「眼前の風景を目のなかにしまいこんで持ち去ろうとする」といういいかたがすばらしい。井上訳のほうにある「眼底」の語も良いが、ここでは「目のなかにしまいこんで持ち去ろうとする」のほうに軍配をあげたい。
- BBCの英文記事を四つ読み、(……)さんのブログ(八月一一日と一二日)、(……)さんのブログ(八月一〇日と一一日)もそれぞれ読んだ。(……)さんのほうでは、二〇二〇年の八月一二日から引かれた下のはなしがおもしろかった。ここでの定式化に沿うなら、ムージルや古井由吉はこの(1)(2)のあいだというか、かぎりなく1にちかい2、みたいなところを攻めているような気がした。
『リング』。松嶋菜々子って大根だなと思った。現在執筆中の小説の性格上、意味の操作にはあまり関心が持てないので、そういう観点からの分析はしないが、脚本の節約術が見事だと思った。いま書いている小説は、こしらえた人物の背景や設定を、こしらえておきながら作中では決して説明しないというかたちで書き進めているのだが、たとえば『リング』では、松嶋菜々子と真田広之が離婚した理由については触れられていないし、そもそも結婚した馴れ初めについても触れられていない。しかしそれらをみるものに十分に想像させるだけの余地が、しっかりと用意されている(離婚にはどうやら真田広之の血統的な超能力が関係しているようだと推測したり、オカルト現象を追いかけるマスコミ関係者である松嶋菜々子とはその縁で知り合ったのではないかと推測したりできる)。また、真田広之は大学で数学を教えているという設定であるが、これも、自分自身の異能に対するアンビバレンツな感情から要請された専門なのではないかという「物語」を、みるものはでっちあげることができるだろう。ここで重要なのは、そのような「物語」が劇中で言明されていれば、それはあまりに整合性がとれており、出来事を因果関係で処理しすぎであるという、いわゆる物語批判のうってつけの対象になっていただろうに、「異能」と「数学」という組み合わせに関する説明がなされていないかぎり、その空白地帯はあくまでありうべき可能性の域にペンディングされており、(反物語としての)出来事の水準にとどまっているという点だ。物語が因果関係で数珠つなぎされた出来事の線的な連鎖であるとすれば、反物語の定義とは⑴そのような連鎖から開放された出来事の面的な偏在ということになるのかもしれないが、それとは別に、⑵連鎖の内実が不明である状態というものも考えられる。「異能」と「数学」の同居は、ここで、少なくとも受け手であるこちらにたいしては、離婚理由や馴れ初めの不在とともに、⑵の意味での反物語としてせまってみえた。そこのところのさじ加減が本当にうまい。
- 夕刊、米軍がアフガニスタンに三〇〇〇人増派と。アメリカ大使館の人員を退避させるためという名目。その三〇〇〇人は一日二日以内にカブールの空港に到着するといい、ほか、不測の事態にそなえてクウェートに四〇〇〇人を派兵し、また翻訳者など米国への協力者だったひとびとの退避を支援するためにカタールに一〇〇〇人を派遣とも書いてあったはず。国内にはいって、せめてカブールにはいって協力者らをあつめて逃がすことができないかとおもうが、それをするとたぶんタリバンに喧嘩を売るということになってしまうのだろう。タリバンは協力者らを殺そうとしているはずなので。
- 夜半すぎにBessie Smithを寝転がって聞いた。『Martin Scorsese Presents The Blues: Bessie Smith』の六曲目まで。#1, #4, #5, #6が良かった。とりわけ#4の"Muddy Water (Mississippi Moan)"か。たぶん一九二〇年代か三〇年代くらいの録音だとおもうので音質はむろん良いとはいえず、声の写実性もいまの録音とくらべるととうぜん低いが、じっさいに聞いたらたぶん声めちゃくちゃでかかったんだろうな、という印象。"Muddy Water"というタイトルからはどうしたってMuddy Watersをおもいだすし(それでこの翌日には二枚組の『Muddy "Mississippi" Waters Live』をひさしぶりにながしたのだが)、五曲目は"St. Louis Blues"で、そういうのを聞いていると、こういうところからすべてが(というのはジャズとブルースとロックということだが)はじまったんだなあ、という感慨が生じる。この日はきかなかったけれど九曲目は"Need A Little Sugar In My Bowl"という曲で、この曲をもとにしたかもしくはオマージュみたいなかんじでNina Simoneが"I Want A Little Sugar In My Bowl"という曲をつくっており、『It Is Finished - Nina Simone 1974』というライブ音源の五曲目でやっているバージョンがじぶんはとても好きである。
- マルセル・プルースト/井上究一郎訳『失われた時を求めてⅠ 第一篇 スワン家のほうへ』(ちくま文庫、一九九二年)より。
- 368: 「そんなふうに、彼女はスワンの馬車で帰るのであったが、ある晩、彼女が馬車をおり、そして彼が彼女に、ではあすまた、といったとき、彼女はあたふたと、家のまえの小さな庭から、もう最後の菊を一輪摘みとって、帰ろうとする彼に手わたした」
- 369~370:
表通よりも高くなった一階にあるオデットの寝室は、奥のほうで表と平行した小さな通に面していたが、その寝室を左にして、まっすぐな階段がくすんだ色の壁のあいだにあり、その壁からは東邦の織物や、トルコの数珠や、絹の細紐でつるした日本の大きな提灯がさがっていた(その提灯には、訪問者からヨーロッパ文明の最近の快適さをうばわないために、ガス灯がともされていた)、そしてその階段をあがるとそこが大小二つのサロンになっていた。この二つのサロンのまえにはせまい控室があり、その壁は、庭の格子垣のように碁盤縞、しかも金塗の碁盤縞になっていて、壁ぎわまでの長さの長方形の一つの箱でふちどられ、そこには当時としてはまだめずらしかった大輪の菊の花が、といってもずっとのちになって園芸家が栽培に成功したものにはとてもおよばなかったが、温室のなかのように一列にならんで咲いていた。スワンはまえの年から菊に移ってきた流行をにがにがしく思っていたが、ふと、どんよりくもった灰色の日々にかがやいている、そんなつかのまの星々の、匂を放つ光によって、ばら色や、オレンジ色や、白に縞模様をつけられている部屋の薄あかりを見て、たのしい気持になったのであった。オデットはばら色の絹のガウンを着て、首筋も腕も出したまま彼をむかえいれたのであった。彼女は、サロンの奥まったところに設けてあって、支那のかざり鉢に植えた大きな棕櫚とか、写真やリボンかざりや扇などを貼りつけた屛風とかでかこわれているあの数多くの神秘めかした壁のくぼみの一つに彼をさそい、自分のそばに腰を(end369)かけさせたのであった。「それではお楽ではないでしょう、ちょっとお待ちになって、私がうまくなおしてさしあげます」と彼女は彼にいった、そして、何か自分だけの思いつきを誇るかのようにかすかなほほえみを浮かべながら、スワンの頭のうしろと足の下に、日本絹のクッションをあてがい、まるでそうした貴重品が惜しくもなく、その値打もべつに気にしていないかのように、それらをくしゃくしゃにしてしまったのであった。しかし部屋係の従僕が、ほとんどすべて支那の陶器にはめこんだランプをつぎつぎに数多くはこんできて、それらがみんな、まるで祭壇の上のように、さまざまな家具の上に、一個または対になってともり、そのようにして――この部屋のあかるくなった窓がそとにもらすと同時にそとからかくしている人の気配の神秘さのまえに、ふと足をとどめた恋する男の誰かを、おそらく表通で夢みさせながら――冬の午後のおわりのもう夜を思わせるたそがれのなかで、自然よりももっと長くつづく落日、自然よりももっとばら色で、もっと人間的な落日を再現しはじめると、彼女は従僕がそれらのランプをきまったところにうまく置くかどうかを、横目できびしく見まもったのであった。(……)
- 372: 「一時間後、彼は使の者から短い伝言を受けとり、そのはでな筆蹟で、すぐにオデットからだとわかったが、イギリス風にぎごちなく気どった彼女の筆蹟は、形をくずした文字に、長年の修練のようなものを見せつけていたが、彼ほども好感をもっていない人の目には、おそらくそれらの文字は、だらしない思考、不十分な教育、率直さと意志との不足を意味したことであろう。スワンはオデットのところにシガレット・ケースを忘れてきたのであった。「どうしてあなたのお心もこれといっしょにお忘れにならなかったのでしょうね。お心ならば、こうしてお返しすることはなかったでしょうに。」」
- 372~373: 「彼の二度目の訪問は、もっと重大な結果をもった、といってもよかった。その日も彼は、彼女の家に向かいながら、これから彼女に会おうとするときのいつものように、まえもって彼女を自分に思いえがくのであった、そして彼女の顔を美しいと思うためには、しばしば黄(end372)色くて、やつれていて、ときどき赤い小さな斑点があらわれている彼女の頬から、ばら色でみずみずしい頬骨のあたりだけを切りはなす必要のあったことが、あたかも人間の理想がつねに近づきにくく、幸福がつねに中途半端であることを証明しているように思われて、彼を悲しくするのであった」
- 373: 「彼女は豪華に刺繡をほどこした布をコートのように胸の上でかきあわせながら、モーヴ色のクレープ・デシンの化粧着姿で彼をむかえた」: モーヴ色10
- 373: 「スワンは、ずっと以前から、巨匠の絵のなかに、われわれをとりまく現実の普遍的な特徴ばかりでなく、それとは逆に、普遍性のもっともすくなく見えるようなわれわれの知人の顔の個性的な特徴をも、そこに見つけることが好きだという、そんな特別な趣味をもっていた(……)」
- 375: 「スワンはもはやオデットの顔を、彼女の頬の部分的なよしあしとか、いつか思いきって彼女に接吻するとして自分の唇をその頬につけるときに見出すにちがいないと思われるあの肉の純粋なやわらかさとか、そういうものから評価しなくなり、むしろ彼女の顔を、繊細で美しい線の錯綜として評価し、その錯綜を目でさばき、その渦巻くカーブをたどり、首筋のリズムを髪の毛の流やまぶたの屈曲にあわせながら、あたかも彼女のタイプがよくわかり明確になるような一つの肖像画に仕上げたかのように、その顔を評価した」
- 375~376: 「彼は彼女をじっと見つめるのだ、すると彼女の顔や彼女のからだのなかに、壁画の一断片があらわれてくるのであった、そしてそれからは、オデットのそばにいるときでも、ひとりで彼女のことを思っているときでも、彼はつねに彼女の顔やからだにその壁画の断片をさがし求めた、なるほど、彼がフィレンツェ派の傑作にとらわれたのは、彼女のなかにそれを見出したからにすぎなかったが、それにしても、この類似によって彼は彼女にもまた美しさを認め、彼女をいっそう貴重なものに思ったのだ。スワンは大サンドロの目にだったらあがめられるような美しさに映ったであろうひとの、価値を見そこなったことで自分を責めた、そしてオデットに会うことのたのしみが彼自身の美的教養のなかで正当化できることをさいわいだと思った。彼は考えた、自分がオデットを思う心と、幸福の夢とをむすびつけても、これまで思っていたように、不完全な、間にあわせのひとに、仕方なく甘んじていたのではない、なぜなら自分のもっとも洗練された芸術的趣味を、自分の内心において、彼女は満足さ(end375)せてくれるのだから、と」
- 376: 「そして、彼がこの女についてもっていた純然たる肉体的な見解が、彼女の顔や、からだの長所、彼女の美しさの全体の長所について、たえず彼に新しい疑念を起こさせながら、彼の恋をよわめていったのにたいして、他方彼が肉体的な見解のかわりに、ある美学の所与 [データ] を根底にもったとき、一方の疑念はうちくだかれ、恋は確実になった。いうまでもなく、接吻や肉体の占有が、美に欠けるところのある肉体によって彼にあたえられた場合は、むしろそのほうが自然で、ありきたりで、つまらなく思われたのだが、美術館のある作品にたいする熱愛をいやが上にも高めてくれる場合、それは彼にとって、超自然で、言いようもなく快いものであろうと思われた」
- 376~377: 「そして、数か月以来オデットに会うことよりほかに何もしなかったという後悔の念に駆られると、彼はこう自分に言いきかせるのであった、評価を絶した傑作に多くの時間をさくのは当然ではないか、これこそは、あとにも先にもなく、いままでとはまったく異なる材料、特別風味のある材料に流しこまれ、世にもまれな作例となった傑作で、自分はそんな作品を、あるときは芸術家の謙譲と霊性と無私とでながめ、あるときはコレクターの誇とエゴイスム(end376)と肉感性とでながめているのだ、と」
- 377: 「これまで審美的に美しいと考えたものを、生きた女性の観念にあてはめながら、彼はそんな美を肉体的な長所の変形し、そのような肉体的長所の数々が、やがて自分の占有できる一人の女に集中していることを思って、身のさいわいを感じるのであった。われわれは一つの傑作を見つめていると、おのずからそのほうにさそわれてゆく漠然とした共感をおぼえるものだが、そうした共感は、スワンがエテロの娘の肉感の母体を知るにいたったいま、一つの欲望となり、こんどはその欲望が、はじめオデットの肉体からそそられなかった欲望の埋めあわせをすることになった」
- 381~382:
「あなたの意見には、失礼ながら賛成しかねるね」とヴェルデュラン氏がいった、「私にはどうもぴったりとこないな、彼氏は。あれは気取屋だと思うんだよ。」(end381)
ヴェルデュラン夫人は動かなくなった、彫像になったかと思われるほど活気のない表情になった、そんな擬装のおかげで、この気取屋という堪えられない言葉が、彼女の耳にはいらなかったと見なされるからであって、この言葉には、自分たち夫妻にたいして「気どる」ことのできる人間がいる、したがって「自分たちよりも上手 [うわて] 」の人間がいる、という意味がふくまれているように思われるのであった。
- 383~384: 「そしてふとある瞬間に、あたかもねむりからさめ、いままではっきり自分をひきはなさずに思いめぐらしていたあの夢想のばからしさを意識する熱病患者のように、スワンは、ヴェルデュラン家で、オデットが帰ってしまったことをきかされたときから頭のなかをぐるぐるまわっていた思考の奇妙さ、彼が苦しんでいる胸の苦痛の新しさに、突然気がついた、しかも、いま目をさましたかのように、はっきりとその苦痛を認めた。いったいどうしたことか? あすでなければオデットに会えないということから、こんなにひどく動揺してしまって。こうなるのは、一時間まえに、ヴェルデュラン夫人の家に向かいながら、まさしく自分がねがっていたことではなかったのか! いまや彼はは(end383)っきり認めないわけには行かなかった、プレヴォーに自分をはこんでゆくこのおなじ馬車のなかで、自分はもういままでの自分とおなじではなく、また自分はもはやひとりではない、新しく生まれた人間がそこにいて、自分に密着し、自分に結合されている、そしてその新しい人間から自分はおそらく自由になれないで、これからは主人や病気にたいするように、その人間となれあってゆかなくてはならないだろう、ということを。しかしながら、そんな新しい人間が彼に加えられたと感じた一瞬から、彼にとって人生が一段と興味深く思われだした」
- 384: 「いつもの晩のように、オデットといっしょになると、すぐに彼は、彼女のよく変わる顔をこっそりながめながら、自分の目の色から彼女に欲望のまえぶれを読まれること、自分が無関心ではないのをさとられることをおそれて、すぐにまた目をそらし、彼女のことを考える気力を失うだろう、そして、彼女からすぐ離れないでいるために、言いかえれば、思いきってだきしめることができずに彼が近よっているこの女との空しい対面がもたらす幻滅と苦痛をこの場はのばし、もう一日あらためてそれをくりかえす口実を見つけるために、ひたすら心をくだくだろう」
- 393: 「どんなに女ずれがしていても、またどんなに種類の異なる占有もつねに同一でありあらかじめわかっていると考えていても、スワンにとって最初カトレアの花をなおすということがそうであったように、女との関係の思いがけない何かの挿話からそうした占有を生みださなくてはならないほど女があつかいにくい――またはあつかいにくいとわれわれに思われる――場合、占有はかえって新しい快楽となるのである。その晩彼が身をふるわせながら望んでいたのは(まさかオデットは、と彼は内心で考えていた、ぼくの計略にかかりこそすれ、ぼくの計画を見ぬくことはあるまい)、カトレアの大きなモーヴ色の花弁のあいだからこの女の占有がひきだされてくることであった」: モーヴ色11
- 398~399: 「スワンにとってなんという大きな休息であり、神秘な更生であったか――その目がどんなに絵画の鑑賞にすぐれているとしても、その精神がどんなに風俗の観察に鋭くても、その目、その精神が、無味乾燥の生活の消しがたい痕跡をいつまでもとどめていた彼スワンにとって――人類とは無関係な被造物、論理的能力に欠ける、盲目の被造物、ほとんど荒唐無稽の一角獣にも似て、ただ聴覚によって世界を知覚するにすぎない怪獣めいた被造物に自分の身が変貌させられたと感じることは。そして、しかもなお小楽節に、自分の理知がそこまで深くおりてゆくことができないようなある意味を求めていた彼にとって、自分のもっとも内的な魂から理性のあ(end398)らゆる援助をはぎとり、そうした魂に、ただひとりで、音 [おん] の廊下、音の暗い濾過装置のなかを通らせるのは、なんという異常な陶酔であったか!」