2021/8/22, Sun.

 ひとは他者の身体を愛撫するとき、身体の「なめらかさやぬくもり [註85] 」そのものをもとめているのだろうか。一見そのとおりであるようにみえる。ひとはたしかに、じぶんのものではない肌に宿った体温をもとめているのだ。とはいえ、他者の〈肌〉はときにざらついているし、私より体温のひくい身体をも私は愛撫する。ひとが愛撫することにおいて必要としているものは、だから、ぬくもり [﹅4] やすべらかさ [﹅5] そのものではない。あるいはすくなくともそれだけではない。だが、にもかかわらず、この〈手〉に感じられるのは他者の〈肌〉の一定の触感であり、特定の温度であり、規則ただしく、あるいはやや乱れて脈打つ鼓動であり拍動であるにすぎない。
 ということは、「愛撫されているものはほんとうは触れられていない」のである。愛撫とはそのかぎりでは、そこ [﹅2] にあるようでいて、そこ [﹅2] にはないもの、顕れているようで隠されているもの、現前しているようで非在のもの、あたえられているように見えて逃れ出てゆくもの、「溢れ出てゆくなにものか」をさがしもとめるこころみにほかならない [註86] 。それゆえに、「愛撫はさがしもとめ [﹅6] 、発掘する」(前出 [288/397] )。――とはいうものの、愛(end106)撫がさがしもとめる [﹅7] ものが発見されること、〈手〉にされることはけっしてない。愛撫が求めているものは、愛撫する〈手〉から絶えまなくこぼれ落ちてゆく。だから、愛撫はほんとうはなにも発掘 [﹅2] していない。つねにさがし、たえず掘りかえすだけである。愛撫は、そのゆえに、「不断に増大してゆく飢えのうちにある」。かくして、「愛撫はその到達点よりも遠くへとおもむき、存在するもののかなたをめざす」(同)ことになる。
 これは、愛撫の挫折であろうか。愛撫される〈肌〉は、触れたいと希求されているものと、じっさいに触れられるものとのあいだのずれ [﹅2] を、薄くほとんど透明な「隔たり」(écart)をふくんでいる [註87] 。他者の身体の表面を、その〈肌〉を愛撫することでひとが触れようとするものは他者そのもの、他者がまさに〈他者〉であることである。それはしかし「いまだ存在しない [﹅8] もの、けっして十分には未来となることがない未来、可能なものよりも遥かなもの」(285/392)として、愛撫する〈手〉からは滑りぬけてゆく。というより、すぐ〈手〉にはいる近さ [﹅2] にあるように見えて、けっして〈手〉のとどかない遠さ [﹅2] へと過ぎ去ってしまうのだ。

 (註85): E. Lévinas, Le temps et l'autre, p. 82.
 (註86): Ibid.
 (註87): Cf. E. Lévinas, Autrement qu'être, p. 143. (邦訳、一七一頁)

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、105~106; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • メモ: マーク・オーエンズ&ディーリア・オーエンズ『カラハリが呼んでいる』(早川書房)。「ネイチャー・ライティングの世界的名作」と。『ザリガニの鳴くところ』というのも「世界的ベストセラー」になっているらしい。ネイチャー・ライティングとか呼ばれるたぐいの文はやはりどうしても興味を惹かれる。
  • きょうは午後一時の起床になってしまった。これほど遅くなったのはひさしぶりだ。昨晩、午前二時か三時あたりから顔が痛くなりはじめて、床についたころにはそれがそこそこひどくなっていて寝入るのに苦しんだという事情がある。顔の痛みは頬というか鼻の横もしくは目の下あたりで皮膚か骨の内部に虫がはいりこんでうごめいているようなかんじの痛さで、どこに由来するものなのかもいまいちつかみづらく、鼻のようでもあるし歯痛のようでもあるし骨の問題のようでもある。それで後頭部とか頭蓋の側面とか鼻筋とかを揉んだりしていたのだけれど、けっきょく仰向けになってじっととまり、ヨガの死体のポーズか自律訓練法めいてうごかずにいるのがいちばん痛みがやわらぐようだったのでそのようにし、とまっているのにつかれると姿勢をくずし、ちょっと経つとまた仰向けで静止する、というふうにくりかえして、そのうちになんとか寝ついたようだった。きのう、鼻水がやたら出て、くしゃみもいつもより多く、体調がすこし乱れたわけだが、顔の痛みはその延長なのだろう。コロナウイルスの可能性もあるにはあるが、過去にも何度も経験していることで、おそらく鼻の奥に起因しているのだとおもう。季節の変わり目とか、あとは鼻毛を穴のなかまですべてきれいに切ったときに起こりがちなことで、鼻の粘膜に一時的に炎症が起こっているのだとおもう。鼻毛をきれいに切りすぎると埃とか空気中のもろもろの粒子とか花粉とかを毛がガードできずにそれらが奥までもろにとどくため、ふだん受けない刺激で容易に炎症が起こるのだとおもわれ、それに気づいてからは穴のなかまで鼻毛を切るのはやめた。今回なぜそれが起こったのか不明だが、夜間の気温が下がりつつあるところに窓を(網戸ではあるが)全開にしてねむったことか、それか先般の長雨の最中はつかわなかったエアコンをまたつかったので、埃とか黴のたぐいを吸ったということなのかもしれない。咳はないし、においや味がわからないということもなかったのでコロナウイルスではないだろう。午後九時現在だと体調はほぼ平常の感覚。五時ごろにアイロンかけをしたときにはまだ鼻水がほんのすこしだけなごり、またくしゃみも出たが、そこですでにからだは安定していた。
  • (……)
  • 新聞は書評欄に、中国共産党史の本二冊が紹介されてあった。選者は国分良成。筑摩選書と慶應義塾大学出版会のもので、前者がたしか『中国共産党、その百年』みたいな題で、後者はシンプルに『中国共産党の歴史』だったとおもう。著者はいずれもこの分野の第一人者的なひとらしいが、前者は独自の指摘や見地などもふくみつつコラムにも遊び心があってより著者の色が出ているようすで、たいして後者は実直な通史にこだわっていると。しかしいずれも良い仕事のようだ。選書は二〇〇〇円くらいで、後者も三〇〇〇円弱だったはず。こういうたぐいの本、というかつまり単行本の学術書が三〇〇〇円で出ていると、安いというかかなり良心的な値段だな、という感覚をもってしまう。
  • 書見はプルーストをすすめる。第三部「土地の名、――名 [﹅] 」はバルベックとかヴェネツィアとかフィレンツェにたいするあこがれからはなしがはじまって、じっさいにその土地をおとずれたことのない話者は伝聞でえた情報やじぶんの想像などからひきだされたさまざまなイメージや観念をその土地のなまえに付与してしまい、固有名詞のそれぞれがほかとはまったく異なった唯一個別の存在として話者のなかでふくらみ、現実のその街よりも現実的な(現実の街はとうぜん、ほかのさまざまの街と共通した要素をもちあわせており、比較可能なのだから)、言ってみれば観念的実在性みたいな性質をもってあこがれをかきたてる、みたいなはなしなのだけれど(ただ、話者が固有名詞にこめるイメージは伝聞情報のほかに、その名詞の発音の響きじたいによってひきだされることもしばしばあるようで、655~656の一段落ではその例が列挙されており、そのなかからさいしょのふたつを挙げておくなら、「たとえば、赤味をおびた高貴なレースをまとってあんなに背が高い、そしてその建物のいただきが最後のシラブルの古い黄金に照らされているバイユー Bayeux、そのアクサン・テギュが黒木の枠で、古びたガラス戸を菱形に仕切っているヴィトレ Vitré」というかんじなのだけれど、語の発音(の全体または一部)から視覚的イメージをひきだすというこの性質は第一部「コンブレー」でもすでに話者が見せていたもので、そこではまず、幻灯にあらわれたジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバンの「ブラバン」は「金褐色のひびき」(17)といわれているし、また、ゲルマントの antes というシラブルは「オレンジ色の光」(288)を放射するものなのだった)、これはこの小説中、すくなくともこの第一巻をとおして何度もくりかえし方々にあらわれているテーマで、第一部では話者はゲルマント夫人にたいしてそのような観念的実在化をほどこしていたし、また初恋のあいてジルベルトにかんしてもそのような志向はあったはずだ(「メゼグリーズのほう」へでむいた散歩のとちゅうにはじめてジルベルトと遭遇して以来、おさない話者はその父親であるスワンの名(「ほとんど神話的なものになったスワンというその名」)を耳にしたいという欲望をつよく持ち、家族の口からその名を発音させようと目論むのだが(241~242)、ジルベルトおよびスワンの名にたいするフェティッシュな欲望と、家族にそれを口にさせようという画策は、パリはシャン=ゼリゼにてジルベルトと再会し恋心をつのらせたあとの第三部でそっくりそのまま反復されている(695~696))。また、第二部「スワンの恋」でも、話者のそれとすこしことなってはいるものの、嫉妬に狂ったスワンはおもいがけない道筋でオデット(の浮気)のことをおもいださせる語やなまえにかんして、「ひどい打撃をくら」ったように苦しんでいる(607~608)。第三部では序盤もしくは前半で、上述したもろもろの土地にたいするあこがれと観念的実在化の作用がかたられながら、そのあこがれによって興奮しすぎたために旅の出発を目前にした話者はたおれてしまい、医者から旅行の禁止を言い渡されて憧憬の土地にむかうことができず、パリに残ってフランソワーズに同行されながらシャン=ゼリゼで遊ぶほかない、という説話的展開が見られるのだが、そのシャン=ゼリゼで話者は初恋のジルベルトと出会ってその遊び仲間になるいっぽう、彼が家に帰ってからジルベルトについて想像しこころのなかにいだくイメージと日々シャン=ゼリゼで現実に目の前にするときの彼女の実像との差異もしくは乖離というテーマ(第一部でゲルマント夫人にたいしてすでに見られた心的作用で、もっともこの第三部のジルベルトにかんしては、前者とはちがって幻滅や失望は明確ではないが)がかたられるわけで(675~677)、だから第三部のなかばからは、物語としては話者のむくわれない恋やジルベルトとの関係がかたられつつも、固有名詞や観念と現実、という前半のテーマが引き継がれて考察される、という構成になっている。
  • 「自己満足」ということばの醜悪さ。ある活動をおこなうそのひとじしんがじぶんのおこないについて(誇らかにであれ自虐的にであれ)言うならばともかく、誰か他人の行為について、肯定的にであれ否定的にであれ、そのことばをつかって規定することに非常な傲慢と破廉恥をおぼえる。あたかも人間がなにかをするにあたって、その意味や意図やひろがりや感じ方として満足するか否かしかないかのような(ひとがなにかをするにあたって満足する/させることこそが目的であるかのような、かならず満足しなければ/させなければならないかのような)、理解の基準としてその行為が「自己満足」であるか否かしか存在しないかのような、そのすくいようもなく貧しい還元ぶりに嫌悪をかんじる。ほとんど「自己責任」とおなじくらいに腐った複合名詞だとおもう。主述に分解されていればまだしもゆるせるかもしれない。つまり、じぶんじしんで満足できればそれでいいってことでしょ、というようなかんじで、文のかたちになっていればすこしは醜悪さが減じるような気がしないでもない。しかし、「自己満足」という四文字に固定され名詞化されていると(タームもしくはワードになっていると)、もうそれだけで、その標語性にうんざりするような破廉恥さをおぼえる。
  • 675: 「われわれはやがて年をとり快楽の修養をつめば、私がジルベルトのことを思ったのとおなじようにして、ただ女を思うという快楽だけに甘んじるようになり、心のなかの女の映像が現実と一致しているかどうかを知ろうとして気をもむこともなくなるし、また女から愛されているかどうかをたしかめる必要なくただ女を愛しているという快楽だけに満足するようにもなるのだ、あるいはさらに、相手の女の心をもっと根強くわれわれに傾けさせるために、たとえば一輪のみごとな花を咲かせようとして多くのつぼみを犠牲にする日本の園芸家にならって、われわれは自分が相手の女に心を傾けていることをその相手にうちあける快楽をあきらめるようにもなる」
  • 675~676: 「しかし私がシャン=ゼリゼに着くときがきて――そして私の恋を、私から独立した、その(end675)生きた実物に照らしあわせて、必要な修正をほどこすことができるときがきて――いざジルベルト・スワンのまえに出てみると、そのジルベルトは、私の記憶が疲れてはっきり思いうかべられなくなった彼女の映像を、ふたたび鮮明にするために、その顔を見ることを私が期待していたジルベルトにちがいなく、きのうもいっしょにあそび、いましも盲目的な本能で、たとえば、歩行中、考えるひまもなく右足を左足のまえにふみだすあの本能にも似た盲目的な本能で、その姿を認めて私がこちらから合図をしたばかりのジルベルトにちがいはないのだが、さてそのまえに出てみると、たちまちこの少女と私の夢の対象の少女とは、二つの異なる存在であるかのように、すべてがはこんでゆくのであった。たとえば、前夜から、まるくて、光っている頬のなかの、燃える二つの目を記憶にもっていても、さてその場になると、ジルベルトの顔は、ちょうど私が記憶にもっていなかったようなあるもの、鼻の鋭いとがりなどをわざと私に強調して見せるのであり、その鼻は、ただちに他の顔立とむすびつき、自然科学で種を定義する場合の重要な特徴のようになって、彼女をとがり鼻という種族の少女に変えてしまうのであった」
  • 654: 「『パルムの僧院』を読んでから、私のもっとも行きたい町の一つとなったパルムの名は、私には小ぢんまりした、なめらかな、モーヴ色をした、甘美なものとして思いうかべられていたから、私がむかえられるかもしれないパルマのどんな家の話が出ても、私には、なめらかな、小ぢんまりした、モーヴ色をした、甘美な住まいに落ちつくだろうと思ってたのしくなるのであった」: モーヴ色12・13
  • 678: 「またあるとき、古典劇の一つでラ・ベルマをききたいという欲望にいつもとりつかれていた私は、ベルゴットがラシーヌについて語っているもので、いま店には見つからない仮綴本を、ジルベルトがもっているかどうかをたずねたことがあった。彼女は表題をはっきり教えてほしいといった、そしてその夕方私は彼女に返事の速達を出したのであったが、そのとき、あんなにたびたび私のノートブックに書いたあのジルベルト・スワンの名をその封筒に書いたのであった。あくる日、彼女はその仮綴本をさがしてもらい、モーヴ色のほそい絹リボンでむすんで、白蠟で封をした包にしてもってきた」: モーヴ色14
  • 682: 「三時になれば、フランソワーズが校門まで私をむかえにきていて、それから私たちは、光でかざられ、群衆が雑踏している街路、バルコンが太陽によって家から切りはなされ、まるで金色の雲のようにもやもやして、家々のまえに浮かんでいる街路を通って、シャン=ゼリゼに向かって歩きだすのだ」
  • 683~684: 「ジルベルトがどちらのほうからくるかは、また多少おくれるかどうかは、けっして確実に知ることができないのであった、そしてこのように待ちこがれることが、ついにはシャン=ゼリゼの全区域と午後の全時間を、そのどの地点どの瞬間にもジルベルトの姿があらわれる可能性をもった広大な空間と時間とのひろがりのように思わせ、それらをいっそう感動的にしたのだが、そうした空間や時間だけでなく、またそこからあらわれる彼女の姿そのものをも感動的にしたのであった、というのも、そんな姿の背後に、私は、二時半ではなくて四時に、遊戯用のベレー帽のかわりに訪問用の帽子をかぶり、二つの(end683)ギニョルの小屋のあいだではなくて、「アンバサドゥール」のまえにいる彼女の姿が、私の心臓のまんなかに矢のように突きささることの理由が秘められているのを感じたからだし、また私は、シャン=ゼリゼにあらわれるジルベルトの姿の背後に、私が彼女のあとを追えない用向き、彼女を余儀なく外出させたり家にとどめたりする用向きのあれこれをさぐりあて、彼女の未知の生活の秘密にふれるからであった。おなじくまたその秘密にふれたのは、私がそのときぶっきらぼうなもの言いの少女の命令で、すぐ人とりあそびをしに走っていって、ジルベルトの姿を認めたときであった」
  • 684~685: 「彼とスワン夫人とは――ジルベルトはこの二人の娘としておなじ家で暮らしていて、彼女の勉強もあそびも友達との交際も、みんなこの両親次第であったのだから――私にとっては、ジルベルトと同様に、むしろ娘の上に君臨している全能の神としておそらくはジルベルト以上に、近づきにくい未知のもの、なやましい魅力なのであって、そうした未知の魅力の源泉(end684)はジルベルトのなかにあったにしても、それをジルベルト以上にもっていたのはその両親なのであった」
  • 686~687: 「彼はジルベルトに、一回だけ勝負をしてもよろしい、十五分だけ待ってあげようというのであった、そしてみんなとおなじように鉄の椅子に腰をかけ、フィリップ七世にたびたび握手されたその手で、椅子代を払って切符を受けとるのであった、一方私たちはいつもの芝生でゲームをはじめるのだが、追いたてられた鳩は、ハートの形をした、鳥の世界のリラの花のような、虹色の美しいからだをして、避難所にで(end686)も行くようにのがれてきて、あるものは石の大きな水盤におりたち、そのくちばしは水盤のふちにかくれながら、そのなかで木の実か種をあさっているように見え、そのようにして、木の実や種をゆたかに盛ってささげるような身ぶりを水盤にさせながら、そのささげ物の奉納先を水盤に指示しているように見えたし、あるものは彫像の頭上におりてきて、そこに七宝のかざりをかぶせ、そのかざりの多彩な複合色が古代作品の石材の単調さに変化をあたえているように見えるのであった、その頭かざりは、また女神につきもののあの象徴的な付属物のようであって、そのような付属物は女神を特別な形容で呼ぶいわれともなり、ちょうど人間にべつの呼び名をあたえるように、その女神に新しい神性を加えるものなのである」
  • 689: 「夕方になるといつも私はそんな手紙を想像してたのしみ、それを読んでいるような気になり、その文句を一つ一つ暗誦していた。突然私はどきりとして、それをやめるようになった。もしジルベルトから手紙をもらうことになるとすれば、やはりそんな手紙であるはずはないであろうということがわかってきたからであった、なぜなら、そんな手紙を現にいまつくりあげたのは、この私であったからだ。そして、そのときから、彼女に書き送ってもらいたいと思った言葉を自分の頭から遠ざけようとつとめるのであった、そうした言葉を自分で述べることによって、まさしくそれらを――もっともなつかしい、もっとも好ましい言葉を――可能な実現の場から排除してしまうことになりはしないかとおそれて。私の創案になる手紙が、たとえありそうもない暗合によって、ジルベルトのほうから私にあてた手紙に一致しようとも、そこに私は自分が書いた文章をすぐに見わけてしまって、私から生まれたのではない何物かを、現実の、新しい何物かを、受けとる印象を私はもたなかったであろうし、私の精神のそとにある幸福、私の意志から独立した幸福、恋によって実際にあたえられる幸福、そうした幸福を受けとる印象を私はもたなかったであろう」
  • 690~691: 「ベルゴットはといえば、この人によってまず私はジルベルトを見ない先から彼女を恋したのであった、そしていまも私が、このかぎりなく聡明な、(end690)ほとんど神のような老人を愛していたのは、何よりもジルベルトのためであった。ラシーヌについて書いた彼の文章を見るのとおなじたのしみで、私はこの本の、白蠟で大きな封印がおされ、モーヴ色のリボンの波にからまれて、彼女にはこばれてきた、その包紙をながめるのであった」: モーヴ色15
  • 695: 「私はパリの地図をいつも手近に置いていたが、そこにはスワン夫妻の住んでいる通がはっきり見わけられるので、私には宝ものがはいっているように思われた。そして、一つは快楽から、また一つは騎士道的な一種の忠誠心から、私は何につけてもその通の名を口にするので、私の恋の事情を母や祖母ほどよく知っていない父は、私にたずねるのであった」
  • 695~696: 「私はあらゆる事柄につけて家の人たちにスワンという名をいわせようと仕向けた、むろん、私は心でたえずその名をくりかえしてはいた、しかし、その名の快い音響がききたかったし、黙読では十分とは行かぬその名の音楽がききたかったのであった。それに、スワンというそ(end695)の名は、ずいぶん長いまえから知っていたのに、いまは私にとって、たとえば、よくつかわれる言葉についてある種の失語症患者に起こる現象のように、まったく新しい一つの名なのであった。それはいつも思考のまえにあらわれていながら、しかも思考はそれに慣れることができないのであった」
  • 703~704: 「ボワはまた、複雑で、さまざまな、そしてかこいでへだてられた、小さな社交場のよりあつまりであって――ヴァージニアの開墾地のように、幹の赤い木、アメリカ槲などが植わっている農園風の土地を、湖 [ラック] の岸のもみ林につづけたり、しなやかな毛皮につつまれた散歩の女がけもののような美しい目をして突然足早にとびだしてくる大樹林のつぎにもってきたりして――それは女たちの楽園 [﹅6] でもあった、そして――『アイネーイス』のなかの「天人花 [ミルトゥス] の道」のように――彼女たちのために全部一種類の木が植えられたアカシヤ [﹅4] の道には、有名な美人たち [﹅4] が足しげく訪れてくるのであった。あたかも、おっとせいが水にとびこむ岩のいただきが、おっとせいを見に行くことを知っている子供たちを遠くからよろこ(end703)びで夢中にさせるように、アカシヤ [﹅4] の道に着くよほど手前から、まずアカシヤの匂が、あたり一面に発散しながら、遠くから、強靭で柔軟なその植物の個性の、接近と特異性とを感じさせ、ついで私が近づいてゆくと、アカシヤの木々のいただきの葉むらが、軽くしなだれて、その親しみやすいエレガンスを、そのしゃれたカットを、その布の生地の上質の薄さを感じさせ、その葉むらの上には、羽をふるわせてうなっているめずらしい寄生虫の群体のように、無数の花が襲いかかっているのが目にとまり、ついには、アカシヤというその女性的な名までが、何か有閑婦人の甘美な魅力を思わせて、そうした匂、葉むら、名のかさなりが、社交的な快楽で、私の動悸をはげしくするのであった」
  • 706: 「そのヴィクトリアは、わざと高目につくられ、その「最新式」のぜいたくな装備を通して旧型にあてつけを送りながら、その座席の奥に、スワン夫人がくつろいで身を休めているのであり、彼女の髪はブロンドにいまは一房だけ灰色のものをまじえていたが、全体を花の、たいていはすみれの花の、ほそいバンドで締めて、そこから長いヴェールがさがり、手にはモーヴ色のパラソル、唇のほとりにはあいまいな微笑がたたえられ、その微笑のなかに、私は妃殿下の好意のようなものしか読みとらなかったが、そこには何よりもココットの媚がふくまれて(end706)いたのであって、彼女はそんな微笑を彼女に会釈する人々の上にやさしく傾けるのであった」: モーヴ色16
  • 707~708: 「そのうちに、はたして私は、歩行者の小道を私たちのほうに向かって歩いてくるスワン夫人(end707)の姿を認めるのであった。彼女はモーヴ色のドレスの裾を長くひきながら、ほかの婦人が身につけていない衣裳や豊富な装身具で、民衆が王妃かと想像するほどにかざりたて、ときどき視線をパラソルの柄に落としながら、通っている人々にはほとんど注意をはらわず、彼女の大事な仕事や目的は、自分が見られていることも、顔という顔が自分に向けられていることも考えないで、ただ運動することだけにあるとでもいうようだった」: モーヴ色17
  • 714: 「一筋の太陽の光がもっとも高い枝々を金色に染めだすと、それらの枝々は、樹林をすっぽり海底に沈めているエメラルド色の液体のような大気のなかから、ぬれたままきらきらとかがやいて浮かびあがってくるように見えた」
  • 717: 「もはやエレガンスというものがないこんにち、自分のなぐさめといえば、かつて知りあった女性たちを思いめぐらすことである。しかし、鳥籠か菜園で被われたような帽子をかぶったおそろしい女たちをながめている人々は、簡素なモーヴ色のカポート帽か、アイリスがたった一輪まっすぐにとびでている小さな帽子をかぶったスワン夫人を見たときの、あの美しい魅力を、どうして感じることができようか?」: モーヴ色18