2021/8/27, Fri.

 いわゆる「〈エロス〉の現象学」は、「愛は〈他者〉をめざし、その弱さをめざす」という一文で開始されていた。その現象学が「〈愛される者〉とは〈愛される女〉である」という立場から出発する以上、レヴィナスそのひとの記述は中立的(中性的)なものであるとはたしかにいいがたい一面をもつことになる(286/394)。
 だが他方、「弱さ」(faiblesse)とは、レヴィナスによれば、「他性そのもの」の性質である。〈弱さ〉、あるいはより積極的にかたりなおすなら、「やわらかさという様式 [﹅2] 」が、他者の他性それ自体をかたちづくっている。当面の場面でいえば、裸形の他者がさらしている「極端な脆さ」と「傷つきやすさ」(vulnérabilité)こそが、〈他者〉のありかをさししめしているのである(ibid.)。この「弱さ」と「脆さ」のゆえにこそ、他者はけっして「蹂躙」されない。傷つきやすい [﹅6] 、ほんのすこし引っ搔くだけで傷ついてしまう [﹅7] 、あ(end123)るいは傷つかないではいられない [﹅12] 裸形の〈肌〉が、つまり、〈私〉とのあいだをへだてている、薄くほとんど透明な「隔たり」(四・4既引)をしめす〈他者〉の皮膚が、他者の他性と、他者と私との関係そのものの比喩なのである。
 さらにふりかえるならば、レヴィナスは「家政」と「すみか」について論じる文脈ですでに、「現前にあって同時に、その撤退と不在においてあらわれる」他者についてかたり、「その現前が慎みぶかくも(discrètement)不在であるような〈他者〉」とは〈女性〉であるとかたっていた(166/233)。「〈女性〉の慎みぶかい現前」(185/259)という規定が、ジェンダーの規定として孕むであろう問題点については、いまはすべて措く。だがしかし、おもいなおしてみると、不在において現前し、その意味では〈慎み〉(discrétion)をもって、とはいえ〈おもいのままに〉(à discrétion)、しかも〈非連続〉(discret)に現前するのは、まさしく〈他者〉一般ではないだろうか。他者が〈無限〉であり、〈私〉が他者を〈渇望〉するということがらの消息のうちには、他者のこのような現前の様式があらかじめ書きこまれていたはずである。その意味では、『全体性と無限』のレヴィナスにあってすでに、他性(altérité)とは一種の〈女性性〉(féminité)であったのである。――女性は女性であるがゆえに踏みにじりえないのではない。女性性は(セックスとしてでもジェンダーとしてでもなく)他者性を表示するものであるがゆえに蹂躙されえないのである。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、123~124; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 帰宅後に休んでから夕食を取るときに夕刊を取って一面をおもてに出すと、アフガニスタンはカブールの空港付近でテロがあって、米兵をふくむ七〇人以上が死亡とのおおきな報があった。きのうの新聞で、米政府が空港付近でテロが起こる可能性が高いと、かなりたしかな筋からの情報として発表しちかづかないよう警告したという記事があったが、そのとおりの事態になってしまった。実行犯はISISの人間で声明も出ている。米兵およびタリバンの検問(米国は検問にかんしてタリバンに協力してもらっている)をくぐりぬけて自爆し、その後銃撃もあったという。とうぜんタリバンとISISの内通がうたがわれるわけだが、タリバン側は自組織の人間にも被害が出ており共謀はしていないと否定、ISISのほうも声明で、タリバン兵をふくめて殺した、と述べている。また、もともとISISはアル・カーイダから離反した組織だから折り合いが悪く、近年ではタリバンの戦闘員をひきぬいたりもしていて関係は悪化していたようだから、共謀はなさそう、とのことだ。ISISはここ数年アフガニスタンで何度か自爆テロを起こしており、まだ勢力はある程度健在で、米軍の撤退が決まってタリバンが実権を掌握したタイミングで存在感を示そうとことにおよんだのかもしれない、と。四月に正式に米軍撤退を宣言してのちタリバンの電撃的進攻をゆるして政府もうばわれ、あげく自国民や協力者の退避中に自爆テロを起こされたとあってバイデン政権はとうぜん批判されており、米国の信用や影響力の失墜はまぬがれないところだろう。
  • 夕刊には音楽ニュースも。ハイエイタス・カイヨーテが新作を出したとか。このバンドもなんだかんだいってぜんぜん聞いたことがないが。Official髭男dismもアルバムを出して、J-POPにあるまじき「常識外れ」の転調をした曲がヒットしているとか。Official髭男dismもちっとも聞いたことがないが、たぶんわりと洒落た音楽なのだとおもう。洒落た音楽が流行るという点で、いまの若い世代はすごいなとちょっとおもう。去年職場の生徒と面談したときにも髭男のなまえを挙げたひとが二人か三人いたはずなので、中高で洒落た音楽が流行っていて聞いているというのはじぶんのその当時をおもうとすごいなと。中高当時にまわりの人間がどんな音楽を聞いていたかなど正直ちっともおぼえちゃいないが、だいたいみんなふつうに流行りのJ-POPとかを聞いていたはずで、だからたとえばポルノグラフィティとか宇多田ヒカルとか浜崎あゆみとか、ぜんぜんおもいつかないがそのあたりだったのではないかとおもうのだけれど、流行っているものをふつうに聞くという点ではいまの中高生も変わらないのかもしれないが、その流行っているものが洒落てきているのがじぶんのときとはちがう気がする。じぶんは中学二年からDeep PurpleとかLed Zeppelinとかにはまって聞いていたわけなので、洒脱さのかけらもない。暑苦しさしか存在していない。洒脱なたぐいの音楽を聞けるようになったのは、高校の終わりか大学にはいってからだ。大学にはいってから本格的に趣味がジャズとかにひろがった。ギターを弾いていたからロックギター以外も聞こうという殊勝なこころがけでLarry CarltonとLee Ritenourだけはそれ以前にもすこしは聞いていたはずだが、なぜ純ジャズが好きになったのかはとくにおぼえていない。Evansの『Waltz For Debby』はわりとさいしょのうちからよく聞いていたとおもうが。『Sunday At The Village Vanguard』よりも『Waltz For Debby』のほうが好きだった。『Sunday At The Village Vanguard』は"Gloria's Step"からはじまって、わりと冷たいかんじの抽象的な色合いの曲が多かったはずで、やはりとっつきにくかったのだろう。『Waltz For Debby』はタイトル曲のイメージもあってか温かみがあるような、キャッチーな色合いが比較的つよくて聞きやすかったのだとおもう。
  • いま二八日の午前二時半で、うえでDeep Purpleと書いたからひさしぶりにDeep Purple『Made In Japan』などながしたのだけれど、"Child In Time"を聞きつつ、ハードロックとかヘヴィメタルっていうのはやっぱり基本的にダサい音楽なんだよな、とおもった。非常にマッチョで、言ってみれば天へ天へとただひたすらに高い建物をもとめた塔型近代建築みたいな音楽というか、どれだけ高い声でシャウトできるかとか、どれだけ速くギターを弾けるか、どれだけ長くツーバスでドコドコしていられるか、すくなくともひとつの側面ではそういうのを競いあう大仰なバカどもの音楽なのだ(能力合戦的な部分だけがこれらの音楽のダサさのよってきたるところではないだろうが)。それはダサい。ダサいが、そのダサさを離れたところでハードロックもヘヴィメタルもけっして成立しえないし、そのダサさと接したところでしかハードロックやヘヴィメタルの格好良さは生じえない。単に「ロック」と呼ばれる音楽とのちがいがそこにあるような気がする。ロックはまだしもダサさを逃れうる。しかしハードロックやヘヴィメタルは、ダサさとの拮抗のなかにしか存在しない。
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