2021/8/28, Sat.

 『全体性と無限』にあってもレヴィナスは、「〈私〉の唯一性」についてかたり、そのありかをむしろ、〈他者〉との関係のなかで私が逃れようもなく〈私〉であること、そのゆえに私が無限の〈責め〉を負わされていることのうちに見さだめていた(四・2)。第二の主著においても、ことの消息は基本的には変わらない。レヴィナスの説きようは、とはいえ、若干の変化を見せている。『存在するとはべつのしかたで』から引用する。

 〈私〉という唯一性は比較を絶している。それは、類の共通性、〈かたち〉の共通性の外部にあり、だからといって、自己のうちに休息することでもなく、動 - 揺 [in-quiète] であり、自己との一致でもないからである。その唯一性は自己の外部であり、自己との(end125)関係における差異なのである [註93] 。

 (……)自己差異化そのものである〈私〉の同一性は「自己の外部」から到来する。どうしてだろうか。
 それは、〈私〉がまさしく「〈同〉における〈他〉」として規定されているからである。「主体性は〈同〉における他 [﹅6] として構造化される。だが、意識のそれとはことなる様相で構造化されているのである [註94] 」。主体の同一性もまた、外部性と他者性によって構成されている。〈私〉が〈責め〉としてかたちづくられていることの、これはひとつの必然的な帰結にほかならない。

 (註93): E. Lévinas, Autrement qu'être, p. 21. (邦訳、二八頁)
 (註94): Ibid., p. 46. (邦訳、五九頁)

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、125~126; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • きょうはひさしぶりの休み。二時前くらいからミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)を読み出し、いま四時四〇分。三時間くらい読んでいたことになる。84から145まで。おもしろくてなかなか読み止める気にならなかった。労働にむかう時間を気にせず本を読んでいられるというのはすばらしく満足の行くことである。
  • 起床は一一時ちょうど。瞑想、一五分ほど。暑くてじっとしているのがむずかしい。起きてからしばらくはけっこうひかりがあったが、たぶん三時くらいから曇りにかたむいた。といって雲はなめらかで、薄水色もところどころに差されて暗くなくおだやかな色合い。下階に出されてあった布団を二枚、書見のとちゅうで両親の寝室に取りこんだ。
  • 新聞一面には昨晩の夕刊でもつたえられていたカブールでのテロの報があった。昨夜の報では死者は七〇人超だったが、それから数字が増えて一〇〇人以上となっていた。米兵一三人というのは変わらず。二面と三面にまたがって関連記事があったのでそれを読む。今回の件を受けて各国とも救出作戦の続行は困難だと判断しはじめているようで、だからアフガニスタンを脱出できずとりのこされるひとがけっこう出るのだとおもう。バイデンも三一日までで任務を終えるという姿勢をくずしていないようだし(ただいっぽうで、数日前にブリンケン国務長官のほうは八月を越えてもすべての米国人や協力者が退避できるまで救出はつづける、と述べていたはずだが、この二者の不一致はどういうことなのだろう――という疑問について、九月二日の時点から加筆しておくが、ブリンケンが言ったのは単純に、退避任務を終えて米軍がアフガニスタンから撤退したのちも残された米国人や協力者を脱出させるためのとりくみはつづける、ということだったのだろう)、そうすると、米軍が去ったあとに十分な治安維持は無理だから、そんななかでとても救出作戦など実行できない、というわけだろう。日本ももともとそのつもりで、数日前に自衛隊機を派遣したわけだけれど、米国が月末までに撤退するという事情を受けて、二七日か二八日までに作戦を終えるという計画だったらしい。それできのう、一人を移送したらしいが、たぶん自衛隊がはこんだのはけっきょくこのひとりだけなのだろうか? 機を派遣したはいいけれど、やはり空港に自主的に来てもらうのがむずかしく、しかもテロも起こってしまったわけだし、じっさいあまり大したはたらきはできなかったのだとおもう。自民党からも、もっとはやく自衛隊を派遣していたらまたちがったはずだ、という批判が出ているという。米国はいままでで一〇万人ほどを脱出させたと発表しているらしい。
  • あと、新倉俊一の訃報。九一歳。ずっと「しゅんいち」だとおもっていたのだが、「としかず」だった。とおもっていま検索したら、新倉俊一と書く文学者はふたりいて、「しゅんいち」がフランス文学のほうで、「としかず」は、訃報にもあったが、西脇順三郎とかパウンドとかを研究しているアメリカ文学者だった。びっくりした。たしかに、このひとって山田爵まわりでなまえが出てきた、中世文学を訳しているひとじゃなかったっけ? とはおもったのだ。山田爵のWikipediaを見てみると、たしかに、『狐物語』というのを新倉俊一と共訳している。蓮實重彦河出文庫の『ボヴァリー夫人』の解説で、恩師のこのしごとについて一瞬だけ触れていたようなおぼえがある。『ボヴァリー夫人』の冒頭(まさしくいちばんさいしょ)で、「ぼくらは自習室にいた。するとそこに、制服ではないふつうの服を着た転入生と、机を持ちはこんでいる小使がはいってきた」みたいな文があるのだけれど、ほかの訳者はみな「私服」とか「平服」みたいに簡略的にいいかえて訳しているところをわざわざ「制服ではないふつうの服」と律儀にことばをたどって訳している点に山田爵の散文性があらわれている、みたいな文脈だったはず。
  • 五時まえでうえに行き、米を磨いだ。もうすこしがまんして夕食を待ったほうが良いわけだが、あまりにも腹が減っていたので、ピザパンを食べることに。「フジパン」の品。電子レンジであたためているあいだ、ベランダの洗濯物を取りこんだ。タオルや足拭きや柵に干された薄布団。その後、椅子についてピザパンを食いながら新聞一面をまた読んだ。「デジタル奔流」。九月一日からデジタル庁が発足するらしい。政府は行政のデジタル化をすすめたい意向で、その目玉というか中心施策がマイナンバーカードなわけだが、じっさいまだまだ普及はしていない。一〇月からだったか、マイナンバーカードと健康保険証を一体化するしくみがはじまるらしく、将来的には運転免許証も統合する計画らしい。先行的に制度を実践している足立区の薬局の現場では、いぜんは番号をいちいち手打ちしなければならなかったのが、カードを読みこめばすぐに関連情報がすべて表示されるのでありがたい、との声が聞かれているようだ。しかしとうぜん個人情報のあつかいや流出にかんする懸念はあって、普及がすすんでいないのはそれが大きいだろうとのこと。
  • その後、アイロン掛け。
  • きのうの夕刊の音楽情報に載っていた黒木渚『死に損ないのパレード』という作品をAmazon Musicでながしてみたのだけれど、冒頭の"心がイエスと言ったなら"を聞くに、すごくJ-POPというかんじがして、このJ-POP感というのはなんなのだろうなとおもった。コード進行にもメロディにもそれをかんじたのだが。記事によればこのひとはいままで苦労があって、死をかんがえたことも一再ならずあったようなのだが、ところがどっこい生きているというわけで、じぶんで「七転び八起きの達人」とか自称しているらしく、こういう世相ということもあるし似たようなひとに元気をあたえられれば、みたいなことを言っていた。それでたしかに、『死に損ないのパレード』なんていう題名のわりに、やたらあかるく無害っぽい曲調ばかりになっている。まあ、特段にこちらが好きな音ではない。二〇一五年から小説も書いているとか。
  • その後、なぜかSIAM SHADEなんていうなまえをおもいだしてしまい、SIAM SHADEといえばこちらの世代では『るろうに剣心』のアニメのエンディング(のほうだったはずだが……オープニングはJUDY AND MARYの"そばかす"だったはず)に"1/3の純情な感情"がつかわれていて有名であり、この曲は同世代ならたぶんだいたいみんな知っているとおもうのだけれど、こちらは高校生のとき、当時持ちはじめたばかりだったガラケーでウェブにつないで、違法にアップロードされた楽曲を落とすことのできるなんだかよくわからん掲示板みたいなところでけっこう曲を落としており(二〇〇六年とか〇七年とかそのくらいのことで、当時の携帯の容量で接続するウェブなど、画像もほとんどないような殺風景な原始性ではなかったか?)、『SIAM SHADE Ⅱ』を全曲落として、高校の行き帰りにけっこう聞いた一時期があったのだ。なんかテクニカルなメロディアスハードロックというかんじでけっこう格好良くて、特にこの『Ⅱ』を多く聞いた記憶がある。というのをなぜかおもいだしてしまったのでAmazon Musicでながしたところ、ああこういうかんじだったな、となつかしい。ギターの刻みがこまかくて機動的によく動くかんじ。冒頭曲の歌前など聞くに、バックの演奏はいま聞いてもわりと格好良くおもえる。ただ歌と声はダサい。しかし、こういう方面の、ややヴィジュアル系はいったみたいなバンドはこういうかんじで良いのだ。しかしまあ、九〇年代の日本の音楽だな、というにおいがぷんぷんしている。ギターのDAITAはたしかPaul Reed Smithの(だからたぶんけっこう高い)ギターを(すくなくともソロになってからは)つかっていたはずで、かなりテクニカルなほうで、タッピングをもちいたレガートが得意だったはず。
  • SIAM SHADEはとちゅうで満足したし、なんかああいうたぐいの音楽につかれたので、もっと風通しの良いものを聞こうとおもってThe Five Corners Quintet『Chasin' The Jazz Gone By』をながした。手持ちがないし、AmazonにもないのでYouTubeだが。
  • 二二日の記事の書抜きをすすめたあと、夕食へ。ピーマンの肉詰めなど。夕刊にアフガニスタンの続報。死者は一七〇人越えと。米兵は一三人、タリバンは二八人が死んだらしい。米軍が東部ナンガルハル州で無人機をつかってISISを報復攻撃したという。攻撃時、戦闘員は移動中だったとかで、さらなるテロのために準備をしていたのかもしれないとのこと。また、自衛隊はきのうひとり移送したほかに、二六日にアフガニスタン人十数人をパキスタンにはこんでいたのだという。アフガニスタン国内には日本の大使館員やその家族など、最大で五〇〇人がのこっていると見られるらしい。
  • いま読んでいるミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の訳者である山田登世子という学者はどういうひとなのかなとおもって検索し、Wikipediaを見てみたところ、バルザックが専門のフランス文学者だというが、著作を見るかぎり文学というよりも社会文化についてよく書いたひとのようで、娼婦についてとかシャネルなどファッション方面についてなどものしている(『メディア都市パリ』という本の解説は工藤庸子らしい)。訳業にはバルザックボードリヤールやバルトの『モード論集』(ちくま学芸文庫のやつで、その存在はもちろん認識していたが、訳者はおぼえていなかった)などがあるけれど、目につくというかこういうのもやっているのかとおもうのはアラン・コルバンである。『においの歴史』(鹿島茂と共訳)と、『処女崇拝の系譜』(小倉孝誠と共訳)。アラン・コルバンがやっているアナール学派の正統な末裔というかんじの社会史・文化史的なしごとってどれもおもしろそうなのだけれど、いままで小倉孝誠が訳していた風景関連の小さな本一冊しか読んだことがない。しかもけっこうむかしなので、そんなにきちんと読めていなかった気がするし。
  • (……)さんのブログを二七日と二六日の二日分。
  • この日はきょうのことを書くとともに、二二日日曜日から二五日水曜日までの記事をかたづけた。おおかたは書抜きだが。本を読むとき、いまは二種類のページメモを取っていて、ひとつは手帳に気になった箇所の範囲(ページおよび行)をメモするもの、もうひとつはべつのノートにもっとひろい範囲での書抜き箇所をメモするもので、後者の書抜きは毎日日記のいちばんうえに順々に引いているものなのだけれど、それは去年読んだ本からもうたぶん三〇冊くらい溜まっていて、進行をだいぶサボっている。たいして前者のメモはその日読んだ範囲から気になった部分としてさいきんは毎日の日記にいちいち書き写しているわけで、これがだいぶ労力と時間を必要とするしごとなのだけれど、しかしやはり日々そうしたほうが良いんじゃないかという気がしているので怠けずやっている。そうしたほうが良いと思う根拠は特にない。もちろんいろいろ挙げることはできるだろうが、それよりも単純に、そうしたい気持ちがあるというだけのことだ。
  • 84: 「もっと一般的にいって、押しつけられたシステムをある一定のやりかたで利用する [﹅14] ことは、既成事実という歴史の掟に抵抗し、それを正当化する教義に抵抗することである。他者が樹立した秩序をあるやりかたで実践すれば、その秩序の空間は再配分されてしまう。少なくともそこには、対等でない諸力が作戦をめぐらすゲームが創りだされ、さらには、ユートピア的な道をめざすゲームが創りだされてゆく。そこにこそ、「民衆」文化の暗闇があらわれているのであろう――同化にはむかうあの黒い岩 [﹅3] が」
  • 85: 「ローマ街道やナポリ街道の道案内人がみせたそれにも似て、その道に通じた目利きをしたがえ、みずからの美学をそなえた名人芸 [マエステリア] が、権力の迷宮のなかで腕を発揮するのであり、その名人芸は、テクノクラシーの透明な世界のなか、なにか不透明なものと曖昧なもの――片隅にこもる暗がりと狡智――をもってたえず創始され、全体の管理など気にかけるでもなく、その世界のなかに消えていっては、また姿をあらわす。不幸の側にあってさえ、こうして操作する [マニピュレ] ことと楽しむこととの組み合わせによってなんとか工夫がこらされるのである」
  • 88~89: 「こうした方法のもつ欠点は、それが成功した条件でもあるのだが、文献資料をその歴史的な [﹅4] コンテキストから抽出し、さまざまな時間や場所や対抗関係からなる特定の情況下で(end88)話し手がおこなったもろもろの操作を [﹅3] 排除してしまうということである。科学的実践がその固有の領域で遂行されるためには、日常的な言語的実践が(そしてその戦術の空間が)消去されねばならないのだ。したがって、しかじかの時点に、しかじかの話し相手にむかって、あることわざを「うまくさしはさむ」無数のやりかたがあるということは、考察の外におかれてしまう。このような芸 [アール] は排除されてしまって、その芸の持ち主ともども、研究所から閉め出されてしまうのだ。いかなる科学も対象の限定と単純化を必要とするという理由からばかりでなく、およそあらゆる分析にさきだって科学の場所が成立するには、研究すべき対象をその場所まで移転させる [﹅5] ことができなければならないからである。考察しうるのは、持ち運び可能なものだけにかぎられる。根こそぎにできないものは、そもそもからして圏外に放置されてしまう。だからこそこれらの研究はディスクール [﹅6] に特権をさずけるのであり、世にディスクールほど容易にとらえて記録化し、安全な場所まで持ち運んで考察することのできるものはない。ところが、パロール行為 [﹅2] は情況からきりはなすことができないものである」
  • 90~91: 「道具とおなじように、ことわざもそれ以外のディスクールも、使用の跡を残している [﹅10] のだ。それらは分析にたいして、発話行為のプロ(end90)セスや行為がしるした刻印を指し示している [註14] 。それらは、それらをとりあつかったさまざまな操作 [﹅2] を意味しているのであり、そうした操作は状況にかかわっていて、発話なり実践なりの情勢に応じた様態付与 [﹅4] とみなすことができる [註15] 。さらにひろく言えば、それらは社会的歴史性 [﹅3] の指標なのであり、そこにおいては、表象システムも製作手続きも、もはや規範的な枠組みとしてのみならず、使用者たちが操った道具 [﹅11] としてたちあらわれるのである」; (註14): 「発話行為のプロセスが発話に刻みつける跡」を分析すること、周知のように、これこそまさに発話行為言語学の対象である。Cf. O. Ducrot et T. Todorov, Dictionnaire encyclopédique des sciences du langage, Seuil, 1972, p. 405.〔滝田文彦他訳『言語理論小事典』朝日出版社〕; (註15): 話し手が自分の発話(dictum あるいは lexis)になんらかの位置づけ(実在性、確実性、義務性、等々にかかわる)をあたえる様態にかんしては、たとえば次を参照せよ。Langages, n° 43, sept. 1976, 《Modalités》特集号、およびそこに付された参考文献、p. 116-124.
  • 94: 「民話や伝説も同様の役割をもっているのではなかろうか [註22] 。それらが繰りひろげられる空間も、ゲームと同様、日常的な競争の世界からきりはなされた例外的な空間であり、驚異、過去、起源の空間である。だからこそそこには、神々や英雄たちの姿をまといながら、日々つかえそうなうまい業、下手な業の模範が並べられているのだ。そこで物語られるのは、さまざまな手口であって、真理ではない」; (註22): 民衆における「規律」と「信仰」を論じたNicole Belmontの研究に照らして、ゲームと民話の相関関係を分析できるのではないだろうか。Nicole Belmont, 《Les croyances populaires comme récit mythologique》, in l'Homme, X, 2, 1970, p. 94-108.
  • 94~95: 「かれプロップは四百の魔法昔話を調べあげ、それらを機能 [﹅2] の「基本的連続」に還元した [註24] 。「機能」とは、「筋の展開にはたしている意義という観点からみた、人物の行為 [アクシオン] [註25] 」である。A・レニエが指摘しているように、これらの機能がすべて同質的な統一性をそなえているかどうかは確かではないし、レヴィ=ストロースとグレマスがそれぞれに示したように、分割された諸(end94)単位が不変であるかどうかについても確かではない。それでもプロップがいまなお新しさを失っていない点は、かれが意味でも人物でもなく、葛藤をはらんだ状況下におかれた行為を基本的単位として、それをもとに、お伽話がさまざまな戦術の一覧と組み合わせを呈示していることを分析してみせたことである」; (註24): 「基本的連続」ということばはレニエによる。A. Régnier, 《De la morphologie selon V. J. Propp à la notion de système préinterprétatif》, in l'Homme et la Société, n° 12, p. 172.; (註25): Vladimir Propp, Morphologie du conte (1928), trad., Gallimard et Seuil, 1970, p. 31.
  • 96~97: 「このように特殊状況に応じて戦術を選び、他から押しつけられた空間をあやつるという(end96)のが、「発話行為」という実践に特有の様態だが、こうした様態が浮きぼりにされてくる以上のような例にならっていけば、「ものをなす術 [アール・ド・フェール] 」という広大な領域を分析する可能性がひらけてくる。このような「術 [アール] 」は、(高等教育から初等教育まで)教育によって上から下まで資格化された文化を支配しているモデルとは別物である。このモデルのほうは、何ごとにつけ、話し手にも情況にもかかわりなく、固有の場(科学的空間とか、書くための白いページとか)を設定しようとかかり、その固有の場で、生産と反復と検証を保証するような諸規則に従ってシステムを構築してゆかねばならないようになっているが、そうしたモデルといまとりあげている、ものをなす術とは異なったものだ」
  • 101: 「だが実際に起こっている事態はそんなことではなく、「民衆たちの」戦術が、そのうち体制も変わるだろうなどという甘い幻想をいだかずに、さっさと自分らの目的のために何かを横領しているということなのだ。一方で支配権力によって搾取されたり、イデオロギー的なディスクールによって頭から否認されたりしているのと対照的に、ここでは、秩序がある芸 [アール] によってもてあそばれて [﹅7] いる。本来なら制度に奉仕すべきところを、その制度のなかに、こうしてひとつの社会的交換のスタイルと、技術的制作 [アンヴァンシオン] のスタイル、そして倫理的レジスタンスのスタイルが紛れこんでいるのである。すなわちそれらは、ある「贈与 [﹅2] 」の経済(気前よくわかちあえることから、報復をひきうけることまで)であり、(名人の操作にそなわる)「腕前 [﹅2] 」の美学であり、そして不屈 [﹅2] の倫理(既成秩序にたいして、掟や意味や宿命という資格をあたえまいとする千のやりかた)である」
  • 101~102: 「労働によるそして労働のための専門分化という離接的なロジックによって時間と場所の囲いこみはますます強化してゆく一方だが、これに対抗するのに、もはやマスコミュニケ(end101)ーションなどという連接的儀礼ではとうていたちうちできるものではない。けれども、だからといってこの事実 [﹅2] がわれわれの掟 [﹅] になろうはずはないだろう。われらが慈善家たちのおこなっている寄贈と「競争しつつ」、労働者を分断してこきつかう制度から、その資材の生産物を失敬し、それをかれらに贈る務めをはたせば、この事実を曲げてしまうことができるのだ。このような経済的横領 [﹅2] という実践は、事実上、経済システムのなかにひとつの社会政治的な倫理が回帰していることである。おそらくそれはモースの言うポトラッチを志向するもの、互酬性にもとづき、「あたえる義務」によって分節化された社会網を編成してゆく、あの自発的な貢のゲームを志向するものであろう [註31] 」; (註31): Marcel Mauss, Sociologie et anthropologie, P.U.F., 1966: 《Essai sur le don》, p. 145-279.〔有地亨・伊藤昌司・山口俊夫訳『社会学と人類学』Ⅰ、弘文堂〕
  • 104: 「ひとつの技 [アール] と連帯をあらわすようなテクストを創作しよう。あの無償交換というゲームをやろう。上司や同僚が「目をつむる」だけではあきたらず、ペナルティを科したっていいではないか。結託の跡を残し、器用な細工の跡を残すような制作をすること。贈与には贈り物でこたえること。こうして、科学の工場のなかで機械のための仕事を強制してくる掟をくつがえし、これと同じロジックで、創造せよという要請と、「あたえる義務」とを、なしくずし的に無くしてゆくこと」
  • 108: 「ちょうどものの使用法 [﹅3/モード・ダンプロワ] のように、こうした「もののやりかた」は、使うひとによって効能もさまざまにちがってくるものの働きを活かしながら、そこに遊び [ゲーム] を創りだしてゆく。たとえば(家でも言語でも)、故郷のカビリアに独特の「住みかた」、話しかたがあり、パリやルベーに住むマグレブ人は、低家賃住宅の構造やフランス語の構造が押しつけてくるシステムのなかに [﹅3] これをしのびこませるのである。かれは、二重にかさねあわせたその組み合わせによって、場所や言語 [ラング] を強制してくる秩序をいろいろなふうに使用する [﹅12] ひとつのゲーム空間を創りだす。否応なくそこで生きてゆかねばならず、しかも一定の掟を押しつけてくる場から出てゆくのではなく、その場に複数性 [﹅3] をしつらえ、創造性をしつらえるのだ」
  • 112: 「かれらは中からそれらを覆していた――それらを拒否したり転換したり(そういうこともあったが)することによってではなく、植民地化を逃れえないまま、それとは異質 [エトランジェ] の規則や慣習や信条のためにそれを使う無数のやりかたをとおしてそうしていたのである [註4] 。かれらは支配秩序をメタファーに変え、別の使用域で機能させていた。かれらを同化し、外面的にかれらを同化する秩序のただなかにありながら、かれらは他者のままでありつづけていた。その秩序からはなれることなく、それを横領していたのである」; (註4): たとえばペルーやボリビアアイマラ族について次を見よ。J.-E. Monast, On les croyait chrétiens: les Aymaras, Cerf, 1969.
  • 113~114: 「ギルバート・ライルは、ソシュールが「ラング」(システム)と「パロール」(行為)のあいだにうちたてた区別を再検討しながら、前者を資本 [﹅2] に、後者を、それによって可能となる操作 [﹅2] に比している。一方にストックがあり、他方にさまざまな用途や使用法があるわけである [註6] 。消費にそくして言えば、生産が資本を提供し、使用者は、(end113)ちょうど貸借人とおなじように、この資産の所有者になるわけではないが、それに操作をくわえる権利を獲得するといってほぼまちがいないであろう」; (註6): G. Ryle, 《Use, usage and meaning》, in G. H. R. Parkinson (ed.), The Theory of meaning, Oxford University Press, 1968, p. 109-116. 同書の大部分が使用法を論じている。
  • 114~115: 「事実、発話行為というものは次のことを前提としている。(1)なにかを語ることによって言語システムの可能性を現動化する実行活動 [﹅4] (言語は話(end114)す行為のなかでしか現実化しない)。(2)言語を話す話し手による言語の適用 [﹅2] 。(3)話し相手(現実ないし虚構の)の導入、したがって相互的な契約 [﹅2] あるいは話しかけの設定(ひとはだれかにむかって話す)。(4)話す「わたし」の行為による現在 [﹅2] の創設。そしてこれにともなう時間の編成、というのも「現在はなかんずく時間の源泉であるから」(現在は、以前と以後を創りだす)。そして世界への現存である「いま」の存在 [註9] 」; (註9): Cf. Emile Benveniste, Problèmes de linguistique générale, t. 2, Gallimard, 1974, p. 79-88.
  • 115: 「以上の要素(実現すること、適用すること、関係のなかに組みこまれること、時間のなかに身をおくこと)によって、発話行為、そしてこれにともなう言語使用は、さまざまな情況の結び目となり、「コンテキスト」からきりはなしえない結節となるのであって、発話行為は抽象的にしかこのコンテキストから区別されえない。語るという行為は、いまある瞬間 [﹅2] 、特殊な [﹅3] 情況、そして何かをやること [﹅7] (なんらかの言語をうみだし、ある関係の力関係を変えること)ときりはなすことができないものであって、ある一定の [﹅5] 言語の使用であり、言語にくわえられる [﹅7] 操作なのである。こうした使用法がすべて消費にもあてはまるものと仮定すれば、このモデルを数多くの非言語的な操作に適用することができる」
  • 119: 「わたしが戦略 [﹅2] とよぶのは、ある意志と権力の主体(企業、軍隊、都市、学術制度など)が、周囲から独立してはじめて可能になる力関係の計算(または操作 [マニピュラシオン] )のことである。こうした戦略が前提にしているのは、自分のもの [﹅5] 〔固有のもの〕として境界線をひくことができ、標的とか脅威とかいった外部 [﹅2] (客や競争相手、敵、都市周辺の田舎、研究の目標や対象、等々)との関係を管理するための基地にできるような、ある一定の場所 [﹅7] である。経理の場合がそうであるように、すべて「戦略的な」合理化というものは、まずはじめに、「周囲」から「自分のもの [プロープル] 」を、すなわち自分の権力と意志の場所をとりだして区別してかかる。言うなればそれはデカルト的な身ぶりである。《他者》の視えざる力によって魔術にかけられた世界から身をまもるべく、自分のものを境界線でかこむこと。科学、政治、軍事を問わず、近代にふさわしい身ぶりなのだ」
  • 120: 「知の権力 [﹅4] とは、こうして歴史の不確実性を読みうる空間に変えてしまう能力のことであると定義してもまちがいではあるまい」
  • 120~121: 「このようにして軍事的戦略も科学的戦略も、つねに「固有の」領域(自治都市、「中立」ないし「独立」の制度、「利害をこえた自主独立の」研究をかかげる研究所、等々)を設定してはじめて創始されたのであった。いいかえれば、こうした知の先行条件として権力がある [﹅18] の(end120)であり、権力はたんに知の結果や属性ではないのである。権力が知を可能にし、いやおうなくその特性を規定してしまうのだ。知は権力のなかで生産されるのである」
  • 124: 「かたや戦術は、時間にかかわってはじめて力を発揮する手続きのことである――それは、なにかが起こるまさにその瞬間に好機にかわる情況をとらえ、一瞬のうちに空間配置をかえる迅速さをそなえており、「打つ手」のあとさきに気をくばり、種々雑多なものについてそれぞれの持続とリズムが交差しているのに注意をこらす」
  • 125: 「こうしてみれば戦略と戦術の相違は、行動をとるか安定性をとるかという、歴史にかかわる二つの選択に帰着する(ただし二つの可能性というより二つの制約のあいだの選択だが)。戦略のほうは、時間による消滅にあらがう場所の確立 [﹅5] に賭けようとする。いっぽう戦術はたくみな時間の利用 [﹅5] に賭け、時間がさしだしてくれる機会と、樹立された権力に時間がおよぼす働きに賭けようとする」
  • 128: 「消費者は移住者に変貌していっている。かれらがそのなかを行き来しているシステムは、かれらをそのどこかにつなぎとめるにはあまりにも広大であり、といってかれらがそこから逃れてよそに行ってしまうにはあまりに細かい碁盤目に包囲されている。もうそこには、よそという場などありはしないのだ。こうした事態とともに、「戦略的」モデルもまた変化している。まるでそれは、自己の成功によって自己自身を見失ったかのようでもある。というのもこの戦略的モデルは、残りと区別された「自分のもの」をよりどころにしていたのに、いまやすべてが「自分のもの」になってしまっているからである。もしかしたらその転換能力は徐々につきていって、あるサイバネティックス型の社会が活動をくりひろげるような空間(いにしえのコスモスとおなじくらい全体的な)をつくりだしているのかもしれず、そこでは、目に見えず名づけることもできない無数の戦術のブラウン運動が起こっているのかもしれない」
  • 129~130: 「分析というものは重要にはちがいないが、抑圧 [﹅2] の制度とメカニズムを記述することにのみ熱心で、それに偏しているきらいがある。さまざまな研究領域で抑圧という問題系がなにより重視されているのは驚くにあたらない。しかしながら科学という制度は、科学が研究しようとしている当のシステムそのものの一部をなしているのである。システムを考察しながら、ともすれば科学は、なれあい談義というあのお決まりの型にはまってしまう(批判というものは、依存関係のなかにありながら、距離を保っているかのような外観をうみだすが、批判的イデオロギーだからといってイデオロギーの作用はいささかも変わるわけではない)。そればかりか、科学はそこで、悪魔とか狼男とかいった、なにやら恐ろしげな尾鰭をつけくわえさえして、夜になると家でそれが語り草になるというわけである。だが、このような装(end129)置それじたいによる自己解明にありがちな欠点は、この装置にとって異質なものである実践、この装置が抑圧している、あるいは抑圧していると信じている実践のすがたを見ようとしない [﹅7] ことである。けれども、こうした実践がこの装置のなかにもまた [﹅3] 生きていても少しも不思議ではないし、いずれにしろこれらの実践はこれまた [﹅4] 社会生活の一部をなしているのであって、不断の変化に適応し柔軟性に富んでいるだけ、この実践のほうがもちこたえる力は大きい。日々たえることなく、それでいてとらえどころのないこの現実を探ろうとするとき、われわれは社会の夜を探訪しているかのような印象におそわれる。昼よりも長い夜、相次いだもろもろの制度がばらばらに断ち切られてゆく闇のひろがり、無辺の海のはるけさ。その海のなかでは、社会経済的な諸制度など、かりそめのはかない島々に見えることだろう」
  • 130~131: 「分析というものはど(end130)うしても、こうした実践を技術的装置の端のほう、これらの実践がその分析道具に変化をくわえたり、その方向をそらしたりする、際どいところでしか把握できないものなのだ。こうしてみれば、研究される対象にたいして周縁的なのは研究そのもののほうである」
  • 135: 「研究所であれ、実験室であれ、ある研究がなんらかの対象を生産したということは、その研究が、さまざまな研究のおかげをこうむっており、また自分のほうでもそこに多少とも独創性のある寄与をもたらしたということである。したがってそうした生産物は、「問題の現況」にかかわっている。つまり専門家どうし、テクスト相互間の交換のネットワーク [﹅9] にかかわり、進行中の研究作業の「弁証法 [ディアレクティーク] 〔問答法〕」にかかわっている(「弁証法」というこのことばが、十六世紀のように、同じひとつの舞台のうえでさまざまな身ぶりが相互にからみあう動きを指し、それらの差異を「超越」したり、総合したりする特別な場をさずけられた権力を指すのでないとすれば)」
  • 137: 「だからこそまた「影響」とよばれるたがいの立場関係も、近かれ遠かれ、それを「客観的」にあらわすことなどできはしないのである。この立場関係は、それがもちきたらす変容と作用の結果をとおして、テクストのなかに(あるいは、それが何の研究なのかという規定のなかに)おのずとあらわれる。負債は対象に変わってしまうものでもないのである。さまざまな交換とか読書とか照合とかいったものが研究の可能性の条件を形成しているが、ひとつひとつの研究は百面体の鏡であり(その空間のいたるところに、他の研究がはねかえってくる)、ただしひび割れて歪んでしまった鏡なのである(それら他の研究はそこで粉々に砕け、様がわりしてしまう)」
  • 141: 「この権力には所有者もなければ特権的な場があるわけでもなく、上司もなければ部下もなく、なにか抑圧的な作用をおよぼすのでもなければ、教義体系をそなえているわけでもないのであって、もっぱら考察する対象を空間的に配置し、分類し、分析し、個体化するテクノロジーの力能をとおして、なかば自動的に力を発揮するのである(そのあいだに、イデオロギーのほうは「無駄口」をきいているのだ!)。一連の臨床的な一覧表(それじたい素晴らしく「一望監視的」な)をかかげながら、フーコーはみずからもまた、「権力の微視的物理学」を構成する「一般的規則」や「作用の条件」、「技術」と「手法」、さまざまに異なる「操作」や「メカニズム」や「原理」、そして「要素」を名づけ、分類しようとしている。このような構成要素一覧は、ディスクールなき実践をひとつの社会的な層 [ストラート] として切りとり、取りだすとともに、こうした実践にかんするひとつのディスクールを確立するという二重のはたらきをそなえている」
  • 144~145: 「ひとつの社会は、その社会の規範的諸制度を組織化するような、他にぬきんでた幾つかの実践によって構成され、そしてまた [﹅5] これとは別の無数の「マイナーな」実践によって構(end144)成されているのであって、そうしたマイナーな実践は、たとえディスクールを組織化しなくても、たえずそこに存在しつづけ、この社会からみてもまた別の社会からみても異質な、なにかの萌芽や、(制度上、科学上の)仮説の余地を保ちつづけているにちがいない。このようにひっそりと口をとざした多様な実践の「備蓄」のなかにこそ、「消費にかかわる」実践をさがしもとめるべきであろう」