第二の主著『存在するとはべつのしかたで』にあってレヴィナスは、老いてゆく身体の時間性を見つめている。「〈自己に反して [﹅6] 〉(malgré soi)ということが、生きることそのものにおける生をしるしづけている。生とは生に反する生である。生の忍耐によって、生が老いることによってそうなのである」(86/105)。生は生に反して [﹅5] 剝がれおちてゆく。生は生であるとともに [﹅4] 、生が剝離してゆくことである。生はじぶんを維持しようとして、かえってみずからを失ってゆく。時間が時間であるとは、生のなかで生が剝落してゆくことである。生が「忍耐」であり、「老いること」が生にとって必然的である、すなわち避けがたいことがらである、とはそういうことだ。生とは「回収不能な経過」であり、老いることは「いっさいの意志の外部」にある(90/110)。どのような意志も老いてゆくことに抵抗することができず、意志それ自体もやがて死滅するからである。――私とは時間である。ただし「ディアクロニー」としての、「同一性が散逸すること」としての、絶えず自己を喪失してゆくこととしての時間の時間化である(88/107)。「主体」が「時(end138)間のうちに [﹅3] あるわけではない。主体がディアクロニーそのものなのである」(96/117)。
レヴィナスのいうディアクロニーはしかし「たんなる喪失」(66/82)ではなく、時間はたんなる悲劇ではない。レヴィナスが見つめようとするものは、時間の〈倫理〉的な側面である。ディアクロニーとはとりあえず、私の現在へと回収しえない、「隣人の他性」(239/278)そのもの、差異がかたちづくる時間でもある。他者と〈私〉とは差異によってへだてられ、時間性は差異によって散乱してゆく。他者との時間を私は、ともに在る現在として経験することができない。他者の現前に、私の現在はつねにいやおうなく「遅れて」しまう、ともレヴィナスはかたる。他者と〈私〉とが差異によってへだてられているとは、そのことにほかならない。目のまえの他者もまた、歴史と時間の傷跡を皺のあいだに刻みこみ、ほどなく死者となってゆくことにおいて、私をさけがたく「強迫」しつづける。かくして私は、他者との絶対的差異にもかかわらず、あるいは他者との遥かな隔たりのゆえに、他者にたいして「無関心であることができない」。
時間への問いは、レヴィナスにあってはこうして、〈他者との関係〉への問いとなり、〈倫理〉をめぐる問いかけとなる。あるいは、他者との関係に目を凝らし、他者という差異のかたちを〈倫理〉そのものとして見さだめようとするレヴィナスの思考は、そもそものはじめからもうひとつの時間 [﹅8] をめぐる思考、ないしは時間をめぐるもうひとつの思考 [﹅8] であったといってもよい。(……)
(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、138~139; 第Ⅱ部「はじめに――移ろいゆくものへ」)
- 八時のアラームで覚醒。起き上がって携帯をとめるとベッドに舞い戻る。二度寝にはおちいらなかったものの、そこから正式な起床まで時間がかかり、八時五〇分。天気は晴れ。
- (……)時間があまりなかったので瞑想はせず、部屋を出るとそのまま上階に行って、うがいをしたり顔を洗ったり。食事は煮込み素麺。きのうつくってあったナスと豚肉のはいったスープに母親が折った乾麺を入れたので、鍋のまえでしばらく立って、かきまぜながら柔らかくなるのを待った。そうして卓に行って食事。新聞は父親が読んでいたのできのうの新聞を見る。「奔流デジタル」の記事。千葉県印西市に各社のデータセンターがたくさんつくられているということや、中国が情報流出を懸念して国内IT企業への締めつけをつよめているというはなしなど。滴滴(ディディ)という配車サービス会社がニューヨーク証券取引所に上場したのだが、それにさいしてもまったく華々しい記念演出はなく、その数日後に政府の審査対象になって規制を受けたとか。ディディは毎日二五〇〇万件ほどの利用情報を蓄積しており、どこから乗ってどこで降りたとか、町の地理や建物の分布なども詳細にデータ化されていたようなのだが、それが外国に流出して安全保障上のリスクになることを防ぎたいのだろうと。アリババも、アリペイを基軸にして保険とかさまざまなサービスを展開しているらしいところ、中国の中央銀行だかの副総裁だかが、そのような金融商品販売のモデルはやめるべきだみたいなことを言ったとか。
- (……)
- いま三一日の午前一時四〇分。過去の日記の読みかえし兼検閲でもするかというわけで、2020/1/18, Sat.をブログで読んでいる。2016/12/17, Sat.および2016/8/20から情景描写がそれぞれ引かれているのだが、そのどちらもなかなか悪くなく書けているようにおもわれた。ひとつめの記述では、「白く締まって満ちるように艶めいて」といういいかたが良い。また、「どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに」の、「~~だけに」などといういいかたはもうずっとつかったおぼえがない。もしかしたらこのとき以来いちどもつかっていないかもしれない。まがい物のほうが本物よりも真実味を帯びる、という逆説のテーマはありふれたものだが、なかなかロマンティックに書けていて悪くない。後者の記述もちいさなもののささやかな現象をずいぶんと綿密に、熱心に書いているなという印象。
ガラスを埋め尽くす汚れは陽に浮き彫りとなって、その一つ一つが白く締まって満ちるように艶めいて、例によって馴染みのイメージの反復だが、星屑の集合のように目に映り、宇宙の一画を切り取って縮小したかのようで、現実の夜空の表面は、どんな澄んだ藍色の時にもこれほど無数の輝きに満たされることなどあり得ないだけに、白昼の太陽のなかでのみ目に映る紛い物のこの星空は、それが紛い物であるがゆえに星天の理想的な像をいっとき受け持って具現化してみせるのだろう、本物よりもかえって、星屑という言葉を付すのに似つかわしいような感じがするのだった。
*
それで窓を眺めていると、外の電灯が流れて行く時に、白であれ黄色っぽいものであれ赤みがかった暖色灯であれみなおしなべて例外なく、その光の周囲に電磁波を纏っているような風に、放電現象の如く細かく振動する嵩を膨らませながら通過していく。それは初めて目にするもので、なぜそんな事象が起こっているのかしばらくわからなかったのだが、途中の駅で少々停車している際に、ガラスに目をやると先の雨の名残りが――と言ってこの頃にはまた降りはじめていたのだが――無数に付着していて、その粒の一つ一つが、いまは静止している白い街灯の光を吸収して分け持っているのを発見し、これだなと気付いた。灯火が水粒の敷き詰められた地帯を踏み越えて行く際に、無数の粒のそれぞれに刹那飛び移り、それによって分散させられ、広げられ、また起伏を付与されて乱されながら滑り抜けて行くので、あたかも乱反射めいた揺動が光に生じ、実際にそうした効果が演じられているのは目と鼻の先のガラスの表面においてなのだが、街灯のほうに瞳の焦点を合わせているとまるで、電車の外の空中に現実に電気の衣が生まれているかのように見えるのだった。
- 茶も飲み終わり、面倒臭くなったので、うえの引用部のところまでで読むのをやめた。
- 出勤まえにはミシェル・ド・セルトーをすこしだけ読み、(……)さんのブログを二九日と二八日の分読み、洗濯物をたたむなど。いつもよりはやく起きて眠りがすくないので、書見のあいださすがに眠気のきざすときがあったが、それも一〇分か一五分そこら目を閉じていると容易に散って、五時間ほどしか床にとどまらず、睡眠でかんがえると実質四時間しか寝ていなかったわりにからだの乱れはそこまでではない。と言って、労働して帰宅したあとはやはりあたまが重くてまた二〇分か三〇分か意識を切ることになったが。
- 四時かそのくらいから窓外のちかくで男性のトーク音声がおおきく聞こえていて、おそらく(……)さんがまたラジオを聞くか動画をながすかしているらしかった。内容はよく聞き取れず。
- 家を出るまえにワイシャツすがたで洗濯物をたたんでいると、もう五時なのに空気がずいぶん蒸し暑く、身がつつまれ封じられるような、密閉的な熱気だった。
- 五時過ぎで出勤路へ。玄関を出ると父親が水場のまえだったかポストのまえだったかにおり、ふりむいてなんとか言ってきたので、行ってくらあ、とゆるくかえす。きょうは何時まで? との問いに、さいごまで、とこたえて道に出ると、西へ向かった。空は暗くはないもののなめらかに薄雲まじりで、そのせいもあるだろうがあたりはおろか南の川向こうにももはや陽の色がはっきりと見えず、だいぶ日も短くなったようだなとおもわれた。(……)さんと(……)さんの宅のあいだには白の、(……)さんの庭には紅色の、それぞれサルスベリが花を厚く咲かせ、色をあつめてボンボンかシュシュか毬のような小球を、あまり整然とせずおおきさもかたちも違えていくつも浮かべた様相になっていた。
- 坂をのぼれば抜けるころにはやはり汗で肌がべたついている。駅前の横断歩道から見ると雲につつまれて弱くなりながら落ちゆく太陽もやはりずいぶん西寄りの低い位置、林の梢にほどちかいところにもうかたよっていて、秋へとむかう季節が再度おもわれる。ホームにうつると、おとろえて弱々しいとはいえ陽のひかりがななめにながれるように差しており、通りすがりの花の香のように淡い日なたとそれに応じた色しかもたない蔭とがかろうじて分かれ、陽の先にあるマンションは壁をすべてつつまれながらも大して色も変えず、ただ電線の影をやさしく捺されて浮かべているばかり、そんななかでもあるいていけば首から喉から胸から顔からと汗が肌を濡らしていて、とまるとハンカチで湿りをぬぐわずにはいられなかった。
- 電車内では扉際へ。立ったまま手すりをつかんで瞑目。席が埋まっていて座れないのだ。山に行ってきたひとがやはり多いようだが、背後の話し声のなかに、男女ひとりずつの英語が混ざっていた。ところどころのフレーズを聞き取ることはできるのだが、電車の走行音にもまぎれて、全体としてなんのはなしをしていたのかはわからず。
- 最寄り駅からの帰路。坂のとちゅうから、道の奥のほうから浮遊してくるようにして風が生じ、やわらかかったが、くだって平路を行けばそれがさらにふくらんでここちよく、おもわず足をゆるめて歩を遅めながら浴びるようになった。公営住宅の敷地をくぎるフェンスを前後からかこむように伸びた草ぐさが身を反らして揺れ、路上にまばらに落ちている葉っぱも小動物めいてちょっとすべって道をこすり、風は膜か糸束をからだにかけられたようにやわらかだけれど涼しくはなく、もう九月目前であたりの虫も秋の声というのにぬるい夏夜のながれだった。
- いま二時四〇分まえ。この日のことをはやめにしるせて良かった。やはりそとでからだに感覚したものをよくおぼえているうちに十分に記述できるというのが充実するようで、べつにきわだってよく書けたというてごたえがあるわけではないけれど、満足感がある。なぜだかわからないが、まったく急がず、ゆっくりと落ちついてしるせたのも良かった。それでいて文に凝ったわけでなく、さほどちからをこめずにゆるやかにかるい感触で書けた。書き物もちからを抜くのが大事だ。スポーツや武道など、身体術とおなじなのだろう。
- (……)
- (……)
- 177: 「第二の身ぶりは、こうしてきりとられた一部位をひっくりかえす [﹅7] 。その一部位は、仄暗いもの、語らぬもの、遠くにあるものから、理論を照らしだしディスクールをささえる要素へと反転させられるのである。フーコーにおいては、学校や軍隊や病院で実施されている監視のすみずみにはりめぐらされた手続き、ディスクールによって根拠づけられないミクロの装置 [ディスポジティフ] 、啓蒙主義とは異質な技術 [テクニック] が、われわれの社会のシステムと人文科学のシステムの両者を同時に照らしだす理性となる。この手続きのおかげで [﹅4] 、そしてこの手続きのうちにあって [﹅6] 、フーコーの目をのがれるものは何ひとつない。それによってフーコーのディスクールはまさにディスクールであることができ、しかも理論的に一望監視的であることができる。すなわち、すべてを見る [﹅6] ことができるのである」
- 182: 「十六世紀以来、方法 [﹅2] という観念が、識ることと行なうこととの関係を徐々にくつがえしてきた。法学と修辞学の実践は、しだいに多様な分野にわたるディスクール的な「行為」に変わってゆき、環境に変化をくわえるテクニックに変わっていって、これにともない、ディスクール [﹅6] の基本シェーマが重視されるようになってゆく。このシェーマは、思考 [﹅2] のしかたを行為 [﹅2] のしかたとして組織し、生産の合理的管理、固有な領域における規則的な操作として組織化するものであった。それが、「方法」というものであり、近代的な科学性の萌芽である。根底においてそれは、すでにプラトンが活動性としてとらえていた技術 [﹅2] 〔テクネー〕の体系化であった [註7] 」; (註7): Platon, Gorgias, 465a.