2021/9/4, Sat.

 2  前項の末尾にひいた引用 [『時間と他者』] にもどる。――レヴィナスは、まず「時間」は「孤立し単独な主体にかかわることがら」ではない、とかたりだしていた。時間がとりあえずはむしろ内面的で主観 [﹅] 的な現象としてとりだされることを前提とするかぎり、この断定は自明ではない。じっさい、アウグスティヌスに先だってアリストテレスもすでにまた、『自然学』にふくまれた時間論の末尾で、こころと時間の関係という問いを立てていた [註54] 。レヴィナスにちかいところでいえば、たとえばベルクソンの時間論はまさに、空間化さ(end170)れ客観化された時間にたいして、内的に体験される「純粋持続」を手繰りよせようとするこころみである。レヴィナス自身がたかく評価するように、それは「時計の時間の第一次性を破壊する [註55] 」作業であったのである。とすれば、時間をたんなる内面性に封じこめないために辿られる理路こそがむしろ問題となる。
 他方ではこれにたいして、時間はそれじたい社会的に、あるいは共同的にかたちづくられる「観念」であり、「表象」であるとする立場がありうる。特定の共同体における生のかたちはたしかに、成員の時間のとらえかたにふかい影響をあたえうる。ひとはこの次元で、たとえば循環する時間について、一方向的に流れる時間について、あるいは単一な時間や、複数的で多形的な時間にかんして、そのなりたちと由来とを問題とすることもできるであろう [註56] 。――共同体がさまざまな時のかたちをさだめうるのは、そもそも時刻 [﹅] も時間 [﹅] も、ひととひとのあいだがら [﹅5] に根ざすものであるからである。ひとの生にあって公共的に反復されることがらが、たとえば起床・食事・就寝が、また種まき・草とり・収穫が、時の区切り目としてえらびだされ、時刻となり季節となる。ひとはまた、他者と出会うべき時までのあいだを測り、間 [﹅] がないといい、間 [﹅] に合わせるという。このような時のあいだ [﹅3] はそのまま一箇のひとのあいだ [﹅3] であって、時間はたしかに人間 [﹅] 関係によって「区切られ整序され」(前出)てゆく [註57] 。
 レヴィナスにあっては、だが、「時間についてのわれわれの観念ではなく、時間それ(end171)自体が問題なのである」。時間それ自体とは、そしてレヴィナスによれば「主体と他者との関係そのもの」にほかならない(同)。時間にかんする「社会学的」な説明があやまりであるわけではない。時間そのものが他者との関係 [﹅2] の次元に根ざしていることこそが問題なのである。講演の論点をかんたんに辿っておこう。
 〈私〉とその現在が、たんにある [﹅2] こと、匿名的にあることを切断する。たんにあることは〈私〉のなりたちとともにあるもの [﹅4] となる。レヴィナスのいうイポスターズとは、単純にいえば、ことのこのなりたちにかかわる消息にほかならない。単独なこの〈私〉とともに成立する現在は、しかしいまだ「時間の要素」ではない。現在とはここでは「自己から到来するなにものか」である [註58] 。過去とむすばれず、未来へとひらかれていない現在は、なお時をかたちづくってはいない。それは〈私〉がとりあえず端的な同一性、みずからのうちで鎖 [と] ざされた同一性であるからである。その意味で、時間は孤立し単独な主体 [﹅8] からは生成しない。
 この同一性は、あるいは主体によるみずからの存在の支配は、しかしやがて破綻する。この破綻こそが、他なるもの [﹅5] の到来にほかならない。同一性を解れさせるものは、ひとつには私の死 [﹅3] である。死において私はもはや私の主人ではなく、生は私の手のなかで毀れてゆく。〈私〉はなんらか絶対的に〈他なるもの〉にたいして曝されているのである。
 私が死ぬということは、「その存在そのものが他であること(altérité)であるような、(end172)なにものか」と、〈私〉が関係しているということである [註59] 。死とは「他性」そのものなおんだ。――死は不可避的に到来する。死は、だがけっして現在には回収されない。死をいま [﹅2] 予感することは死ぬことそのものではない。死は、私がそこに居あわせる経験 [﹅2] ではありえない [註60] 。その意味で死は絶対的な未来である。現在と地つづきな未来、予期される未来ではなく、端的な未来 [﹅2] である。
 そうであるとすれば、だがしかし、死はいまだ私に時間をもたらさない。私の死は断じて「現在との関係」に入ることがないからである。死という絶対的な未来は、ただ直面する他者を経由して私にかかわるはずである。だから、と講演でレヴィナスは説く。「未来との関係、現在における未来の現前は、他者との対面(le face-à-face avec autrui)のうちで実現するようにおもわれる。対面の状況が時間の現成そのものであろう [註61] 」。

 (註54): Cf. Aristoteles, Physica, 223a16-29.
 (註55): E. Lévinas, Éthique et Infini. Dialogues avec Philippe Nemo, Fayard 1982, p. 17.
 (註56): いわゆるモノクロニックな時間とポリクロニックな時間との差異のことである。簡単には、熊野純彦「理性とその他者――〈理性の外部〉をめぐる思考のために」(岩波講座『現代思想』第一四巻、一九九四年刊)一七〇頁以下参照。
 (註57): たとえば、和辻哲郎の時間論がそのような洞察のうえに展開されている。ここでは、『和辻哲郎全集』第一〇巻(岩波書店、一九六二年刊)二〇〇頁以下参照。和辻時間論の問題点については、熊野純彦「人のあいだ、時のあいだ――和辻倫理学における「信頼」の問題を中心に」(佐藤康邦他編『甦る和辻哲郎』ナカニシヤ出版、一九九九年刊)参照。
 (註58): E. Lévinas, Le temps et l'autre (1948), PUF 1983, p. 32 f.
 (註59): Ibid., p. 63.
 (註60): Cf. E. Lévinas, La mort et le temps (1991), L'Herne 1992, p. 21-24.
 (註61): E. Lévinas, Le temps et l'autre, p. 68 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、170~173; 第Ⅱ部 第一章「物語の時間/断絶する時間」)



  • きょうは二時台から労働なのでいつもよりはやく起きようと九時にアラームをしかけていたのだが、そこで起きてもからだの(とりわけ腰のうしろあたりの)重さというか遠心力みたいなものからすぐさまベッドにもどってしまい、抵抗しながらもまたちょっとまどろむことになった。最終的に一〇時四五分に起床。水場に行ってきてから瞑想をおこなった。きょうも天気は雨降りのようで、ゴーヤの葉のすきまを満たす空は白かったし、空気は薄暗さに寄って、大した降りではないようだが雨垂れの音もそとから聞こえる。ミンミンゼミが一匹、遠くで、やはりかなりゆったりとした、老いの愉悦みたいな振幅でうねっていた。しかしそれよりも、カラスなど鳥の声のほうがよく聞こえる。
  • 廉価なこま切れの豚肉と卵を焼いて食事。新聞、一面は菅義偉の退陣をつたえている。きのうのテレビとか、インターネット上のニュースの見出しでは「辞任」ということばがつかわれていて、こちらもそれをそのままつかったが、いますぐ辞任するわけではなく総裁選には出ないということなので、「退陣」の意向、というほうがいくらか正確なのだろう。あんまり変わらんか? アフガニスタンと米国の記事を読んだ。タリバンは国境を管理していて、せっかく国境にたどりついてもカブールに追い返されるひとも多数いるようだ。カブールの国際空港は外国軍がいなくなったので完全にタリバンの管理下にあり、戦闘員が周囲を包囲しているから市民はちかづくことすらできない。となれば陸路での脱出が道となるが、そちらもとうぜんタリバンは防ごうとしているし、また周辺の隣国も難民の定着や不安定要素の流入をおそれて積極的な受け入れ姿勢をしめすとはかぎらない。事実、パキスタンは二箇所の検問所のうち一箇所を閉じたらしいし、二六〇〇キロだかにおよぶ国境の九〇パーセントの範囲にフェンスをもうけて密入国をきびしく取り締まっているという。まだ開いている一箇所の検問所にはひとが多数押しかけて圧死が起こる事態になっていると。イランのほうはいちおうまだひらいていて受け入れ姿勢を取っているようだが、それもいつどうなるかわからない。ドイツや英国はウズベキスタンタジキスタンにはたらきかけて国境を閉じないよう要請しているようだ。米国の記事は連載で、二〇〇一年九月一一日のテロ以来、米国でムスリムが置かれた立場について。テロ以来、米国のムスリムは平等で対等な市民としてあつかわれなくなったというのが当事者の声で、それはいまもつづいており、ふだんとちがうモスクに行ったりすると捜査官が家に来て理由をたずねたりするのだという。FBIだか警察当局がモスクにスパイを潜入させたりということもおこなわれてきたようで、それが一定程度過激派の摘発につながったこともたぶん事実ではあるのだろうが。しかしひとりのムスリムに言わせればあたらしい世代に希望も見える、とのことで、たとえばドナルド・トランプイスラーム圏の国からの渡航禁止を打ち出した際には宗教も人種も関係なく多くのひとびとが反対と連帯を表明したし、それは昨年の黒人差別への抗議運動も同様だと。テロ行為にはしるというのは、特定の宗教が原因ではないという見方もひろがってきているのではないか、とのこと。
  • Notionをひらいていつもどおり準備していたのだけれど、PgDnキーを押すと画面右端にコメント欄みたいなものがひらく仕様になっていた。きのうまではこんなことはなかったはず。それで本文が左に追いやられて一部見えなくなり、実に邪魔くさいのだが、それをどうやって閉じるのか、またそれがひらかないようにするにはどうするのかがわからない。とりあえずいったんウィンドウを閉じて立ち上げなおし、PgDnキーはつかわない方向で我慢する。
  • そうしていま一二時半すぎ。二時には家を発たなければならない。
  • 往路。雨はけっこう降っていた。はげしいというほどではないものの、粒は豊富で、スピードもすばやく、切るように降っており、足もともびしゃびしゃしている。南の山もきょうは降りてきた空に浸食されて、白い幕のなかにほとんどすべて隠れている。バッグをふつうに提げると濡れてしまうので、左手で小脇にかかえるようにしてもちながら行ったが、そうするとつきだした肘にときおり雨がかかるので、からだのまえにかかえて大切そうにまもるような姿勢になった。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • 退勤は七時。電車に乗って最寄りへ。このころには雨はかなり激しい様態になっていた。坂道にはいると、幾重にもつらなったさざなみが路上に生まれており、カタツムリ的な、まさしく這ううごきの鷹揚さでゆっくりくだりながれていく。雨夜ではあるもののあまり暗いという印象もなく、坂にはいったところでは道端の低みに咲いている花群れの白さもあきらかだったし、傘を差したこちらの影もそちらの壁に投げかけられてはっきり浮かぶ。それはふつうに街灯によるものではあるわけだが、それをおいても、空が雲に閉ざされていても足もとまで完全に夜に漬けられるというかんじではないようだった。下の道に出てバッグを腹のまえに抱えながら行っていると、突如として空間に白光が二、三度、つよく震えながら走った瞬間があり、雷だ、めちゃくちゃあかるい、いままで見たことがないくらいだった、とおもっていると、かなり近い距離で轟音が響き、なにかが落ちたというよりも山の火口が爆発してなにかが噴き出したかのような巨大な砲音だったのだが、そのあとすこし響きがのたうちまわるようにうなりながらとどまっていて、英語で雷にたいしてrollの語がつかわれるのが実感的に理解できた。すぐちかくの山か丘あたりに落ちたのではないか。馬鹿でかい音だったので、こうして家まですこしのところをあるいているこのあいだに雷に撃たれて死ぬということも可能性としてないとはいえない、などとおもいながら残りをすすんだ。
  • 夜はAlexia Garcia, "Whose Streets?"(The New Inquiry; 2020/11/13)(https://thenewinquiry.com/whose-streets/(https://thenewinquiry.com/whose-streets/))を読んだり、熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)の書抜きをしたり。二箇所できた。そろそろ日記冒頭の引用のストックがなくなるので写しておかないとやばい。やはり労働するとなんだかんだからだがつかれてこごり、書き物はなかなかできない。八月三〇日の書抜きをして投稿したのみ。三一日は休みだったのでよく本を読み、それにともなってメモ箇所もやたら多くて手間がかかる。
  • 322~323: 「こうして書くという企ては、外から受けとるものをなかで変換させたり保存したりし、自己の内部で、外的空間を領有するための器具をつくりだす。それは、ものを分類してストックし、拡張のための手段をそなえつける。過去を蓄積する [﹅4] 能力と、世界の他性をみずからのモデルに適合させる [﹅5] 能力をかねそなえているこの企ては、資本主義的であり、征服的である。科学の仕事場も産業の仕事場も(まさしく産業はマルクスによ(end322)って「科学」がみずからを書きしるす「書」であると定義されている [註4] )、同一のシェーマにしたがっているのだ。そして近代的な都市もまた。それは、境界線をひかれた空間、そこに外部の住民を集めてストックしようとする意志と、地方を都市モデルに適合させようとする意志とが実現されてゆく空間なのである」; (註4): Karl Marx, 《Manuscrits de 1844》, in Marx-Engels, Werke, ed. Dietz, t. 1 (1961), p. 542-544. 〔城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波書店
  • 323: 「革命という「近代的な」観念そのものが、全社会的規模でもって書を書こうとする企図のあらわれであり、その野望は、まず過去にたいして自己を白紙にかえす [﹅3] ということ、そしてその白紙のうえにみずからを書いてゆくということ(すなわち固有のシステムとしてみずからを生産してゆくということ)、そしてみずからが製造するモデルにのっとって歴史を新しくつくりかえる [﹅6] 〔書きなおす〕ということである(それが「進歩」なるものであろう)」
  • 324: 「こうしてわれわれを構造化する実践について、わたしはひとつだけ例をとりあげてみたいと思うが、というのもその例が神話的な価値をそなえているからである。それは近代西欧がうみだしえた数少ない神話のひとつだが(事実、西欧近代社会は、伝統社会のもっていた神話を実践におきかえてしまった)、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』がそれである。この小説は、わたしが区別した三つの要素をすべてそなえている。すなわち、ある固有の場所をきりとる島、主人たる主体による事物のシステムの生産、そして「自然」世界の転換である。それはエクリチュールについての小説なのだ。そもそもデフォーにおいて、ロビンソンが自分の島を書きあげようという資本主義的、征服的な労働にめざめるのは、自分の日記を書こうという決意と軌を一にしている。そのことによってロビンソンは、時間と事物を制御するひとつの空間を確保し、かくて白いページをもって、自分の意のままに生産が可能となる原初の島をしつらえようとするのだ」
  • 331: 「身体のうえに書かれないような法はひとつとして存在しない。法律は身体を支配している。集団からきりはなせる個人という観念そのものからして、法律的な必要からうまれてきたものであって、刑法にとっては懲罰を徴づけるための身体が必要であり、婚姻法にとっては、集団間の取引に際し、値を徴づけられるような身体が必要だったのだ。誕生から死にいたるまで、法律は身体を「とらえ」、身体をみずからのテクストにする」
  • 331: 「これらのエクリチュールは、相補的な二つの操作をおこなっている。まず第一に、法をとおして生きた存在は「テクストのなかにくみこまれ」、もろもろの規律の記号表現 [シニフィアン] に変えられてしまう(それがテクスト化である)。他方で、社会の理性ないし《ロゴス》は「肉となる」(それが受肉である)」
  • 332: 「あらゆる権力は、法律の権力もふくめて、まずその臣下たちの背中に描かれるのである。知もおなじことをする。こうして西欧の民族学という学問は、他者の身体がさしだす空間に書きこまれていったのだ。こうしてみれば羊皮紙も紙も、われわれの皮膚のかわりにできたものであり、平和なあいだはその代役をはたして、皮膚を保護する上塗りになってくれているといっていいだろう。もろもろの書物は身体のメタファーにすぎないのだ。だがひとたび危機の時代がやってくると、法にはもはや紙が足らなくなり、またもや身体のうえに法が描かれてゆく。印刷されたテクストはすべてみな、われわれの身体に刷りこまれたものを指し示しているのであり、最後には《名》と《掟》の(赤い鉄の)徴が、苦痛そして/あるいは快楽によってその身体を変質させ、それを《他者》の象徴に変えてしまうのだ。ある宣告 [﹅2] 、ある呼び名 [﹅3] 、あるひとつの名 [﹅] に」