2021/9/5, Sun.

 時間は過ぎ去る。忍耐 [﹅2] として生起するこの総合が――それは、深遠にも受動的と呼ばれるのであるが――、老いることである。その総合は、年月の重みのもとで炸裂し、現在から、すなわち再 - 現前化から不可逆的に引き剝がされる。自己意識のうちにあるものは、もはや自己の自己への現前 [﹅2] ではなく、老いゆくことである(88/107)。

 現在は「過ぎ去る」(se passe)。時間はみずからを [﹅5] (se)過ぎ越す(passer)。それは同時に、対格の自己(se)のかたわらを過ぎてゆくこと(passer)である。つまり、(後論〔第三章〕するように)他 [﹅] にたいして曝されている〈私〉を取りのこし通りすぎてゆくことだ。現在は「引き剝がされ」、「自己の自己への現前 [﹅2] 」に遅れてゆく。避けがたく「受動的」で「不可逆的」なその過程が「老いること」もしくは「老いゆくこと」にほかならない。――現在のうちに [﹅6] 、現前とは他なるもの [﹅5] が侵食している。時間はかくて剝離して、主体はつねに老いてゆく。主体の同一性そのものが差異化する。ここでは、たんに断絶する不連続な時間というだけにとどまらない、時間の理解が兆しているようにおもわれる。(……)
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、176; 第Ⅱ部 第一章「物語の時間/断絶する時間」)



  • 「読みかえし」ノートより。

 辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。人間の自由は、無限の可能性や、かけがえのない自己実現などといったお題目とは関係がない。それは、そういう大きな、勇ましい物語のなかにはない。
 少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。
 (岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社、二〇一五年)、98)

  • 正午をすぎて起床。きょうも天気は雨降りもしくは曇り。薄暗い。食事はカレー。新聞は自民党総裁選について多くのスペースを割いている。岸田文雄河野太郎石破茂野田聖子高市早苗でおそらく立候補者が出揃ったようだ。石破はまだ検討中というはなしだが。いまの時点で正式に立候補を明言・表明しているのは岸田だけだとおもう。安倍晋三は保守的な信条がちかい高市早苗を支援するもようで、最大派閥である細田派にバックアップをうながしているとか。河野太郎麻生派所属で、前回の総裁選時には麻生にとめられて立候補をおもいとどまったところ、今回は賛成とも反対とも言わないと麻生につたえられて、じゃあ出ます、ということになったとか。これは夕方にアイロンをかけながら見た『バンキシャ』でそうつたえられていた。
  • バイデンは二〇〇一年九月一一日から二〇年をまえに、当時の捜査資料を公開するよう司法省に指示する大統領令を出したという。サウジアラビアアル・カーイダの関係についての情報が焦点になると。遺族団体かなにかの組織がずっと情報公開を訴えており、バイデンもドナルド・トランプが公開しようとしないのを過去に批判していて、今回の決定にいたったようだ。アフガニスタンではタリバンの組閣が遅れていると。東部パンジシール州で武装民兵の組織が(武装抵抗している組織はもうこのひとつだけらしい)まだ抵抗をつづけていることや、カブールなどで女性らがデモを起こしていることなどによると。
  • いつもどおり「読みかえし」と書見。熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)の書抜きも、きのうにひきつづき三箇所できた。いいかげん溜まっている本の書抜きをすすめていかないとやばい。そろそろ毎日の日記の冒頭に引く記述のストックがなくなってきているので。まあべつに引かなくたって良いのだが。
  • 五時で階を上がってアイロン掛け。やたらたくさんあって、一時間くらいかかる。母親は台所でサラダなどをつくっていたが、とちゅうでソファに来て、テレビをつけて『笑点』をうつした。それでいて番組を見るわけではなく、タブレットでメルカリとか、兄が送ってきた写真とかを見ている。兄は先日、ロシア連邦内のなんとかいう(カレリア共和国、だったか?)地の「山奥」に行って釣りを楽しんだらしい。きのうの夜だったかに画像をすこし見せてもらったが、あれは湖なのか川なのかわからない。ロシアとなるとスケールもでかいだろうから。たぶん湖か? 同僚と遊興で行ったのか、それとも偉いひとや顧客の接待的なものだったのか、それもわからない。「昔取った杵柄」で魚は釣れたらしく、竿からぶら下がる魚をしめして得意げに笑んでいる写真があって、(……)くんとおなじ顔、と(……)さんにコメントで茶化されていた。『笑点』のあとは『バンキシャ』で、車椅子バスケで日本が王者アメリカに善戦し史上初の銀メダルをとったという件が冒頭で称賛されたあと、自民党の総裁選についてつたえられた。岸田と河野はYouTubeを活用して情報発信を図っているようだ。要するに生放送的なやつで、視聴者からの質問にその場で、もしくは事前に選んでおいてこたえる、みたいなことを、河野は以前からやっているようだし、岸田もここで総裁選に出るからつい先日やったようだ。
  • アイロン掛けを終えると空腹が極まっていたのでそのまま食事。カレーに、生のキャベツやらニンジンやらとサラダチキンを混ぜて味付けしたサラダなど。新聞では、白井さゆりという慶應義塾大学の経済学者の語りがあったのでそれを読んだ。気候変動が金融市場などにも影響をあたえてくるだろうというはなしで、自然災害が起こって橋とか道路とか街とかが破壊されたりすると、そこでもろもろの企業活動にもいろいろ影響があって株価などにも影響するわけだけれど、いまの金融市場というのはそういう非常事態にあまり予測対応するようなものにはなっていないところ、これからは気候変動によって災害ももっと頻繁に、かつ大規模になってくる可能性がある、そうなったときに対応できるようなしくみをつくっておかないと経済の混乱がおおきくなるというのがひとつ。また、地球温暖化をくいとめて気候変動を乗り越えるにはエネルギー政策の抜本的な変容が必須で、要するに太陽光やクリーンエネルギーをもっと大々的に導入しなければならず、しかしそうすると全国的な送電網の整備とか余った電力を貯めておく蓄電池の普及とかが必要で、それにはとうぜんおおきなコストがかかる。気候変動によって居住環境が悪化し、もはや住んだり生活を営んだりできなくなるようなことになるよりはむろんそちらのほうが良いわけだが、しかしコストはとうぜんながら増税とか電力料金の値上げとか、製品の値段とかに反映されざるをえないわけで、国民の理解と協力をあおぐには政府がしっかりとした説明をしなければならないと。このひとは二〇一一年から一六年まで日銀の政策検討委員会みたいな、わすれたがなにかしらの委員をつとめたといい、白川方明から黒田東彦に総裁が変わって方針がおおきく転換されるのを間近で見てきたというのだが、黒田東彦が「異次元緩和」とかいって金利を下げまくったのは(マイナス金利とかいうこともやっていたはず)基本的には良かったというか、震災後の経済をささえるには正解だっただろうと。しかし、いまの低金利水準を今後もずっとつづけていけるはずはないし、気候変動の件もあるので、コロナウイルス騒動が終わったとしても楽観はできないと。
  • (……)
  • 室に帰ると書抜き。ストレッチをしたのにどうもからだが固いので、とちゅうで椅子をおりて各種ストレッチをまたおこなった。やはり肉を伸ばすときに口で息を吐くようにしたほうがよくほぐれるのでそうしよう。(……)ふたたびデスクにもどって書抜きおよびきょうの記述。ここまで綴っていま一〇時まえ。
  • きのうや金曜日のことも記述。入浴後、ちょうど零時ごろから八月三一日の書抜き。一時間弱。その後、クソ腹が減っていたのでカップ蕎麦を用意してきて食す。茶もつくって一服しているうちにけっこう時間が過ぎてしまい、書抜きを再開したのは二時半ごろだった。それできょうは半分くらいまでしか終わらず。
  • そういえば昼に食事を取っているとき、テレビは『開運!なんでも鑑定団』を映していて、そこに篠井英介が出ていた。顔は知っている俳優だが、なまえははじめて知った。小学生のときに見た『サウンド・オブ・ミュージック』のジュリー・アンドリュースにあこがれてむかしから女性の役をやりたいという欲望がつよかったらしく、後年、『欲望という名の電車』(テネシー・ウィリアムズ原作)で杉村春子の演技を見たときも衝撃を受けて、いつかこのブランチ役をじぶんもやるんだとおもいださめて、その後実現したという。いちど、男性に女性役をやらせるのは駄目だという権利者側の意向で企画が頓挫したらしいが、粘り強く許諾をもとめてついにゆるされたということだった。出品したのはルドゥーテというベルギーの版画家の花の絵で、七〇万で入手したもののべつの画商にこれはせいぜい一、二万ですよといわれたので不安になってこの番組に出演したと。絵の価値などわかるはずもないが、見たところ実に端正に写実的で、つやもあるようでかなりきれいな植物画だったので、七〇万は高すぎるとしても一万二万ということはないんではないか、とおもっていると、一〇万円だった。じぶんも植物画とか静物画とか、なんにせよものを絵で描くことができればすごくおもしろいだろうとおもうのだが。じぶんが絵をやるとしたら人でも風景でもなくてとにかくものを描きたい。目の前にひとつものを置いて、それを絵にするということだけをやりたい。道具や形式もなんでも良い。しかし、そちらの方面の素養はまるでない。中学校時代の美術の成績は二である。
  • 335~336: 「長いあいだ社会という統一体の「肢体」――腕や肢や頭――であり、あるいはまた宇宙の諸力や「霊」の交差する場所であった身体は、徐々に、固有の [﹅3] 病気やバランスや逸脱やアノマリーをそなえた一個の全体として個々に区別されていった。十五世紀から十六世紀にかけ、長い歴史をへて、ようやくこのような個人の身体が、化学や微視的物理学において一個の生命体が「分離」されるような具合に「分離」されていったのである。その後この身体は、政治的(end335)秩序や天の秩序の模型――「ミクロコスモス」――とみなされ、そうした過渡期をへた後に、一社会の基本単位になった [註8] 。こうして準拠すべき単位が社会体から個人の身体へと移行してゆくにつれ、法律的な [﹅4] 政治学の後を継いで、個々人の表象と管理と安寧を司る医学的な [﹅4] 政治学の支配がうちたてられてゆくが、こうした移りゆきにともなって、社会文化的な公準に変化が生じてくる」; (註8): このような歴史にかんしては次を見よ。A. Macfarlane, The Origins of English Individualism, Oxford, Basil Blackwell, 1978〔酒田利夫訳『イギリス個人主義の起源』南風社〕; これ以前にも次の文献がある。C. B. Macpherson, The political Theory of possessive Individualism. Hobbes to Locke, Oxford, Oxford University Press, 1964. 〔藤野歩・将積茂・瀬沼長一郎訳『所有的個人主義の政治理論』合同出版〕
  • 338: 「十九世紀の初頭になると、医学のイデオロギーはしだいに転換をみせはじめ、摘出の治療法(病気とはなにか余計なもの――余分ななにかあるいは過剰ななにか――であって、刺絡や下剤やらをもちいてそれを身体からとり除かねばならない)はおおむねすたれてゆき、かわって付加の治療法(病気とはなにかの欠如、欠損であって、薬品なり支柱なりを使ってそれを補わなければならない)が登場してくるようになるが、それでもなお、道具という [﹅5] 装備は、あいかわらず古いテクストに代えて新たな社会的知のテクストを身体に書きこんでゆくという役割を果たしつづけており、ちょうどそれは、『流刑地にて』に描かれるあの馬鍬が、紙に書かれた命令がどう変わろうとおかまいなく、受刑者の身体にその命令を刻んでゆくのとおなじことである」
  • 339~340: 「十七世紀に、清教徒の《宗教改革者》たちは、法律家たちと手をたずさえながら、当時はからずも《物理学者 [﹅4/フィジシャン] 》とよばれていた医師たちの知をみずからもまた獲得しようとめざしたが [註11] 、ここから大いなる野心がうまれてくることになった。すなわち、ひとつのテクストにもとづいて歴史を書きなおそうという野心である。堕落した社会と腐敗した教会にかこまれつつ、聖書 [エクリチュール] がこの二つを改 - 革 [レフォルメ] 〔再成型〕するためのモデルを提供してくれるにちがいない。それが、宗教改革の神話であった。根源にたちかえること、キリスト教的西欧の根源にとどまらず、宇宙の根源にまでたちかえって、《ロゴス》に身体をあたえ、ロゴスがこれまでとは別なありかたでふたたび「肉となる」ような創生をめざすこと。このルネッサンス時代には、このような神話のバリエーションがそこここにみうけられるが、ユートピア的、哲学的、科学的、政治的、宗教的の別をとわず、いずれをとっても、《理性》が世界を創始し、あるいは復興しうるはずだという信念に支えられており、問題なの(end339)はもはや秩序や隠れたる《作者》の秘密を解読することではなく、ひとつの秩序を生産 [﹅2] し、その秩序を粗野な社会、腐敗堕落した社会の身体のうえに書きしるす [﹅5] ことだという信念をともにしていた。歴史を矯正し、たわめ、しつけなければならないという目的とともに、エクリチュールは歴史にたいしてある権利を獲得する [註12] 。世界とは理性であるという仮説にたち、生まれの特権を文字という装備におきかえようとめざす「ブルジョワジー」の手中にあって、エクリチュールは権力となるのだ。自然を変えるべく理論を自然のなかに刻みこまねばならないという信念は、やがて「啓蒙」や革命の公準に変わってゆくが、こうした信念とともにエクリチュールは科学となり、政治となる。迷信ぶかい民衆や、いまだ魔術にとらわれている地方の隅々までわけいって、それらを裁断し切断しつつ、エクリチュールは暴力となるのである」; (註11): Charles Webster, The Great Instauration. Science, Medicine and Reform, 1626-1660, New York, Holmes & Meier, 1975. とくに次の箇所。《Conclusions》, p. 484-520.; (註12): 歴史にたいするエクリチュールのこうした新たな権力については次を見よ。Michel de Certeau, l'Écriture de l'histoire, Gallimard, 2e éd., 1978.
  • 346: 「こうした道具は、外部から、また内部から過剰や欠損を矯正するわけだが、いったい何にてらしてそうするのだろうか。脚の無駄毛をとったり、眉を描いたり、髪を切ったり結ったりする場合とおなじように、正したり付加したりするこのような活動は、あるコード [﹅5] を指向している。その活動は身体をある規範のなかにとりこむのである。こうした点からすれば、衣服じたいも道具とみなすことができ、この道具のおかげで、社会的法則は、軍隊の作戦同様、自己に所属する身体 [コール] 〔部隊〕と成員をそなえつけ、モードの変化をとおして、それらをチェックし、規制し、鍛えることができるのである。自動車も、コルセットと同様に、身体を鋳型にはめ、ある姿勢のモデルに合致させるものである。自動車は、型を矯正し、実践を矯正するための道具なのだ。伝統をとおして取捨選択され、社会の市場で売られている食品もまた、身体を養いつつ身体を標準化している。それらの食品は、身体に、身分証明書にもひとしいあるフォームと活力を押しつけているのである。メガネやタバコ、靴、等々といったものも、それぞれに身体の「ポートレート」を修正している……」
  • 347~348: 「こうしてみれば、はじめにみた除去したり付加したりする操作は、さらに一般的なもうひとつの操作から派生したものにすぎず、この操作とは、身体にコードを語らせる [﹅11] ことである。すでにみたとおり、このような仕事は、社会的言語を(英語のリアライズという意味で)「現実化」し、その言語に実効性をあたえるのだ。身体を「組み立てて [マシネ] 」その身体(end347)に秩序を綴らせるというとほうもない務め [註16] 。こうした身体による法の分節化を遂行するために、自由主義経済のほうが全体主義より効果的というわけではない。それはただ全体主義とは別の方法で実施するだけである。もろもろの集団にひたすら権力の鉄の徴をつけて圧殺するかわりに、自由主義経済はひとまず諸集団をアトム化したうえで、個人という単位を社会経済的、文化的な諸契約の規則(または「流儀」)に順応させてゆくような交換の細かい網の目を増やしてゆくのである」; (註16): 社会的コードは人間ひとりひとりにそなわる自然に傷をあたえつつ個人の身体に刻まれるという思想はデュルケームのものであった。こうしたエクリチュールのとる原初形態は損傷 [・2] となるはずであり、刻銘の威力はそこから来ている。Cf. E. Durkheim, les Formes élémentaires de la vie religieuse, P. U F., 1968. 〔山崎亮訳『宗教生活の基本形態』筑摩書房
  • 348~349: 「ディスクールの信憑性 [﹅3] とはなによりまず信じる者をそのとおりにしたがわせるものである。信憑性は実行者をうみだす。信じさせること、それは行なわせることである。ところが、奇妙な循環によって、したがわせる――身体を書かせ組み立てさせる――力能とは、まさしく信じさせる力のことなのだ。法がすでに身体を使用し身体に適用され、身体の実践のうちに「受肉化」しているからこそ、法は信用されるのであり、法は「現実」の名において語っているのだと信じさせることができるのである。「このテクストを汝らに伝え(end348)るのは《現実》である」、そう言いながら法は信頼をうるのだ。ひとは現実と称せられたものを信じるのだが、ディスクールにこの「現実性」を付与するのは信仰であって、この信仰がディスクールに法の刻まれた身体をさずけるのである。法が信用され実施されるためには、かならず身体の「先行投資」が要り、受肉の資本が要る。つまり法はすでに刻みこまれた身体があればこそ刻みこまれるのである。法を他の人びとに信頼させるものは証人や殉教者や例証なのだ。このようにして法はその臣下に尊重される。「昔の人びとはそうしていた」、「ほかの人びとはそのとおり信じて行なっていた」、「汝みずから、汝の身体のうちに我が署名を宿している」」
  • 349: 「言いかえれば、規範的ディスクール [﹅6] は、すでにそれが物語 [﹅2] となり、現実的なものと結ばれ現実的なものの名において語るテクストとなったとき、すなわち、身体によって物語られ、人物列伝とともに史実化された掟になったときにはじめて「うけいれられる」のである。規範的ディスクールがみずからを信じさせながらさらに物語をうみだしてゆくためには、そのディスクールがすでに物語になっていることが前提になっている。そうしてまさしく道具は、身体を掟に順応させつつ掟の受肉化を助け、かくて掟は現実そのものによって語られるのだという信用をあたえるのであり、このことをとおしてディスクールの物語への移行を保証する」
  • 352: 「そのエクリチュールは、際限なく書きつづけてゆき、どこまでいっても自分以外のものに出会うことがない。出口はフィクションにしかなく、ただ描かれた窓、ガラス - 鏡があるだけである。この世界には、書かれた穴か裂け目のほかは何もない。それらは、裸形と拷問のコメディであり、意味の壊滅の「自動」物語、バラバラに分解した顔の狂騒劇である。これらの作品が幻想的なものをはらんでいるのは、それらが言語 [ランガージュ] のはてる境界に怪しげな現実を出現させるからでなく、ひたすらシミュラークルの生産装置があるばかりでそれ以外のものが不在 [「ひたすら」から﹅] 」だからである。これらのフィクションが小説なりイメージなりで語っているのは、エクリチュールには入り口も出口もなく、ただ自己製作というはてしない戯れしかないということだ。この神話は事件の非 [ノン] - 場所 [リュ] を、あるいは起こらない [ナ・パ・リュ] 事件を語っている――およそ事件というものがなにかの入り口であり出口であるとするならば。言語の生産機械はストーリーをきれいに拭いとられ、現実の猥雑さを奪いとられ、絶 - 対的で、自分以外の「独身者」とかかわりをもたない」
  • 355: 「欲望しあう者どうしのあいだには、もはやコミュニケーションにとってかわった言語を愛することしか残されていない。そしてまさに機械はこうした言語モデルを呈示しているのである。この機械は、たがいに差のある部品を組み立ててつくられており(あらゆる発話がそうであるように)、そのメカニズムの作用によって独身者のナルシシズムのロジックをくりひろげてゆくのだ。「大切なのは、ことば [モ] の意味を根だやしにしてしまう [﹅10] こと、ことばと戯れ、ことばを強姦して、そのもっともひそやかな属性を犯し、あげくに語と、ふだんわれわれが知っているその表現内容とのあいだに全面的な離婚を言いわたすことだ [註23] 。」 こうなれば、重要なのはもはや語られること [﹅6] (内容)でもなければ、語る [﹅2] こと(行為)でもなく、転換する [﹅4] ことであり、思いもよらぬ装置を発明してこうした転換を多様化してゆくことである [註24] 」; (註23): Michel Sanouillet, in Marcel Duchamp, Duchamp du signe. Ecrits, éd. M. Sanouillet, Flammarion, 1975, p. 16.; (註24): Cf. Jean-François Lyotard, les Transformateurs Duchamp, Galilée, 1977, p. 33-40: 《Duchamp as a transformer》.
  • 355~356: 「かくして、「現実」がテクストのなかにやってきて、そこで加工され輸出されるかにみ(end355)えた時代は終わりを告げたのだ。エクリチュールがものの暴力と愛を交わし、それらをひとつの理性の秩序のなかに住まわせていたかに思えた時代は終わってしまった。真実主義 [ヴェリスム] はただ見せかけだけのもの、真実らしさの見世物だった。ゾラの後にやってくるのは、ジャリ、ルーセルデュシャン、等々、すなわち不可能な他者を語り、みずからのメカニズムに身をゆだね孤独な勃起に身をゆだねるエクリチュールを語る「理論的フィクション」である。テクストはみずからの死を身ぶりでなぞりつつ、その死を嘲笑する。甘美な屍にすぎぬこのエクリチュールにはもはやなんの敬意がはらわれるわけでもない。それは、現実なるものの笑うべき臨終の秘跡、過去の公準にむけられた哄笑の空間にすぎない。そこでくりひろげられるのは、アイロニカルな、そして手のこんだ喪の作業なのだ」
  • 362~363: 「こうしてオラルなものが締めだされてしまったあげく、それに押しつけられてしまった歴史的な形態をもう少しあきらかにしておかねばならない。経済的な有効性を維持し、それをみださぬようにという理由によってこのような排除をこうむってしまった声は、なによりまず引用 [﹅2] というかたちをとってあらわれる。引用というのは、書かれたものの領域にあって、ロビンソンの島の浜辺についたあの裸足の痕跡にもひとしいものだ。エクリチュールの文化のなかで、引用は、解釈をうみだすはたらきと(引用はテクストを生産させる)、変質をもたらすはたらきと(引用はテクストを動 - 揺させる)、その二つをかねそなえている。それは、この二極のあいだをゆれうごき、二極のそれぞれが、引用のとる二つの極限形態を特徴づけている。すなわち、一方にあるのは、口 - 実 [ プレテクスト] としての引用 [﹅8] であり、こちらの引用は、権威をそなえた口承の伝統のなかから選別した遺物にもとづいて(注釈や分析とみなされる)テクストを製造するのに奉仕している。もう一方は、道徳としての引用 [﹅8] であって、言語のなかにこの引用の跡が描かれてゆくのは、われわれの世界を構造化(end362)していながら書かれたものによって抑圧されているもろもろのオラルな関係が、断片的に(まるで声の破片のように)、しかし遠慮なく立ち返ってくるからである。この二つが極限的なケースであって、これ以外ではもはや声は問題にならないように思われる。前者の場合、引用はディスクールが増殖してゆくための手段となり、後者の場合、引用はディスクールを逃れながら、ディスクールをバラバラに切断してゆく」