2021/9/7, Tue.

 1 一九五一年に発表された小論でレヴィナスは、他者との「共同相互存在」、すなわち「他者と共に存在すること」(l'être-avec-autrui)をも存在論的に了解しようとするハイデガーを批判して、存在論の優位に異をとなえている。さしあたり、この小文の論点のひとつを本章における考察の第一の手がかりとしておこう [註78] 。
 存在者との関係はたしかに、その存在者を「了解」すること、存在者を「存在者として存在させること」以外ではありえない。ハンマーはなによりも、釘を打ちつけるための道具である。手 [﹅] にとり打つことで、ハンマーの手 [﹅] ごろさが発 - 見される。ハンマーは手 [﹅] もとにあるもの(zu*han*denes)として「適所をえさしめ」られ、道具的な存在者として「存在させ」られる。それが存在者としての存在者の了解 [﹅2] であり、「存在者の存在の構造を規定すること [註79] 」にほかならない。(end181)
 とはいえ、他者についてはべつである。他者もたしかに「了解」(comprendre)される。だが、他者との「関係は了解を溢れ出してゆく」。他者はけっして私によって「包括」(comprendre)されることがない。他者を了解するとき、私はすでに他者が他者であること [﹅7] 、私のいっさいの知から溢れ出してゆく存在者であることを、それゆえ [﹅4] すぐれて「対話」の相手となることを了解している。他者はまず [﹅2] 了解され、ついで [﹅3] 対話の相手となるのではない。他者という存在者が問題であるかぎりでは、了解と対話とは「不可分」である。そこではもはや存在者の存在を了解することは第一次的でなく、存在論は根源的ではない。
 『全体性と無限』のレヴィナスにとっては、存在論の第一次性、「存在者 [﹅3] との関係における存在 [﹅2] の優位」を主張することは、むしろひとつの立場の決定となる。その立場とは、「倫理的関係」を、つまり他者との関係を「一箇の知の関係」に従属させ、他者を〈了解〉に、私による〈包括〉に下属させる立場、関係において問われるべき「正義」を、私の「自由に従属させる」立場にほかならない。そのとき他者は、私の知において「所有」されることになるだろう。だからこそ、「第一哲学としての存在論」は「権力の哲学」であり「不正の哲学」なのである。存在論とは、かくして典型的な〈同〉(le Même)の哲学であるにすぎない [註80] 。
 このように認定するとき、レヴィナスのがわにハイデガーにたいする「ボタンのかけ(end182)ちがい [註81] 」があったことは否めない。レヴィナスが拒否するような全体性 [﹅3] は存在ではなく、存在者 [﹅3] にかかわる [註82] 。「ロゴス」が「存在」と同時である以上、ロゴス [﹅3] それ自体は「存在をかたる [﹅3] 」ロゴスとしてしかありえない [註83] 。それゆえ「存在の思考は存在論でも第一哲学でも、権力の哲学でもない」。むしろいかなる「倫理学」もその思考を欠いてはありえない [註84] 。
 レヴィナスは、デリダのこの批判を深刻にうけとめた。当面の脈絡にあって決定的な論点がふたつある。ひとつは、前章でふれた『全体性と無限』における歴史観を前提とするかぎり、「時間が暴力である [註86] 」ことになる、というものである。これはレヴィナスにとって再考を避けえない問題である。『全体性と無限』は「〈他者〉の現前」(présence d'Autrui)のうちに〈倫理〉をみとめていたからである [註87] 。たしかに他者 [﹅2] の現前を欠いては〈倫理〉はありえない。だが、他者の現前 [﹅2] はまた「暴力」の開始をもしるしづける。暴力が回避されるべきであるとするならば、現前のうちに(デリダ的な用語でかたるとすれば)「非在」を、「迂回」を見さだめなければならない [註88] 。次章にみるように、じっさい『存在するとはべつのしかたで』のレヴィナスは、他者の現前 [﹅2] という語法を捨て、他者の痕跡 [﹅2] 、痕跡の迂回 [﹅2] 、自己じしんの痕跡について(デリダの批判を承け、しかしデリダとはべつのしかたで)かたりはじめることになる。
 いまひとつの問題はこうである。レヴィナス存在論批判をいわば額面どおりうけと(end183)るとすれば、「非 - 暴力の言語」とは「存在する [﹅4] という動詞を、すなわちいっさいの述語づけをみずからに禁じる」ものとなる [註89] 。そのような言語がはたして可能であろうか。あるいはそれはなお言語であろうか。――『全体性と無限』はいまだ存在論のことばをもちいていた、とのちにレヴィナスは回顧する [註90] 。問題はしかしむしろ、『全体性と無限』がなお存在の思考 [﹅5] をじゅうぶん潜りぬけていないところにあるのではないか。(……)

 (註78): 以下の二段落の論述については、E. Lévinas, L'ontologie est-elle fondamentale? (1951), in: Entre nous, pp. 12-22. を参照。
 (註79): M. Heidegger, Sein und Zeit, 14. Aufl., Max Niemeyer 1977, S. 67. ハイデガーにおける〈手〉(Hand; main)をめぐる暗喩系については、J. Derrida, Heidegger et la question (1987), Flammarion 1990, p. 197 ff. が興味ぶかい分析を提供している。
 (註80): E. Lévinas, Totalité et Infini, pp. 36-38. (邦訳、五〇―五三頁) 他者の所有をめぐる問題については、第Ⅰ部・第四章参照。
 (註81): 古東哲明『〈在る〉ことの不思議』(勁草書房、一九九二年刊)六頁。なお一六一頁以下をも参照。ハイデガーレヴィナスとに共通する視点から織りだされたすぐれた思考としてはほかに、後藤嘉也「非現前の現前、あるいは存在することの彼方」(『哲学』第四六号、日本哲学会、一九九五年刊)参照。
 (註82): J. Derrida, Violence et métaphysique. Essai sur la pensée d'Emmanuel Levinas, in: L'écriture et la différence, Seuil 1967, p. 207.
 (註83): Ibid., p. 212.
 (註84): Ibid., p. 201 f.
 (註85): 自家証言としては、cf. E. Lévinas, Autrement que savoir, Orisis 1988, p. 70. また、デリダが一九六七年の論文のほぼ末尾(Derrida, op. cit., p. 226)に引いた「あるギリシア人」のことばを、レヴィナスはのちに「神と哲学」の冒頭でくりかえしている。「哲学しないこともまた哲学することである」(E. Lévinas, Dieu et la philosophie[1975], in: De Dieu qui vient à l'idée[1982], Vrin 1992, p. 94)。
 (註86): J. Derrida, op. cit., p. 195.
 (註87): E. Lévinas, Totalité et Infini, p. 33. (邦訳、四六頁以下)
 (註88): Cf. J. Derrida, De la grammatologie, Minuit 1967, p. 202.
 (註89): Cf. J. Derrida, Violence et métaphysique, p. 218.
 (註90): Cf. E. Lévinas, Difficile liberté. Essais sur le judaïsme (1963), 3ème éd., Albin Michel 1976, p. 412.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、181~184; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



  • 一二時半離床。瞑想サボる。さいきんサボりがちでよろしくない。階上へ行き、ハムエッグを焼いて食事。新聞は父親が読んでいたので読めず。窓外を見やれば天気は白く塗り尽くされた曇りで、色気や艶がちっともない、味気ないような空気の色だ。テレビは『BENTO EXPO』という番組を映しており、この番組は以前から火曜のこの時間によく選択されている。MCのひとり、タイだかどこだかわすれたが東南アジア出身の男性の着ているシャツが、一見してよくわからない妙な柄だなとおもって注視したところ、どうもプレイステーションのコントローラーらしきゲーム機のコントローラーが無造作にごろごろならんでいる模様のようだった。
  • 風呂洗いをして、茶をつくって帰室。一服してから、ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)を読む。BGMはMarvin Gaye『What's Going On』とSam Harris『Interludes』。三時半くらいまで。それからストレッチ。息を限界まで吐きまくって筋肉をやわらげる。
  • 夕食には餃子をつくった。母親がタネをこしらえていたので、アイロン掛け後にそこにくわわって皮に詰める。ひさしぶりにやった。子どものころはけっこうおりにふれてやっていたおぼえがあるが、いまはもうわざわざ皮に詰めるところからやることはすくなく、だいたい既製品を焼くだけである。
  • そのほかのことは忘れた。