2021/9/9, Thu.

 現にある [﹅4] 〈もの〉は、やがて過ぎ去って [﹅5] ゆく。建物はほどなく朽ち果て、樹々は倒れ、石すらも風化する。いっさいは消滅する。時々刻々と同一性を喪失してゆく。すべての〈もの〉がやがてそこへと消滅してゆく次元を(『全体性と無限』のレヴィナスにならっ(end189)て「始原的なもの」と呼ぶとすれば、「〈もの〉の〈始原的なもの〉への回帰はとどまるところがない [註99] 」。始原的なものは「ある [﹅2] 」の次元と接している [註100] 。名のあるものは無名 [﹅2] と接し、なまえの同一性が覆いをかけてしまう〈もの〉は、ほんらい脆くはかない。――おなじもの [﹅5] にたいしてなまえがあたえられる、ととりあえずはかたっておいた。だが、おなじでありつづける〈もの〉はなにひとつなく、むしろなまえがあたえられた〈もの〉が(あるいみで不可思議 [﹅4] にも)おなじ [﹅3] ものであると見なされる。であるとすれば、なまえとはなに [﹅2] にたいしてあたえられたことになるのであろうか。
 すこしだけ現象学的なことばで考えなおしてみよう。感覚的次元であたえられる存在者は、その剝き出しのあたえられかた、直接の所与性においては、感覚の時間的な散逸、「アスペクトとイマージュの散乱、射映ないし位相の散乱」(前項の引用)でありうる。つぎつぎと過ぎ去り、消えてゆくそのイマージュ [﹅5] 、あるいは刻々と変容してゆく対象の射映 [﹅2] は、無名のもの、なまえをもたない位相 [﹅2] でありうる。じっさい、移ろいゆく見えすがたや、過ぎ去ってゆく微かな音、あえかな肌ざわりのひとつひとつに命名し、呼び名をあたえることができるだろうか。それらはすべて名もなく散乱 [﹅2] し、散逸 [﹅2] しうる。
 にもかかわらず、「〈語られたこと〉と相関的な [﹅4] 〈語ること〉」、つまり繰りかえし使用され、反復可能な語、さしあたりは名詞としてのことばが、《なにものか》を名ざしてゆく。そのなにものか [﹅5] 、あるいはあるもの [﹅4] が、過ぎ去ることをおし止められて、「意味」をあ(end190)たえられ「現在のうちに固定されて」ゆくのである。だからそのあるもの [﹅4] 、現在において同一的と見なされるものは、そのつどあたえられる位相とは時々刻々ずれて [﹅3] ゆくのだ。なにものかを固定化し、それに意味をあたえることは、そのなにものか [﹅5] にたいして隔たりを供給することである。〈語られたこと〉、さしあたりは名詞の体系としてのことば [﹅3] が、「かくして〈あるもの〉を時間の移ろいから引き剝がす」。「現在」のうちで固定することはすでに、現に在るものを「再 - 現前化してゆく」ことにほかならない(65/80)。――これはきわめて「不可思議な操作」、「ことばのうちにある図式」(前項の引用)の、みごとな詐術 [﹅6] であるといわなければならないはずである。というのも、この「存在することのふるまい」、「存在 [﹅2] における所有 [﹅2] のモメント」にあっては、「未知のもの」は「あらかじめ開示された」ものとして、おしなべて「既知のもの」へと「紛れて」ゆくことになり、ほかならない現在があらかじめある過去と化してゆくことになるからである(157/186)。
 存在者の意味が構成されるにさいしては、かくて、記憶としての時間と、〈語られたこと〉としてのことばが関与している。風雨に曝され、僅かずつではあれ摩滅しつづけてゆくヴェルサイユ宮殿のかわらぬ「存続」は「記憶」のうちにあってのみ「可能」である [註101] 。揺らめいている炎のかたちを、吹きすぎる風のにおいを、ことばだけが現在にとどめる。存在者の意味を構成し、「異質なもの」をとりまとめる「同一性」、あるもの [﹅4] としての、存在者の意味の背後には、そして、《私は考える》(je pense)という「普遍的思(end191)考」が、〈述語づけられるもの〉、つまりカテゴリーをになう統覚があるのである [註102] 。
 超越論的統覚はカントにあっても、意識と存在との一種独特な統一であった。〈私は考える〉(ich denke)という命題は〈私は存在する〉という命題をふくみ、コギトとしての私じしんにおいては意識と存在とが同一である [註103] 。そのような私にとってあらわれるものは、すくなくともその現象の形式 [﹅2] においては私にたいしてあらかじめ [﹅5] 知られている。そこでは、経験一般が可能となる条件は、同時に経験の諸対象そのものが可能となる条件にほかならない [註104] 。かくして、レヴィナスは書く。

 真理とは再発見であり、召喚、想起であり、統覚の統一性のもとでの再統一である。時間の休止と再把持の緊張であり、断絶もなく、連続性の切れ目もない、弛緩と緊張なのである。それはしかし、現在からの純粋な隔たりではなく、まさに再 - 現前化である。つまり、真理の現在がすでにそこにあり [﹅2] 、あるいはなおもある [﹅5] ような、隔たりなのである。再 - 現前化とは、その《一度目》が二度目であるような、現在の再開であり、忘却と期待、おもいでと投企とのあいだの、過去把持であり未来把持である。想起である時間と、時間である想起――それが、意識と存在することの統一なのである(51/65 f.)(end192)

 あらかじめ意味 [﹅2] において知られているものが経験されるかぎり、存在者の露呈、「真理」とは「召喚」、すなわち過去の、すでに在るもののよびもどしにほかならない。存在者が意味として [﹅5] 「再 - 現前化」されるなら、《一度目》はつねに・すでに「二度目」である。「想起」が、かくて「意識と存在することの統一」となる。
 そのつど「再発見」であるような「発 - 見」(dé-couverte)とは、存在になにかを付加 [﹅2] することではなく、むしろ「存在の現成」である(52 n.1/333)。「散乱をひとつの現在へと集約する」意識(257/300)は、こうして同時になにほどかは「記憶をそなえた主体、つまり歴史家として」ふるまっていることになる(209/243)(前章参照)。
 とはいえ、このような「存在の自己じしんへの現出」には、「存在における分離」がふくまれている。時間とは「同一的なものがみずからとの関係で有する驚くべき隔たり」であり、「瞬間の位相差」(déphasage de l'instant)こそが「時間の時間化」でもあるからである(51/65)。時間そのもののうちに、回収と散乱 [﹅2] が、同一性と差異 [﹅2] が孕まれている。つまり、存在者に綻びをもたらし、〈語られたこと〉を撤回するようななりたちがあるはずなのである。この同時性と現在の微かな破綻が、時間の時間化のただなかで見とどけられなければならない。だが、時間が時間化する [﹅8] 、とはそもそもなにか。

 (註99): E. Lévinas, Totalité et Infini, p. 148. (邦訳、二〇八頁)「始原的なもの」をめぐっては、第Ⅰ部・第二章参照。
 (註100): E. Lévinas, op. cit., p. 151. (邦訳、二一二頁)
 (註101): Ibid., p. 148. (邦訳、二〇七頁)
 (註102): Cf. ibid., p. 25. (邦訳、三五頁)
 (註103): Vgl. I. Kant, Kritik der reinen Vernunft, B 422 Anm. カントのこの思考についてはとりあえず、熊野純彦「超越論的哲学の帰趨――反省的自己のなりたちをめぐって」(宇都宮芳明・熊野純彦・新田孝彦編『カント哲学のコンテクスト』北海道大学図書刊行会、一九九七年刊)参照。
 (註104): Vgl. I. Kant, op. cit., A 158/B197.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、189~193; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



  • 一一時に覚醒し、しばらくこめかみや喉を揉んだりしてから離床。この午前中には雨が降っていたが、午後四時過ぎ現在は止んでいる。水場に行ってきてから、ひさしぶりに瞑想をすることができた。最初のうちは深呼吸をくりかえしてからだをほぐし、良いかんじになったところで静止。そとでは虫の声が二、三、散っているが、リーリー鳴るタイプのものではなく、色気や色味のない、地味な種である。雨は火に触れられた紙が端からじわじわと燃えていくときのような、しとしとと浸食するような降りかたのようだ。屋内のほうからは、階段下の室にいる父親がだれかと電話している声が聞こえてくる。くだけた調子からして、また祖母のことを「おふくろさん」と言っていることからして、(……)さんか(……)さんあたり、きょうだいのだれかではないか。
  • 食事はケンタッキーフライドチキンと煮込みうどん。新聞、いちばんうしろの社会面にワクチンにまつわる陰謀論界隈のことが書かれてあった。日本でも東京(新宿)と京都で七月に、反ワクチンのデモが起こっていたのだという。ぜんぜん知らなかった。コロナウイルスは国際的な茶番であり、政府は人民を管理するためにワクチンを打たせようとしている、という主張である。そういうかんがえで活動しているふたりの声が載っていたが、ひとりは三〇代の女性で、昨年は感染を恐れてママ友と公園に行くこともできず、家でFacebookを見ているときにワクチン陰謀説に遭遇し、さいしょは半信半疑だったが関連情報を発しているページの人間が称賛されているのを見てじぶんもみとめられたいとおもい、やりとりをするようになったと。もうひとりは七〇歳くらいの、これも女性とあった気がするが、そして元教師とか書かれていたような気もするが、そういう人物で、YouTubeで関連情報に接するうちにコミットをつよめたらしく、「本当のことをつたえなければならない」というおもいでやっているらしい。第一の例からわかるのは、陰謀論への加担に実存的承認がかかわっているということで、このひとは感染を恐れていたというからおそらく不安をかんじていたとおもわれるし、公園でママ友と交流することもできなくなったというから孤独や社会的疎外や閉塞感のようなものをおぼえていたということも充分あるだろう。他者とのかかわりがそれまでよりもとぼしくなったことで、どこかでそれを補填しなければならなかった。そこに陰謀論的コミュニティがうまい具合にはまったのだろうと、記事の記述のかぎりでは推測される。「みとめられたいとおもって」そういうページに参加するようになった、と言われていたのがわかりやすい証言だ。陰謀論にコミットするひとのすべてがそうではないだろうが、こういうひともたぶん多いのだろうとおもわれ、そこで厄介なのが、この種のひとびとにあっては陰謀論とそれにもとづいた世界観や社会の認識がそのひとの実存とわかちがたくからまりあっているとおもわれるので、陰謀論を否定するということは、彼らにとってはじぶんじしんを存在として否定されたということと同義になるだろう、ということだ。ワクチンにはマイクロチップがふくまれていて政府は統治管理のためにそれを国民に埋めこもうとしている、というような陰謀論のあやしさや無根拠さ、荒唐無稽さやありえなさをいくら述べたてたり、理性的・論理的に反証しようとしても、彼らはそれを聞き入れないはずである。なぜなら、反論のただしさを部分的にでもみとめることは、その分自己の存立基盤をうしなうことになるからだ。世界認識とアイデンティティ陰謀論的なかんがえと深くむすびついている人間にあっては、とうぜん、陰謀論をうしなうことは、自己がくずれてなくなってしまうことを意味するだろう。そこでひとは自分自身として実存するための支えを欠いたおおきな不安におそわれるはずである。だから、そういう種類の陰謀論者にとっては陰謀論はなにがなんでもまもらなければならない根幹的な橋頭堡であり、彼らはそれにしがみつかざるをえず、それを破壊しようとするあいてはすべて敵だということになるはずだ。
  • 第二の例から判明するのは、このひとにとって陰謀論的言説は端的な真実であるということであり、くわえてその真実をひろくひとびとに認知させなければならない、という義務感や使命感のようなものをこのひとがかんじている、ということである。真理への志向という性質は哲学者に特徴的なものでもあるが、みずからもとめたというよりは電脳空間上でふと「真実」に遭遇したという事情なのだとすれば、それはむしろ宗教者におとずれる啓示に似たもののようにもおもわれる。そうして得た真理を世につたえなければならないというのも、伝道者の姿勢をおもわせるものだろう。当人からすればそれはまた、正義のおこないとみなされているかもしれない。この人物や第一の例のひとが「真実」に出会ったのはインターネットであり、それも電脳空間上の一部局所である。真実はワールドワイドウェブのかたすみにひっそりと秘められていた。おそらくふたりとも、もともと主体的に「真実」をさがしもとめていたわけではなく、ネットを見ているうちにたまたま遭遇し、こころをつかまれたのではないか(第一の例においてはそれが明言されている)。したがって真実は、隠されてはいないとしても、ひとの目につきにくいある場所にひそやかに存在しており、それが偶然に発見された。この件において真実はマイナーなものとしてあらわれている。そのマイナーなものを流通させ、メジャーな認識に変えなければならないという情熱に、彼らはつきうごかされているとおもわれる。なぜ真実が世にひろく流通していないかといえば、とうぜん新聞やテレビ、ラジオなど、おおきな影響力を持った既成メディアがそれを無視し、とりあげないからである。真実がインターネットのかたすみでかたられているのにたいし、既成メディアがかたっているのは都合よくゆがめられたり操作されたりした偽の情報である(陰謀論者にとって、既成メディアの報道することはフェイク・ニュースに見えるだろう)。虚偽を流布させる主体(すなわち「黒幕」)として想定されているのは、おそらくはまず各国政府だろう。メディアはそれを知りながら政府の情報操作に加担している犯罪的二次組織か、あるいはそれじたい虚偽情報にだまされている無能集団とみなされるはずだ。メディアから情報をえる一般市民は、悪意をもって操作された情報にだまされている被害者であったり、無知で不勉強な愚者であったりとしてあらわれるだろう。そこにおいて陰謀論者は、彼らに真実の開示(啓蒙の光)をもたらす救済者となる。
  • じぶんもふくめて、陰謀論にとりこまれていないひとびとが、既成のメディアの報ずることをおおむね信用しているのは、ひとつにはいままでの歴史がメディアにあたえる権威のためであり、もうひとつにはその権威がじぶん以外の他者においても共通了解として共有されているためである。ちょうどきのうまで読んでいたミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』において、「信じること」の問題がかたられている。いわく、現代社会においては、「信」は主体と情報のあいだで直接的になりたつのではなく、他者を経由することで成立している、と。あるテレビ視聴者は、「自分がフィクションだと知っているものをそうないと保証してくれるような別の [﹅2] 社会的場があると思っているのであり、だからこそかれは「それでも」信じていたのである。あたかも信仰はもはや直接の確信として語られることはできず、もっぱら他の人びとが信じていそうなものを経由してしか語られないかのように。もはや信は記号の背後に隠された不可視の他性にもとづいているのではなく、他の集団、他の領域、あるいは他の専門科学がそうだろうとみなされているものにもとづいている」(428)、「どの市民も、自分は信じていないにもかかわらず、他人が信じていることにかんしてはすべてそうなのだろうと思っている」(429)。われわれがメディアによって流通する情報をある程度まで信用するのは、歴史的権威や書物のネットワークなど、われわれにある情報を事実として信じさせるもろもろの装置が成立しているからであり、その作用がじぶんいがいの多数の他者においても確実に機能しているからである。メディアによって報じられるということじたいが、それがひとつのたしかな事実として共有されうるものであり、共有されるべきものだということを担保しており、それがひろく共有されるということがまた反転的にメディアの真実性を強化する。みんながそれを事実だとおもっているのだから、それは事実なのだろう、というわけだ。陰謀論者においてはこの論理が逆転されるだろう。みんながそれを真実だとおもっているということは、それは真実ではない、と判断されるだろう。大多数の他者が真実とみなしていることは、虚偽である。あるいは彼らにあっては、「信」を成立させるために経由するべき準拠枠である「他者」の範囲や種類がことなっているとも言えるかもしれない。
  • 陰謀論は無根拠なものである。とはいえ、媒介された情報はどれも最終的には無根拠だとも言えよう。世に流通している情報は、それが真実なのか虚偽なのか、そのあいだであるとしてもどの程度真なのか偽なのか、最終的にはわからない。ある事象が真実や事実であると主観的に確信するいちばんの方法は、それをじぶんの身でじっさいに体験することである。しかしメディアによってつたえられることがらは、その存在条件上(メディアとはひとびとが直接体験しないことを伝播させる仲介者なのだから)、基本的に直接経験することはできない。ひとはじぶんの身に起こっていないことをいくらでもうたがうことができるし、デカルトをまつまでもなく、みずから体験したことでさえいくらでもうたがうことはできる。そうしたもろもろをかんがえたうえでしかしながら、陰謀論はその無根拠さが、つうじょうの情報に根底でつきまとう無根拠さとはことなっているというか、端的に言ってそれは荒唐無稽なものである。そして、だからこそときに強固な信を生み、情熱的に擁護されるのではないか、という気がする。陰謀論的言説が無根拠であり、しかもその無根拠の質が、荒唐無稽であるがゆえに理性的判断や論理のつみかさねによってついに到達しえず、検証しえない性質のものであるからこそ、それをつよく断言的に信じることが可能になっているのではないか。かりに陰謀論が合理的な根拠をもったたしかな言説だったら、つまり事実として相当程度共有されうるものだったとしたら、そのように熱狂的に支持され、後押しされることはないのではないか。
  • この日もあとは手帳のメモを写して茶を濁す。
  • 『蝶の生活』読みはじめる。
  • ストレッチ。合蹠念入りに。
  • 4時、食事。KFCのサラダと食パン。新聞、アフガンの閣僚、勧善懲悪省。
  • 5時すぎ出。雨なし。空、雲なだらか。くすんだ白。広くのべられている。(……)さんが公団の入口で草とり。階段、フェンスのきわ。ご苦労さまですと。危ないじゃないですか、と。つかまりながらやっていると。その先で(……)さんにもあいさつ。
  • 坂、セミまだいくらか。駅、からだ、熱。
  • 駅。先日も見た女性と女児。親子かやはり不明。若いようだが、声のトーンや低さがもっと年上を思わせる。子は無邪気にたわむれている。手帳にメモ。
  • 車内、着席。走行音、大きいような。窓があいていることもあろうが、1、2分遅れていたようなので、急いでいたのか。
  • (……)、空、白。その上に薄暗い影も少し。全面くもり。形や量感のない。ほとんど実体をもたないような、色としての雲が、希薄さをかさねて厚い層をなしている。
  • 駅出ると(……)くん。一緒に入室。
  • (……)