2021/9/14, Tue.

 レヴィナスは、「ソクラテスソクラテスする、あるいはソクラテスソクラテスであるとは、ソクラテスが存在するしかた [﹅3] である。述定は、存在すること [﹅6] の時間を理解させ・響かせる(fait entendre)(72/88)と主張する。「ソクラテスソクラテスである」とはたんなる同義反復であり、「ソクラテスする」(socratiser)という表現は、「ソクラテス」という固有名を、(ラッセルもしくはクワインばりに? [註120] )述語化したものにすぎない(end204)かに見える。レヴィナスのいっけん奇妙なこの主張は、なにをふくみ、どのような消息をかたろうとするものなのだろうか。論点を展開するに先だって問題となる箇所をまず引用する。

 陳述――赤が赤くなる [﹅6] 、あるいはA [﹅] はA [﹅] である――は、実在を二重化しているのではない。述定にあってのみ、赤が存在すること [﹅6] が、あるいは存在すること [﹅6] としての赤くなること [﹅6] が理解され・聴きとられるのである。述定にあってのみ、名詞化された形容詞が、存在すること [﹅6] 、ならびにただしい意味での時間化として理解され・聴きとられる。存在すること [﹅6] は〈語られたこと〉のうちでただ翻訳されるのでも、たんに《表現》されるのでもない。そこではじめて――しかし両義的に――存在すること [﹅6] は存在すること [﹅6] として響くのである(69/84 f.)

 AはAである [﹅6] とは、とりあえずは「同義反復的な述定」(67/83)、端的な同一性の言明であるかにみえる。だがそうだろうか。すこし考えておく必要がある。
 海は海である、空気は空気である、月は月である、というかたりが主張しているのは(同時に主語と述語に立っている)存在者の同一性ではない。言明されているのはかえって、それぞれの存在者が他の存在者とことなって [﹅5] いることである [註121] 。たとえばヘーゲルと(end205)ともに、そう考えることもできる。――そればかりではない。ヘーゲル的に考えれば、そもそも同一性というカテゴリーそのものが差異に侵食されているのだ。おなじ [﹅3] であることは、ちがう [﹅3] ことではない。同一性と差異とはことなる [﹅4] 。だから [﹅3] 、おなじであることは、その本性にあって「ことなるもの」(Verschiedenes)である。「同一性」はそれ自身において「非同一性」である(『論理学』本質論・反省規定の章 [註122] )。
 他のものとのことなり [﹅4] が、それぞれがおなじ [﹅3] ものであることの条件となる。差異が同一性のなりたちを裏うちしている。ヘーゲルがみていたのは、同一性のうちにやどる差異である。とはいえ、「本質」とは「無時間的に過ぎ去った存在 [註123] 」であるとされる以上、ヘーゲルが見さだめていたものは、いわば無時間的な差異の体系にほかならない。
 むしろ時間的に考えてみる。つまり、同一性の述定を時間的な一回性において再考してみる。「AがAである」を「AがAになる [﹅4] 」と読むこともできる。すなわち、「赤が赤くなる [﹅6] 」(rouge rougeoie)「響きが響く [﹅5] 」(le son résonne)という命題として考えることができよう(68/83)。こうした「陳述」は、まず「実在を二重化しているのではない」。第二に、〈語られたこと〉はまた、たんなる「翻訳」でも「表現」でもない。そこでは赤、響きという名詞が時間化 [﹅3] され、一般にAの存在が動詞化 [﹅3] されている。このような動詞化にあって「はじめて」、「赤が存在すること [﹅6] が、あるいは存在すること [﹅6] としての赤くなること [﹅6] 」が明示される。「名詞化された形容詞」がふたたび動詞へと差しもどされること(end206)で、「存在すること [﹅6] 」が「存在すること [﹅6] として響く」(以上、前出)。あるいは、「時間化が、存在すること [﹅6] として陳述のうちで響いている」(69/85)のである。
 この響きは、それ自身もちろんまた「両義的に」(前出)響く [﹅2] 。つまり、存在すること [﹅6] が存在者でもあるという響きがともに響いている。だからこそ〈語られたこと〉がふたたび存在を実体化して、存在者の意味を固定することができるのだ。だが、陳述、述定といういみでの〈語ること〉は、それがまさにかたりだされる、時間的な一回性をともなったその場面で、意味をほつれさせ、時に綻びを生じさせることがありうる。なぜであろうか。
 絵画を例に考えてみる。色やかたちは「存在者として同一化される寸前の状態にすでにある」。色彩や輪郭は、見わけ [﹅2] られ描きとられ [﹅3] ることで、はじめてこの(特定の)色となり、ほかならない(一定の)このかたちとなる。絵画もまた陳述である。絵画にあってこそ風景がまさに風景である。つまり〈動詞化〉としての同一性の述定が生起している。だが、芸術は存在することの時間化であるとともに「存在することの刷新 [﹅9] 」(le renouvellement essentiel [註124] )でもある(cf. 70/86 f.)。すぐれた絵画、たとえばセザンヌの作品によって、ひとは〈もの〉が彩られてある微細な差異を、世界にあるさまざまなかたちを教えられる。絵画にふれたあとの [﹅3] 時間は、それ以前の [﹅3] 時間と断絶している。芸術にあっては、世界が突然あらたな相貌をもって立ちあらわれるのだ。それゆえ芸術作品における時間(end207)化は、ディアクロニーにおける時間化 [﹅14] である。あるいは絵画にあって、存在すること [﹅6] はすべて「異邦的」であり、「散乱において存在すること」なのである(cf. 71/87)。
 音についても同様である。クセナキスの音楽は、旋律を解体し、音が副詞 [﹅2] に転じて、砕け散る(cf. ibid.)。ことばにあっても、ことのおなじ消息を見とどけることができる。〈語ること〉は、「切断された間をともなう時間、つまりディアクロニーのもとで時間化する」(80/99)ことがありうる。ことばが詩となり、原初の生き生きとした比喩の力をとりもどして、散文としての世界を破壊するとき、断絶する時のなかで、世界の煌きがあらためて見いだされることがある。輪郭を際だたせる瞬間に時がほつれ、世界の彩りを描きとるときに、時間が剝離し更新して、分散することがありうる。〈語ること〉の一回性そのものが、そのとき際だってあらわれることになるだろう。
 存在者の意味 [﹅6] は時間化のうちで構成される。だが、時間の時間化にあっては、「瞬間のそれ自身にかんする位相差」が生じ、自己差異化する時間化の作動それ自体には、同一性へと回収不能な剰余が存在しつづける。「時間の時間化」はまた「存在 [﹅2] と存在しないこと [﹅7] とのかなた [﹅3] 」をも意味しているのである(22/30)。
 「〈語ること〉の〈語られたこと〉への従属」、「〈語ること〉の命題への転換」は、一般に「現出が要求する犠牲」である(17/23)。だが、〈語られたこと〉のうちになお「〈語ること〉のこだま」が聴きとられる(48/62)。つまり「近さ」としての「語ること」(17/22)を、(end208)わずかに聞きわけることができる。(……)

 (註120): よく知られているように、たとえば「ヨーロッパ」という固有名のかわりに、日常言語における「xはヨーロッパである」にほぼ対応する記号表記を決め、固有名「ヨーロッパ」をその省略形とさだめれば、固有名を消去した、記述と変項のみからなる形式的言語の体系を構成することができる。Cf. W. V. O. Quine, Mathematical Logic, rev. ed., Harvard U. P. 1951, p. 149 f. ラッセル/クワイン的な、この問題の周辺についてはとりあえず、熊野純彦「固有名試論 1」(『現代思想』一九八九年六月号、青土社)参照。
 (註121): Vgl. G. W. F. Hegel, Werke in zwanzig Bänden Bd. 8, S. 240 f.
 (註122): G. W. F. Hegel, Werke Bd. 6, S. 40 f. ここにあらわれているのは、「同一性と非同一性との同一性」というヘーゲルの根本思想でもある。旧稿「ヘーゲル他者論の射程」(上妻精他編『ヘーゲル』情況出版、一九九四年刊)で、この根本思想といわゆる「承認」論とのかかわりを辿っておいたことがある。
 (註123): G. W. F. Hegel, op. cit., S. 13. この語をふくむ『論理学』第一部・第二巻冒頭部の解釈については、熊野純彦「生成する真理――ヘーゲルにおける「意識の命題」をめぐって」(『東北大学文学部研究年報』第四七号、一九九八年刊)の第1章参照。
 (註124): この箇所のessentielは、存在すること [﹅6] (essence)の形容詞である。前註96参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、204~209; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



  • 九時半ごろに携帯の着信で起こされた。振動が三回で終わらずつづくので、電話である。ふだんは携帯をサイレントモードにしていて、着信があってもバイブレーションすら起こらないようにして他人とのつながりの唐突な闖入を防いでいるのだが、先日、母親が帰路に拾うとおくってきた日にふつうのマナーモードにしてそのまま忘れていたのだった。出ると母親で、父親のズボンをアイロンかけしようとおもってアイロンのスイッチをつけっぱなしにしてしまった、というので了承し、起き上がって上階に行き、アイロンのスイッチを切って部屋にもどった。眠りがすくなかったので二度寝をするべきだったのだろうが、ベッドにはもどったものの寝るのではなくてそのままコンピューターでウェブを見回りながらだらだらしつづけてしまった。それで一時にいたったところでようやく起床。(……)くんと二時から通話の予定だったので、そろそろ起きて準備をしないとまずい、というわけだった。
  • 両親はロシアの兄夫婦に頼まれて(……)の物件を見に行っているのだった。
  • きのうの鶏肉のあまりと白米で食事を取り、手首を曲げて伸ばしたりこめかみを揉んだりしながら新聞を読む。国際面の記事をだいたい読んだ。メルケル後のドイツおよび欧州を問う数日連載がはじまっていた。二〇一五年のシリア内戦による難民危機でメルケルはいちはやく、また最大の寛容を見せて人数制限なしに難民を受け入れたが、国内ではそれによって国民の反発とAfDの伸長をまねき、結果的にそれが引退にもつながることになったと。また、EU諸国での難民受け入れ割当も提案したものの、ポーランドハンガリーは「寛容の押しつけ」をするなと反発し、その後この二国はLGBTにたいする差別的な法律もつくることになり、メルケルの寛容が皮肉にも一部で不寛容を加速させることになったと。ドイツの連邦議会選は今月の二六日にせまっており、現在のところ社会民主党SPD)が最大の支持率を得ており(二六パーセントくらいだったはずで、八月末に与党キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)を追い抜かしたのだ)、ついで与党(二〇パーセントほど)、緑の党。このままだと一六年ぶりだかで左派主導の連立政権が誕生しそうだと。有権者の関心領域は環境問題が最大で、つぎに移民難民問題だということで、アフガニスタンからながれてくる難民を警戒しているのだろうというわけだが、環境問題が第一というのはすごいというか、日本ではかんがえられないなとおもった。ライン川付近では先般、洪水だったかおおきな災害が起こっていたはずで、それもあるのだろうけれど、日本もたびたび豪雨なり地震なりにおそわれているにもかかわらず、それが政治的関心としてたかまるということはまだまだないだろう。このあたり、ドイツやヨーロッパの独自性がやはり見えるのかなとおもわれ、欧州では緑の党が各国でつねに一定の支持を確保しつづけているわけだが、少数派ながら環境政党がかならず安定した票をえられるというその風土はやはりすごいとおもう。
  • ロシアではプーチンが、二次大戦時の日本の戦争責任や、ハバロフスク化学兵器開発をしていた日本軍のことを批判し、終戦直前の北方領土の軍事的占領と実効支配を正当化するとともに、ナチスとならんでソ連の戦争責任を問う欧州の風潮に反発している。フランスでは二二年の四月にひかえている大統領選に、パリ市長の女性が立候補することを表明した。アンナ・イダルゴ、とかいったか? アンヌ、だった。パリ市長としてはじめての女性で、六〇歳くらいだったはずで、左派。左派としては前回の大統領選にも出馬した(「極左」といわれていた記憶があるが)メランションが立候補する予定らしい。いまのところはマクロンマリーヌ・ルペンの一騎打ちの構図になっており、左派は糾合して候補をひとりにしぼらないと勝てないのでは、といわれているもよう。
  • のち、夕刊には室井摩耶子というピアニストがとりあげられていて、このひとはいま一〇〇歳なのだが現役のピアニストで、いまも毎日練習は欠かさず、むしろそれこそが健康の秘訣であり、演奏会のまえなどは一日七、八時間は弾くという。すごい。一〇〇歳の人間が一日七時間もピアノを弾くことが、ふつうできようか。デビューは一九四五年一月だからまさしくほぼ戦後とともにピアノを弾いてきたということになるわけで、キャリアはもう七六年、八〇歳になったころにようやくピアノというものがわかってきたと当人は言っているらしい。やばい。
  • ほか、「日本史アップデート」で村上水軍(村上海賊)の実態、みたいなはなしなど。きょうはあとはだいたい(……)くんと通話したというだけ。二時から七時まで五時間もはなしてしまった。日記はあいかわらず勤勉にすすめられず、きょうときのうの記事を書いたくらいで、九月六日月曜日を一向に終わらせることができない。ほんとうはその日の書抜きをしたかったのだがわりとなまけてしまう。
  • シュナック/岡田朝雄訳『蝶の生活』(岩波文庫、一九九三年)も読みすすめて、いま「第一の書 蝶」というのを終えて、「蝶の物語」という中間パートにはいったのだが(それを抜けると今度は蛾のパートになる)、そこのさいしょにあった「ホメロスの蝶」という短い物語が良かった。べつにそんなに大したものではなく、べつに大したものではないなとおもいながら読んでいたのだけれど、終盤、ホメロスが死ぬところから終わりまでがなかなか良かった。ギリシアのある小島で乞食のようにみすぼらしい状態で死にかけていたホメロスを青年が見つけて看取ることになるのだけれど、目も見えずもう死にかけてことばもほぼ発せないような状態になっていたホメロスがさいごになって霊感をとりもどし、詩のことばらしきものをつぶやく。しかし世界を構成するそのいわば雲の言語、宇宙の言語と呼ばれているものにもまもなく終わりがやって来て、ほんとうにさいごのさいごにホメロスが口から発せるものとしてのこっているのは世界をつくりだす子音がはがれおちた母音なのだ。だからそれはことばというよりほぼ声でしかないようなものなのだろうけれど、さいごに母音だけをのこして事切れたホメロスの、死んだ口のなかから蝶が一匹あらわれて去っていくのを青年は目撃するという趣向になっていて(ホメロスのさいごの声と音響をおぼえていた青年はその後みずからも詩人となり、第二のホメロスとまでいわれる評判をえたものの、それも過ぎてもはや無名になった晩年、孫と野原を散歩しているときに蝶を見てかつてのその記憶をおもいだす、という篇の結び方になっている)、そのあたりの記述のながれかたがそんなにすごいものではないけれど良かった。この蝶はアポロウスバシロチョウというやつとされていて、だからむろん太陽の神アポロンを暗示しており、神の霊感が詩人ホメロスのことばにやどっていたということになるのだろうが、いっぽうで死者の口から蝶が抜けていくというのは生命とかたましいの分離というイメージをおもわせるもので、その種の表現としては典型的というべきなのだろうけれど、なんだか良かった。
  • (……)くんと二時から七時くらいまでZOOMでながく通話したのだけれど、いまもう九月二一日にいたっていてあまり内容をおぼえていないし、書くのが面倒くさくもあるので省略しよう。だいたいのところ彼が書いた小説のことを聞いたりとか、それにおうじて文を書くこと作品をつくることについてのかんがえを述べたりとかで、この日はそこからはずれることはあまりなかった。毎日ひとの文を読んではじぶんの文としては日記を書いているだけで作品をつくったことがないじぶんが、すでに作品を数個かたちにしたあいてに対して訳知り顔でものを語るというのも偉そうで馬鹿馬鹿しいはなしなのだが、(……)くんとじぶんの関係においてそれは問題にならない。いまのところ彼は三作つくっていて、さいしょに書いたみじかいやつを(……)みたいなものに送ったら一次は通過して二次で落ちたという。一次応募者が一〇〇〇人くらいらしく、そこから六〇人にしぼられたなかに残ったというのですげえなとおもったが、それは文章として作品として最低限のかたちには整っている、というくらいの評価のようだということで、それいじょうなにか突出したものがないとその先には行けないのだとおもう、というはなしだった(とちゅうで顔を出した(……)さんも作の評価としてそういうことを言っていた)。そのつぎに長篇を書き、これも(……)だったかの新人賞に送ったといい、もう一作、星新一的なみじかいやつも書いたといってこの三作はPDFでもらった。そしていまは一一月だかの賞に送る長篇にもう一本とりかかりはじめているらしく、よくそんなに書けるな? といわざるをえない。俺はいままで七年半以上書いてきて、一作もつくっていないぞ? さいしょの短編はいちばん純文学方面にちかく、作をかさねるごとにエンタメ的なほうに寄ってきているが、歴史小説というか背景にながい歴史をふくんだ雄大な小説を書きたいというのがたぶんいちばんの欲望だけれど、そこでことばの表現と物語的エンタメ性とのあいだでどういうバランスにするか、どのくらいのものをやりたいのかというのがじぶんでもまだつかめていない、と言っていた。いざ書いてみると一度目に書くときよりも校正((……)くんはいぜんの職業柄か、「推敲」ではなくて「校正」という語をつかった)のほうがはるかにたいへんだった、めちゃくちゃ時間と労力がかかったというので、それはそういうもんなのだと受けてフローベールのエピソードなどを紹介した。彼は文章をととのえさだめるときに、ゆっくり音読してもっとも良いものを探っているというから、それは完全にただしいやりかただと賛同し、また、読んでて、おなじことばとかおなじような音がつづけてかさなると美しくないなとおもって変えたくなるとか、一週間くらい置いて書き直したとき、ここのことばはだめだなとおもってべつの語に変えたら、そのすぐあとにその語がつかわれていて、そうかまえのじぶんはこっちでこれをつかったからまえを変えたんだな、過去のじぶんもかんがえてたわ、となることがあったとかいうので、めちゃくちゃあるあるだわ、ありすぎるわと笑って共感をこたえた。そういうはなしを聞くかぎりでは(……)くんの感性とかやりかたはやはりあきらかにエンタメ方面よりもいわゆる純文学のほうに適合しているようにおもうのだが。物語と表象を旨としている作家のなかに動詞の反復をゆるせない人間とか、そんなにたくさんはいないでしょうたぶん。