2021/9/15, Wed.

 不断に移ろいゆくものが、〈なにものか〉としてとらえられ、変移してゆくものの同一性が構成される。その同一性 [﹅3] こそが、〈語られたこと〉が告げる意味 [﹅2] であった。「同一化」はこうして、「これをあれとして」了解し、宣言する。存在者にかんする「知」が、この了解のうちでなりたつのである。射映の散乱をとりあつめ、存在者を意味として「諒解」(entendre)するこの「悟性 [﹅2] 」(entendement)はしかし、「感覚的なものの純粋な受動性」のうちに、ほんとうにすでに孕まれているのであろうか。感覚されるものは、いわば自生的な秩序をたどって意味へと到達し、受動的なものは、能動的な意味づけのうちへことごとく回収されてゆくのだろうか。感覚的なもの、感受されるもの [﹅7] の純粋な受動性はかえって、「〈語られたこと〉と相関的な〈語ること〉 [括弧内﹅] 」によって「断絶」させられてしまうのではないだろうか(cf. 101/123)。そうであるとするならば、いまだ知へと結実しない沈黙の次元が、「感覚的なもののうちにある最初の《能動性》」(101/124)の、さらにてまえにある受動性の次元が手繰りよせられなければならない。
 たしかに、「知は感性的な直観から産出される」。そのかぎりでは、「直観はすでに理念 [﹅2] となりつつある感受性である」といわねばならない(100/123)。だから、「感性的直観はすでに〈語られたこと〉の秩序にぞくしている。それはイデアリテなのである」(102/125)。見てきたとおり、感覚的体験 [﹅2] も意味づけをまってはじめてひとつの経験 [﹅2] としてなりたち、感性的なものもまたイデアリテを、つまり理念性 [﹅3] を懐胎している。〈語ら(end210)れたこと〉という秩序は、感受性のすみずみにまで紡ぎこまれているようにおもわれる。――だが、そうだろうか。つづけてレヴィナスは書いている。

 理念は、感性的なもののたんなる昇華ではない。感性的なものと理念とのことなりは、認識の精度の多少をわかつ相違でもなければ、個別的なものの認識と普遍的なものの認識とを区別する差異でもない。知られたかぎりでの個別的なものはすでに脱感性化され、直観のうちで普遍的なものへともたらされているからである。感性的なものが固有に意味することがらについていえば、それは享受や傷といったことばで記述されなければならない。のちに見るように、それは〈近さ〉のことばなのである(ibid.)

 カントのみるところでは、ライプニッツは、感性的直観をたんに「混乱した」表象の様式とみなし、現象を「悟性化」してしまう [註125] 。それは直観と概念の、感性と悟性との混同にほかならない。「理念」は混濁した「感性的なもののたんなる昇華」などではない。カント自身も、とはいえまた、カテゴリー(純粋悟性概念)の客観的妥当性の根拠をもとめ、演繹論の解決をたずねて、受容性 [﹅3] としての感性の基層に、能動的な結合と総合の始原をさぐりあてたといってよい。じっさい、直観の多様から統一が生成するためには、(end211)多様が多様として見わたされ、統合されなければならない。いわゆる「覚知の総合」は、感性的直観の基底にはたらく、そうした始原的な自発性 [﹅3] なのである [註126] 。カントにあってもたしかに、「知られたかぎりでの個別的なものはすでに脱感性化され、直観のうちで普遍的なものへともたらされ」つつあるのである。

 (註125): I. Kant, Kritik der reinen Vernunft, A 270f./B 326 f.
 (註126): Vgl. ibid., A 99 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、210~212; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



  • 一一時一五分に覚醒。しばらくしてから床を抜け、水場に行ってうがいをしたり用を足してきてから瞑想。正午直前まで。なかなかよろしい。窓外にミンミンゼミの声がまだのこっていた。きょうは曇りと晴れのあいだみたいな天気で、ときおり陽の色が見えてやや暑い。
  • 食事はおじや。新聞、バイデン政権の運営に暗雲がたちこめていると。支持率は下がって四八パーセントほどになり、不支持と拮抗しているし、民主党内も財政支出法案をめぐって左派と中道派で対立が生じているところにアフガニスタン撤退の悶着があり、共和党ドナルド・トランプはとうぜん批判をつよめている。ほか、自民党の総裁選では石破茂が出馬をとりやめる見込みらしい。高市早苗は選対幹部に保守派をそろえつつも、「生活者目線」を強調して右派色を中和しようとしていると。選対発足式みたいなやつに安倍晋三は出席しなかったらしいが、あまり安倍を前面に出しても清新さが欠けてしまうというあたまらしく、自身の「サナエノミクス」は「アベノミクス」の継承ではない、と高市は言ったらしい。すこしまえにはアベノミクスの路線をしっかり引き継いで、とか述べていたはずで、著書にもそういう説明が書かれているというはなしだったとおもうし、安倍政権がやりのこしたことを果たしたい、みたいなことも言っていた。立憲民主党と国民民主党共産党への距離をめぐってあいかわらず溝があると。国民民主党の支持率は一パーセントだというし、立憲も一桁か、行ってせいぜい一〇パーセント程度だったはずなので、どうにもならない。
  • 皿と風呂を洗って帰室。きょうは三時には出なければならない。いまもう一時半なので猶予はとぼしい。
  • いまは帰宅して夕食や入浴をすませ、零時を越えたところ。風呂に浸かっているときに、日記もまた一向に終わらなくなっているし、毎日の記事に読書メモを取るのはやはりやめにしようとおもった。かなり糧になるとはおもうのだが、どうしても時間がかかりすぎる。あれのせいで本文を充分に書けないということもあるし。そもそも日記というのは日々記すものであり、ほんらいその日気になったり印象にのこったりしたことがらをさっと記す程度のものなのだから、当日内かせいぜい翌日までには書き終えているのがただしいありかたであって、一週間経っても一週間まえの記事がかたづいていないなどというのはまちがっている。ただのアホだ。アホであることも一興だけれど、もっと楽でたいへんでないやりかたでやっていかなければとあらためておもった。俺の生は生を記すことだけにあるのではない。なるべくたいへんなことを減らし、たいへんだけれど真にやりたいことにリソースを割けるようにしなければならない。したがって読書メモは犠牲にする。完全に取らないようにするのか、読書中に手帳にページをメモするのもやめにするのか、メモだけはしておいて気が向いたときだけやるようにするのか、などまだいくらか迷うものの、基本的にはやらない方向で。本を読み終えたあとの書抜きのみで行く。読書メモというより、本文にとりあげたり組み込んだりするくらい印象にのこった部分があったら、日記本文の記述として書いておく、という方針がやはり良いのではないか。書抜きは書抜きであり、日記ではないのだから、日記とは独立させてやっていくべきである。
  • したがって、九月六日以降の読書メモはもうあきらめ、本文をしあげるのみでさっさと投稿していく。セルトーの本からのメモはしかたないが中断だ。勉強になる本だったから、メモしておきたい箇所が多すぎた。シュナックのほうはすくないから、それはべつにやっても良いが。
  • はやめに三時に出ようとおもっていたが、やはり四時まえの電車で行くことに。それだと余裕がすくないのだが。シュナック/岡田朝雄訳『蝶の生活』(岩波文庫、一九九三年)を読んでいるうちにそういう気になった。二時すぎで洗濯物を入れてたたみ、三時すぎまでまた読んでから身支度。
  • 往路にすでに日なたはなくて林に接していれば道の上はすずしいが、左手の家並みのむこう、低みにあって見えない川も越えた先は山や町が浮遊するがごときおだやかな黄褐色をまだ寄せられている。公営住宅まえに出ればこちらでも陽の色がひらいて、ひかりのなかにはいればにおうような暖気がやはり暑い。前方にはカラスが一羽、路上の陽のなかにたたずんでおり、くちばしにときおりひかりを溜めて銀色に磨かせながらゆっくりすこしずつうごいてフェンスにのぼり、そこからさらに公団の棟のうえにバサバサ飛んでいって、それを視線で追いかけたところに頭上からもう一羽の鳴き声が降ってきて、見上げれば黒影の先の空は水色だった。坂道にはツクツクホウシの声がかろうじてのこっている。駅にはいると階段通路でもまぶしさが射してきて顔やからだを薙ぐのが暑く、ホームに移るとしばらく日陰で汗をなだめて、アナウンスがはいるとともに先頭のほうにゆらゆら移動した。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • この夜はこの日のことをだいたい記せたし、九月六日も書き足してようやく投稿できた。書抜きはできなかったがまあよい。『蝶の生活』もさらに読みすすめられたし。ストレッチももう一度できた。