2021/9/19, Sun.

 享受はいわば「享受の享受」(118/143)であった。味わうとは、味わうことを味わうことである。享受はいわば「自己言及的」である [註139] 。享受としての感覚は、だが、「傷つきやすさ」を条件とする。他方、享受がそもそも可能であることが逆に「感受性が〈他にたいして〉(pour-autre)あることの条件であり、感受性が他へと曝されていることであるかぎりでの、〈傷つきやすさ〉であることの条件」(119/144)。
 「感受性が〈傷つきうること〉、他者に曝されていること、あるいは〈語ること〉でありうるのは、それが享受であるからである」(119/145)。〈私〉はこの〈傷つきうること〉において他者との関係 [﹅6] を受胎している。レヴィナスはつぎのように書いている。

 同一性のこうした中断――存在することの意味することへの変容、すなわち〈おきかわること〉への変容――が、主体の主体性であり、いっさいにたいする主体の隷属である。主体の〈感応しやすさ〉、〈傷つきやすさ〉、つまり主体の感受性なのである。
 主体性――それは、こうした破産が生じる場所であり、非 - 場所なのであるが(end224)――は、いっさいの受動性よりも受動的な受動性として、生起し・過ぎ去ってゆく。おもいでや歴史による表象によって回収されえないディアクロニックな過去、現在と共約不能な過去に、自己が引きうけることのできない受動性が対応し、応答している。《Se passer》という表現は貴重なものであって、その表現によって、《能動的総合》なく老いゆくことのように、自己を [﹅3] 過ぎ去った過去のようなものとして自己 [﹅2] をえがきとることができる。〈責め〉であるような応答は――それは、重くのしかかる、隣人にたいする〈責め〉なのであるが――主体性の、この受動性のうちで、存在することからのこの離脱のうちで、感受性のうちで響きわたる(30 f./41)。

 みられるとおり、引用には前章いらい考察してきたいくつかの主題が入りくんで織りこまれている。ここではとりあえず「主体の感受性」が「いっさいの受動性よりも受動的な受動性(passivité plus passive que toute passivité)として、生起し・過ぎ去ってゆく」こと、主体の感受性はそのことによって「自己が引きうけることのできない受動性」であることにのみ注目しておこう。――とらえがたく過ぎ去ってゆく [﹅7] (se passer)ことが、感受性と他者との関係をしめしている。感受性としての私は、他者の現在にけっして追いつくことがない。にもかかわらず、私は〈他者との関係〉につねに・すでに巻きこまれ、私は関係そのものを懐胎してしまっている。関係はとり返しがつかず [﹅8] 、他者(end225)との関係は済むことがない。あるいは、済まない [﹅4] ということが他者との関係をあらかじめ枠どっている。他者との関係を受胎した感受性、〈傷つきやすさ〉は、だからいっさいの受動性よりも受動的な [﹅15] 受動性なのであり、引きうけることのできない [﹅12] 受動性なのである。
 問題の焦点は、かくて〈他者との関係〉へと移行する。感受性、あるいは「その〈傷つきやすさ〉」は、「知」のなかで「抑圧」され「中断」されている(104/127)。感受性の次元そのものは知のてまえ [﹅3] にあるものであっても、対象にかかわる感覚的経験それ自体はいずれ脱感性化されて、知へと整序されてゆく。いまや、いかなる意味でも知を溢れ出してゆく経験、つまり「概念なき経験 [註140] 」が問題となる。

 (註139): 港道隆『レヴィナス』(講談社、一九九七年刊)七九頁参照。
 (註140): E. Lévinas, Totalité et Infini, p. 103. (邦訳、一四六頁)

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、224~226; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



  • 正午ちょうどに起床した。きょうはきのうから一転して雲のない快晴だが、それでいて暑くなく、空気の質感は秋のわやかさにかわいている。水場に行ってきてから瞑想をした。やはり毎日、起きたときに欠かさず瞑想をしなければ駄目だ。しなければ駄目、というほどではないが、したほうがあきらかに良いし、するとしないとではからだのまとまりが格段にちがう。きょうは一八分ほど座った。
  • 食事はきのうの余り物がメイン。新聞一面には米軍がアフガニスタンでおこなった二度目の攻撃が誤爆だったという件が載っていたが、きのうの夕刊いじょうのあらたな情報はほぼなかった。無人機の種として、MQ-9リーパーという名がしるされていたくらい。正確には新聞がなぜか一部破れていたというか、MQのあとの数字のところだけちょうど穴があいたようになっており、数字が下端しか見えず、そのときは3のように見えたのだけれど、リーパーという名で検索するとMQ-9という機が出てきたのでたぶんこれで正しいはず。一面から二面にかけてはジャレド・ダイアモンドが寄稿しており、日本ではマスクの着用が推奨されてみんなそれにしたがっているのにたいして、アメリカではコロナウイルス前はそもそもマスクを日常的につける人間などほぼいなかったし、コロナウイルス騒動がつづいている現在においてもあまりみんなつけたがらず、一部地域では日本と反対に公共の場でマスクをつけているとむしろそのほうが白い目で見られる、という枕からはじまって、社会的規範と個人の権利(自由)との関係は国や文化や地域によってさまざまで、日本はとりわけ前者が重視され、アメリカでは後者が熱心に追求される、というおなじみの対比論がかたられていた。ダイアモンド自身の実感としても日本社会のそういう性質はいろいろな場面でかんじるといい、具体例として、タクシー運転手がきちんと制服をきこんで車内もきれいにしていることや(アメリカではそんなタクシーはほとんどない)、友人の女性が子どものために毎朝弁当をきちんとつくっていること(アメリカでは子どもの好きな食べ物を渡すだけである)をあげていた。ここでいう日本における社会的規範とは我をおさえて他者を尊重し、あまり不快にさせたり迷惑をかけたりしないようにこころがける、というようなことだろうが、そういう集団的規範は長い期間にわたる歴史文化の蓄積によってかたちづくられてきたもので、とりわけ食料を生産し確保する方法のちがいによるところがおおきいと。すなわち、農耕文化と牧畜文化のちがいというわけで、これもじつに通念的なはなしではある。牛や羊をそだてながら肉や乳製品を生産するような牧畜文化では、動物の生きやすい環境をもとめてその都度小規模な移動をつづけることになる、それにたいしてとりわけ稲作のような農耕文化は一箇所に定住してまわりの人間と継続的につきあっていかなければならない。くわえて、農耕のなかでもヨーロッパ文明が基礎としている小麦は灌漑を必要としないのでまだ比較的個人の自由がきくけれど、日本(や東アジアの国々)がとりくんできた稲作は灌漑設備をもうけてそれをまもり維持するとともに、田植えの時期を決めたり仕事を割り振ったりと集団的な協力が必須であり、そこで我をとおして不和をまねけば共同体から追放されて生きていかれないおそれがある。周囲の他者と協調・協働できるか否かにおのれの生殺与奪がかかるわけで、だからおのずからまわりと合わせて個をつつしみ、集団を優先するような規範が形成された、というはなしで、非常によくいわれる内容しかほとんどなかった。
  • 部屋に帰ると茶を飲み、それから「読みかえし」ノート。竹内まりや『LOVE SONGS』をながした。茶を飲んだあとで窓を閉じていればさすがに暑い。三時過ぎで切りとして、窓を開け、ベッド上で神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)を読む。そのまえに母親がベランダに干してくれていた布団をとりこんだのだ。両親のものもそちらの寝室へ入れる。布団を素手でたたいたりはらったりし、はこんでいるあいだ、カラスがざらついた声でやたらとカーカー鳴き交わしていた。林のほうに一匹、南の電柱のうえに一匹いて、なにかの通信を交換していたようだが、じきに二羽ともどこかに飛んでいった。ベランダでおもいだしたが、天気が良かったので風呂を洗ったあとにもすこし上階のベランダに出たのだった。陽射しのなかで屈伸をくりかえし、膝を揉んだり、左右に開脚して上体をひねったりする。空はほんとうに雲の粒子が一片も見つけられないまったき快晴で頭上から視界の果てまで青くひらききっており、見える範囲にふくまれている緑はことごとく黄金の陽をかけられてみずみずしく、その好天にさそわれて一時よみがえったらしく林のほうからミンミンゼミとツクツクホウシの鳴きも立っていた。
  • リルケ詩集』は、さいしょのほうのものはそこまで印象をえないというか、ちょっとしたようなものもけっこうあるのだが、やはり『ドゥイノの悲歌』はすごく、荘重さとか緊密さとかが段違いにつよくかんじられ、一行一行のことばが練られ締まっているようで、ぜんぶ書きぬこうという気になった。この本におさめられているのは第一歌と第九歌のみだが。それにつづく『オルフォイスへのソネット』も同様で、単純に格好良いし、この時期に来て主題も抽象度を増して広大な世界認識の問題が正面からとりあつかわれ、また確立されているようにおもう。それまでも『時禱詩集』など、キリスト教およびその神はメインの題材として頻繁にとりあげられているが、そこで詩の観念的側面はおおかた神との関係にかぎられていたような気がするのにたいし、『ドゥイノの悲歌』以後はもっといろどりとひろがりをはらんだものになっているような印象をおぼえる。
  • 五時であがっていつもどおりアイロン掛け。はじめたときには南の山や樹々にまだ飴のような夕陽の金色があたたかく添えられていたが、五時二〇分にははやくもそれが消えてあたりはこれといった色調もなくなり、晴れた昼間のあかるさを過ぎたもののまだ暮れの翳にもはいりきらないというどっちつかずの退屈さがしばらくつづいたあと、また目をあげれば山のきわからかすかな紫があらわれていて、あいかわらず雲と濁りをゆるさない山上の空は真白とほぼ見分けのつかない青さに淡く、まぶしさをとりのぞかれた光の色がそのまま伸べられ定着したような風情だった。すわった位置から見えた空はどこも淡さそのものであり、ひろがる青から空白へ、そして山際ではオレンジか紫へと、色の名が意味をうしないどの段階も実質的には白のバリエーションでしかない希薄さでもって推移しており、そこに境はなく、推移のみがただ存在していたのだが、作業を終えてたちあがり、東南方向が見える位置に来ると、午後六時をひかえて暮れの忍び寄る大気がまた変化したのでもあろう、おもったよりも層はおのおの厚く、色も濃くあつまっており、紫のさらに下には天上よりも充実した青さが重たるく垂れ下がるように溜まっていて、それでいながらすべてはハマグリの吐く気をおもわせるような靄の質感をおびた海だった。
  • 台所の母親はまた天麩羅を揚げていた。アイロン掛けをおえるとそこにくわわり、流しで大根やらタマネギやらをスライスして簡易きわまりない生サラダをこしらえたあと、帰室してきょうの日記を書いた。六時半には米が炊けるのでさっと書いて飯に行こうとおもっていたところが、ここまでつづっていま七時半が目前になっている。うえの風景描写はひさしぶりにけっこうちからをこめられたかんじがあるが、こういう書きぶりがいいことなのかなあというのはそれはそれでひとつ疑問がないでもない。
  • アイロン掛けの途中、炬燵テーブル上に兄夫婦が帰国後入居する予定の物件の情報をしるしたシートみたいなものがあって、アパートではなくて一戸建ての家を借りるのだけれど、賃料がひと月(……)とあったので、先日すでに見かけて知ってはいたが、あらためてすげえなとおもった。一か月ごとに欠かさずそんな大金を支出できるとは。そういう兄の経済力にもおどろくし、(……)という企業が社員にそれだけの金と生活を保障できるということにも、兄のやっている仕事や立場がそれだけの金銭をえられるものとして換算されているということにもおどろく。しかしそれからちょっと思念を転じて、たとえば作品がヒットした漫画家とか小説家とかが大金をえたりとか、ヒットしないまでも印税で幾ばくかの収入をえて生きていることとか、あるいはそれだけでは生きられなかったりしていることとか、もろもろをめぐらせたあと、経済的価値というのもまったく恣意的なものだよなあとおもった。ある物事や事物にどのような経済的・金銭的価値をあたえるかということについて確固たる統一的基準などなく、ある程度のものはあるにしても、場所や個人や状況によってそれは千差万別で、まったく不確かなものだと。そもそもそれが経済ということなのだろうし。おなじものでもそのまわりに付随する要素によってその都度価値が変化するわけで、そもそもたしか古代ギリシアでは貨幣というのは「ノミスマ」とか呼ばれていたはずで、「ノモス」がたしか法という意味であり、それはつまり(自然と対比的な)人為によってさだめられた掟、という意味での法だったはずで、ノミスマもだから人為的な仮構物、というたぐいの意味合いを多分にふくんでいたはずだろう。そうかんがえると西洋的にはそもそもの語源からして貨幣と人為性・恣意性とがむすびつけられていることになる、ということをアイロンをかけながらおもった。
  • 夕食時は新聞から「あすへの考」。メルケル政権の総括みたいな趣旨。メルケルは二〇〇五年から一六年間も首相をつとめることになったのだが、その人気の要因が三つあげられていて、ひとつは危機対処力だという。「危機管理人」という呼び名もされていたくらいらしく、ギリシャの経済危機でEU全体が混乱したときの対応などで評価をえたと。ふたつめが柔軟性で、物事の本質を巧みにつかんでその都度よくかんがえながら対処するいっぽう、政策が不人気だったり益にならないとわかれば我をおさえてすぐに方針を変える融通性をもっていたと。三つ目が人柄への人気で、謙虚で現実的で勤勉なこういう人物はドイツ人が好みやすいらしい。メルケルプロテスタントの牧師の家庭に生まれた人間で、慈善施設の障害者なども間近に見てそだったらしく、また東独の共産主義下に生きたことで自由や権利をもとめる気持ちがはぐくまれ、たしかな倫理をそなえることになったが、しかしシリア難民危機のときにはその倫理がかえって裏目に出たところがあり、当初上限なしの受け入れ策を取っていたドイツは混乱によって制限を設定せざるをえなくなったらしいのだが、そのときメルケルはここでは持ち前の柔軟性を発揮できず上限なしにこだわったと。自身の倫理観がゆるさなかったのだろう、という。二〇一五年の難民への対応は支持者のあいだでももっとも評価が分かれるところだといい、国内では右派的風潮のたかまりとAfDの躍進をまねき、ハンガリーポーランドは道徳性を傲慢に押しつけられたと見て過激化し、ドイツの対応や混乱はイギリスのEU脱退にも影響したといわれているらしい。
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