〈存在するとは他なるもの〉がさしあたり他なるもの [﹅5] であるといわれているかぎり、それはこのような非存在、すなわち無であり、けっきょく一箇の差異であるか、あるいは部分無(le néant partiel)であるようにみえる。つまり、存在するとは他なるものは、「べつのしかたで存在すること [﹅13] 」であり、「存在するとはべつのしかたで」とはしょせん「存在しないこと」であるかにおもわれる(13/18)。あるものと他のものとはべつのしかたで [﹅7] 存在している。たとえば端的にべつべつの場所に存在している。あるものが存在し(end229)ないことはまた、他のものが存在する [﹅9] ことである。たとえばすでにない死者のかわりに、生者がなお存在している。かくて、存在だけが、あるいはある [﹅2] だけが残される。要するに、つねに「存在の否定がのこした空虚を、ある [﹅2] が埋めてしまう」(15/19)のだ。
「うがたれた空虚は、〈ある〉の、聞きとりがたい匿名のざわめきによって満たされてしまう。それは、たったいま死んだものによって残される空所が、志願者の呟きによって充たされてしまうようなものである。存在が存在すること [﹅6] は、存在しないことそのものをも支配している」(14/18)。これは、しかし真に「出口なき宿命」(16/22)とよぶべき光景ではないだろうか。そこには超越 [﹅2] が生起する余地などありえないのではないか。それゆえ、とレヴィナスは書きしるす。存在するか、存在しないか――超越の問題は、それゆえここにはない。存在するとは他なるもの [﹅5] ――存在するとはべつのしかたで――という言表は、存在を無からへだてる差異の、かなたの差異をいいあらわしているはずである。より正確にいえば、かなた [﹅3] という差異、超越という差異をあらわしているはずなのである(14/18 f.)。
それではしかし、「存在を無からへだてる差異の、かなたの差異」(une différence audelà de celle qui sépare l'être du néant)、「かなた [﹅3] という差異」、「超越という差異」と(end230)はなにか。そもそも「超越」とはなにか。(……)
(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、229~231; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)
- さいきん、毎日のようにAmazon Musicで竹内まりや『LOVE SONGS』をかけているので、おすすめの音楽としてその周辺のものが出てくるのだけれど、そのなかからEPO『DOWN TOWN』というやつをながしてみた。Wikipediaを見るに「1980年代のJ-POP黎明期の代表的アーティストの一人とされる[4]。1980年にデビュー、歌謡曲とニューミュージックをクロスオーバーした音楽性で活動し、1980年代中頃には「RCA三人娘」として大貫妙子、竹内まりやと並び称された」ということだが、冒頭の"DOWN TOWN"を聞くに、ひどくととのっていて、八〇年の日本でもうこんなことやってるひといたのか、とちょっとビビった。べつに前衛的なことをやっているわけではないが、曲にせよアレンジにせよふつうにいまのひとがやって売れていても不思議ではないとおもうし、とにかく質が高い。この曲は山下達郎などがやっていたシュガー・ベイブというバンドのカバーらしく、EPO自身シュガー・ベイブの大ファンで、プロデューサーとはじめて会ったときも「シュガー・ベイブが大好き」と二時間はなしこんだという。日本の七〇年代から八〇年代あたりのこういうシティ・ポップス的なシーンもあなどれないというか、かなりすごい蓄積があるようだ。こういう音楽たちがその後、小沢健二とかキリンジとかceroとかにながれこんでいるわけだろう。
- この日は休み。けっこうだらだらした。「読みかえし」ノートの音読をたくさんできたことは良かった。やはり声を出したほうが良い。書抜きも、熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)と、いま読んでいる神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)もできた。『リルケ詩集』では初期のほうにつくられた詩でふたつ好きなものがあって、これはむかし読んだときにも書き抜いた。
ひたすら耳をかたむけ、目をみはりつつ
息をひそめよ、ぼくの深い深い生命よ、
風がそっとおまえに伝えようとすることを
白樺のふるえるよりなお早く、それと知るように。(end12)ひとたび沈黙が語りかけてきたら、
あらゆる感覚をそれにまかせよ、
どんなかすかなそよぎにも身をゆだねよ。
するとおまえはやさしいゆすぶりを受けるだろう。そして、わが魂よ、広くなれ、広くなれ、
深い生命が成就するように。
思いをひそめる物たちのうえに
晴着のように自分をひろげよ。(神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、12~13; Vor lauter Lauschen und Staunen sei still,; 初期詩集 Die frühen Gedichte より; 詩集『わがための祝いに』の改版)
*
きみがだれであるにしろ、夕暮れにはそとへ出たまえ
なにもかも知りつくしている自分の部屋をあとにして、
きみの家の前には、遠い景色がひらけている、
きみがだれであるにしろ。
すりへった敷居からそとへ向くことのほとんどない疲れた目をあげて、
きみはおもむろにくろぐろとした樹木をたてる。
その一本の樹だけを、ほっそりと天空にそびえ立たせる。
こうしてきみは世界をつくった。そのおおきな世界は
心に秘めたまま熟してゆく一つのことばのようだ。
きみの意志が世界の意味をつかむと、
きみの目は愛情こめてその世界をときはなつ……(神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、24; 「序詩」 Eingang; 『形象詩集』 Das Buch der Bilder より)
- その他アイロン掛けや夕食の支度をしたくらいで、大したことはやらない日だった。夕食には麻婆豆腐。それを終えると乾燥出汁昆布をこまかく切ってちいさな容器に補充しておくなど。日記はこの日のことはEPOの一段を書いたのみだったし、一六日はみじかく足してしあげただけ、ほんとうはきのうのことをさっさと書くべきだったのだが。
- ニュースでおぼえているのはロシアの下院選が終わったが野党共産党が電子投票で不正があったと主張してプーチン批判をしたということ。ロシア下院は四五〇議席で、小選挙区と比例代表で二二五ずつ半々なのだが、モスクワの小選挙区などでは劣勢だった与党(「統一ロシア」)の候補が電子投票で一気に逆転するという現象が何回かあったらしい。プーチンだったらべつにふつうに操作していてもぜんぜん不思議ではないとおもうが、共産党がどれだけの根拠や証拠をもってそう主張しているのか、正直わからない。あいてがプーチンだからなんとなくわりと正当性があるようにかんじてしまうが、言っていることじたいはドナルド・トランプ支持者とあまり変わらないはずだし。強権的で不正も辞さないプーチン対それに抵抗する野党という、こちらがおぼえるこういう印象と似たものを、ドナルド・トランプ支持者はたぶんそのままバイデン対共和党というかたちでおぼえているのだろうな、とおもった。しかも彼らにとっては自国の問題だからより切迫感はつよいだろう。