2021/9/23, Thu.

 1 身体であることにおいて、主体は皮膚的な界面の内部 [﹅2] に閉ざされているかに見える。だが、身体は外部 [﹅2] からの不断の侵襲に曝されている以上、この内部は内部たりえていない。あるいは内部であることがただちに外部に反転することを意味している [﹅6] 。主体が身体であることをめぐる、ことのこの消息が、一方では世界のただなかで主体がみずからの存在から離脱することを可能にし、あるいは余儀なくさせている。他方ではまた、身体としての主体がみずからと不断に断裂していることが、〈語ること〉の、意味することの基底なのであった。身体はたえずみずからとずれ [﹅2] てゆく。この隔絶によって記号が、すなわち、あるもののかわり [﹅3] になるあるものがなりたつ。他からの圧迫によって息切れ、息切れが声 [﹅] となるとき、私は全身を記号 [﹅2] と化している。つまり他者との〈近さ〉のなかで意味しはじめている。この〈近さ〉が問題なのであった。
 「四囲 [﹅2] 」はたしかに「気圧 [﹅2] 」(atmosphère)として私に「押しつけられ」る。身体をたずさえた私は、他なるもの、外部性に曝され、喘ぎ、「捻じれ」「ひび割れ」て、むしろ身体としての自己を喪失する(三・1・3)。烈風によって私は「からだから吹き飛ばされそうに」なり、あるいは大気の熱と体温とが溶け合うことで、大気そのものと身体とが融(end240)解する。身体であるという内部 [﹅2] が、四囲の外部 [﹅2] に転じてしまう。――このことは、だがとりあえず匿名の外部性との関係で生起している。ここで〈他なるもの〉とはいまだ他者 [﹅2] ではないようにおもわれる。この他なるものはすぐれて他者でもありうるのだろうか。〈近さ〉の問題にすすむに先だって、なお考えておく必要がある。
 皮膚の表面はつねに四囲に曝され、気圧は私の身体を圧し、変形させ、身体の内部に入りこむ。そのことで身体の内部は外部へと捻じれ [﹅3] てしまう。しかし、身体の表皮は同時に他者によって見られるおもて [﹅3] でもあり、四囲は雰囲気 [﹅3] (atmosphère)でもありうる。目に見える私の身体は、私にとっては、だがほとんど可視的ではなく、身体は圧倒的に他者のまなざしにたいして曝されている。私の身体の表面を他者がまなざし、他者がかかわってくる(me regarder)(148/177)。他者たちの視線こそが、まなざすというしかたで私の身体を所有 [﹅2] している。――凝視されることはときに不安であり、また恍惚でもありえよう。不安とはここでは、他者にまなざされる場にあり、他者の視線に圧迫 [﹅2] される雰囲気のうちにあるとき私がおぼえる、押しつけられた存在の気分である。それは、身体 [﹅2] 感覚としては、身がちぢむ収縮 [﹅2] 感覚であり、からだごとゆらめく揺動 [﹅2] 感覚であり、あるいはじぶんが身体からずれてゆく離脱 [﹅2] 感覚であろう。恍惚もまた方向と意味が逆転した剝離の感覚にほかならない。身体のこのずれ [﹅2] あるいはぶれ [﹅2] はすべて、〈他者との関係〉がひきおこす身体の変容の経験なのであって、身体がそのおもて [﹅2] で〈他なるもの〉として(end241)の他者に曝され、あるいは身体の内部 [﹅2] に他者という外部性 [﹅3] を孕んでしまっている経験であるとおもわれる。
 ここでも、身体である主体はじぶんの存在から離脱すること [﹅6] を余儀なくされ、不断にみずからと断裂している。「皮膚の内側にある」とは「じぶんの皮膚の内側に他者をもつこと」にほかならない(181/212)。他者に強迫され、他者の視線に侵襲されつづけていることが身体であることの意味だからである。主体性とは、かくてこの場面でこそ、すぐれて「〈同〉のなかの他 [﹅6] 」(l'autre dans le Mêeme)であり、「〈他〉によってかきたてられた〈同〉の動揺」である(46 f./59)。身体である主体とは、「自己の外部への自己の追放」なのである。つまり、主体はすでに「他者とおきかわって」(substitution à l'autre)いる(175/205)。
 そもそも「自己は自己のイニシアティヴによって生じたものではなく」、〈同〉はあらかじめ〈他〉を「懐胎 [﹅2] 」している(166 f./196)。私が身体の輪郭を劃定し、皮膚的界面の内部に閉じこもるためにすら、私は他者とのかかわりを必要とする。その意味で「〈私〉はじぶんの身体に結びつけられるに先だって、他者たちに結びあわされている」(123/148)。他を「懐胎」することに着目するなら、身体であることの原型とは「母性」(maternité)である(121/147, cf. 109/133, 111/135)。ただし子宮のうちに安らう母性ではなく、他を孕むことで傷を負い、他者に曝されつづけ、みずからと不断にことなりつづけ差異化しつ(end242)づける母性、つまり綻びてゆく主体性 [﹅8] としての母性なのである。母性という主体性のこの規定が、主体の自己差異化と、それをもたらす他者との〈近さ〉の比喩となっているようにおもわれる。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、240~243; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)



  • 「読みかえし」より。165番。

 (……)一方もうすこし先に行くと、文字通りの浮かぶ花壇となって、おしあうように密生し、まるであちこちの庭のパンジーが、蝶のように、その青味をおびた、つやのある羽を、この水上の花畑の透明(end284)な斜面に休めにきていたかのようであった、この水上の花畑はまた天上の花畑でもあった、なぜなら、この花畑は、花自身の色よりも、もっと貴重な、もっと感動的な色でできた、一種の土を、花々にあたえていたからであり、またこの花畑は、午後のあいだ、睡蓮の下に、注意深くだまって動く幸福の万華鏡をきらめかせるときも、夕方になって、どこか遠い港のように、沈む夕日のばら色と夢の色とに満たされるときも、次第に色調が固定する花冠のまわりに、その時刻にもっとも奥深いものとの調和、もっとも逃げさりやすいものとの調和、もっとも神秘なものとの調和――すなわち無限なものとの調和――をいつまでも失わないようにたえず変化しながら、睡蓮を中天に花咲かせたように思われたからであった。
 (マルセル・プルースト井上究一郎訳『失われた時を求めてⅠ 第一篇 スワン家のほうへ』(ちくま文庫、一九九二年)、284~285)

  • 正午ごろ起床。九時ごろに覚めたときには陽の色が見えたが、このころにはそれがうすれて曇っており、午後三時現在ではまたうすあかるさがただよっているものの空の色は白っぽく、はっきりしない天気だ。あがっていったとき、雨が降るって言ってたけど、と母親ももらしていた。水場に行ってきてから瞑想。きょうはなかなか良かった。一二時一五分ごろからはじめて四〇分すぎまで長めにすわれて、かなりまとまった感があった。三〇分くらいはコンスタントにすわれるようになりたい。
  • 食事はキーマカレーなど。新聞、ミャンマーの記事。国軍に属していた兵士のなかから、特に若い世代で離反者がおおく出ているとのこと。二九歳の大尉がインタビューにこたえていた。シャン族の地域に展開した際に部隊から離脱し、民主派が結成したNUG(国民統一政府)と連携しながらおなじように軍を離脱する兵士らに資金提供などをしているらしい。国軍はじぶんたちの利益のことしかかんがえていない、とのこと。離反者はクーデターが起こってすぐあと、三月四月あたりから出ていたらしく、いままでで二〇〇〇人ほどにのぼっているのではないかという。平和的なデモを取り締まるだけではなく、国民を銃撃して殺すという残虐な所業に耐えられない兵士が多くいるとおもわれ、この大尉によればおおくの兵士はそれに罪の意識をかんじている、幹部の命令だから任務としてしかたなくやっているだけだ、とのこと。死者はいままでで一一〇〇人ほどをかぞえている。
  • もうひとつ、米英豪がAUKUSという新協定を組んだところ、欧州がそれに反発し不信をつのらせていると。さいごまではまだ読んでいないが、このAUKUSにさいしてオーストラリアがフランスに提供するはずだった(それか逆だったかもしれないが)潜水艦事業を一方的に破棄したということで、フランス側とEUがつよく反発し、ウルズラ・フォンデアライエンも批判の言を発表したと。もともと大陸欧州とイギリスとでは文化的・精神的にも多少の分断というか距離・乖離があるはずで、たとえば哲学の世界ではそれはいわゆる分析哲学と大陸哲学(といってフランスとドイツとではまた違うはずだが、主に想定されるのはフランス式の、文学性や詩的レトリックの色が濃く、ときに過度にあいまいで晦渋な言語に淫するタイプのもの)の対立として通念化されているはずだし、それは民族的にはアングロ・サクソンヨーロッパ大陸からの独立性、ということになるのだとおもう。そしてアメリカはいうまでもなくイギリスを出発した人間たちがつくった国であり、オーストラリアも旧英帝国の一部である。だからこの件はアングロ・サクソン同盟と統一的欧州の対立というわかりやすい図式に還元できるにはできるだろう。イギリス人たち当人や、また欧州や西洋の社会のあいだで国際的にどの程度こういう観念が共有されのこっているのかぜんぜんわからないが、イギリスのEU離脱だっていちおうそういうとらえかたの枠組みにはいるし、すくなくともヨーロッパのなかでイギリスがほかといくらか違う立ち位置にあるというのはたしかなはず。とはいえそういう意味でのイギリスというのは主にはイングランドのこととおもわれ、ほかの地域はまたすこし違った自己像や立場をもっているはずであり、北部アイルランドはもちろんのことだし、ウェールズにはケルトの要素があるし、スコットランドは独立の機運もつよく、EU離脱の際もEU側にのころうとした地域だから、アングロ・サクソン的イギリスの一部というよりも欧州人としてのアイデンティティのほうがつよいのかもしれない。
  • いま七時半すぎ。神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)を読了。ニーチェ論などを書いているクロソウスキーが実はリルケの子どもだという真偽不明の噂をどこかで目にしたおぼえがあるのだけれど、「解説」中に、「なかでもバラディーヌ・クロソフスカ(愛称メルリーヌ)との交際は彼を支えた」(200)とあるのがこのクロソウスキーの母親だろう。年譜のほうにも、一九二一年の欄に「六月、親密な仲の女流画家バラディーヌ・クロソフスカ(愛称メルリーヌ)を伴いスイス各地を旅行」、翌年には「多くの時間をメルリーヌと共に過ごす」とあるが、クロソウスキーが生まれたのはWikipediaによると一九〇五年で、そのころリルケはパリに出て三年、ロダンの私設秘書となったくらいなので、クロソフスカと知り合っていたかどうかがそもそもわからないし、知り合っていたとしても愛人関係にはなっていなかったのではないか。英語版WikipediaのBaladine Klossowskaを見てみても、"She was the mother of the artist Balthus[1] and the writer Pierre Klossowski,[2] and the last lover of the poet Rainer Maria Rilke"とはあるものの、Klossowskaとリルケが会ったのは一九一九年とされている。
  • それにしてもリルケは(ニーチェが求婚した相手である)ルー・アンドレアス=サロメをはじめとしていろいろな女性と仲良く交際したようで、年譜欄にも「親しく交わる」とか「親密に交際する」とか「親密につきあう」とかが何度か出てくるのだが、どうなってんねん。なかにはたぶん愛人関係だったあいてもいるのだとおもうが。それはともかく、リルケは詩以外にも戯曲や短編集もいくつか出していて、また『ポール・ヴァレリー詩集』とかヴァレリー『ユーパリノスあるいは建築について』とか(ヴァレリーの詩を読んだことが『ドゥイノの悲歌』の完成に影響したらしい)、ジッドの『放蕩息子の帰郷』とか、翻訳のしごともしている。書簡も相当に書いたらしく、手紙はわりと興味がある。

By 1990, the year in which Advani embarked on his nationwide yatra, the postcolonial Indian state was already on the verge of declaring bankruptcy. In 1991, it ended up mortgaging its entire gold reserves in exchange for monetary aid from the IMF and the World Bank. And as part of a collateral exchange, the ruling government was forced to unleash a series of “neoliberal reforms,” which included a deregulation of domestic markets and a massive increase in foreign and private investment. This new regime of capitalism, shaped at once by the demise of the Fordist capitalism in the West and the long-run failures of Nehru’s state-sponsored socialism at home, ended up thrusting the Indian working classes into even more abject forms of poverty and political violence. By now, it was clear that the promise of a postcolonial utopia, long heralded by Nehruvian politics, had failed disastrously. Meanwhile, this failure had simultaneously birthed its own monstrous negation, namely, the dystopian specter of Hindu nationalism. In 1992, a mob of Hindu right-wingers completely demolished the Babri Masjid, sparking a series of riotous pogroms against Muslim populations across the country. This lock-and-step synchrony between the long-run failure of Nehruvian politics, the eruption of the economic crisis in 1990-91, and the rise of the Hindu rightwing is so striking that we might as well repurpose Stuart Hall’s famous dictum on race and capital, and offer the following proposition: Hindu nationalism is the modality in which the crisis of postcolonial capitalism is lived.

Three decades on, and the dystopian specter of Hindu nationalism has already materialized into full-blown fascism. And once again, the literary epic Ramayana and its TV adaptation are at the center of this political transformation. Once relegated to the fringes of electoral power, the Hindu rightwing now forms the country’s ruling government, having recently won the general elections for the second time in a row. This electoral victory was swiftly followed by three momentous juridical and legislative decisions. First, the ruling government revoked the Article 370, which had hitherto granted “relative autonomy” to the disputed region of Kashmir, and thus consummated the transformation of the Indian postcolony into a settler colonial state. Second, the Supreme Court decided to allocate the disputed land in Ayodhya for the construction of a Hindu temple dedicated to Rama. Third, the ruling government passed the Citizenship Amendment Bill (CAB), which openly discriminates against Muslims, and intensified the implementation of the National Register of Citizens (NRC), designed to identify “genuine” Indian citizens and purge the “illegal migrants” from the country. These changes, especially the third, sparked a series of massive protests across India. The rightwing government responded with an extraordinary show of force. Several national and state university campuses were repeatedly attacked by armed police and rightwing mobs; a week-long riotous pogrom took place against Muslim communities in the national capital; and numerous Muslim, Dalit, and leftist intellectuals, poets, and activists were arrested for dissenting against the ruling government. This unstinting flurry of brutal violence was finally capped off by the BJP’s decision to nationally broadcast the TV adaptation of Ramayana. If, in 1987-88, the TV Ramayana served to catalyze the Hindu rightwing’s remarkable political ascent, then now, it has served to consummate its lasting political victory. This repetition of the TV Ramayana punctuates a complete cycle in the transformation of India’s recent postcolonial history.

  • きょうは夕方五時半まで書見をつづけてしまった。起き上がって携帯を見ると買い物に行ったらしい母親からメールがはいっており、寿司を買ってくるとのこと。上階に行ってアイロン掛け。六時をまわったあたりで母親が帰宅し、汁物をこしらえているあいだ、アイロン掛けをつづける。ていねいにやりすぎなのかわからないが、たかだか衣服の皺を伸ばすだけのことでもだいぶ時間がかかる。その後夕食へ。
  • きょうはゴルフボールを踏む時間を多く取ったが、足の裏がやわらぐとマジで楽だ。ふくらはぎとか太ももを揉むのと同様で血流がよくなるらしく、からだ全体がめちゃくちゃ軽くなる。
  • 音楽はAmazon Musicで勝手に出てきた『Chico Hamilton Quintet featuring Eric Dolphy』などながしてみたが、なかなか。Dolphyが旺盛にさわいでいる。Pat Methenyの新譜らしい『Side-Eye NYC (V1. Ⅳ) 』も。鍵盤がJames Franciesで、ドラムがMarcus Gilmoreらしい。ベースはMetheny自身が弾いているらしいのだけれど、そのわりにライブ音源でもふつうにはいっているのがよくわからない。もともと録っておいたのをながしてライブしたのか、それともあとでかさねたのか。Ornette Coleman作のブルースである"Turnaround"など良い。
  • きょうはきのうにつづきけっこう暑かった。三〇度を超えたのではないか。母親は帰宅後エアコンをつけていたし、こちらも自室にいたあいだ同様、また風呂にはいったときも窓をおおきくあけていても湯に浸かっているのが熱くてぜんぜん静止していられなかった。