2021/9/28, Tue.

 愛されるものがなお若さの盛りにあることも、原理的には事情をなにひとつかえることがない。若さが若さであるのは、それが失われてゆく若さであるからである。あるいは、若さすら移ろい、過ぎ去った若さであり、「当の若さのなかですでに過ぎ去った若さ」(jeunesse comme déjà passée dans cette jeunesse)(145/172)であるからだ。目のまえの他者もかならず死に、いま眼前で、手のひらの下で、ゆびさきで、死へと接近しつつある。他者において [﹅6] すでに時が過ぎ去っている。皺ひとつなく瑞々しくみえる肌もまた、目にはみえず「皺の刻まれた皮膚、皮膚じしんの痕跡 [括弧内﹅] 」(ibid.)である。現に目にみえる、若々しく潤った皮膚――とはいえ微細な襞が無数に刻みこまれた皮膚――は、すこしまえの、より若く、すでに過ぎ去った皮膚の痕跡なのだ。目のまえで他者が老い、(end253)死へと曝されてあるとき、(そして死期が不可知であるがゆえに、原理的にはいつでも)他者の「他性が貧しさと弱さの全重量で私にのしかかってくる」(35/47)。貧しさとは、時の移ろいのなかで老い、みずからを、ということはいっさいを失ってゆくことそのものであり、その喪失にあらがいえないことこそが弱さにほかならない。
 残されているのはただ祈り [﹅2] だけである。しかも、そのなりたちからして、つねに原理的に手おくれで、遅すぎる祈りの可能性のみがなお残されている。祈るように、願うように、そっと、しかしもどかしく身ひとつの他者のおもて [﹅3] に触れる。失われてゆくもの、移ろうものに接触する。過ぎてゆく肌をいとおしむ。たぶんそれが、愛撫する、ということなのである。
 とりあえずは快楽の行為であるもののただなかで、未来が、しかも息子 [﹅2] という未来が到来する、と説くことに根拠があるとはおもわれない。しかし、と異論がありうる。おなじく快楽のしぐさであるもののなかに、他者の不在の影さす [ママ] ことがありうるのだろうか。
 問題はエロスとタナトスの交錯という次元にあるのではない。死の予感のなかで愛がもっとも甘美である、という凡庸な世知にあるのでもない。いつでもはじめて [﹅4] のように抱きあい、つねにあたかも最後のとき [﹅5] であるかのように抱きしめるとき、歓びの裏につきしたがっている悲しみ、どれほどに両手の力を強めても消しさることができないもど(end254)かしさは、たぶん愛する他者の壊れやすさ、脆さと果敢なさに由来する。せつなく切迫する愛撫のなかで、ひとはおそらく関係のおわり [﹅3] 、他者の不在を、けっきょくは決定的なかたちで訪れる非在、つまり他者の死そのもの [﹅5] を密やかに予感しているようにおもわれる。
 論点はこうして、性愛を通路として普遍的なことの消息に達している。愛撫の切迫は、いまやたんにことがらを典型的に照らしだしているにすぎない。性愛においてとりわけて感受される世界の儚さ、関係の脆さ、他者の移ろいやすさは、特殊で奇妙なことがらではない。世界はつねに「老いて」いる。世界は時々刻々と生滅を繰りかえし、誕生と死亡を反復して、やがていっさいが消しさられてゆく。無数のできごとの生成と消滅そのものである世界は、それじたい移ろいゆくものなのだ。他者は、だれであれつねに死に曝され「強迫」し、移ろいやすさ [﹅6] と弱さ [﹅2] とにおいて〈私〉に「迫り、とり憑いて」(obsession)いる。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、253~255; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)



Prison abolition, as a movement, sounds provocative and absolute, but what it is as a practice requires subtler understanding. For Gilmore, who has been active in the movement for more than 30 years, it’s both a long-term goal and a practical policy program, calling for government investment in jobs, education, housing, health care — all the elements that are required for a productive and violence-free life. Abolition means not just the closing of prisons but the presence, instead, of vital systems of support that many communities lack. Instead of asking how, in a future without prisons, we will deal with so-called violent people, abolitionists ask how we resolve inequalities and get people the resources they need long before the hypothetical moment when, as Gilmore puts it, they “mess up.”

“Every age has had its hopes,” William Morris wrote in 1885, “hopes that look to something beyond the life of the age itself, hopes that try to pierce into the future.” Morris was a proto-abolitionist: In his utopian novel “News From Nowhere,” there are no prisons, and this is treated as an obvious, necessary condition for a happy society.

In Morris’s era, the prison was relatively new as the most common form of punishment. In England, historically, people were incarcerated for only a short time, before being dragged out and whipped in the street. As Angela Davis narrates in her 2003 book, “Are Prisons Obsolete?” while early English common law deemed the crime of petty treason punishable by being burned alive, by 1790 this punishment was reformed to death by hanging. In the wake of the Enlightenment, European reformers gradually moved away from corporal punishment tout court; people would go to prison for a set period of time, rather than to wait for the punishment to come. The penitentiary movement in both England and the United States in the early 19th century was motivated in part by the demand for more humanitarian punishment. Prison was the reform.

     *

Critics have been asking whether prisons themselves were the best solutions to social problems since the birth of the penitentiary system. In 1902, the famous trial lawyer Clarence Darrow told men held in Chicago’s Cook County Jail: “There should be no jails. They do not accomplish what they pretend to accomplish.” By the late 1960s and early 1970s, an abolition movement had gained traction among a diverse range of people, including scholars, policymakers (even centrist ones), legislators and religious leaders in the United States. In Scandinavia, a prison-abolition movement led to, if not the eradication of prisons, a shift to “open prisons” that emphasize reintegrating people into society and have had very low recidivism rates. After the 1971 uprising at the Attica Correctional Facility outside Buffalo, N.Y., resulting in the deaths of 43 people, there was growing sentiment in the United States that drastic changes were needed. In 1976, a Quaker prison minister named Fay Honey Knopp and a group of activists published the booklet “Instead of Prisons: A Handbook for Abolitionists,” which outlined three main goals: to establish a moratorium on all new prison building, to decarcerate those currently in prison and to “excarcerate” — i.e., move away from criminalization and from the use of incarceration altogether. The path that abolitionists called for to achieve these goals seemed strikingly similar to the original (if ultimately failed) goals of the Great Society and “war on crime” laid out by Lyndon B. Johnson in the mid to late 1960s: to generate millions of new jobs, combat employment discrimination, desegregate schools, broaden the social safety net and build new housing. But the ravaging impact of deindustrialization on urban communities had already begun, and it was addressed not with vast social programs but with new and harsh forms of criminalization.

By the late 1990s, as prisons and prison populations expanded significantly, a new call emerged to try to stop states from building more prisons, centered in California and led by, among others, Gilmore and Angela Davis, with the formation of groups like the California Prison Moratorium Project, which Gilmore helped found. In 1998, Davis and Gilmore, along with a group of people in the Bay Area, founded Critical Resistance, a national anti-prison organization that made abolition its central tenet — a goal dismissed by many as utopian and naïve. Five years later, Californians United for a Responsible Budget (CURB), of which Gilmore is a board member, was formed to fight jail and prison construction. CURB quickly rose to prominence for its successful campaigns, which, at last count, have prevented over 140,000 new jail and prison beds (in a state where 200,000 are currently held in prisons and jails). CURB just recently succeeded in halting construction of a huge new women’s jail in Los Angeles County, in coordination with several local groups.

  • 一一時ごろかそれいぜんにいちど目が覚めて、しかし起床しきれずに苦しんでいるうちにインターフォンが鳴ったのが聞こえたのだが、起きられないので出ることもできない。しばらくして鳴った二回目も同様に無視し、一一時台後半で離床した。(……)
  • 起床時にできなかったので、とりあえず瞑想をした。(……)そうして上階に行き、食事。冷凍の安っぽい豚こま切れ肉を焼き、米に乗せて食べる。そうしていると父親もはいってきたので、牛めしとカツ丼があったからそれは冷蔵庫に入れた、とつたえる。風呂は先ほど洗っておいたところ、汗だくになった父親はシャワーを浴びに行った。食事を終えると一時ごろだったはず。帰室して、多少ウェブを見てからもう洗濯物を入れにいった。どうも雲行きがあやしいというか、陽もなく空気が白くてあやうそうだったので。父親は山梨に行くとのことだった。正直完璧に乾ききってはいなかったが、取りこんだものをたたむ。
  • その後、「読みかえし」ノート。そうして、ニール・ホール/大森一輝訳『ただの黒人であることの重み ニール・ホール詩集』(彩流社、二〇一七年)の訳者あとがきを読んで読了すると、こんどはポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)を読みだした。図書館で借りた詩集はあとふたつ、マーガレット・アトウッド須賀敦子のものがのこっているのだが、これらはいいやということにして、手持ちのド・マンを優先した。なぜか読みたくなったのだ。言っていることはおおまかにはわかるつもりだが、やはりこまかいところで、これどういう意味なの? という文や、論理の接続がよくわからない部分がある。精読のしかたをまなびたいというか、ひとがテクストを愚直にていねいに誠実に読んでいる実例を見て参考にしたり手本にしたりしたい、とおもってこういう文芸批評とか文学理論とかを読むのだけれど、批評となるとやはりどうしても一般性にむかったり、理論を志向したり、統合的見解を構成したり首尾一貫的な読みの物語を生まないといけない。こちらが見たいのはほんとうはそれとはすこし違うことで、具体的な部分をとりあげて、ここからはこういうことがわかる、ここまでは言える、ここの意味の範囲はこうだ、というようなことをいちいちこまかくあきらかにしていき、それをひたすらくりかえすような、かならずしも統合性を志向しない身ぶりであり、いわば批評未然の読みを見たい、ということになるか(保坂和志が小説論でやっていたようなことがちかいのかもしれないが、あれよりももっと観察 - 分析的で、テクスト側につくようなものが知りたい)。そういうかんじでひとつの作品のさいしょからさいごまで精読しているような例がほんとうは見たいし、じぶんでもそういう記述 - 記録をやりたいとおもっているのだけれど、なかなかそういう読解の例はない。よく選書とかになっている、「精読~~」みたいなやつとかはそういうかんじなのかもしれないが、文学テクストにたいしてそれをやっている本はあまりなくて、選書で出ているのはどれも哲学書についてのものだったとおもう。
  • というか欲をいえばほんとうに一文ごとに機能とか意味の射程とか技法とか全側面から分析しているような読解が見たいのだけれど。バルトが『S/Z』でやったようなことがわりとそれにちかくはある。
  • (……)嵐の櫻井翔相葉雅紀がそれぞれ結婚したのだ。(……)は今回のふたりの結婚について、裏切られた、とそこまで直接的には言っていなかったとおもうがなにかそういうたぐいの感情をにおわせるようなことばをもらしていたはずで、このあたりはアイドルファンのあいだでもおのおのスタンスがあるのだろうけれど、彼女のばあい、結婚したとしても発表はしないでほしい、プライベートはかくしていてほしい、という立場のようだった。結婚によって裏切られた、というのは、ファンであるじぶんとアイドルの疑似恋愛めいた想像関係がなりたたなくなるから、ということなのか、しかしそれはファン心理を矮小化しすぎているような気もされて、どちらかというと、ファンのみんなのあいだで平等に共有されるような存在であったはずのアイドルに特権的な関係のあいてが発生してしまったということじたいが裏切りとかんじられるのではないか。しかし、アイドル文化にまったくつうじていないのでそのあたりの機微はわからない。いずれにしてもおもしろいもので、というのはこういう、だれかが結婚したことでいますぐ帰って倒れこみたくなるほどに気持ちをみだされるという事態が、体験的にはやはり理解できないというか、そのようなことを起こしうる対象がじぶんにはいないな、とおもったからだ。女性であれ男性であれ、いわゆるアイドルというひとびとのファンになったことがいちどもない。よりひろくかんがえてじぶんにとってのアイドル的な存在、というものも、じっさいにはいたのかもしれないが、過去にあった例としていまおもいつかない。そのときどきでこういうふうになりたい、というような対象はいたはずだが、じぶんでもこうなりたい、とアイドルとはまたちがうのではないか。たとえば漫画の女性キャラクターなど、フィクショナルな存在においても、じぶんのアイドル、とまでいえるキャラクターをもったことはないとおもう。作中の恋愛関係などを読んで感情移入的にドキドキするということはむろんあったが、じぶんじしんでキャラクターに恋する、という体験はなかった。まあそこまで行く人間はオタクと呼ばれるひとびとのなかでも一部で、大半は好きな女優くらいのかんじで消費しているのかもしれないが。