2021/10/8, Fri.

 しかし、ほかのなによりも、彼が最初に惹きつけられたのは、ジュリアナのへんてこりんな表情だった。これという理由もなく、ジュリアナは見ず知らずの他人にも、尊大で退屈そうなモナリザの微笑であいさつするものだから、むこうは一瞬虚をつかれ、ハローと呼びかけたものかどうか、とまどうのだった。彼女はとても魅力的なので、相手はたいていの場合ハローと声をかけるが、そこでジュリアナはすいすい通りすぎてしまう。はじめのうちはフリンクも近眼のせいだろうと思っていたが、やがてそれは彼女の心の奥底に濃く染みついた、ふだんは隠れている愚かさの現われだと解釈するようになった。そうすると、見知らぬ他人に対する彼女のそれとはない会釈が、まるで謎の使命をになっていると言いたげな、植物の(end27)ようにひそやかな歩き方と同様、気にさわりはじめた。しかし、結婚生活の末期、夫婦喧嘩のたえまのなかったあのころでさえ、彼はジュリアナを、なにかはかり知れない理由で自分の人生に投げこまれた、文字どおりの神のじきじきの創造物、としか考えられなかった。そしてそのために――彼女に対する一種の宗教的直観か信仰のために――彼女を失った痛手からまだ立ちなおれずにいるのだった。
 (フィリップ・K・ディック浅倉久志訳『高い城の男』(ハヤカワ文庫、一九八四年)、27~28)



  • 一一時にいたる直前に覚醒。耳鳴りはまだ残っていた。昨晩とおなじで、しずかでなければ物音にまぎれるくらいで、頭の角度によっては消える。寝床でしばらく腕を伸ばしたりこめかみを揉んだり、深呼吸をしたりしてから起床。一一時二五分ごろ。きょうはきのうから転じてまた暑くまぶしい快晴の日である。二回目のワクチン接種をしに行く。
  • 水場に行ってきて瞑想。そのあいだも窓外の虫の声や風のささめきの手前で、ほとんどまぎれて見えなくなりながらも耳鳴りがうすく乗りつづけている。上階へ行き、天麩羅や唐揚げの残りなどで食事。新聞、ミャンマー少数民族地域でインターネットが遮断されていると。国軍が戦闘のようすや情報をSNSに拡散されないように統制しているもよう、と。先月の七日に国民統一政府(NUG)が国軍との戦闘開始を宣言したが、以来、軍は武装市民への弾圧をつよめ、一般人の住居に銃撃したりもして無関係のひとが巻きこまれる事態がおおくなっているらしい。政治犯支援協会によれば、一〇月六日時点で一一五八人の市民が死亡。
  • 食器を洗い、風呂もあらって帰室。LINEに返信してきょうのことをつづりはじめた。とちゅうで電子レンジのなかに味噌汁をあたためたままわすれていたことに気づいたので、それを持ってきて食べた。ここまでしるすと一時一一分。二時過ぎにはでなければならないのでそう猶予がない。
  • ポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)を読みながら脚の肉を揉みほぐし、一時四五分ごろにいたって切りをつけてうえへ。ベランダの洗濯物を取りこむ。陽射しは旺盛で、肌に染み入るような熱さ。タオル類などをたたんではこんでおき、制汗剤シートでからだをぬぐうと下階へもどる。歯磨きをさっとして着替え。前回はTシャツを着たが、今回は、なんといったかいまど忘れしたが、いちおうアメカジ方面のブランドだとおもうのだけれどけっこう高くてそこそこ品の良いメーカーの褐色チェックのシャツ。それに薄手で履いた感触がかるくて楽な真っ黒のズボンをあわせた。接種券と予診票とパスポートを前回もつかったクリアファイルにそろえて入れて、ポール・ド・マンもバッグに入れて出発へ。予診票を書いている時間がなかったが、電車の時間がはやいので、会場に行くまえに駅で時間をつぶすあいだに書けば良い。
  • そうして出発。きょう、ワクチンを受けたあと体調に問題がなさそうで気が向いたら(……)に行こうとおもっていたのだが、街に出るとなれば物々がよく見えたほうがおもしろかろうというわけで眼鏡をかけた。外出時にずっと眼鏡をかけていたのはきょうがはじめてのはず。実のところ、前回接種に行く日もかけようとしたのだけれど、玄関で鏡をまえにマスクをつけたときに、マスクをつけて眼鏡をかけると息がうえに漏れるので眼鏡がくもって鬱陶しいという事態に行き当たり、急遽とりやめたのだった。しかし今回それを甘受することにして、鏡のまえで位置を調整するとあまり曇らないポジションを発見したので問題ない。マスクを比較的うえまでひきあげ、かつ眼鏡を顔に引き寄せすぎずちょっとすきまをもうけると曇りづらい。
  • 眼鏡をかけるととうぜんながら事物の表情がよく見えて、午後二時の浮遊的なひかりを受けて憩うているとおくの山の襞のぐあいとか、そのすがたをほがらかにうすめているあかるみの膜の色合いなどが鮮明に映る。陽射しはこの時季にしてはやはりつよめで、汗を避けられない。団地に接した小公園の樹々の葉は濃緑のかわきかたに老いの感覚を少々ひそませ、もう枝にすくない桜の木の葉は色をあたたかく変えてたがいのあいだに宙をひろく抱き、道の端の地面には落ちたものらがいろどりをややうしなって薄くおとろえながら頭上の後続を待っている。
  • 坂道をのぼっていって出口がちかくなったところで右手の木立からなにかがうごいて草をこする音がちいさく立ち、見れば一本の木の幹をささっとのぼっていくすがたがあって、すぐに幹の裏側にはいってしまったので眼鏡をかけて強化された視力でも正体をとらえられなかったのだが、鳥ではあのように木に取りついてのぼれる気がしないので、あれはリスだったのかもしれない。あるいはキツツキだったらああいうふうにのぼるのかもしれないが。
  • 街道の横断歩道に出ると東のほうは道路の伸びる先ですっきりとした青空がややまろやかな色でひろがっていたが、反対側をむくと西はけっこう雲が占めている。とはいえ陽射しはとおっていて暑く、駅のホームにはいるとしばらく日陰で立ち止まって電車を待った。ホームの左右を縁取って伸びていく線路はやがて単線に合流するが、その先はいまちょうど電柱にさえぎられて見えず、線路脇をさらに縁取るようにいろどっている緑のうえで白や黄の蝶が舞い踊る色点となっている。アナウンスがはいると日なたに出て先頭のほうへ。乗って扉のまえで過ごす。
  • (……)で乗り換えて、(……)へ。ホームにおりるとベンチにつき、持ってきたポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)を下敷きとして予診票を記入した。それからすこし書見。背後、南のほうから陽射しがかかってきてだいぶ暑い。いい時間になったところで立ってエスカレーターをあがり、トイレへ。前回来たときには空が曇っていて風がつよく、ここの窓からやたら吹きこんできたなとおもいだす。きょうも風は多少はいってきたが、そこまでのいきおいは持たない涼気で、東の空は雲もいくらかいだいてはいるものの青さが多い。手を洗って出ると通路を行き、階段に折れたところで、前回はここで小学生らがにぎやかに駆け上がってきたのだとまたおのずと記憶がよみがえる。駅を出ると三週間前とおなじルートで体育館へ。とちゅうの茶屋の横で年嵩の婦人がバケツに手を入れてなにかこすっていたが、これも子どもがいないことをのぞけば前回の帰路で見かけたのとおなじひと、おなじ光景だ。道沿いの街路樹が葉の色をまだらに変えつつしんなりとしたような質感で垂れ下げていたが、あれはたぶんハナミズキではないか。たしか秋にあんなような葉の状態になり、やがてワインレッドに染まり尽くすものだったような気がする。
  • 体育館へはいり、ホールへ。前回同様、入口の職員にあいさつし、検温へ。36. 4度だった。それから椅子がならんだ待合区画へ。前回ここで左隣が浅黒いようなかんじの異国のひとで、たぶん勘違いだとおもうけれどちょっとにらまれたような印象があったのだが、そのひとはきょうはこちらの三つ左だった。ピンクのポロシャツ。色はおぼえていないがたぶん前回もポロシャツだったとおもう。椅子につくと書類を用意し、職員が持ってきたバインダーにはさみ、体温の記入をわすれていたので先ほどの数値を書きこみ、待機。ド・マン『読むことのアレゴリー』を読んだ。あいかわらず第三章「読むこと(プルースト)」を行きつ戻りつしながらくりかえし読んでいて、言っていることはだいぶわかった気がする。わかりづらかった部分について、ここの文はこういうことだろう、というのを最初から最後までこまかく註釈的に書いておきたい気がするのだが、まあいずれ気が向いたら。ホール内のようすは三週間まえと変わりないのでたいして見渡さず。ただ椅子の数はかぞえた。横に一四席の一列が縦に一〇列分なので、一四〇席が用意されていたようだ。あと、前回よりもきょうのほうがひとがすくない気がして、待った時間もみじかかった気がする。しかしそのわりに接種後の待機が終わる時刻は前回とおなじ三時四二分だったが。
  • 前回とおなじ手順を踏んですすんでいくが、今回、医師の問診のまえに書類確認をしたひとは高年の、眼鏡をかけたすこし気の弱そうな女性で、パスポートに住所が書いていないので前回は暗唱をしたということをこちらからつたえると、いまは書かなくなったんですよね、と言っていた。前回のことをつたえる発言のさいごで、暗唱したんですけど、それでもいいですか? とたずねたのだが、それには明確なこたえはかえらず、これでなまえが確認できたので、大丈夫です、ということで通過となった。そのつぎに医師とはなすわけだが、前回たしかここには椅子がなくてそのまますぐに医師のまえに行った記憶があるのだけれど、今回は座席が三〇くらいもうけられてあって、そのうちの一席で番を待った。女性職員がふたり、誘導のために立ちはたらいており、年上のひとりは主にあたらしくやってきたひとに椅子の番号を言って案内する役目を果たし、もうひとりの若い女性、あれはパンタロンでいいのか、たぶんコーデュロイ素材の、裾がややひろがった茶色のボトムスを履いてゆったりとながれるようにうごくひとが、主に席のところまで来てバインダーを受け取り、それを左右ふたつ用意されてある医師の区画まで持っていったあと、こちらにむかって手をあげて呼ぶという役割をつとめていた。それでそのうちに問診へ。医師は年嵩の男性で、たぶん大阪か関西方面の出身らしい口調だった。署名を見ておのずと記憶したが、(……)というなまえだった。前回の医師はすぐさま体調わるくないですね、と聞いただけでとおしてしまうやっつけしごとだったが、今回のひとはさらに、なにか質問はないですか、と聞いてきた。いや、とくにはないですね、とこたえると、一度目の接種のとき、反応はどうでしたかとたずねられたので、まあ腕が痛くなったくらいで、大事はなかったです、とかるくこたえたところ、その日のうちから痛くなりましたかと質問がつづき、その日の終わりくらいからでしたねとかえしたあと、医師はなぜかちょっとかんがえるように黙り、まあやってみましょうか、と署名した。あそこですこしだけかんがえるような間があり、しかもゴーサインもあまり積極的なニュアンスではなかったというのはどういうことなのかわからない。ワクチンの危険性をかなり懸念しているひとなのか、あるいは本心では反ワクチン的なかんがえのひとなのか。ともあれそれでそのまま接種へ。前回は若い女性が打ってくれたが今回は五〇代から六〇代くらいではないかと見える年嵩の、細い声でやさしくひかえめながらほがらかで丁寧な喋り方をする女性で、子どもから見て「やさしいおばあちゃん」といわれるような像の典型みたいな印象のひとだった。ここでも前回はどうだったかときかれたので腕が痛くなったくらいで大事ではなかったとこたえながらシャツをまくり、二回目がきついってよくいってるのでわりと心配ですけどね、などと言っているうちにチクリという感触があって接種が終わった。前回はほとんどなんの感覚もおぼえなかったが、今回はそれよりはすこし痛い、というかんじだった。礼を言って退出し、書類に接種証明のシールを貼ってもらうのを待ち、待機区画へ。きょうはだいたい目を閉じてやすみながら待っていた。ときおり左腕や脚にぴりっとする感覚が生じることはあったが、ワクチンを打ったためだとおもわれるような明確なからだの変化はなし。むしろ打つまえに待っていたときのほうが、ちょっと緊張があったようでひさびさにパニック障害的な不安のごくごくかすかなものを腹のあたりにかんじ、からだのまとまりがみだれていたくらいだ。時間になるとそのへんの職員に礼を言って退出。
  • 三時四五分ごろだった。夕刻がちかづいてかたむきくだった太陽が西の空にはえばえとおおきくひろがっており、あまやかな色味をやや増したひかりは地上をななめにさし駆けて水のように身のまわりをながれていた。そういえばとちゅうの道端の葉のなかにピンク色をしたおおきめの花がいくつか咲いており、これはフヨウではなかったかとおもったのだが、いま検索してみるとたぶんそれで正解である。中上健次が夏芙蓉を象徴的なモチーフとしてつかっているらしいのだが、中上健次はいまだ『岬』しか読んだことがなかったはずだし、それもたしか鬱様態をいちおう脱してすぐのころだったとおもうので、記憶もさだかでない。体調がとくに悪くなったり変化したりしないので、このまま(……)に行くかとおもいながら駅にもどった。駅前の「(……)」の入口で若い男性店員がふたり準備をしていたのだが、そこに中年の眼鏡をかけた女性がちかづいて、もう飲めるようになりました? とたずねていた。店員のうち態度のこなれているいっぽうがそれににぎやかな声で肯定をかえし、やっとこれ入手したんですよ! と入口横に貼った札をしめしていたが、徹底検査証明、みたいな文字がそれには書かれてあったとおもう。女性はうれしそうだった。ずっと待ってて、こんど寄らせてもらいますね、みたいなことを言っていた。
  • 駅にはいり、ホームに移動すると、喉が渇いていたので自販機で葡萄ジュースを買った。その場に立ち尽くして電車を待ちながら七割がた飲み干し(二八〇ミリのちいさなペットボトルだが、このサイズがいちばんちょうど良い)、バッグに入れておいて、しばらく風を浴びたあとに電車が来ると乗って着席。たしかこの行きは瞑目して休んだのだ。すわったときにはなんとなくからだがすこし熱くなっている気がしたので、副反応で熱が出てきたのか? とおもったが、その後街を行っているあいだも疲労はおぼえたもののけっきょくたいした変化はなかった。
  • (……)で降車。改札を抜けて人波のなかへ。この行きも帰りにもどってきたときも、眼鏡をかけているためにとうぜんいままでよりも文字通り視覚の解像度があがっており、すれちがったり追い抜かされたりするひとびとの服装や表情、顔立ちやからだのかたちやあるきかたなどがよく見えて、それはやはりそれだけでもわりとおもしろい。いままでは人波のなかにいてもある程度の距離をおいた先はややぼやけていたはずで、だから言ってみれば色とかたちを溶かされたひとびとがなかば薄雲となってたなびきつらなり個別性を曖昧にしてつながっているような像だったはずで、それがきょうはたとえば待ち合わせのために壁沿いにたちならんでいるひとびとのひとりひとりがはっきりと映り、グループの区分も明確になって、その粒立ちの感覚は新鮮だった。駅を抜けると高架歩廊を行って書店へ。とちゅう、いかにもギャルっぽい声色と調子の女性の声が背後から聞こえ、通路にはいりながらそちらを見てみると、若いカップルのいっぽうが白い帽子をかぶったしたに茶髪をうねらせて厚めの化粧をほどこし目をぱっちりおおきくしたまさしくギャルといって良い女性で、あの声における「いかにもギャルっぽい」かんじというのはなんなんだろうな、とおもった。おなじように、「いかにも男子高校生っぽい」声とか喋りかたとかもあるような気がするのだが、不思議だ。ギャルにかんしていえば、言葉遣いとか語の選び方にはむろんその特有性が出るだろうし、語調、発話の抑揚とかの段階にもギャルっぽさというものがあってもおかしくはない気がするのだけれど、声の質感自体にもそれをかんじるというのが不思議なところだ。ギャルっぽいことばとギャルっぽい喋り方はわかるが、ギャルっぽい声なんてありうるのだろうか?
  • 歩道橋をわたり、歩廊を(……)のほうに折れると西が正面となり、眼下は風に葉をそよがせる街路樹にはさまれて道路が歩廊とおなじく前後に伸びており、したがって頭上の空がひろく開放されてあらわになるが、その空はいま青さをのこしながらも雲が圧倒するような勢力をほこってなかば以上をおおっており、背景の青さをすこし透かして地と混ざりながらあいまに無数のひびや溝をはしらせている白のシートは鱗の様態で、場所によってひとつひとつの鱗のおおきさが変異しており、最小の泡の集合めいたもの、飛沫のようなものとありながら、途中からはおおかたクラッカーのように四角くくぎられた部屋のならびとなっていて、コーヒーのなかのミルクのすじめいた青と白の混淆で襞をつくりながら直上から西の先までくだっているというべきなのかのぼっているというべきなのか、それすらわからずただ一挙にひろがりなだれるような雲の動きの、端的に壮観であり、いままであまり見たことのない奇観のようでもあった。
  • 入館し、手を消毒してフロア内へ。エスカレーターをのぼっていく。やはりからだがすこし不安定な気がして、手すりにつかまることになった。(……)に入店。すぐ正面にある思想関連の書架にはいる。棚のいちばん端にはいつもみすず書房の本がとりそろえられており、あたらしくおもしろそうなものを発見したはずだがなんだったかわすれてしまった。『エルサレムアイヒマン』とか、ジョン・ラスキンの『ヴェネツィアの石』(だったか?)とか、いぜんからほしいものはもちろんほしい。ジャコメッティの『エクリ』とあともうひとつなにかがあり、そういえば矢内原伊作が『ジャコメッティの肖像』だったかわすれたがそういう本を書いてじぶんが見たジャコメッティのようすをつづっていて、それが芸術とかをやろうという人間には非常に勇気づけられるものだと聞いたことがあり(佐々木中が『アナレクタ』かなにかで一〇冊かそこら名著を紹介しているなかにはいっているらしいのだが)、あれば買っておきたいなとおもってあとで美術の棚を見に行くことにした。みすず書房の棚の反対側にふりむくとそこは売れている新刊書の区画で、いつもそんなにつよく惹かれるものもないのだけれどこの日は『何もしない』という本が目にとまり、タイトルを意識したらしく白一色のなかに書名だけが記されたすっきりした表紙のそれは早川書房の訳書で、木澤佐登志推薦、と帯にあった。なにもしないというのはもちろんこちらに適合的なテーマなので手にとって見てみると帯の裏側にはオバマが年間ベスト本みたいなやつのなかに選んだ、みたいな売り文句が書かれてあって、なかをのぞいてみても悪くなさそうな雰囲気だったのでこれは買ってみようと決めた。しかしまだ手もとには取らずにまたふりかえって今度は雑誌のコーナーを見て、『午前四時のブルー』というちいさめのものをあたらしく発見し、こんなんあったんかとひらいてみると目次には小林康夫の名がおおく、うしろを見れば責任編集も彼で、こんなものを出していたとは知らなかった。あとは『多様体』の三巻目、「詩作/思索」と題されたやつもいぜんからわりと気になってはいるのだけれど、購入に踏み切るほどではない。『現代思想』の臨時増刊号だとハイデガーの黒ノートなどについて特集したやつとか、あと「陰謀論の時代」みたいなわりとさいきん出たとおもわれるやつが気になる。鈴木大拙もけっこう気になる。しゃがみこんで下段には「水声通信」がならんでいて、バタイユを特集したものがふたつくらいあり、バタイユもさいきんけっこう気になっているがまだ手は出せない。ジャン=ピエール・リシャール特集もいずれ買うつもりだが、手もとにフローベールのやつと詩のやつがあるのでひとまずそれを読みたい。ずっとまえから置かれているので、たぶん売れないだろう。『マラルメの想像的宇宙』もほしくて、海外文学の棚にあるのをこの日確認したが、一万円くらいするのでおいそれと買えない。
  • そうして言語哲学あたりに踏み出したのだが(やはり意味論、比喩論、オースティン、I・A・リチャーズあたりが気になる)、その時点で尿意をかんじていたのでさきにトイレに行くことにした。それで棚のあいだを出てあるき、漫画の区画のそばにあるトイレへ。膀胱をかるくしてもどってくると、思想のところまで行くまえについでに美術の区画に寄った。岡崎乾二郎の『抽象の力』という本があり、たしかおなじタイトルの展覧会をやっていたのだったかわすれたが、その関連の文章をnoteかどこかで読んだことがあって、それの正式な書籍版ということなのだとおもうがこれが亜紀書房というところから出ていておおきさのわりに四〇〇〇円くらいで安く(学術的な単行本で三〇〇〇~四〇〇〇円だと安いとおもうような価値基準になった)、ほしかったがひとまず見送った。ジャコメッティのあたりには矢内原伊作の書はなかった。ジャン・ジュネが書いたうすめのやつはあったが。それでしかたないのでもどる。あとあれだ、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの本も二冊くらいあってこれも気になる。(……)さんからもらった『イメージ、それでもなお』もはやく読みたい。
  • そうして哲学の棚にまたもどり、見分。目当てはポール・ド・マンと、さいきん訳されたロドルフ・ガシェのド・マン論で、その両方ともあった。ただ、ド・マンでは『理論への抵抗』はないことがわかっていたので、『ロマン主義のレトリック』を買うつもりだったのだけれど、もうひとつ、『ロマン主義と現代批評』といってガウスセミナーなるものの記録、とかいう本があり、そういえばこれもあったのだとおもった。ロドルフ・ガシェのド・マン論は『読むことのワイルドカード』といって月曜社の古典転生シリーズから出ており、このシリーズは、また月曜社全般も良さそうな本がそろっている印象。しかしこの三冊がどれも五〇〇〇円くらいした。くわえてド・マン関連では土田知則の『ポール・ド・マンの戦争』という彩流社のフィギュール彩シリーズから出ているやつがあり、このシリーズもおもしろそうな本がいろいろある印象で、この本は三〇〇〇円しなかったのでひとまず買うことにして、問題はあとの三冊をどうするかである。買っていますぐ読めるわけでないし、ガウスセミナーのやつとかはほうっておいてもまだわりと入手可能な気がするし、ガシェの本も出たばかりなのだからすぐにはなくならないはずだが、しかしガシェの本はなぜかほしかった。とするとあとド・マンをどちらか一冊買うか、それとも二冊とも買ってしまうかということになり、くわえてそこにガタリの『ミクロ政治学』というやつがあたらしく出ているのを発見してしまい、これが八二年だかにガタリ独裁政権下のブラジルにいって現地の活動家とかと対談したり講演したりしたときの記録などが収録されているらしい本で、正直これはかなりほしかった。しかしさすがに五〇〇〇円クラスの本を四冊買うとそれだけで二万円を超えるわけで、ほかに土田知則と何もしない本もあるし、またマラルメ詩集も買うつもりだったのでさすがにきびしい。そういうわけできょうはひとまずガタリはおいておいて家にある二冊をまずは読もうとおもい、かわりにド・マン関連はすべて買うことにした。それで通路を出て籠をもってきて、単行本たちを入れていく。あと、石川学というひとがバタイユをやっているのだけれど、東京大学出版会から出ていてこのあいだ(七月に)(……)で見つけておもしろそうだなとおもいながらも見送ったやつ(『バタイユと行動の倫理』みたいなタイトルだったはずだが)はきょうも見送り、かわりに七〇〇円で慶應義塾大学教養研究センター叢書というところから出ているやつを買うことに。『理性という狂気 G・バタイユから現代世界の倫理へ』。このシリーズはちいさくて薄めのものなのだけれどなかなか良さそうで、美術の棚を見にいったときにおなじシリーズから出ているラスキンと労働者教育についての本も見つけており(たしか横山千晶みたいな著者名だったはず)、おもしろそうだなとおもっていた。というかラスキンがそんなことをしていたなんてまったく知らなくて、プルーストが愛読した美術批評家といういじょうのイメージや情報がなにもなかったのだが、目次を見たところでは美術学校かなにかの講師をやっていた時期があって、そこで(あるいはその後?)絵画を描くことやものを見るということを有効にもちいて労働者の教育をかんがえたようだった。それでいえばいま読んでいる『読むことのアレゴリー』の「読むこと(プルースト)」の章には註でラスキンが引かれている箇所がひとつだけあって、そこの出典が、Fors Clavigera: Letters to the Workmen and Labourers of Great Britain となっている。だからわりと社会主義的な方面の知識人だったのかもしれない。
  • そうしてマラルメを買うために文学のほうへ。文庫の区画にも立ち寄ってざっと見たが、いまとくにすごくほしいものはおもいあたらない。新刊で、ちくま学芸文庫からフーコーの文学論をあつめたみたいな本が出ていた。抜けて、詩の棚へ。まえと配置が変わって文芸誌が棚のいちばん端、詩のまえに来ていて、文芸誌でいえば『子午線』もほしいとおもっており、とくに金井美恵子のインタビューが収録されているらしい三号目がほしいのだけれど、(……)はいぜん『子午線』を置いていた気がするのだが見当たらない。置いていたとしても三巻目はとうぜんなかっただろう。(……)がたしかとりあつかっていたはずだが、そこもやはりむかしの号があるかわからない。手もとに四号目と五号目があるのだけれどちっとも読んでいない。それで壁際の海外文学へと移行し、柏倉康夫訳のマラルメ『詩集』を保持。マラルメ関連だとあとはリシャールと、原大地というひとのマラルメ論が二冊あり、そのどちらかがマラルメの詩をかなりこまかく詳細に読んだというかんじだったし、どちらもおもしろそうだった。清水徹マラルメ本もたしかいぜん(海外詩の区画ではなくて)フランス文学のほうに見たなとおもってさがしてみたが、これは見当たらず。それできょうはほかのところはほとんど見ずにはなれ、先ほど行ったときにわすれていたのだけれど岩波文庫渡辺守章訳のマラルメも買うつもりだったので文庫の場所にもどり、籠に入れるとこれで会計するか、となった。レジへ。研修生という札をつけた女性があいてをしてくれたが、研修中のわりに堂々としておりこなれていた印象。むしろこちらのほうが客としてふさわしくほがらかにふるまうことがあまりできなかったくらいだ。紙袋に八冊を入れてもらった。

・石川学『理性という狂気 G・バタイユから現代世界の倫理へ』(慶應義塾大学教養研究センター選書、二〇二〇年)
・土田知則『ポール・ド・マンの戦争』(彩流社/フィギュール彩101、二〇一八年)
・ジェニー・オデル/竹内要江訳『何もしない』(早川書房、二〇二一年)
・ロドルフ・ガシェ/吉国浩哉・清水一浩・落合一樹訳『読むことのワイルド・カード ポール・ド・マンについて』(月曜社/シリーズ・古典転生24、二〇二一年)
ステファヌ・マラルメ/柏倉康夫訳『詩集』(月曜社/叢書・エクリチュールの冒険、二〇一八年)
渡辺守章訳『マラルメ詩集』(岩波文庫、二〇一四年)
ポール・ド・マン中山徹・鈴木英明・木谷厳訳『ロマン主義と現代批評 ガウスセミナーとその他の論稿』(彩流社、二〇一九年)
ポール・ド・マン/山形和美・岩坪友子訳『ロマン主義のレトリック』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス604、一九九八年/新装版・二〇一四年)

  • そうしてエスカレーターへ。くだっていき、退館して高架歩廊のとちゅうに出る。来たときとは反対側から駅にもどることにした。眼鏡効果で強化された視覚でこちらを追い抜かしていくひとのうしろすがたをじろじろ見ながらあるく。駅舎にはいり、改札を抜けて二番線へ。先ほど買った葡萄ジュースがすこしだけのこっていたので自販機の脇で飲み干して捨ててしまい、それからベンチにすわって書見をはじめた。来た電車に乗ってからも同様。街に出てそこそこうごいたので疲労感はあり、あたまもかたいようになって頭痛までは行かないひっかかりがあったが、休むよりも本を読みたい気持ちがまさった。ページを行ったりもどったりして文字を追いながら過ごし、乗り換えをはさんで最寄り駅まで。そのあとの帰路は特に記憶がない。
  • その後の夜もなにをやったのかとりたてて記憶がなく、記録としてものこっていないのでたぶんずっとだらだらしていたのではないか。注射された左腕は次第にけっこう痛くなってきて、この翌日は腕をあげなくともふつうにうごかすだけでも痛かったし、からだ全体としてもこの八日の終わりくらいから痛みはじめたはず。しかし熱は、はかっていないが体感としてはないようだった。