彼らの観点――それは宇宙的だ。ここにいる一人の人間や、あそこにいる一人の子供は目に入らない。それは一つの抽象概念だ――民族、国土。民族 [フォルク] 。国土 [ラント] 。血 [ブルット] 。名誉 [エーレ] 。りっぱな人びとに備わった名誉ではなく、名誉そのもの。栄光。抽象概念が現実であり、実在するものは彼らには見えない。"善 [ディー・ギーテ] " はあっても、善人たちとか、この善人とかはない。時空の観念もそうだ。彼らはここ、この現在を通して、その彼方にある巨大な黒い深淵、不変のものを見ている。それが生命にとっては破滅的なのだ。なぜなら、やがてそこには生命がなくなるから。かつて宇宙には微塵と熱い水素ガス、それしかなかった。その状態がまたやってくる。いまはただの幕間、ほんの一瞬間 [アイン・アウゲンブリック] にすぎない。宇宙的過程はひたすら先を急ぎ、生命を粉砕して花崗岩のメタンに還元していく。すべての生命は運命の車輪から逃れられない。すべてはかりそめのものだ。そして彼らは――あの狂人たちは――花崗岩に、微塵に、無生物の渇望に応じている。彼らは造化 [ナトゥール] を助けようとしている。
その理由は、おれにはわかる気がする。彼らは歴史の犠牲者ではなく、歴史の手先になり(end68)たいのだ。彼らは自分の力を神の力になぞらえ、自分たちを神に似た存在と考えている。それが彼らの根本的な狂気だ。彼らはある元型 [アーキタイプ] にからめとられている。彼らの自我は病的に肥大し、どこでそれが始まって神性が終わったか、自分で見分けがつかない。それは思い上がりではない、傲慢ではない。自我の極限までの膨張だ――崇拝するものと崇拝されるものとの混同。人間が神を食いつくしたのではなく、神が人間を食いつくしたのだ。
彼らが理解できないもの、それは人間の無力さ [﹅3] だ。おれは弱くて、小さい。宇宙にとってはなんの意味もない。宇宙はおれに気づかない。おれは気づかれずに生きている。だが、どうしてそれが悪い? そのほうがましじゃないのか? 神々は目につくものを滅ぼそうとする。小さくなれ……そうすれば、偉大なものの嫉妬をまぬがれることができる。
(フィリップ・K・ディック/浅倉久志訳『高い城の男』(ハヤカワ文庫、一九八四年)、68~69)
- 一〇時台に覚醒。注射を打たれた左腕には鈍痛があってうごかすだけでもけっこう痛く、からだ全体としてもたしかに風邪をひいたときのようなだるさや節々の痛みがあった。一〇時四五分を正式な覚醒とさだめたが、副反応のためにおきあがるのが億劫だったので、コンピューターをベッドにもちこんで脚で脚をマッサージしながらだらだらした。正午前にようやく離床。あがっていき、からだがいてえ、と母親に言う。食事は釜で炊かれたアジアンチキンライスとかいうものなど。新聞にはノーベル平和賞の発表が出ていた。フィリピンの女性ジャーナリストとロシアの男性ジャーナリストで、五八歳と五九歳であり、どちらも強権的な政府に対抗して報道の自由をまもろうとし、民主主義の価値を維持するのに貢献したと。テレビのニュースではブラジルでコロナウイルスの死者が累計六〇万人を超えたといい、しかし感染は減少傾向にあるので当局は来春のカーニバルを開催する意向、それに懸念の声が出ていると。海岸に白い布を吊るして死者への追悼を表現する行動をおこなっている団体の男性が、死者がこれだけ出たのは無能な政府のせいだと批判していたが、まあそりゃそのとおりだろうとおもう。ボルソナーロだし。ひるがえって日本の情報を見てみると東京都内は一八〇人だったか一三〇人だったかそのくらいの増加にすぎず、(……)でも(……)でもカウントされておらず、全国でも八七四人くらいだったのでかなり終熄してきている印象だが、このまますんなり終わるかどうかはもちろん不透明だろう。累計の死者数は一万七九〇〇人くらいだったはずで、直近の一日だと四六人増えていた。しかしブラジルの六〇万とくらべてもかなりすくない。
- とにかく左腕とからだが痛い。食後、母親にたのまれて椅子のうえに乗り、食卓灯のうえなどを拭き、それから皿洗いと風呂洗い。風呂を洗っているさいちゅうに山梨に行っていた父親が帰ってきた。茶を用意して帰室。ウェブを見てまわり、ちょっと休んでからここまでしるして三時まえ。きょうの天気は曇り寄りで、背後をむけば水色が見えないわけではないがひかりはとぼしく、先ほど茶を飲んでいたときにはかなり暑くかんじたがいまはそうでもない。とにかくからだの各所が微妙にさわいでまとまりがわるいので、なかなかなにをやる気も出ない。
- そういえば耳鳴りは改善して、起きたときからもうほとんど聞こえなくなっていた。たぶんまだ底のほうでかすかに鳴っているのだが、物音があればまったく聞こえないし、しずかな自室にいても目を閉じ耳をこらしてやっとかろうじて聞こえるかどうか、というくらい。
- この日は休日だったし、副反応でやはり疲労感やだるさがそこそこあったのでたびたび目を閉じて休んだりもしてしまい、たいしたことはやらずにだいたいだらだらしていた。ポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)を読んだのと、アイロン掛けをしたくらい。熱はたぶんなかったはずだが、とちゅうまではどうしても節々が痛くてすっきりしなかったし、左腕はちょっとうごかすだけでもだいぶ痛かったのだが、夜半を超えるころにはけっこう回復していて、これだったら明日はほぼ平常だろうなと予想されたし、じっさいにそうなった。回復がはやい。一回目に打ったときのほうがむしろ左腕の痛みはながくつづいたような気がする。ちなみにきょう(一〇日)会った(……)はだいぶきつかった、死んだと言っていたがやつが打ったのはモデルナらしく、こちらはファイザーなので、やはりモデルナのほうがつよいのだろう。それでいえばおとといくらいの新聞に、デンマークとスウェーデンが若年層へのモデルナの接種をやめるという報があった。接種後に心臓の炎症が起こるケースがあり、あきらかに因果関係があると確認された、みたいなことが書かれてあったのだが、そんなに確定的なのだろうか。