2021/10/10, Sun.

 ひたすら耳をかたむけ、目をみはりつつ
 息をひそめよ、ぼくの深い深い生命よ、
 風がそっとおまえに伝えようとすることを
 白樺のふるえるよりなお早く、それと知るように。(end12)

 ひとたび沈黙が語りかけてきたら、
 あらゆる感覚をそれにまかせよ、
 どんなかすかなそよぎにも身をゆだねよ。
 するとおまえはやさしいゆすぶりを受けるだろう。

 そして、わが魂よ、広くなれ、広くなれ、
 深い生命が成就するように。
 思いをひそめる物たちのうえに
 晴着のように自分をひろげよ。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、12~13; Vor lauter Lauschen und Staunen sei still,; 初期詩集 Die frühen Gedichte より; 詩集『わがための祝いに』の改版)



  • 一一時二五分に離床。わりとよく寝た。(……)から体調はどうかと問うメールが来ていたので、行けると返答。きょうは地元の施設で知り合いがライブをするということで、見に行こうとさそわれていたのだ。そうして水場に行ってきてから瞑想をした。二〇分ほど。やはりからだの感覚をよりかんじるのが大事だ。ヒヨドリが近間で何匹も鳴きあっていた。そのほかの声は虫も鳥もさして聞こえず、しずかだがあかるめの曇天。
  • 上階へ。食事は焼きそば。新聞には興味を惹かれる記事がけっこう多かったが、鶴原徹也がはなしを聞いてプラープダー・ユンが寄稿していたので、それを読んだ。プラユット・チャンオーチャー政権のもとで市民の政治的自由が弾圧され、軍部がのさばる体制はここ数年変化していないと。ただ二〇年に起こった学生たちの抗議、君主制の改革をうったえたそれには衝撃を受けたといい、君主制や王室について批判するのはいままでのタイではあきらかな禁忌で、じぶんの世代では想像もできなかったので(プラープダー・ユンは四八歳だというから七三年の生まれだろう)、あたらしい世代のあらわれをかんじたと。ただしその後、運動は軍政批判派と君主制改革派にわかれていきおいをうしなっているらしい。タイで真の民主化が起こるには社会構造的に根ざした既得権ネットワーク、社会の全域に張り巡らされている軍部や王室や経済界などのむすびつきが障害で、そうした伝統的・前近代的な要素をあらためなければ民主化は達成できないが、禁忌に挑戦した若い世代には力の後ろ盾がない。タイ王室が立憲君主制に転換したのは一九三二年くらいだったようだが、そのときなぜそれができたのかというと、西洋からまなんだ改革派勢力が軍部のなかにあって、彼らが決起したからだと。いまは国際情勢を見ても強権体制が勢力をえており、東南アジアは個々の国のちがいはあってもおおかた全部権威主義体制と見て良いらしい。ミャンマーは言わずもがなだし、それらの国のなかで統治者にとっていちばんモデルとなるのが、強権的に市民を統制しつつ経済をうまくまわして利益をえているシンガポールだという。東南アジアの領域を超えれば、とうぜん中国が理想的なモデルということになる。記事のさいごのほうでは幼少時の体験も踏まえて、絶望に抵抗する希望をあたえる芸術のちから、想像力のちからを信じたい、と語っていた。プラープダー・ユンは、『ゲンロン』にやや哲学的なエッセイもしくは紀行文的なものを寄稿している作家というイメージしかなかったのだが(といって読んだことがないのだが)、映画をつくったりデザインをやったりと多才らしい。物語を読むこと、映画を見ること、絵を描くことが大好きな小学生だったといい、学校の写生のときにひとりだけ空を青く塗らなかったら、そのときの先生が、これはすばらしい、幸福な偶然です、あなたには想像力がある、良い画家になれます、と褒めてくれたらしく、芸術的想像力によって別様の世界をかんがえること、そして「幸福な偶然」としての希望の存在を信じたい、みたいなはなしだった。
  • 三人分の食器をまとめて洗い、風呂洗い。残り湯を洗濯機に汲みこむポンプの先のほうがまたよくわからない垢みたいなピンクがかった汚れで汚れていたので、こすってきれいにした。球にちかいかたちでふくらんだその外面にこまかく細い穴もしくはくぼみがたくさん配されているのだが、そのすきまにそういう汚れがたまっているので、ブラシでちまちまかきだす。そうして浴槽も洗い、帰室。茶を飲みつつきょうのことをここまで記した。すると一時半過ぎ。待ち合わせは三時で、あるいていくつもりなので二時半過ぎくらいに出ればちょうど良いだろう。
  • いま八時半まえ。帰宅後、八日の記事をしあげて投稿した。投稿しながら、体育館から出たときの西陽の描写、「三時四五分ごろだった。夕刻がちかづいてかたむきくだった太陽が西の空にはえばえとおおきくひろがっており、あまやかな色味をやや増したひかりは地上をななめにさし駆けて水のように身のまわりをながれていた」というところを読んだのだが、この一文(「夕刻が」からの一文)はわれながら良い。特に物珍しい表現もないしすごくちからがはいっているわけでもないのだが、よくながれており、なにか気持ちの良いかんじがある。これこそ文だ、というかんじの一文。ちからのこもりかたとかがんばりの度合いでいうと高架歩廊から見た雲を書いた一段落のほうがあきらかにつよいのだが、ちからがこもっていたりがんばったりしていれば良い文になるかというとそういうわけでもない。こちらの感覚ではうえの一文はなめらかにながれているのだが、もうそのあたりのじぶんとしてのリズム感覚というのは確立しており、うまくながれる語のえらびというのは書きながらだいたい自動的にさだまるし、じぶんで言うのもなんだが形容修飾もしくは個々の部分への情報の付加のバランスも端正にととのっているとおもう。そして、それがつまらん、とおもうこともときにないではない。こちらのこういう描写文というのは世の基準からしてだいぶこまかく分割的に書くということはあるにしても、ながれかたとしてはあまりガタガタしておらず癖のないものなのではないかとおもうのだけれど、その癖のなさがつまらんということもひとつないではなく、ただもうひとつ、癖のなさうんぬんよりも、こういうじぶんのリズムがもうかたまって慣れてしまったのでいつもおのずとこういうながれかたになってつまらん、ということをたまにかんじないでもない。いつもおなじ口調、おなじ語り口じゃないか、と。ちゃんと文体を設定してやる作品ではなく日記なのでそれでいいのだが、それにしても、こちらはじぶんなりにうまくながれるとかんじる文をつくりつづけた結果いまのかんじにいたっているわけだけれど、おなじようにじぶんでうまくながれるとかんじる文を追究してもそれがまるっきり破綻としか見えないようなかたちになるひともたぶんいるはずで、そうかんがえるとやはりおもしろい。
  • 出発まえまではポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)を読んでいたはず。脚をマッサージしてほぐすのが習慣になると、よくほぐれていないとかえって感覚が鈍くて気持ち悪いみたいな執着が出てきて、それで読みながらだらだらやっているうちにけっこう時間が過ぎてしまい、二時四〇分ごろには出るつもりが三時まえになってしまった。服装はきのうとおなじでシャツにズボンでも良かったのだが、きょうはなんとなくボトムスにガンクラブチェックのやつをゆったり履きたかった。それにTシャツをあわせてブルゾンを着るかとおもったところが、Tシャツもこまかくはないが柄なので、そうするとやはり合わず、やむなくふつうのシャツに変えることにしたがしかしこちらもチェックとぶつからない無地のものがほとんどない。かろうじて白い麻の、ボタンの色がそれぞれちがっているやつがあったのでこれでいいかと決めて、ここにさらに上着を羽織ると暑いだろうとおもわれたからその上下だけで、数か月まえに買ったはいいがまったくつかっていなかったPOLOのちいさなバッグをおろすことにした。それで身支度をととのえてあがっていくと、こちらのかっこうを見た母親が、それだと変だよ、夏みたいだし、という。母親はいつもだいたいこちらのかっこうにけちをつけるのだけれど、実のところじぶんでもちょっと時節にそぐわないかなとおもっていたのでもどり、しかしもう時間もなかったのでしょうがねえとブルゾンを羽織ることに。そうすれば荷物は財布と携帯だけだからそれを上着のポケットに入れてバッグは不必要になった。そうして出発。
  • このブルゾンとズボンは両方ともFREAK'S STOREで買ったもので、ほんとうは上下でおなじ柄の品であわせることができるのだけれど、間を置いてそれぞれべつの店舗で買ったものなので、上着はグレンチェック、下はガンクラブチェックと微妙に柄がちがううえ、色合いも下のほうがやや黄や茶の雰囲気が混ざってやわらかく、ブルゾンはそれにくらべると灰色にちかくてつめたい。いぜんはこういうふうに上下で微妙にずれていてもそれはそれでいいとおもっていたのだが、きょう着てみたところではやはりしっかりあわせてセットアップみたいにしたかったなとおもった。家を発ったのは二時五〇分過ぎくらいで、そこそこ待たせることになりそうだったのであるきながらメールをおくっておいた。空に雲はおおく、とくに西空のほうにはもくもくとひろがって太陽をとらえていたものの、ひかりのあかるさをうばいつくすほどではなく、坂道をのぼっていけば足もとからじぶんの影がうっすらと生えていたし、太陽が雲をはなれてもっと日なたが生まれるひとときもあった。たぶんかなり汗が出る暑さだろうとおもっていたのだが、意外とそこまで暑くもなく、すこし蒸してからだは湿るものの、ブルゾンを着ていても袖をまくれば過ごしやすい。行く先の東のほうには青さが見えて、雲もそちらの低みでは白さが濃くて凝集したような立体感がよく見て取れるのは、直上にちかいものらとくらべて横からひかりに照らされてかたちがきわだっているということか。あいては(……)なので気をつかう間柄でもないのだが、それでもあまり待たせてはとつねになく足を勤勉にはこんでスタスタあるいていった。白猫が家のまえにすわりこんで平和そうにしていたが、時間がないのできょうはふれあえず。
  • 裏道をたどっていって(……)につき、おもてのほうに出てみたが(……)のすがたが見えない。電話をかけようとおもったところがアドレス帳を見ると電話番号が登録されていなかった。もうなかにはいったのかなとおもってひとまず建物の入口をくぐる。(……)が建て直されてこの施設になってからはじめてはいった。はいって正面には反対側の裏口まで通路もしくはちいさめのロビーみたいな空間がまっすぐ伸びており、右手の窓際にはカウンター席があるとともにそのむかいの壁には掲示物などが貼られていたはずである。入口から左方はふだんはカフェ的スペースになっているのだとおもうが、舞台のスペースもそちらにあって、いまもう演奏しているひとがいるようで音が聞こえており、舞台はこの位置からは直接見えないがそのてまえに椅子がならべられた観客席を横から見るようなかたちになった。客はそこそこはいっているようだった。受付はもう老人と言っても良いかもしれない年代のふたりの高年男性がつとめていて、なまえと連絡先とはいった時間を記す用紙をさしだしてきたのだけれど、こちらはまず(……)と合流したいとおもっていたからあたりを見回したりしつつの散漫な応対になってしまい、それでも用紙を記入して、ふとうしろをむくと(……)が入口からはいってきたところだったので、おう、と笑って記入を完了させた。(……)も同様に一枚記す。どこにいた? ときくと、散歩していたという。それでいったん通路のほうに行って、とちゅうの壁にこの日のスケジュールが映し出される電光板みたいなものがあったのでそこでくだんのバンドを確認した。(……)というバンドで、リーダーのひとが(……)の実家のマンションの一階上に住んでおり、なおかつ職場でも上司((……))なのだという。もう五八歳くらいではないかとのこと。情報にはハードロックと書かれてあり、(……)も、おまえがやってたのとおなじかんじ、おまえが弾いてた曲も弾いてた、というのでDeep Purpleかなとおもった。六〇てまえなら世代的にも七〇年代に一〇代だろうからリアルタイムで触れていておかしくない。その(……)は四時からでまだ間があったが、行く場所もないしもうはいっておくかということで客席へうつった。椅子はあれはメッシュ素材というやつなのか、座部がこまかい網状みたいになっておりすこし柔軟性をかんじるもので、そこそこすわりやすかった。(……)のまえの(……)というバンドが準備をしているところでまだはじまらなかったので、そのあいだに多少はなしをした。同棲してんだっけ? とだしぬけにきいてみたが、(……)はこころあたりがないというか、彼女なんていないと面食らったようなかんじで、前回会ったとき(たぶん去年の五月くらいだったのではないかとおもうのだが)、彼女がいてたまに連れこんでいるみたいなはなしだった、と告げてもしかし判然としない。あとで喫茶店でもそのあたりにすこし触れたが、そのさい、正式に恋人になったわけではなかったのか、というと、むずかしいこというねえ、とかえった。たまに家にきていっしょにゲームするとか言ってたとおもうけど、彼女まではまだいってなかったのか、そのてまえっていうかんじだったか、ともいうと、むずかしいこというねえ、とまたかえった。いずれにしてもいま(……)は平日は実家に帰っており、週末だけ(……)の家に行く生活なのだという。そのへんの事情はここではまだかたられず、のちの喫茶店でくわしいはなしを聞くことになった。
  • (……)時代にはイベントのためにホールがあって、それは一般的なホールのように階段型というかななめにおりていくように配された客席の先、いちばんしたに舞台があるかたちで、そこそこの人数を入れることができたのだけれど、いまは舞台も客席スペースもおなじ高さでならんだ平らなフロアの形式になっていて、ひろさもかなり縮小された印象だ。あれだとクラシック系のコンサートはできないのではないか。この点は施設が建て直されるときに反対の声が多少あったようで、共産党の(……)議員なんかがそういう情報を広報して異論への支持をあつめようとしていたようだが、こんな田舎のことだからとうぜんもりあがるわけもなく、計画はふつうにそのまますすんでいまの施設が建てられた。それに、(……)時代、ホールがあってもそのおおきさにたいして客が十分にはいらないということもたぶんあったのだろう。こちらも近年もよおしに出向いたのは(……)くんが(……)を率いてコンサートをやったときだけだし、そのときは客席がわりとスカスカだった記憶がある。有名人がくればまたちがうのだろうが、あれくらいのひろさのものをつくってもどうせひとがあつまらないし、規模を縮小してつましくやろうというあたまが当局にあったのだろう。世知辛いはなしだが、行政の判断としてはとうぜんそうはなる。
  • じきに(……)の演奏がはじまった。年齢層はたかめで、四〇代から五〇代というかんじか。見た目からすればキーボードの男性がいちばん年嵩だったようで、このひとは六〇代に行っていたかもしれない。編成はボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードでボーカル以外は男性。ギターのひとはボブっぽいようなすこしながめの髪で髭を生やしており、だからわりと音楽家っぽい風貌で、フルアコセミアコかわからないがあの方面をつかっていた。ベースのひとはあまりおぼえていないがたぶん短髪だったはずで、Tシャツかなにかラフでかるいよそおいだったとおもう。キーボードのひとがこちらが聞くかぎりではこのバンドのなかでいちばん実力者なのではないかという気がした。ソロの量もいちばんおおかったはず。ドラムのひとはボーカルとかぶってほぼ見えず。ボーカルの女性はMCに素人っぽさあるいはすこし抜けているのかもしれない性格を垣間見せており、あいまあいまでひとりごと的なつぶやきを口に出してマイクに乗せたりしていたが、こんな田舎町の小規模なイベントなのでなにも問題はない。コロナウイルスでみんな外出も旅行もできなかったところようやくこうして演奏することもできるようになったので、きょうはみなさんを音楽で世界一周の旅に連れていきたいとおもう、という前置きで、いろんな国の曲をやる趣向だった。さいしょとさいごは日本の曲だが、この二曲がじぶんたちのオリジナルということだろう。一曲目は"(……)"というタイトルで、さいごのほうは題をわすれたがロックンロール風の軽快なものだったので、両方ともそういう軽いブルース方面のかんじだった。二曲目は"Dreamer Little Dream On Me"(アメリカ)、三曲目は南米に飛んでコロンビアといっていたが、"Sabor a Mi"というこの曲はWikipediaによればメキシコのひとがつくったらしいので、まちがいか、それかもとにした音源がコロンビアの歌手のものだったのかもしれない。四曲目はブラジルで、曲名を言わなかったがElis Regina風味がつよかった。女性ボーカルで軽快にボサノヴァをやればだいたいElis Reginaになるかもしれないが。聞き覚えがあって、たぶんスタンダードの一曲だなとおもってのちほどいろいろ聞いて同定をこころみたのだけれど、これだなという一曲は見つからなかった。五曲目はイギリスのむかしのヒット曲だといって"Perfect"というやつをやったのだが、曲名を聞いただけではピンとこなかったものの、これも聞き覚えがあった。しかししらべてみるとFairground Attractionというバンドの八八年の曲で、全英一位を取ったらしいがぜんぜん知らない。聞き覚えがあったのは気のせいか。むかしのヒット曲、というし曲調を聞いても六〇年代くらいのやつなのかなとおもっていたが、意外とさいきんだった。これがいい曲で、サビで"It's got to be ...... Perfect"という一単位がさいしょに出てきて、それをベースに多少変形させながら四回くりかえすのだが、beのあとをながく、二小節分伸ばしたあとにperfectは調にたいして二度→三度というメロディで解決する。ながいあいまをはさんでperfectの語が強調されるとともに三度の音にさわやかに着地するのが、It's got to be perfectのフレーズが喚起する完全性や万能感と調和していて良かった(ほかの部分の歌詞を読んでみるとそんなに万能的多幸感にあふれたものではなかったが)。サビの終わりでこのフレーズが再度終結としてつかわれるさいに、"perfect"の部分は今度はバックとあわせて二拍三連を二度くりかえすかたちで強調されていたのだが、これはすこしだけくどいような感触をえた。とはいえオリジナルもそうなっていたし、うまく収束させるにはやはりこれくらいやったほうがいいのだろう。六曲目はイギリスからスペインに行って、ビールかなにかのCMにつかわれていたような気がする有名曲が演じられ、あのバンドなんつったかな、スペインでたぶんいちばん有名なグループの曲だったはずだが、とおもいだせなかったのだが、Gipsy Kingsである。"Volare"。ところがおどろいたことに、Wikipediaを見るとこのバンドはスペインではなくてフランス出身だった。南仏のスペイン系ロマの一家が出自だというのであまり変わらないのだろうが。
  • 演奏はめちゃくちゃすごいとかきわだって気持ちが良いというわけではなかったが、瑕疵もなくふつうに楽しめて、このつぎの(……)もあわせてこんな町なのにちゃんとしたバンドがあるもんだなあとおもった。一曲目を聞いた時点では、こういうジャンルをやるにしてはドラムの音が出すぎているような気がしたのだが、その後音響が調整されたのかこちらが慣れたのか気にならなくなった。ドラムは下手ではまったくないし、どこがどうという指摘もできないが、聞いていてばっちり気持ちが良いかというとそこまではいかなかった。たぶんやはりこまかいところまでアンサンブルがかっちり噛み合っているわけではなかったのだとおもう。その点はおそらくつぎの(……)のほうがまとまりがつよかった。(……)のドラムにかんしてはどことなく大味な感触もおりにないではなく、しかしさいごの曲だったかでドラムソロをやったときはうまくながれていたのだけれど、それもアンサンブルにもどるまえにキーボードほかと(あるいはキーボードほかが)キメをあわせるのに苦労していて、何度かくりかえしているうちにずれがちぢまって合致したのだが、ことによるとちょっとひとりではしってしまったのかなとおもわれた。あと、ベースの音は両バンドをつうじて音像がややはっきりしない音響になっていて、あまり明瞭に聞き取ることができなかったのだが、ハコのひろさなどかんがえるとこれはしかたがないのかもしれない。
  • (……)のほうはたしかにいかにもなハードロックで、さいごのメドレーいがいすべてオリジナルだったのだがギター(ストラトだったとおもうが)のリフにしてもそのトーンにしても、曲構成にしてもなににしても、隅から隅までずいぶんきちんとした、ほとんど手本みたいなハードロックをやるなという印象だった。ボーカルがとくにうまく、音程のコントロールやニュアンスの変化も確実だし、ハードロックにあった太い声をそなえていて、そのへんのバンドでもこんなにうたえるひとがいるんだなあとおもった。さいごにDeep Purpleのメドレーをやったさいにも、"Burn"の"you know we had no time"部分の最高音("no")を、悠々というほどではなかったがふつうに出していたし。全体として貫禄のある演奏というかんじ。(……)の知り合いであるベースのひとがもともと(……)の出身で、子どものころにいまはなき(……)の店主のおっさんに世話になっていたとかで、(……)のおっさんは店が閉じたいまこの施設の音楽監督的な立場をつとめているはずで、今回も彼から声がかかったというはなしだった。ステージ上からそういうはなしがされたときにはおっさんはうしろのほうにいて、こちらも中高時代にはよく世話になった身だしその後もたまに買いに行っていたのでひさしぶりにあいさつしようかなとおもったが、終わったころにはすがたが見えなくなっていたのでできず。Deep Purpleメドレーというのは"Burn"、"Highway Star"、"Smoke On The Water"で、このときはまえの(……)のドラムとギター、それにブラスの女性三人(トロンボーンふたつと、あとたぶんソプラノサックスだったとおもう)がくわわって大所帯で演奏された。"Burn"の"you know we had no time"の中間部が終わったところで"Highway Star"の冒頭に移行したので、なるほどここでつなげるのね、と笑った。"Highway Star"はツインギターでギターソロがやられたものの、例の速弾きのところはやらずに編集されていた。たぶん(……)のギターのひとなら弾ける実力があるとおもうが。Deep Purpleはじぶんも高校時代にやったわけだしなつかしく、見ていればバンドというのもやはりいいなあとおもわないでもなかったが、さすがにもうDeep Purpleみたいなかんじのハードロックをやりたいとはおもわない。せいぜいブルースロック程度の激しさでないともうできない。だからどちらかといえば(……)のような音楽のほうだ。
  • 演奏が終わると、どっか行って駄弁るか、ということに。(……)の母親も来ていたのであいさつし、(……)は荷物を持ち帰ってもらったよう。施設を出ると入口のところに(……)のベースのひとがいたので、あそこにいるじゃん、あいさつしとかなくていいの、とうながし、(……)が声をかけにいったそのうしろでこちらもとおくから会釈をおくる。駅前に喫茶店「(……)」があるからまあそこに行くか、ということに。曇り空のもとをてくてくあるいていく。しばらくして到着し、階段をあがってはいると、店内のようすはいぜん来ていたときと変わっていた。はいってすぐのところになんだかよくわからない雑多な品々とか書籍とかが置かれてあったし、BGMも、いぜんは古き良き時代のジャズがかかっていたのだが、ロックとか、それこそいま聞いてきたようなたぐいのハードロックとかになっていた。のちには山下達郎とか井上陽水なんかもきかれてよくわからないが。まえに来ていたころは老人が料理していて、そのひとが店主もしくは経営者だと勝手におもっていたのだが、経営主体が変わったのかもしれない。窓にちかい一席についたが、テーブルのあいだをくぎる衝立みたいなものにも、英国旗のもようが描かれているかもしくはそういう布がかけられてあって雰囲気がまえとちがう。また、入口にちかいほうにややモジャモジャした黒髪の若い男性など何人かがたむろしていて、さいしょはふつうの客かとおもっていたのだが閉店ごろになっても帰る気配がなくたまっていたので、どうもスタッフか常連だったらしい。
  • それで閉店の七時ごろまでひたすら駄弁る。(……)がいま平日は実家にいるというのは精神をすこしやったのだという。やつは中学のころから能天気というかヘラヘラ生きているようなかんじの人間なので意外ではあるが、職場のしごとが急にいそがしく、激務になってやられたらしい。(……)もともと午後三時にはやることがなくなってさてどうするか、と手持ち無沙汰になるくらいのゆるい職場だったのが、急に朝から夜中まで事務処理に忙殺されるようになって心身が耐えられなかったようだ。(……)だけでなく、部長が辞めたり、同僚や先輩も離脱してまだもどってこなかったりしているらしい。(……)が発覚したのが三月で、そこから五月くらいまでがんばっていたのだがこれはもう駄目だなとなり、(……)もそこは無理をしすぎずはやめに見切りをつける良い性分だからダメージが致命的にならないうちに、ちょっといったん休みます、医者行ってきますわ、と言って二週間だか休養をもらえたと。それで(……)の(……)という医院に行った(精神科というのはこの現代非常に流行っていて、つうじょう、精神科の初診予約というのは二か月や三か月待つことがざらにあるのだが、(……)のばあいは運良く、電話をかけるとちょうどキャンセルが出たところだといわれてすぐに診てもらえたという)。知ってる? ときかれて、なんとなくなまえをどこかで聞いたことがあるような気がしたのだが、やさしく良い先生だったという。(……)の症状としては鬱的なもので、セロトニン? とかいうのを分泌するみたいな薬をもらった、と言うので、それはなかなかだなと受けた。SSRIのことだろう。SSRIが処方されるとなるとけっこうなことのはずで、副作用で吐き気とかなかった? ときくと、四分の一錠からはじめてだんだん慣らす方式をとってくれたというので、それはいいやりかた、いい医者だな、と称賛した。なかなかそのあたりをきちんとやってくれる医者はおおくないと推測する(初診に行ったときも、医師はすぐに休んだほうがいい、と断言し、じぶんのなまえを出して、医者が休めと言っている、と言ってくれていいから、とバックアップしてくれたという)。それで一時一錠まで行ったがそこからまた減っていっていままた四分の一までもどってきたか、もうそろそろなくなるというはなしではなかったか。出てこれているくらいだからもう体調に問題はないのだろうが、診察を受けて上司(というのはつまり先ほどパフォーマンスを見た(……)のベースのひとである)に相談すると、わかった、俺のほうで承認する、と言われて診断書は不用となり、また、それだったらいちど実家に帰っておいたほうがいいんじゃないか、ひとりのままでいずにはなすあいてがいたほうがいいんじゃないか、といわれたのでそれにしたがって帰ってきたというはなしだった。まあいまはだれであれいつ精神を病んでもおかしくないような世界だし、むかしだっていまより精神科自体がカジュアルでなかったにしても短期的な不調とかちょっとしばらくノイローゼになるとかはふつうにあったのだろうが、それにしてもじぶんのまわりは精神科の世話になる人間がおおいなあという感を禁じえず、(……)がそのひとりになるとは予想していなかった。
  • あとのはなしはおおかた中学時代の同級生の噂とか、こちらの生活やしごとについてとか。なにかのときに、ゲームとか動画方面の話題になって、YouTuberとか俺ぜんぜん見ないけど、いまの若いひとの娯楽ってそれだよね、職場の同僚でも、YouTuberっていうかなんかそういうのの動画見るとか、ゲームやったりゲーム実況見るとかそういうかんじだわ、むかしはさ、むかしって昭和のことだけど、けっこうみんなラジオ聞いてたらしいじゃん、ラジオがいまそういうのになったかんじなんじゃない? というと、(……)もラジオを聞くと言った。radikoというアプリ(なまえだけは見たことがある)をつかってスマートフォンで聞いているという。だれの? をきけば芸人の、というので、まなんでんの? とつづけると、べつにそうではないという。おもしろい冗談のいいかたとかまなんでんのかとおもった、といったが、いまちょっとおもったのだけれど、もしかするとこういう、なんでも学びにむすびつけるというか、じぶんの糧にするみたいな発想はこちらの特質なのかもしれない。芸人のラジオを聞こうというひとの大半は、たぶんふつうに娯楽としてたのしんで聞いているだけで、話術をまなぼうとかトークの参考にしようとかはそんなにかんがえないわけだろう。この会話のときに、まったく意識せずともそういう発想が即座に出てきたあたり、じぶんの性分が知れるのかもしれない。それで芸人といって誰かと問いをつづければ、かまいたちとかいくつか挙がっていたので、ギリギリわかるわ、そのへんだとまだギリギリ顔が出てくるな、と応じた。
  • 七時で会計をして退出。おもてに出て、お互い徒歩で帰ることにして街道まで行き、別れ。喫茶店で麻雀のはなしがすこし出ていたのだが、雀荘に行ったことがないというと、こんど行こうぜということになった。(……)という同級生がいて(……)と彼はやたら仲が良く、一時は週一か週二くらいで会っていたはずだし、いまはもうすこし減ったようだが月一くらいの頻度で顔を合わせているらしいのだけれど、その(……)が「雀鬼」だといい(むろん誇張だろうが)、ほんとうかどうか知らないが新宿に出張って稼いでいた一時期もあったとかいうので(賭け麻雀は禁止されているはずだが)、戦後すぐの時代かよと笑ったのだが、その(……)も入れて行こうと。麻雀はいちおうルールは知っていてオンラインゲームでやったことはあるのだが、じっさいにやった経験はほぼないので牌を積むのすらおぼつかないし、サイコロを振ったあとの山のわけかたとかもよくわからない。とうぜん点棒計算もできないのだが、いまはもう雀荘も全自動卓だろうし、点棒も(……)がいるから問題ないとのことだった。
  • その後は特段の記憶もなし。夜、(……)さんに誕生日おめでとうのメールを送った。五日も過ぎてしまったが。おめでとうというだけのはなしなのだが、それだけだと味気ないので付け足しているうちにいろいろ書いてしまってながくなるというのはよくあることである。

 (……)