2021/10/19, Tue.

 声がする、声が。聞け、わが心よ、かつては
 聖者たちだけがした聞き方で。むかし巨大な叫びが
 耳傾ける聖者たちを地面から持ち上げた。ところが彼らは、
 おどろいたことに、ひざまずいたままそのことに気づかなかった。
 それほどに彼らは一心不乱に聞いていた。神の声に耐えるように
 というのではない。けれども、風となって吹くものを聞け、
 静かさから生じてくる絶え間ない知らせを聞け。(end105)
 その知らせが、いまあの若い死者たちからきみのところへ吹き寄せる。
 どこであれ、きみが足を踏み入れた、たとえばローマやナポリの教会で、
 若い死者たちの運命がきみに語りかけてこなかったか。
 あるいはさきごろサンタ・マリア・フォルモサ寺院であったように、
 一つの碑銘かけだかくきみに要請をすることがあっただろう。
 彼らはわたしに何を望むのか。彼らの霊たちの純粋な動きを
 ときおりいくらか妨げていることがあるという
 不正の印象を取り除いてくれというのだ。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、105~106; 『ドゥイノの悲歌』 Duineser Elegien より; 「第一の悲歌」、第三連)



  • 一一時半に覚醒。それまでに夢をけっこういくつも見たのだとおもうが、さいごに覚めたときのものだけおぼえている。小中の同級生に(……)(もはや漢字はわすれてしまったし、このなまえやその存在をおもいだしたのも相当にひさしぶりのことで、むしろよく記憶にのこっていたなとおもうくらいだ)という男子がいたのだが、彼といっしょに(ことによるとひっぱられるようにして)職場に向かい、はいると(……)がいた。同僚の講師としてはたらいているらしく、準備スペースで支度をしており、たぶん彼が職場にはいってはじめて顔を合わせた設定だったのだとおもう。ひさしぶりに会えてうれしいみたいなあいさつをしたかもしれない。それで(……)が授業についてどうしたらいいか聞いてくるのを先輩としてこたえているあたりで目が覚めたはず。出し抜けに覚めて、直前まで見ていた夢の内容をうしなわずによくおぼえていた。こめかみや喉をちょっと揉んでから一一時四五分に起床。水場に行ってうがいなどしてきて、瞑想をおこなった。悪くはない。からだの感触をわりとかんじることができた。もう寒いので窓は開けず。
  • 寒いと言ってもしかしきのうよりは幾分マシか。とはいえ天気は白に支配されてくすんだ曇りである。上階に行き、鮭や味噌汁などで食事。新聞からはいつもどおり国際面。中国で共産党中央委員会第一九期第六総会みたいな大会議がちかぢかひらかれるらしく、そこで習近平がおおきな「歴史決議」をおこなう見込みで、草案がべつの会合ですでにしめされて出席者各人が賛同している旨がつたえられているという。歴史決議というのはいままでふたりしかやっておらず、すなわち毛沢東と鄧小平であり、毛沢東が一九四五年におこなったそれは彼の権力を確立するのにおおきく寄与したし、鄧小平もまた決議によって毛沢東文化大革命を否定してその後の権威をたしかなものにした。三期にはいろうとする習近平も同様にみずからの統治を自賛する歴史認識をしめして、毛と鄧のふたりにならぶような権勢をうちたてようとするだろうと。文化面にはいわゆる「鈍器本」が売れているという話題。あまりきちんと読まなかったが、コロナウイルスで自宅滞在を強いられてそのあいだに読むものとして注目されたとか、あるいは手軽に情報がえられるインターネット時代の反面としておおきな書物を読みとおして体系的な知識をえたいという向きがあるのではないか、などと述べられていたとおもう。具体的な書としては岸政彦の『東京の生活史』(だったとおもうが)、あとブログが有名な「読書猿」の『独学大全』みたいなやつや、著者をわすれたが『読書大全』とかいうもの、そして橋本治の遺稿である『人工島戦争』(ではなくて『人工島戦記』だった)が挙がっていたが、なかふたつはともかくとしても、岸政彦や橋本治のしかもやたら分厚いやつがそんなに売れるわけがあるまい、とおもってしまうのだが。このスケールの本にしては特筆するほど人気が出ている、ということなのか。そのしたには前回ノーベル文学賞をとったルイーズ・グリュックのはじめての邦訳が出るとの報。出版元はKADOKAWAだというので、KADOKAWAが出すの? とおもったのだが、訳者いわく文を何百回も口に出して読み、ことばのひびきやリズムにおもいを凝らしてしあげたということだったので、良いしごとになっているのではないか。
  • (……)行くの? と母親にきかれた。やっぱり音楽をながす用のパソコンを買おうかなとおもって昨晩、あした行くかも、と言っておいたのだ。気が向いたら行くとこたえたが、行くなら「あじさい」(鎌倉銘菓)を買ってきてほしいという。兄夫婦のところに行くときに持っていきたいと。パソコン買うから荷物が増えると面倒くせえなとかえしたものの、そのくらいのことはするつもりではある。パソコン以外にイヤフォンももう汚くなっているのでてきとうなものをひとつほしいのと、アンプからパソコンにつなぐケーブルももう相当にくたびれているのでそれも新調したい。
  • 皿を洗い、テーブルを布巾で拭き、風呂をあらって茶を支度。もどって飲みつつウェブをちょっと見て、それからきのうの記事、きょうの記事と記した。いまは二時一六分。爪を切りたい。手も足も両方とも伸びている。とくに、手は鬱陶しいのでわりとすぐに切るが足は放置してしまうのでだいぶ伸びている。

知らなかった方は驚くだろうが、京都市財政破綻の危機に瀕している。現時点での「借金」は約8500億円。本年度(令和3年度)以降、毎年500億円以上の財源不足が生じ、このままでは10年以内に財政再生団体に転落する恐れがある。企業で言えば倒産だが、これまでに「倒産」した自治体は2010年の北海道夕張市しかない。

コロナ禍による観光客の減少以前の構造的な問題で、バブル期に行われた地下鉄新設などの大規模公共工事が一因だという。市による積極的なホテル誘致が住宅価格の高騰をもたらし、子育て世代が市外に流出したために住民税収入が減っているという報道もある。見通しの甘さや、赤字を埋めるのに「公債償還基金」を取り崩してきたことも含めて明らかな失政と言うほかない(……)。

アートや舞台芸術の愛好家として、最も心配なのは芸術文化関連予算がどうなるかだ。文化庁などの助成金は、いわゆる「半額助成」が多く、交付される金額と同額の予算を準備しておかなければならない。市から受け取る金が例えば1000万円から800万円に200万円減額されると、事業規模は2000万円から1600万円に、つまり400万円ほど縮小されることとなる。不採択の可能性も上がる。主催者にとっては大打撃だ。

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1978年10月、京都市は「世界文化自由都市宣言」を発表し、「京都は(中略)広く世界と文化的に交わることによって,優れた文化を創造し続ける永久に新しい文化都市でなければならない。われわれは,京都を世界文化交流の中心にすえるべきである」と宣言した。(……)

気になるのは、基本的に非課税の拝観寺院の存在だ。いまと同じように市財政が逼迫していた1980年代に、京都市と京都仏教会は古都保存協力税(古都税)をめぐって対立した。拝観停止という強硬手段が功を奏して、市は課税案を撤回。以後、古都税問題はタブーとなって現在に至る。「拝観は宗教行為であり、拝観者への課税は許されない」という仏教会の主張は詭弁としか思えないが、行政側のごり押しも対立を悪化させるものだった。

  • ふたつめの記事からの引用は以下。

 京都市の人口は140万720人(住民基本台帳、令和3年1月1日時点)。市区町村別では全国8位の規模である。しかし、前年比では8982人減となり、市区町村別で日本一の減少数となっている。
 (……)
 [京都市の人口の推移は] 緩やかではあるが、右肩下がりとなっている。直近18か月(2020年1月~2021年7月)で見ると1.0%の減少で、日本の総人口(日本人以外含む=推計人口)が同期間0.5%減だったことを考えると、減り方はやや大きい。

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 一方、京都市の転入・転出者の状況を見ると、過去10年間では直近の2020年度以外、1000~2000人前後の転入超過(出ていく人より入ってくる人の方が多い)が続いている。しかし、住宅購入を検討する若い子育て世代の転出が深刻だ。
 広い意味での「子育て世代」である25-44歳世代の2020年1年間の人口減少数は8501人(30代は4444人)にもなる(住民基本台帳ベース)。

25-29歳 0.56%減 
30-34歳 2.82%減 
35-39歳 2.94%減 
40-44歳 3.90%減

 当然、子ども世代の人口も減少だ。子ども人口(0-14歳)は15万7505人から15万5062人へと2443人減少(1.56%減)となっている。

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 2010年代以降のインバウンド拡大で京都に外国人観光客があふれる中で、ホテルの建設ラッシュや外国人による町家などの不動産取得が続き、そのあおりを受けて市内の地価が上昇し、住宅取得価格が跳ね上がってしまった。市内の住宅地の公示価格はコロナ禍で2020年こそ0.4%のマイナスに転じたが、まだまだ高い。
 2021年の住宅地の平均価格は中心5区(北区、上京区左京区、中京区、下京区)は1㎡あたり28万1000円で、コロナ禍にもかかわらず前年よりも600円アップしている。残りの周辺6区は17万800円で、こちらは下落したとはいえわずか900円のマイナスだ。
 そのため、子育て世代を中心に市内での住宅購入をあきらめ、京都市内よりも地価が安い滋賀県大津市草津市などへ転出する動きが続いているのだ。

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 年間観光客数が5600万人(日本人+外国人)を超えていた2015年をピークに、京都の観光客数は2018年まで微減し5275万人に。2019年は5352万人に盛り返したが、コロナ直撃で2020年は統計さえ集計できない状況となってしまった。(データ出典は京都市観光協会

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 最新の状況も厳しい。2021年6月のデータは次の通り。

日本人延べ宿泊数   2019年6月比  43.3%減
外国人延べ宿泊数      同    99.8%減
主要ホテル客室稼働率 20.6% (同60.2ポイント減)
客室収益指数     1857円 (同 82.9%減)

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 自治体の財政の健全性を測る指標に「将来負担比率」(現在抱えている負債の大きさを、その地方公共団体の財政規模に対する割合で表したもの)があるが、京都市は2019年度、その指標が政令指定都市の中で最下位だった。
 最大の原因は、バブル期に建設した地下鉄・東西線の建設コストと収支見通しの甘さで、市が赤字額約1000億円を一般会計から穴埋めした(2004-2017年)ことと指摘されている。
 加えて、歳入面にも構造的な問題を抱えている。高齢化に加え学生人口が市全体の1割という大学の街という特殊な構造のため就業層の割合が低く、人口に占める納税義務者の割合が43.1%(2019年度)と政令指定都市で最低なのである。また市内は、景観保護で高層マンションが立てられないため、固定資産税も増えにくい。また、市内に多くある神社仏閣は固定資産税がかからない。

  • 出かけるまえのことにもどるとじっさい手も足も両方とも爪を切り、それから書見。ポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)。この日は出先にも持っていって電車のなかでも読んだが、やはりあまりこまかいところにはいりすぎず、ひとまずこだわらずに読んでいくのがいいかな、とおもった。言っていることや書かれてあることを理解しようとするのではなく、気になる部分やおもしろい記述、くりかえし読みたい一節などを見つける、もしくは見分けるようなかんじで読むと楽だ。わかることを目指すのではなく、要するに書抜きたい箇所を見出すということで、むかしからずっと取ってきた方法であり、そういう姿勢のほうがやはりじぶんに合っている気がした。理解しようとなるとある語をべつの語に置き換えてうまくつながるかどうか試してみたり、明示されている意味の周辺にみちびきだされる領域を問いとして投げかけてみたりして多少の補足をこころみたりしなければならず、こねくりまわすようなかんじになるが、写したいところを見つけるような読み方ならもっと感覚的な意識になる。彫刻の表面を手で撫でて場所によってちがうその質感やまるみの具合を感じ分ける、というような。そういうわけで読み進め、四時まえくらいから外出に向かいはじめた。本をひきつづき読みながら歯磨きをし、服を着替える。気候が冬にちかいものになってきたのだが、シャツもズボンも冬っぽいものがあまりないのが困る。あたらしい服などもうずいぶん買っていないし。だからいつもどおりというかとくに新鮮味のない例年のかっこうにならざるをえず、うえはGLOBAL WORKのカラフルなシャツをえらんだが、これは七分丈くらいのものだし、生地のかんじからしてもほんとうはもうすこし暑いころの服である。したはUnited Arrowsの無地の褐色の、やや冬っぽいものだが、これはいまより腹回りがすこし太かった時期(たしか(……)さんが東京に来たときに(……)さんといっしょに(……)であそんだ日に買ったはずで、だから二〇一九年の二月初頭のことであり、それまでほぼ二〇一八年いっぱいつづいた鬱病様態のあいだにやや太っていたのだ)に買ったのでいま履くとゆるい。履けないほどではないし、極端にずり落ちてしまうわけでもないが、外出先ではたびたび上げなおさなければならなかったし、あるいているあいだはポケットに両手を入れてちょっと支えるようなかんじになった。上着は濃紺色のジャケット。鞄はリュックサックにした。
  • 四時半くらいに出発。道中について、これといった印象がよみがえってこない。カラスが二羽うろついており、電線にとまったのを見上げて、その真っ黒なからだに襞というか各部の段差が見て取られず、ほとんどひとつの面でできているようだな、とおもったくらい。空気はやはりそこそこ冷たかったが、きょうのかっこうならちょうど良いくらい。最寄り駅から乗車。電車が停まって待機しているあいだに先頭車両のところまで行ってそこから乗った。(……)に着くと乗り換え。乗り換え時間がほぼなかったのですぐ目の前の車両に移り、揺れるなかをあるいて二号車まで。着席するとポール・ド・マンを読んだ。平日のこの時刻なのでひとはさほど多くなく、右隣はずっと空いていたはず。(……)がちかづくと立ちすがたのひとも何人か生まれたが。
  • 降りて階段をのぼり、改札を出て北口へ。ひとまず図書館に行ってリサイクル本を見ることに。毎日の感染者ももう相当減っていて(きょう、二〇日は東京都内で四〇人強だったらしい)、新聞で確認するかぎり(……)から(……)にかけての範囲はここ数日ほぼひとりも発生していなかったとおもうし、いまは大丈夫だろうということでラーメンを食おうとおもっていたが、まだそこまで腹が減っていなかったので。北口広場ではなんだかよくわからないが関西出身だという男性三人組のパフォーマーがひとをいくらかあつめており、まだ開始時のトークの段階だったのでそもそもなにをやるひとたちなのかすらわからなかったのだが、とおりかかった女子高生らが見てく? どうする? とかいいあっていた。そこを過ぎて高架歩廊を北へ。歩道橋にかかると左のすぐ眼下ではもちろん一台一台の車のかたちや種類がよく見て取られるが、右に視線を振ると道が伸びる先は交差点で、左車線をそちらへ前進していく車らはすがたかたちをやや保ちながら尻に灯した赤いランプを五時半まえの青いたそがれにいくつも浮かべ、右車線は交差点のむこうから、車体を黒く呑まれてうしなうとともにふくらみひかるクリーム色の二つ目と化したものたちが続々とながれてくる。近間の電灯のもとで、かえって薄暗いようなオレンジ色のシャワーをかけられた街路樹が葉をふるわせていた。
  • さらにすすんでいくとホテルの横で通路に天井のついた区画にはいるのだが、頭上を閉ざされ空間の先の左右もビルにくぎられた視界のなかでせまく切りとられた空がそこだけ神妙なように青く、天井の下から出てあたりに立ち並ぶビルのうえに空がひろがれば、なめらかなその青味は着々と宵の濃紺にむかっているようだった。図書館にはいり、リサイクル本の乗ったカート的な棚に寄って見分。エティエンヌ・バリリエという作家のピコ・デッラ・ミランドラを主人公にしたらしい小説があって、エティエンヌ・バリバールとかいうなまえの作家がいたはずだがこのひとじゃないよな、と手に取り、のぞいてみればそこそこおもしろそうな気はしたが、もらうほどではないと判断した。ほか、ドミニク・メナールの『小鳥たちは歌う』みたいなタイトルの書もあり、これは河出書房新社から出ているなんとかいうシリーズの一冊で、このシリーズは装丁というか表紙の絵がきれいなものがおおくて図書館で目をつけており、それでこの本も既知だったのだが、やはり持って帰るほどではないかなと判断した。もらったのはミシェル・トゥルニエの『イデーの鏡』と、『レイプ・男からの発言』というやつ。後者はいま検索したらちくま文庫にはいっているらしい。このときいただいたのは単行本。『イデーの鏡』は地元の図書館にもあってこれもそれなりに気になっていたが、あとでちょっとなかを見てみたところではそんなに濃厚な本ではなさそうというか、軽めのエッセイくらいの雰囲気だった。ミシェル・トゥルニエミシェル・ビュトールがごっちゃになりがちなのだけれど、トゥルニエは『ロビンソン・クルーソー』を下敷きにしたフライデーなんとかかんとかを書いたひとで、この作は池澤夏樹が編集した河出書房の世界文学全集にはいっていたはず。また、図書館を出て歩廊をもどっているあいだ、井上究一郎が訳した『孤島』というやつが何年かまえにちくま学芸文庫にはいっていたあれはだれだったかな、となぜか連想したのだが、これはジャン・グルニエである。トゥルニエとひびきが似ているので記憶が刺激されたのかもしれない。
  • トイレに行きたかったので手を消毒してゲートをくぐり、新着図書を瞥見してから用を足しに行き、もどるとまた新着を確認した。マーカス・ガーヴィーだったか、黒人地位向上協会みたいな、わすれたがそういう団体をつくったひとについての本や、大塚楠緒子全集みたいなやつや、宮沢賢治についての研究本(たぶん生成研究的なやつだったか?)や、中村稔が森鴎外の『渋江抽斎』を読んだ本など。余談だが、『パウル・ツェラン全詩集』とかゲオルク・トラークルとかを訳している中村朝子は中村稔の娘らしい。また、ルネ・シャール全集だか全詩集だかを訳しているひとはその姉妹らしい。新着棚を確認すると退出。(……)はおもしろそうな本があまりにも多すぎてすばらしいことこのうえないのだが、(……)から借りている図書カードはたぶんもう期限が切れていて更新しないとつかえないようになっている気がするし、コロナウイルスのせいであまり行けず、ほとんど利用できず仕舞いだった。また(……)に言って更新してもらうのも手間をかけさせて悪いし。やはりじぶんで(……)に住むか、それかそこでしごとを見つけるしかない。(……)を利用するためだけに(……)の職場ではたらく価値は十二分いじょうにある。ただ、どうなのだろう、「通勤」というのは正社員としてきちんと会社につとめていないと駄目なのか? アルバイトとかで通っているのでは駄目なのだろうか。
  • 図書館を出ると歩廊をもどった。時刻は五時半過ぎくらいだったはず。まだラーメンに行くにはすこしだけ空腹が足りなかった。それで書店に行くか、と。(……)のほうは先日行って買うものも買ったので、(……)のほうにひさしぶりに行ってみて、なにかめずらしいものがないか見てみるかとおもった。とはいえ先日散財したばかりなのでよほどのものがなければなにも買うつもりはなく、ただ時間をつぶすために名目をでっちあげたようなものだった。それで歩道橋前で右折し、そのまままっすぐすすんでビル内へ。はいるときにすれちがった女性がTOWER RECORDの黄色いビニール袋を持っていて、ここにあるのHMVだよな? とおもった。洒脱なピアノトリオをながしている(……)とそのHMVを素通りして上階へ。入店すると、先日おもいだした矢内原伊作ジャコメッティについての本がここにないか美術の棚を見に行ったが、やはりさすがにない。そのまえにジャズの区画もちょっと見て、ジャズとかポピュラー音楽関連もけっこうおもしろそうな本はいろいろある。それから文庫のほうへ。壁際の中公文庫のならびを見ているときに、手塚富雄訳の『ツァラトゥストラ』を発見して、手塚富雄ってニーチェ訳してたんだ、とおもった。これはちょっと読んでみたい気がする。そのまま壁際をすすみ、岩波現代文庫を確認。ファインマンのエッセイ集とか、あと小平邦彦『怠け数学者の記』はまえからわりと読んでみたいとおもっていて、こういういわゆる理数系の学者のエッセイからそちらの方面にもはいっていけないかともくろんでいるのだが。周辺の文庫もちょっと確認。平凡社ライブラリーバタイユの『非 - 知』があったが、これが西谷修訳であることをはじめて認識した。
  • 文芸のほうへ。文芸区画はまたいぜんよりすこし減ったような気がする。日本の作家のならびはまえはもうすこしながかったような気がするし、詩も、量は変わっていないのかもしれないが場所が移動していた。壁際の海外文学は変わらず。平積み本のなかにタナハシ・コーツの新作があった。トニ・モリソンが「ボールドウィンの再来」と絶賛、みたいな売り文句が書かれてあった。あとフォークナーのなんとかいう未発見だった原稿みたいなやつとかはやはりけっこうおもしろそうだし、ほかにもなにかしらあった気はするが買っておくほどではない。棚のいちばん右端の、ちょっと壁に隠れたようになった狭い場所は幻想文学にあてられていて、ミシェル・レリスなんかはそこに割り振られていて『ゲームの規則』全四巻とかジャコメッティなどについて論じた美術論集とか(そういえばジャコメッティの『エクリ』のさいしょには、「ミシェル・レリスとルイーズ・エリス(だったか?)の思い出に」みたいな献辞が記されていたはず)、千葉文夫の『ミシェル・レリスの肖像』とかが置かれているのだけれど、きょうその横にクロソウスキーの『不吉なる欲望』(ではなくて、『かくも不吉な欲望』だった)があるのをはじめて発見した。これ、なかなかいまはもう入手しづらいのではないか? とおもったのだけれど、Wikipediaを見れば二〇〇八年に河出文庫から新訳が出ている。このとき見かけたのは単行本なので、現代思潮社の小島俊明訳のはずである。新訳は訳者が変わっているので、そうかんがえるとやはりけっこうレアなのかもしれない。Wikipediaでは一九七七年出版となっているし、Amazonだと一九六九年になっているので。初版がそんなむかしに出た単行本が、ふつう新刊書店にある? というかんじ。
  • 哲学思想の区画は見なかった。このあいだポール・ド・マンを買ったしいいかな、と。出るまえに文房具のコーナーをちょっと見たが、こちらがふだんつかうような、ポケットにはいるサイズで日付にくぎられたりしていないただのノート的な手帳のたぐいというのはおどろくほどにない。MDノートくらいしかほぼなかった気がする。もうすこしおおきいサイズだといくらかあるのだが。ちょうど良いものだとダイアリー的な手帳のたぐい、さいしょから日付ごとにちいさな区画がわりふられているようなやつばかりで、そんなものは欲していない。
  • そうして退出。そろそろ腹が減ったのでラーメンを食いに行くことに。「(……)」。コロナウイルスでつぶれたんじゃないか? まだ生き残っているのか? とおもったが、ふつうに残っていた。塩チャーシュー麺にした。BGMはあいかわらずSon of Dorkみたいなポップでメロディアスなパンクみたいなやつなどがかかる。店員はふたり体制。ひとりは厨房内でずっと調理をつづけ、もうひとりの若い男性が調理を手伝いながらもたびたびフロアに出てきて客の食券を回収したり、品をはこんだり食器をかたづけたりする。まだ六時半くらいで、平日でもあるし店内はさほど混まない。こちらはカウンター席に座った。テーブルのほうは入店したさいにはカップルが一組あり、その後男性二人連れが来てとおされて、カップルはまもなく帰っていた。水をコップにそそいでマスクをずらしていくらか口をつけているうちに、品ははやばやととどいた。食す。ふつうにうまい。ふつうにうまいのだが、ラーメン屋みたいにさわがしいBGMがわりと大きめにかかっている環境って、ものを味わって食うには本来向いていない場所だとおもう。たぶん自明なのだとおもうが。味覚への志向性がそらされたりみだされたりしてしまうので。それでもふつうにうまくいただき、食べ終えると長居せず水を飲み干してマスクをつけ直し、たちあがってリュックサックを背負うと礼を言って退店。
  • 胸のあたりに点状のこまかな痛みがすこし生じていたのだが、これは逆流性食道炎というか、胃液が食道まであがってきていたのかもしれない。何年かまえの一時期には深夜に胸焼けでめざめることがよくあった。いまはほぼそういうことはなくなったが(先日、夜食に煮込みうどんをつくって食った日にはひさしぶりにそうなった)、脂っぽくてボリュームのあるものを食べたので一時的に食道が侵されたのではないか。あるいは気づいていないだけで、意外とふだんから傷ついているのかもしれない。それでゆったりあるきながらおもてに出ていき、横断歩道をわたって電気屋へ。(……)である。ものを食べたばかりなのですこしだけ緊張しないでもなかった。つまり、パニック障害時代の嘔吐恐怖のとおいなごりだ。入店してiPhoneなどが売られている横を過ぎていき、エスカレーター脇のフロア案内で三階がオーディオ関連、二階がパソコンの売り場であることを確認し、先に三階へ。イヤフォンを見に行った。いまはもうだいたいBluetooth対応で(青い歯とはいったいなんなのか?)その種の品がプッシュされているのだが、有線の区画に行って見分。棚のあいだにはいったところにちょうどゼンハイザーのものがあって、イヤフォンはべつにZOOMで通話するときにつかうくらいで音楽を聞くにはヘッドフォンをつけるから音質などどうでも良いといえば良いのだけれど、それでもほかにもつかうかもしれないしやっぱりそれなりの音はほしいな、とおもった。それでゼンハイザーなんかいいのではないかとおもったのだけれど、しかしいちばん安い品でも四〇〇〇円はする。三〇〇〇円いじょう出す気にはならなかった。周辺を見回ってみてもそんなにピンとくるものもなく、棚の側面にいろいろ吊るされたなかにDENONの一二〇〇円くらいの安いやつがあり、ケーブルのこすれノイズを軽減するとか書かれてあったので、もうこれでいんじゃね? という気になって、決定。それからオーディオケーブルの場所へ。アンプとパソコンをつなぐケーブルがもう相当にくたびれていて、パソコンに挿すと位置関係上、変に曲がるようなかたちで固定されてしまうからそういう癖がついており、いまのPCだとなくなったがまえはジャックの挿しこみ具合によってノイズも生じていたし、新調することにしたのだ。まちがえないように古いケーブルを持ってきたのでそれを見つつ、この種のものだなと確認。ふつうにピンプラグ二つと、ジャックに挿せる端子がひとつついているもの。音質にこだわりなどないし良いものを買ってもわかるはずもないし、どれでも良かったのだけれど、オーディオテクニカの一品がすべて青く塗られたケーブルでなかなか格好良いようにおもわれた。しかしそれは一メートルだったか一. 五メートルだったかの長さしかない。一. 五メートルあれば充分ではないかという気もしたのだけれど、念のために三メートルの品を買うことにしたのでこれは断念し、その隣にあったもうすこし値段が高くて頑丈そうなやつに決定した。そうして会計へ。
  • 一階下りてノートパソコンを見てまわるが、どれもこれも一〇万とか一七万とかしてはなしにならない。端の一画に安い品がまとまった場所があり、まあこのへんだろと目星をつけた。ならんだなかのいちばん安いやつはいまつかっているPCにくらべるとけっこうちいさめのacerのもので、Chromebookだった。それが三万円強。音楽をながすだけだしもうこれで良かろうとおおかた決めながらその反対側にまわると、そこに眼鏡をかけた若い男性店員がおり、品を見ようとするこちらの動きを受けて失礼しましたと言いながら台のまえをちょっとはなれた。そちらにも安いものはあったが、まあさっきのやつでいいだろうとおもってそちらにもどり、札に書かれたデータを確認していると、先ほどの店員がややおずおずとしたようなかんじでやってきて、なにかパソコンでお困りですか、と声をかけてきたので、音楽をながす用のものがもう一台ほしいのだ、ぜんぜん安くてちいさいもので良いのでもうこのへんで良いとおもっている、と説明し、この品がこのカードのやつですかね、とたずねると、店員はひらいたPCのキーボードがついているほうの面の右下に貼られたシールとカードの番号を見比べて確認したのだが、そのあたりでこのひとは新人なのだなと気づいた。あとで見たところでは腕に「実習中」の腕章もつけていたのだ。それでこれをお願いしますとたのむと在庫を確認してくると彼は言い、そのあいだすわって待っていただく席をご案内します、というわけでエスカレーターそばにあったブースまで行ったのだが、このあたりの案内やその後のやりとりのさいのトークなどもまだまだ慣れておらず、本人の性格としてもおとなしそうでペラペラ営業的な言動ができるタイプではなさそうだし、苦労がありそうだったので、わざわざ愛想よくするわけではないが、冷淡に映ったり落胆させたりしてはいけないと余計な配慮がはたらいて、失礼のないようにお礼などをきちんと丁寧に言うようにした。待っているあいだにアンケートにご協力くださいというわけで紙に記入したが、インターネットの回線契約の種類がどうなっているのかというのが完全に父親まかせなのでわからず、空欄にした。どの業者なのかすら知らない。それで無事在庫はあって男性が箱を持ってきてくれたのだが、このブースはPCを買うひとなどにアンケートをもとにしてさまざまなサービスのセールスをおこなうためのものらしかった。まわりにも何人か店員と相談しているひとがいたし、こちらが腰掛けたスツール椅子のめのまえにあるカウンター上には、半分以上かくれていて仔細にはわからなかったが、なにやら家のリフォームめいた内容のサービスが種々しるされた紙というかシートみたいなものがあり、(……)っていまそんなこともやってんの? とおもった。アンケートは回収されて、男性はカウンターのむこうで先輩らしい女性とちょっとはなしており、回線契約が無回答だったのでそのへん聞かねばならないが新人にはまだ荷が重いと判断されたらしき雰囲気があって、女性のほうが出てきて丁重な態度ではなしはじめた。そんなに慇懃にならなくてもいいとおもう。とうぜん無回答欄について質問されたのでじぶんはぜんぜんタッチしていなくてわからないとこたえ、回線環境自体はあるので利用に問題はないことが確認されたところで男性の案内で会計に向かった。先導されて通路をあるいていき、二、三人会計中のひとがいたのでレジまえで少々待った。このあいだ、店員は箱をかかえてこちらの横に立ち尽くしながらレジのほうを見つめているだけで無言かつ無動の像と化していたし、なにか気さくに声をかけて雑談をしたい気がしたのだが、話題がまったくおもいつかなかったのでこちらも無動ではないものの無言のひとと化した。そうして会計。電気屋の店員の雇用形態とかシステムをちっとも知らないし理解していないのだが、パソコン売り場にいたこの男性はたぶん(……)自体の店員ではなく、どこかから派遣されてきているというかべつの会社に属しながらパソコン相談員的な役割としてこの現場に配置されている人員のはずである。しかしなんの会社に属しているのかはまったくわからない。いずれにせよレジにいた店員とのやりとりなどにもそのあたりが見えたのだけれど、ともかく会計をして品を入手。ポイントが五〇〇〇いじょうあったのでぜんぶつかっちゃってくださいとつぎこみ、二万五〇〇〇円くらいで買うことができた。レジのうしろからおおきなビニール袋を持って出てきた男性にきちんと礼を言い、品を受け取って退出へ。
  • その後の帰路にたいした印象はないので省く。電車内ではとちゅうまで本を読んでいたが、疲労感があったので半分くらい目を閉ざした。帰ったあとはさっそく品を箱から出してセットアップをはじめたのだが、Amazon Musicにつないでみたところブラウザが対応していませんみたいな表示が出てはいれない。対応していないもクソも最新のChromeのはずだぞとおもい、また推奨されているブラウザにもFirefoxSafariなどとならんでChromeの名があるのだが、とにかくつなげない。また、ChromeAmazon Musicを追加するみたいなやつもあってインストールしたのだけれど、これもやはりそれで飛んでも真っ白になるだけでつながらない。これはミスったか? とおもった。無駄な買い物をしてしまったか? と。そもそも先日、安いパソコンを調べたときに、ChromebookというのはChrome OSというやつを搭載しており、それはWindowsMacで対応しているものがけっこう対応していなかったりするという情報をキャッチし、Amazon Music大丈夫なのかな、検索してもぜんぜん情報が出てこないのだが、とおもっていたところが、そのことをすっかりわすれていた。それでとりあえずすすめられたFirefoxのリンクに飛ぶと、Linuxというのを有効にしてコマンドを入力し、Flatpakというものを導入してそのアーカイブ的なページからFirefoxをインストールすればChrome OSでもつかえる、みたいなはなしになっており、案内を見ながらこころみたのだけれど、Linuxを有効にしてターミナルというプログラミング画面みたいなものを呼び出すところまではふつうに行ったのだが、これを入力すればFlatpakをダウンロードできるというコマンドを入れてもなぜかエラーが出るばかりでそこから先にすすめない。いろいろしらべながら苦闘しているうちに、買ったばかりなのになぜかアップデートがどうのみたいな通知が出てきて再起動をすすめてきたので、ひとまず再起動をしたところ、画面下部のアイコンがならんだ欄にGoogle Play Storeのそれが出現しており、ふつうにここにAmazon Musicあるはずだろうとおもって検索したところ、やはりふつうにあり、ふつうにインストールしてふつうにつかえたので無事解決した。じつのところさきほどChromeAmazon Musicを追加するみたいなことをやったときにもGoogle Playを経由していたはずで、ところがつなげなかったのでどういうことやねんとおもいながらもういちどためしてみたかたちだったのだが、このふたつのAmazon Musicのアイコンは異なっていたので、さきほどのはブラウザに追加してブラウザ経由で呼び出すプログラム、今度のはデスクトップアプリみたいなやつ、ということなのだろう。そもそもアプリとソフトのちがいはなんなのか、むかしはソフトウェアと呼ばれていたはずのものがいつからおおかたアプリと呼ばれるようになったのか、たぶんスマートフォンの登場くらいからなのか、まったくわからないのだが、ともかくも無事に音楽が聞けるようになり、これでこのPCを買った目的は果たしたし、それ以外おまえに用はないというわけで、これ以降もっぱらAmazon Music再生機として活用されている。
  • あと、オーディオケーブルを新調したのでそれをアンプにつながなくてはならず、しかしアンプにとっては不幸なことだがそのうえに本が大量に積み重ねられて機械にとってはほとんど息ができないような状態になっており、そうするとケーブルもつなぎづらかったので、そのうちの一列をべつの場所に移動させた。これでアンプ上面の三分の一は露出し、すくなくとも窒息はしなくなったわけだが、片方のスピーカーのうえに載ったアンプのすぐそばにデスクがあるので、Chromebookはその端に置いておくことにした。デスクについて書抜きをするときにはすこし狭くなったが、たぶんできないことはないはずだし、いまはもうデスクについて打鍵する時間というのは書抜き以外にほぼない。