2021/10/22, Fri.

 なぜ、現世のときを過ごすことになるなら、
 月桂樹となって、ほかのすべての緑よりも少し暗く、
 どの葉のへりにもささやかな波を(風の微笑のように)
 立てて過ごすこともできるのに――なぜ
 人間として一生を送らねばならぬのか――そして
 運命を避けながら運命に憧れるという生き方をせねばならぬのか……

       おおそれは幸福、すなわち(end108)
 やがて来る喪失の前にとりあえず利得があるからではない
 好奇心のためでもなく、心の訓練のためでもない。
 心なら月桂樹にもあるはずだ……

 そうではなく、現世を生きることがたいしたことだからだ。地上のもの
 すべてがどうやらわれわれを必要としているからだ。はかないものが
 奇妙なことにわれわれを、最もはかないわれわれを頼りにするからだ、
 あらゆることが一度、ただ一度だけ。一度だけで二度とない。
 そしてわれわれも一度だけ、二度とはない。
 けれどもこの一度存在したということ、たとえ一度だけであっても
 現世に存在したということは、取り消し得ないことであるらしい。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、108~109; 『ドゥイノの悲歌』 Duineser Elegien より; 「第九の悲歌」 Die neunte Elegie



  • 「読みかえし」より。258番の一部。

 感受性の次元にあって、感覚するとはそのつど「留保 - なしに - すでに供されて - しまって - いること」(un avoir-été-offert-sans-retenue)である。諸感覚をつうじて世界にたいして開かれているかぎり、感受性は「防御帯」をもっていない。「感受性としての〈曝されていること〉は、惰性体の受動性よりもなお受動的である」。裂けやすい皮膚は防御帯にはならない。だが、皮膚が傷つきうることがないなら、皮膚はなにものも感受しえない。「〈留保 - なしに - すでに供されて - しまって - いること〉にあって、〔avoir-étéという〕過去の不定法が、感受性が現在では - ないことを、感受性がはじまりでは - ないこと、イニシアティヴでは - ないことを強調している」。ここに〈曝されていること〉の意味がある。大気の変容に気づいたときすでに [﹅3] 変容した大気を吸引してしまっている [﹅6] 以上、嗅覚による感知は現在では - ない [﹅2] (non-présent)。あるいは現在に追いついてはいない [﹅2] 。ゆびさきの痛みを感じるときもう [﹅2] 皮膚が裂けてしまっている [﹅6] かぎり、触覚の感受ははじまりでは - ない [﹅2] 。爆音が耳を切り裂くとき、聴覚にはイニシアティヴが(end222)ない [﹅2] 。感受性における現在への遅れ、端緒の不在、イニシアティヴの欠落は「いっさいの現在よりもふるい」受動性をしめしている。その受動性は、「作用と同時的で、作用の写しであるような受動性」ではない。その受動性は「自由と非 - 自由のてまえに」あるもの、留保のない [﹅5] ものなのである(120/146)。
 惰性体の受動性とは、「ひとつの状態にありつづけようとすること」であるにすぎない。それは端的な非 - 自由にほかならない(ibid.)。だが、感受性はそうした惰性、自己のうちに憩らうことではない。それはむしろ「自己のうえで憩らわ - ないこと」、つまり「動揺」なのである(121/146)。感受性が動揺 [﹅2] であるのは、感受性が現在を欠いており(non-présent)、すでに過ぎ去ってしまったものに追いつこうとして、しかしけっして追いつくことがないからだ。傷つきやすさとしての、傷つくこととしての感受性は一箇のとり返しのつかなさ [﹅9] である。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、222~223; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)

  • 262番の一部。

 そもそも「自己は自己のイニシアティヴによって生じたものではなく」、〈同〉はあらかじめ〈他〉を「懐胎 [﹅2] 」している(166 f./196)。私が身体の輪郭を劃定し、皮膚的界面の内部に閉じこもるためにすら、私は他者とのかかわりを必要とする。その意味で「〈私〉はじぶんの身体に結びつけられるに先だって、他者たちに結びあわされている」(123/148)。他を「懐胎」することに着目するなら、身体であることの原型とは「母性」(maternité)である(121/147, cf. 109/133, 111/135)。ただし子宮のうちに安らう母性ではなく、他を孕むことで傷を負い、他者に曝されつづけ、みずからと不断にことなりつづけ差異化しつ(end242)づける母性、つまり綻びてゆく主体性 [﹅8] としての母性なのである。母性という主体性のこの規定が、主体の自己差異化と、それをもたらす他者との〈近さ〉の比喩となっているようにおもわれる。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、242~243; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)

  • 九時台くらいからまどろみに苦しみ、なかなか起きられず最終的に一一時一六分起床。昨晩は四時半の就寝になってしまったわけで、そうかんがえるとそんなに悪くはないが。真っ白く冷え冷えとした曇天のためになかなか布団から抜ける決心がつかなかったようだ。水場に行ってきて瞑想。きょうもなかなか良いかんじでできた。ただ、かすかな耳鳴りがまたはじまっている。昨晩くらいからすこし目立つようになったが、ここ数日、その存在をおりに認知していた。起きて活動していればまぎれて聞こえないくらいのものではあるが、しずかに寝床に横たわっていたりするとわりと聞こえる。これはたぶん、一過性のものというよりは、じつは聞こえないくらいの音量でずっとつづいているものなのではないかという気がする。左耳なのだが、なんとなく穴のなかがむずがゆい気がするというか右耳とはちょっと違う感覚があるので、組織がすこし傷ついているのかもしれない。原因などわかるはずもないが、ただ、けっこうふだんから耳を引っ張ってほぐすことがあるので、それで損傷したのかもしれないとは思う。
  • 上階へ。無人。洗面所で髪を梳かし、ハムエッグを焼いて米に乗せた。昨晩の大根の味噌汁とあわせて食事。新聞からは李在明研究みたいなシリーズの下を読んだ。上中下の三篇構成だったようだ。政策としては大衆迎合的な面がつよく、バラマキと批判されているのだが本人は意に介していないと。市長時代から知事をつとめているいままで若者に商品券を給付したりとか、主婦層だかへの支援を打ち出してきたらしく、今回の大統領選にあたっても公約として年九万七〇〇〇円ほどのベーシック・インカムをかかげているという。ポピュリズムと言われているとはいえ、それがもしほんとうに実現できたらなかなかすごいことになるんじゃないかとおもうが、問題はむろん財源であり、李在明じしんは予算の組み換えなどで充分達成できると主張しているものの、批判もおおい。七月だかに討論会みたいな場所で議論がなされたが、財源はどうするのか、むずかしいんじゃないかといわれても、充分可能だ、あたらしいことをやろうとしない人間は文句ばかり言う、みたいなことをくりかえすばかりで議論は深まらなかったと。日本にたいしては基本的にまあ反日というか、過去には朝鮮半島分割にまつわって、侵略国家である日本のほうが分割されるべきだったとか、日本の教科書における竹島の記述にかんしても、歴史の事実をみとめない国家は衰退していくほかはないみたいな、後者はちょっとわすれたのでだいぶ不正確だとおもうが、そういった発言をしているようだ。そのあたりの路線は文在寅および現政権とだいたいおなじなのだろう。そもそも共に民主党の候補だし。
  • もろもろすませて茶をつくり、帰室。一服しながらウェブを少々見て、一時過ぎから「読みかえし」ノートを音読。竹内まりや『LOVE SONGS』をながした。文を声に出して読むとやはりなにがしかの満足感がある。二時くらいまでやり、ちょうどそこで音楽も終わって、Amazon Musicはアルバムが終わると似た楽曲を自動再生する機能があるのでなにかがはじまったなかで便所に行ったのだが、腹を軽くしてもどってくるとなかなか良さげなバラードがかかっていて、それはステーションという、なんか勝手にラジオみたいに楽曲をセレクトしてながしてくれるプログラムで再生されていたのだが、これはだれかなと再生履歴で見てみると吉田美奈子だった。『LIGHT'N UP』収録の"MORNING PRAYER"。吉田美奈子もまた細野晴臣やら松本隆やらの周辺の人物であり、このあたりのひとびとの音楽の一様な洗練ぶりはいったいなんなの? 『LIGHT'N UP』は八二年の作らしいが、ホーンにBrecker Brothersが参加しており、David SanbornとかMichael Breckerがソロを吹いているというからビビる。
  • その『LIGHT'N UP』をながしながら、きょうのことをここまで記述。三時前。
  • きのうのことも軽く書いて終わらせ、三時半まえ。
  • 四時をまわるところまで、ポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)を読んだ。それからストレッチ。さいきんはストレッチをサボり気味であまりやっていなかったのだが、そうするとやはりからだがこごるようだ。きのうかおとといくらいからまたはじめた。コツはやはり、筋を積極的に伸ばそうとするよりは姿勢を取って停まりながら深呼吸をするという意識でやることだとおもう。息を深く吐くようにすればからだが勝手に伸縮してほぐれてくれる。合蹠もきょうはきちんとやったがそうするとやはりすっきりして、これだけでも毎日やったほうがいいなとあらためておもった。合蹠の体勢を取りながら深呼吸をくりかえしているとからだ全体がほぐれて筋肉がやわらぐのがよくわかり、そのあとは呼吸が自然と深く、なおかつ楽になる。やる気とか精神のおちつきというのはだいたいのところ、けっきょくそういうふうに肉体が芯からほぐれて呼吸が軽くなっているか、血がめぐっているかということにすぎない。
  • 四時半で上階へ。冷蔵庫のなかにあった焼売を先ほど食べずに取っておいたのでそれをいただく。電子レンジであたためて米とともに持ちかえり、ウェブを見ながら食事。それから皿を洗いに行って歯磨きをすませると着替え。dbClifford『Recyclable』をながしてひさしぶりにちょっと歌った。そうすると五時を越えたので出勤へむかう。バッグを持って上階にあがり、居間の電灯のちいさいほうをつけるとともにカーテンを閉め、先にサンダル履きでそとに出て郵便物を回収しておく。雨がすこし降りだしていた。ビニール袋につつまれた夕刊を居間に置いておき、マスクと眼鏡を顔につけて出発。きょうもまたなかなか寒く、もうコートを着たりマフラーをつけたりしてもいいとおもうくらいの気候になっている。雨はしとしとと、あるいはじわじわ、じりじりと聞こえるようなひびきでしずかに浸透的に降っており、水たまりをつくるほどではないが一面濡れたアスファルトの微細なおうとつに街灯の白い砕片がはいりこんでやはりじらじらとうごめいている。公営住宅前に出るとそこのアスファルトはまだ比較的あたらしくてなめらかなため、よりこまかく洗練された襞のうえをひかりは粗く砕かれずに伸ばしひろげられ、雨でも降らなければ視認できないほどのわずかさでへこんで水気のおおく溜まった部分が黒い帯となり密な縞模様をつくっている道のおもてを、横断歩道をわたるがごとく触手めいた白光のすじがつらぬきとおっていた。
  • もう夜にはいったように暗い木の間の坂道をのぼって最寄り駅へ。ホームには例の独語の老婆がおり、きょうも活発に見えないあいてと会話をしていた。バチカンの、牧師さんっていうかそう枢機卿ね、そのうちの何人かしか見れないなんとかかんとか、みたいなことを言っていた。そういうぐあいに、このひとの独言もしくは(自己とのなのか他者とのなのかわからないが)観念的な対話は小難しそうな話題だったり政治的なにおいのすることがらをとりあげていることもけっこうあるようなのだが、その内容の中核は決まって判然としない。電車を待って乗り、着席して瞑目のうちに(……)に移動。降りてホームを行き、通路を改札へ。とちゅうの脇に外国人(白人種)の若い男性が立っていたが、多目的トイレが空くのを待っていたようだ。駅を出ると職場へ向かい、勤務。
  • (……)
  • (……)
  • 帰りは徒歩を取らず電車。駅にはいってホームにあがると冷たい夜気にココアを飲みたくなったので、自販機でVan Houtenのやつを買い、ベンチにすわって味わった。飲んでいるとちゅうからもう本をとりだして読みはじめる。ポール・ド・マンである。なぜかきょうはひさしぶりに出先でも読もうかなという気になって持ってきていたのだ。気になった箇所のページと行番号を手帳にメモしながらすすめる。そのうちに電車が来たのでなかでもおなじことをつづけ、最寄り駅へ。(……)で待っているあいだには屋根や線路を打つ雨音がすこし高くなったときがあり、だからここでも降っているだろうとおもってすぐに傘をひらけるような格好で降りたところが止んでいた。発車した電車のパンタグラフが電線にこすれて一瞬とはいえバチバチとおおきな火花を発するのにけっこうおどろくのだが、あれはあれでいいものなのだろうか? 階段通路をとおって駅を抜けるとここですこし降り出したので傘をひらいて帰路を行った。木蓋にふさがれた坂道では周囲の草ぐさから打音が立ち、足もとの路面は氷のなかに封じられながらも意に介さず活発に生きのこっている微生物のように、一色の万華鏡めいた白光の反映がこまかくちらちら揺れうごいて、そこだけ見ていると視界がスローモーション化したかのような感覚が起こる。
  • 帰宅すると休身。しばらく休んでから、Monica Grady, The Open University, "Can physics prove if God exists?"(2021/3/2)(https://www.bbc.com/future/article/20210301-how-physics-could-prove-god-exists(https://www.bbc.com/future/article/20210301-how-physics-could-prove-god-exists))をとちゅうまで読んだ。そうして食事へ。新聞を読んだとおもうのだが、記憶にない。そのほかの記憶も特別よみがえってこない。風呂ではやっと髭を剃った。放置して長くなるとやはり鬱陶しいし、毛の根元あたりに脂とかが溜まるのか、顎とかかゆかったりすることもあるのでもっと頻繁に剃ったほうが良いのだが。電動髭剃りをつかわずにT字カミソリで顔全体をいっぺんに剃るやりかたを取っているので、毎日剃るのは面倒くさくてなまけているうちに日数が経ってしまう。
  • 翌日が午前からの労働だったので余裕を持って八時には起きるつもりではやめに眠ろうとおもっていたが、けっきょく三時を過ぎてしまった。深夜はだいたいきょうのことを記述するのに時間をつかったはず。眠るまえに合蹠などのストレッチをおこなった。それでいえば休んだあと、食事に行くまえにも合蹠だけ一回やっていたのだ。おりおりやるようにしたい。