2021/10/29, Fri.

 称賛すること、それだ、称賛を使命とする人
 オルフォイスは現われた。まさに岩の沈黙のなかから
 青銅が現われるように。彼の心、おお それは
 人間にとって尽きることない葡萄酒のためのはかない絞り機だ。

 埃にまみれてもオルフォイスの声は嗄れることはない、
 神々の手本に彼が心うばわれているならば。
 あらゆるものが葡萄山となり、葡萄の房となる、(end119)
 彼の感受する南国で熟したならば。

 納骨堂のなかの王たちの遺体が腐敗しても
 彼の称賛を偽りときめつけるわけにはいかない、
 神々から一つの影がおちることがあっても。

 オルフォイスこそ永遠の使者の一人だ。
 いつまでも彼は、死者たちの世界のとびらの奥深く
 称賛するべき果実を盛った皿をささげる。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、119~120; 『オルフォイスによせるソネットDie Sonette an Orpheus より; ヴェーラ・アウカマ・クノープのための墓碑として書かれる; 第一部、七)



  • 八時か八時半ごろにさいしょの覚醒。そのまままた寝つき、きのう早起きするために設定しておいた九時のアラームの解除をわすれていたのでそれが鳴り、そこで正式な目覚めを得た。寝床にもどりはしたものの、ふたたび眠りにとりこまれることはなく、喉やこめかみなどを揉む。天気はきょうも文句なしというほかない快晴で、窓ガラスのまんなかに太陽がまるくただよっており、純白のまぶしさとあたたかみであるひかりを顔におくりつけてくる。そのなかでしばらく臥位のまま過ごし、そのまま離床するのではなく九時半から書見をはじめた。脚をほぐしたかったので。ポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)の第一一章、「約束(『社会契約論』)」をすすめていたが、読み終わって最終章の「言い訳(『告白』)」にはいったところまで。言っていることはやはりごく部分的にしかわからないが、そんなことは問題ではない。おもしろい箇所がいくつかあったがメモはあとまわしにして読みすすめていった。そうして一〇時二〇分で起床。
  • 母親が掃除機をかけている音が聞こえており、水場に行くとその横の物置きの入り口にいた。こちらは用を足したりうがいをしたり。もどると母親が布団カバーを洗うと言ってはずしていたので手伝い、きょうは瞑想はせずに上階へ。髪を梳かし(そろそろ切りたい気がする)、食事は五目ご飯やけんちん汁のたぐい。きのうの炒めもののあまりに菜っ葉をくわえたらしきものも。新聞は政治面で選挙のはなしを読んだ。京都一区について。ここでは共産党が候補を出しているのだが、立憲民主党ほかはその支援をしていないと。共産党の候補は穀田なんとかという七四歳くらいのひとで、国対委員長かなにかわすれたがつとめて野党結集のために各方面との調整に奔走し、応援に来た小池晃が野党統一の立役者だと甲高い声でたたえたらしい。その事務所には小沢一郎赤松広隆為書きが掲示されているというが、立憲民主党の公式見解としては、京都はもともと革新勢力がつよい地盤だしそちらにまかせて協力はしない、為書きも個人的な人間関係でおこなったものだろう、とのこと。京都は府議会だったかでは共産党自民党に次いで第二党の位置につけているといい、その二党にはさまれて立憲民主党やその前身は苦労してきたという事情があるらしい。共産党に対するは自民党の新人である勝目康という四七歳のひとで、元総務官僚。京都一区はもともと伊吹文明の牙城で穀田も小選挙区では長年伊吹に勝てずにいたところが、伊吹文明はここで政界を引退したのでチャンスというわけだ。ただ自民の側ももちろん勝目を精力的に支援しており、伊吹文明みずから彼を引き連れて地元の後援者のあいだをこまかくまわり(三〇〇〇人いじょうに会わせた、と豪語しているらしい)、わたしに投票するとおもってぜひ投票してやってください、そだててやってくださいと呼びかけていると。
  • 皿と風呂を洗う。きょうは風がながれてさわやかな日で、風呂場の窓をあけるとあまねく日なたにつつまれた道路のうえで黄みがかった落ち葉がちいさな円舞を演じたりまっすぐ走ったりしているのが見られたし、離床後に水場からもどってきたさいに自室の窓をあけたときにも草葉を揺らすひびきとともに涼しさが部屋に差しこまれた。茶葉を入れた急須に一杯目の湯をそそいでおいて自室へ。コンピューターおよびNotionを用意し、上がって茶を取ってくると飲みながらさっそくきょうのことを記した。きょうは三時には出勤して最後まで勤務、あしたも二時過ぎくらいからさいごまで勤務なのでいそがしい。だが、時間があるだのないだの、そんなことは問題にならない。どうでもよろしい。やるべきことをやるだけだ。
  • きのうのことをしあげると一時過ぎ。出勤まえに前日のことをかたづけられたので、わりと勤勉ではある。火曜日水曜日にかんしては特におもいだすこともないし、あとはきょうの夜に二五日の通話のあいだのことをいくらか記して全部投稿してしまいたい。
  • いま帰宅後の一一時まえ。(……)が一〇月二二日の「(……)」で、「『ロル・V・シュタインの歓喜』(マルグリット・デュラス)についての講義で、精神分析的な用語を用いずに、精神分析的な考え方を導くにはどうしたらいいのか考えている。精神分析の理論を用いて小説を解読するのではなく、小説のなかから精神分析的な考え方がたちあがってくるのを、あくまで小説の形、小説の流れに沿った形で、小説の言葉を用いて掴み出したい」と書いているが、こちらはこういうようなことを『双生』でやりたいとおもっていた。あの小説は実際上、精神分析理論の知見にいくらかなりともとづいて書かれたわけだが、こちらは精神分析理論をよく知らないのでそもそもそれを利用した読解はできないし、具体的なテクストの外部からすでに確立された理論体系を援用して(言ってみればある種、パッチを当てて、というか)作品を変換し、通りの良い論述=物語をつくっても、それはなんかなあ、という気がしてしまう。多くの批評というのはわりとそういう向きなのかもしれないし、そのとき作品に当てる解読コード(意味や認識の体系)が文学理論のように整然とまとまったり、きわだった方法論としてととのったりしていないだけで、みんな文を読むときには、おのおのが持っている不完全で無数のほころびをはらんだある種の「理論」でおなじことをやらざるをえないのかもしれないが、ともかくもやはりそこに書かれていることばになるべくもとづいて、その範囲でわかることや生まれることをまずは見極めたいというのがこちらの欲求だ。とはいえ、蓮實重彦が『夏目漱石論』の一部でやっているようなこともなんかちがうかな、という気もする。つまり、「雨」だったか「水」だったか、意味や概念としてのそれ(たとえば雨の風景の描写とか)ではなく、「雨」という一語自体が書きこまれるとかならず作品の展開に変化が起こっている、みたいなことがあのなかのどこかで分析されていたとおもうのだけれど、そしてその発見や、ほとんど実直というべき読み取りの姿勢はすごいとおもうし、第一段階としてまずはそうあるべきだとはおもうのだけれど、それはそれで完全にはしっくりこない感じもある。蓮實重彦的には、そもそもそういう表層の読解が終わらないというのが文学であり、また映画だとかんがえられているはずだから、第一段階どころか読むというのは徹頭徹尾そういう愚直な苦役と労働の永続であるということになるのかもしれないが、ここで、表層的にわかる情報の範囲で果たして「読解」もしくは「解読」、あるいは「批評」が成り立つのだろうか? という疑問が生じる。そういうテクストもあるだろうが、そうではないテクストもあるはずで、あまり表層にこだわりすぎても、そこから論=物語にひろがっていけないということは往々にしてあるだろう。たとえば「雨」という一語がここに書かれてある、作品全体をとおしてそれはいくつ書きこまれている、その配置はこうなっている、というところまではまさしく客観的な観察として、すべての読者に共有されるはずである。これが真なる意味での表層だろう。ただ、そのあいだや周辺のほかの語とのあいだにどういう関係が生じているかとか、どういう機能を果たしているかとか、あるいは「雨」をそのことばそのものではなくテーマとして読むかとか(そうするなら、たとえば「水」とか「湿り気」とか、類似の、また拡張的なほかのテーマとつながっていき、体系が生まれるだろう)、そういった方向に思考をめぐらして、語と語のつながりをかんがえるとなると、読み手によるなんらかの補填はかならずいるのではないか。読むこととは(誤読・誤解であれ、正しいとされうる読みであれ)避けがたくなんらかの変換や翻訳・組み換えなのだとおもうし、カードの位置をずらしたりそれを裏返したりするようなその思考のはたらきは、最小の、語や文のレベルでつねに自動的に生まれているだろう。その最小単位での翻訳・組み換えが集積して、ときには連関したりときにはしなかったりした結果、総合的な作品の読みというのが成り立つはずで、大小もろもろの翻訳・組み換えや連関のありかたをある程度意識的にあやつったり、おぎなったりして基本的には統一的で一貫した認識体系をつくりあげるというのが批評と呼ばれる営為だとおもう。こうして書いてみるとあたりまえのことしか言っていないというか、なにを書いておきたかったのかよくわからなくなってきたのだが、もろもろかんがえていると、表層を読むとか解釈をするしないとか言ったときに、表層とは解釈とはどこまでがそうでどこからがそうでないのか? とか、そこに書かれてあることばにもとづくと言って、それはいったい……? みたいな困惑がもたげてくる。
  • 勤務へは徒歩で行った。三時過ぎに出発。この日もそうとうに天気が良かったので気持ちも良かったが、時刻が三時をこえて太陽がかたむきはじめたこともあろうし、前日よりも気温が低かったのかもしれないが、ながれる空気にはあきらかに冷たさがふくまれており、日なたにいれば暑くなるものの、そうでなければそこまで温和でもないようだった。坂にはいりながら川のほうにちょっと目をやる。あまり見ずに過ぎてしまったが、水はかなり深い緑、めちゃくちゃ濃い抹茶みたいなビリジアンを溶かして底に沈めており、いくらか波打ちながらも同時に鏡のようななめらかさでその色をおもてにあらわしていた。街道ではきょうも道路工事。蛍光テープが貼られたベストを身につけてヘルメットをかぶるとともに厚ぼったいような服を着た交通整理員らのひとりがもうだいぶ年嵩と見える女性だった。裏通りにはいるあたりで暑くなってきたのでジャケットを脱ぎ、バッグをつかむ右手の前腕にかけるようなかたちでいっしょに持っていく。空はきょうも雲をゆるさないきよらかな青の領域で、おもてから折れてさらに路地に折れてはいる角のところでおおきな蜘蛛が宙にこしらえた巣の糸が、くしゃくしゃにしたビニール袋の表面みたいな線条を水色のなかにきざんでいた。裏通りをあるいているとちゅう、うしろから抜かしてきた男性があって、見れば茶色のベストにワイシャツにスラックス、脱いだ上着をバッグを持ち運ぶ右腕にかけて、と、こちらとおなじ格好、おなじスタイルだった。髪はみじかく刈られており、歳は後ろ姿を見たところではこちらよりも上、靴だけはたしか黒で光沢を帯びており、こちらのものよりもよほど高そうで、鞄は衣服とはちがう質だがやはり褐色でそう大きくはなく、こちらもいくらか年季がはいった風合いで高そうに見えた。白猫は不在。そこを過ぎたあたりで前方から下校する小学生がつぎつぎとあらわれはじめた。
  • (……)を過ぎたところでまえからあるいてくる高校生がどうも(……)くんではないか? と見え、ちかづくとやはりそうだと同定されたので、手を挙げてこちらの存在を気づかせて、あいさつをした。(……)くんは、おおお、ああ、おつかれさまです、みたいなかんじでちょっとおどろいたような反応を見せたが、その実こちらに気づきつつも素通りしようとしていたのではないか、という気もちょっとした。帰り? と聞くと、(……)で勉強をしていたという。飲み物を飲みたかったが自販機が売り切れだったのでコンビニまで行ってきたところらしかった。がんばって、とことばをおくって別れ。
  • 職場に着いたのは三時四五分くらいだったとおもう。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 一〇時ごろ出ていそいで駅へ。帰路の記憶は特にないし、帰ってからもたいしたことはしなかったはず。二五日と二八日の記事はこの日に終えた。