2021/11/4, Thu.

 ほとんどすべてのものから、感受せよとの合図がある。(end137)
 どの曲り角からも風が知らせる、思い出せと、
 われわれがよそよそしく通り過ぎた一日が
 いつの日か決意して贈り物となってくれる。

 だれがわれわれの収穫を計算するのか。
 だれが昔の、過ぎ去った年月からわれわれを切り離せるのか。
 われわれが初めから知り得たのは、なによりも、
 一つの物は他の物のなかでこそ自分を知るということだ。

 なんでもない存在がわれわれに触れると熱くなるということだ。
 おお 家、牧場の斜面、夕べの光、
 とつぜんおまえはほとんど一つの顔となり
 われわれに触れて立つ、抱き、抱かれて。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、137~138; Es winkt zu Fühlung fast aus allen Dingen,; 後期の詩集より)



  • 起きたのは一〇時半ごろ。きょうは水場に行ってきたあと、起床時から書見。塚本邦雄『荊冠傳說――小說イエス・キリスト』(集英社、一九七六年)。のちにも読んで、一〇〇ページほどを一気に平らげ、読了。つまらなくはないが、特別におもしろいものでもなかった。小説としていろいろ技法とか工夫が凝らされているかんじでもない。だからあとがきで述べられてもいるように、単純に、塚本邦雄がおもうイエス・キリストの像を物語のかたちで形象化したかった、という作品なのではないか。語りかたの面ですこしだけ気になったのは、語りの対象として焦点となる人物がいつの間にかすばやく移り変わっているということが何度かあった点で、自由間接話法的な、人物の心中独白を書いているのか話者の立場からの評価なのかがわからないような部分をみじかくはさんでいるうちに、前の人物は用済みとなって気づけばべつの方面に移行している、というかんじだった。ただそれはテクニカルに、技法として意識的にととのえてやられたものではないとおもわれ、もっとぎこちないというか、おのずとそうなってしまったような感触だ。というのは、そういうとき、だいたい語りの配分が不均等になっていたというか、ある人物の心理やその周辺についての情報の提示が充分に完結していないとおもわれる段階でさっさとつぎに行ってしまっていたからで、だから、読みすすめていっていつの間にか先の人物からはなれてつぎのシークエンスがはじまっていることに気づくと、あ、この件はもうこれだけで終わりだったの? ずいぶんはやいな、という印象をえることになった。面倒臭いので具体的な箇所を引かないが、そういうかたちで、ほんのすこしその内面に触れるだけで二、三人をつぎつぎに過ぎていくような場面もあり、それはいわゆる神の視点と言われるような三人称の語りだとよくあるのかもしれないが、そこであたえられる感覚はすこしだけ気になった。これはやはり、塚本邦雄はなによりも歌人であって、小説家としての鍛錬や洗練を経てはいないということなのかもしれない。あるいは、小説を書く人間でもそんなにこだわるものでもなく、こういう無頓着な語りをする作家というのもけっこういるのかもしれないが。
  • といってべつに下手くそな文章だというわけではむろんない。ただ、書抜きという点で見ても正式に書き抜こうという箇所も見当たらず、メモ的にみじかく切り取っておこうということばづかいがいくつかあったくらいだ。それはだいたいのところやはり風景とか人物とかを描く比喩や形容のたぐいで、すごく良いというわけでもないのだけれどすこしだけ良く、また、こういう言いかたはじぶんはつかわない、いままでつかったことないな、いちおう写しておいてじぶんのなかに取りこんでおくか、という動機でひろわれたものである。ほんとうにちょっとした部分。
  • 物語はふつうにヨゼフとマリアからはじまってイエス・キリストとその周辺を描いていくもので、この作品のなかではイエスにせよ使徒たちにせよ、超越的な聖人ではなく、人間的な俗味を多分ににおわせた、いわば実存的な人物として語られている。その点はあとがきで、私が書きたかったのは聖人、神の子としてのイエスではなく、我が友、隣人としてのイエス、苦悩や矛盾をはらんだ青年イエス・キリストである、みたいなことを塚本自身が言っていたとおりだ。母親のマリアからして、聖母としての典型的なイメージ、慈愛ややさしさをそなえた高貴なそれとはかなりかけ離れた、冷淡で辛辣で打算的な人間として描かれている。そもそもイエスの誕生自体、処女懐胎などではまったくなく、ヨゼフとの交わりですらなく、ローマの百卒長である若者との不義によるものだとされている(完全にそのように明言されてはおらず、マリア自身、なにがあったのかわからない、おぼえていないみたいな記述もあった気がするが、事があったのはほぼ確実であきらかというにおわされ方になっている――また、マリアと関係を持った、すなわちイエスの真の父親であることになるこのローマの若者は、どうものちの総督ピラトであるらしい、という点も暗示されている)。使徒にしても、ユダはイエスを崇敬しながらもおりおり冷静で批判的な視点を持ち、それが裏切りへとつながっていくかたちになっているし、ヨハネはイエスを熱愛するたんなる愛されたがりの坊っちゃんみたいな調子で、イエスのほうもこの弟子をとりわけ愛しているようすでやや贔屓を見せているし、そこには同性愛的なニュアンスが色濃い(ヨハネはたびたびイエスの膝を枕にして眠る)。この作品のなかでいちばん超俗的かつ英雄的なのは、イエスよりもむしろその又従兄である洗礼者ヨハネかもしれない。一五歳で父母をうしなうとすぐさま放浪に出て俗世を捨て、隠者のあつまりを探し当ててそこにくわわっているわけだし、さいしょからじぶんの使命は、じぶんのあとにあらわれる救い主までのつなぎでしかないと見極めており、じっさいにイエスがあらわれると、それまでじぶんを崇拝してつきしたがっていた弟子がはなれていくのも止めず、彼らがイエスに惹かれてそのあとをついていくのにまかせる(いちおう、行かないでくれ、みたいな思いも心中で漏らしてはいたが)。そしてけっきょくはやすやすととらえられ、数か月投獄されたあと首を斬られて殉死するわけで、そういう無私性とか使命への忠実さという点では、ほかのだれにもまして、いかにも聖人らしい。
  • エスは奇跡を種々起こすわけだが、その描かれ方はまったく劇的ではない。この小説にあって、奇跡は奇跡として認められてはいるが、語りの水準で特別なことがらとして演出されているわけではなく、それはただ起こるものでしかない。そもそもユダの視点などを借りれば、純粋な奇跡ではなくたんに偶然によってどうにかなったり、聖なるちから以外の要因に恵まれたりという場合も何度かあったようだ。それ以外に、たしかに奇跡としかいえないような超自然的なできごともイエスのちからによって容易に起こっており、それに歓喜する(あるいは反対に憎悪する)ひとびとの反応も描かれてはいるものの、その奇跡は語りによってまったく盛り上げられてはいない。語りは全般的に一定の調子でかなり淡々と、波をつくらずにながれており、どれかのできごとを特権化しようといううごきが見られない。一五年いじょう別れていたヨハネとイエスヨルダン川で再会した瞬間、たがいがたがいのことをたしかにみとめ、また来たるべき瞬間が成就したことを理解するところなどかなり劇的なものにしうる挿話だとおもうし、ここにはさすがに多少物語的な興趣がそえられてもいたが、それでもその記述は語りの基調から浮かび上がってはいない。
  • 休日でずっと家に滞在したし、特別に印象深いことはない。夕刻にはいつもどおりアイロン掛け。じぶんのワイシャツを手にとって襟をひらくと、左手の指になにかが触れてうごめく感触があり、なんだとおもうやいなやすこしチクリと来て、虫だと判明した。いてっ、と言いながら手をぎこちなくうごかすと虫は落ち、見ると黒光りしているちいさなやつで、麦チョコみたいなかんじだが、尻のほうが二本ほそくとがったかたちになっており、それで刺されたのだった。さほど痛くはなかったが。いままでにも見たことのある虫なのだが、どこで見たのかはわからないし、なまえも知らない。それで背後にいた母親に、虫がいたわと報告すると、やだねといいながらやってきた彼女はなにか紙にたからせて捨てようとしたのだが、そのころには虫は炬燵テーブルにとりつけられた布にまぎれてすがたを消していた。それから布を持ち上げてなかを覗いたり、炬燵をつけてテーブルの下を照らしたりしたが見つからず、放っておいてアイロン掛けにもどろうとおもったところで天板の際あたりに発見されたので、ティッシュを二枚引き抜いてさっとつかみとり、丸めたものを母親が受け取ってトイレに流しに行った。母親は、ごめんね、かわいそうだけど、とかいいながら始末していた。アイロン掛けを終えると五時半くらいだったとおもうが、あまりにも腹が減っていたので、カレーをつくるという母親を待たず、素麺を煮込んで食べることに。それでふたりはいると狭い台所でタマネギなど切り、こちらはこちらで用意。母親がつくるのはスパイスをもちいたカレーで、タマネギをよく炒めなければならないらしく、とちゅう、彼女が鶏肉を切るあいだにこちらがソテーを担当した。そのあとはまかせて煮込み素麺をつくり、ほか、白米と鮭で食事。煮込み素麺は上手にできて、マジでうまかった。なにが成功の要因だったのかはわからない。白だしを入れたのが良かっただけか、それかたんにあまりにも腹が減りすぎていたというだけかもしれない。