そこから歳月が流れた。
ぼくは大きくなった。
もう十歳ではなかった。
急にぼくは十五歳になり、戦争は記憶の奥に去り、日本人への憎しみもそれと一緒に去っていった。感情が蒸発しはじめたのだ。
日本人は教訓を学び、寛大なキリスト教徒であるぼくたちはかれらにやりなおしの機会をあたえ、かれらはりっぱにそれに応えていた。
ぼくたちはかれらの父親で、かれらはぼくたちの小さな子どもであり、かれ(end23)らが悪いことをしたからぼくたちはきびしく罰したのだが、かれらはいまよい子になり、ぼくたちもよいキリスト教徒としてかれらを許してやっている。
つまり、かれらははじめは人間以下だったが、ぼくたちが人間になるように教えてやり、かれらはとてもすみやかに学んでいる、ということだった。
さらに歳月が流れた。
ぼくは十七歳になり、十八歳になり、十七世紀からの日本の俳句を読みはじめた。芭蕉と一茶を読んだ。感情と細部とイメージを一点にあつめるように言葉を使って、露のしずくのような堅固な形式にたどりつくかれらの方法が、ぼくは気に入った。
日本人は人間以下の生きものなんかではなく、十二月七日のわれわれとの遭遇の何世紀も前から、文明をもった、感情のある、あわれみぶかい人々であったことをぼくは知ったのである。
戦争がはっきりと見えてきた。
何が起こっていたのかをぼくは理解しはじめた。
戦争がはじまると論理と理性がはたらかなくなり、戦争があるかぎり非論理(end24)と狂気がのさばることになる仕組みがわかってきたのだ。
ぼくは日本の絵画と絵巻物を見た。
とても感銘をうけた。
ぼくは鳥が好きだから、かれらの鳥の描き方が好きになった。そしてもう、日本人を憎んで叔父のかたきを討ってほしいと願った第二次世界大戦の子どもではなかった。
サンフランシスコに移ったぼくは、禅を学んで深い影響をうけている人たちとつきあいだした。友人たちの生活ぶりを見ていたことからの浸透作用でぼくはすこしずつ仏教をつかんでいった。
ぼくは論理を追った宗教的な思索ができる人間ではない。哲学はほんのちょっとしか勉強したことがない。
ぼくは友人たちがその生活や家の中をととのえたり、自分を訓練したりするやり方を見ていた。ぼくは仏教を、白人がアメリカに来る前のインディアンの子どもがものごとを学んだようにしてつかんでいった。かれらは見ることによって学んだのだ。(end25)
ぼくは見ることによって仏教を学んだ。
ぼくは日本の食べ物と日本の音楽を好きになった。ぼくは五百本以上の日本映画を見た。字幕を読むのがはやくなり、映画の中で俳優たちが英語をしゃべっていると感じるほどになった。
日本人の友だちもできた。
ぼくはもう戦時中の子ども時代のあの憎しみにみちた少年ではなかった。
エドワード叔父さんは死んだ。家族の誇りであり未来であったのに、人生の盛りのときに殺された。かれをなくしてぼくたちはどうしたらよかったのか?
百万人以上の日本の若い男たち、それぞれの家族の誇りであり未来であったかれらも死んだのであり、そのうえ、日本への爆撃で、そして広島と長崎の原子爆弾で、何十万人もの罪のない女性や子どもが死んだのだ。
かれらをなくして日本はどうしたらよかったのか?
そういうこといっさいが起こらなければよかったとぼくは思った。(リチャード・ブローティガン/福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、23~26; 「はじめに さようなら、エドワード叔父さん、そしてすべてのエドワード叔父さんたち」)
- 八時台後半に目覚め。快晴。ひかりをいっぱいにふくんだカーテンをあけて太陽のかがやきを顔に浴びつつ、例によってしばらく喉やこめかみを揉んだり深呼吸をしたりしてからだを調える。九時二一分に起き上がったが、携帯を見て時間を確認するとすぐにまたあおむけにもどり、下半身をマッサージしつつ蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)を読んだ。32からはじめて、ひとつめの篇である「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」をさいごまで。そうすると一〇時過ぎだったはず。上階へ行き、ジャージに着替え(着物をかえながら南の窓の先を見ると、(……)さんの家の脇からカラスが一匹飛び立って、すぐうえにある電線の電柱につながっているもとのあたりに乗り、とまっているあいだその背にはひかりの白さが反映して、ふたたび飛んでさらに一段うえの電線に移動したときにも翼をバサバサうごかすあいまに黒のなかで白がひらめき、周辺の瓦屋根も晴れの日のつねでひかりを敷かれてつやめいて、空は山のはるかむこうまで淡い水色にひらかれていて、雲は横につーっとまっすぐ引かれた眉のように低みにたなびいている細いひとすじしか見当たらなかった)、ゴミや急須の茶葉を始末したり洗面所でもろもろやったり。食事はどれもきのうののこりであるワカメの味噌汁や唐揚げやブロッコリー。新聞からは瀬戸内寂聴の訃報と評伝を読んだ。きょうはこの件のために文化面が六ページ目とずいぶんまえのほうに来ていて、国際ニュースよりもまえに出ていたくらいだ。井上荒野という作家が文を寄せていたが、このひとは井上光晴の娘だといい、瀬戸内寂聴は井上光晴の愛人だったらしく、子どものころから彼女が家に来ていて面識があり、井上光晴が亡くなったあとも交流がつづいたと。父親の愛人と、その妻や娘とのあいだに交友がもたれるというのは変だとおもうひともおおいだろうが、そうさせたのはひとえに瀬戸内寂聴のひとがらだったとおもうといい、井上荒野は近年この件を題材にした小説も書いたらしく、そのさいに瀬戸内にインタビューをして、うちの父親は関係を持った男性のなかで何人目くらいでしたか? とたずねたところ、「みーんな、つまらない男だったわ!」と破顔されたと語っていた。快活である。このページの記事には若いころ(まだ瀬戸内晴美だったころ)の瀬戸内と、川端康成と円地文子とが一座に会している写真が載せられてあり、たぶんどこかの高い料亭みたいなところだとおもうが、テーブルのうえにやたらおおきい、ひらべったいハット型の帽子をひっくりかえしたみたいなかたちの灰皿がふたつ乗っていて、川端の手もとには煙草の箱が置かれてあったとおもう。社会面のほうにも記事があったので読んだが、そこには横尾忠則と黒柳徹子と林真理子がコメントを寄せており、横尾忠則はなんでもはなせる友人だった、覚悟はしていたが残念だ、せめて一〇〇歳まで生きていてほしかったと述べていた(瀬戸内はこのたび九九歳で逝去)。『幻花』という新聞に連載されたらしい小説の挿絵を横尾が担当していたというが、たぶんこの小説が単行本化したかなにかを機に横尾と瀬戸内と浅田彰が鼎談したイベントのようすを映したみじかい動画がいぜんYouTubeにあって、そこで浅田はこの『幻花』だったかべつの作品だかを「めっぽうおもしろい」みたいに言っていたので多少気になっていた。それにしても、七六歳で『源氏物語』を全訳したというし、作家生活で出した本は四〇〇冊を越え、何年かまえに『いのち』というやつを出していたがそのあとも二、三冊出していたようだからすごい。
- 食器を洗って風呂も。風呂の窓をあけてそとを見れば道路のうえには日なたが隈なく乗ってひろがり、揺らぐことなくしずまった日だまりの池と化しており、影はガードレールの足もとにまっすぐ引かれている一線と、林の縁を区切る石塀のうえに映った電柱のそれのみで、すこしかたむいたすがたで投射された電柱の影は不安定さに耐えられずたおれてしまいそうなカカシをおもわせるもようをなしており、石塀のうえにもそのうえの樹々のなかにも渋めの臙脂色や黄色が混ざりこんで、もう緑のほうがすくないくらいのまだらもようとなっている。浴槽をこすり洗い、出ると茶を用意。一杯分そそいでおき、先にゴミ箱を持って自室に帰るとコンピューターを用意。それから茶を持ってきて一服しつつ、さっそく「読みかえし」ノートを読んだ。74から92。例によってOasisのセカンドなどながしている。切りにすると一二時一〇分か二〇分くらいだったのではないか。それから便所に行って糞を垂れ、手を洗うとともにうがいをして喉をうるおし、もどってくるときょうのことをここまで記して一時直前。
- 出勤前に歯をみがいているときに上記で触れた鼎談動画を見たが、浅田による瀬戸内作品への言及はなかった。もうひとつべつのクリップがいぜんはあって、そのなかで触れていたのかもしれない。あるいは動画内ではなく、このイベントの内容を記したブログかなにかで見たのか。この催しは横尾忠則の展覧会を機会におこなわれたものらしく、だから『幻花』発表当時ではなくもっとさいきんのものだった。瀬戸内がSEALDSの名を出して、わかいひとたちがさいきんじぶんの意見をどんどん言うようになってきて、わたしあれはとてもいいとおもうんです、みたいなことを述べていたくらいだ。
- ほかにあまり記憶はない。出勤路は午後五時だがそこそこ寒く、顔面に触れてくる大気が冷たかったおぼえがあるし、帰路はさらに冷えこんでいて、首をかたむけて夜空を見上げていると空腹と寒さのためにちょっとくらっときたくらいだったし、道をあるいていればおびただしく群がる蜂たちのように冷気がスーツの表面にだんだんと溜まって貼りついてきて、ほんとうはもうコートを着るべき気候になっている。(……)
- (……)
- この日のことはほか忘れて、帰路も帰宅後も記憶がない。一〇日の記事は終わらせたらしい。この前日の一一日も多少書いたようだ。