2021/11/14, Sun.

 すべてが黒いヒスイのようにかがやいている

    ピアノ(発明された
    彼女の長い髪(地味な
    彼女のあきらかな無関心(弾いている音楽への

 彼女の心は、その指から遠く、
 百万マイルもむこうでかがやいている(end91)

    黒い
    ヒスイのように

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、91~92; 「とても気どった高級なカクテルラウンジでグランドピアノを弾く若い日本の女性」 A Young Japanese Woman Playing a Grand Piano in an Expensive and Very Fancy Cocktail Lounge; 東京 一九七六年六月四日)



  • 一〇時ごろに覚醒。昨晩、深呼吸をしてから寝たのでからだの感覚は軽かった。全身をひろく全般的にあたためてほぐすには、ながく吐ききる呼吸をくりかえすのがいちばん良い。マジで手の指先まで感覚が変わる。ただし、就寝がおそかったためか、まぶたのほうはやや重く、覚醒の瞬間からぱっとひらくというわけにはいかなかった。きょうもまた快晴だったのでカーテンをひらき、白くかがやかしい太陽光を顔に取り入れ、そのちからをかりてまぶたをこじあける。一〇時二五分ごろ離床。水場に行ってきてからもどり、コンピューターをつけてLINEを確認。きょうは(……)くんや(……)さんなどと(……)で夕食を取ることになっていたので。このときだったか瞑想のあとだったかわすれたしどちらでもいいのだが、改札のそとでと待ち合わせを確認し、電車の関係で17:10ごろになるとおもうというメッセージをおくっておいた。(……)くんと(……)さんは午前から日比谷に『ONODA 一万夜を越えて』という映画を見に行っている。LINEを見ているとこちらが起きたのを聞きつけたらしい母親が来て布団を干そうといったので手伝い、それから瞑想。一〇分でみじかくきりあげた。
  • 上階へ。ジャージに着替える。ここ数日と同様に晴れ晴れしい日で居間にも窓にもあかるさが満ちておりあたたかいのだが、空は意外と白さをまぶされており、南窓の先にのぞいた空の下端、山のちかくは、垂らしてからけっこうな時間が経って褪せたミルクのような淡い雲が青を隠しきるちからはなくしかしそれでもうすぎぬめいてながれている。あとで茶をついだときにも、ベランダのほうからはいってフローリングの床のうえに映りこんだひかりに雲の白さまでふくまれているような気がした。着替えると髪を梳かし、食事。煮込んだ幅広のうどんがあまっていたのでそれと、薄皮クリームパン。新聞からはアメリカで警察廃止論が転機にかかっていると。George Floydの件から警察を解体せよという声がつよくなり、ミネアポリスでは先般市民投票がおこなわれたのだが、結果は否決。警察の予算と人員が削減されたことによってとくに貧困地域(アフリカ系のひとびとの居住地域ともかさなる)での犯罪が増加したというデータもあるようで、ある黒人女性は、警察改革はとうぜん必要だと言いながらも、安全な地域に住んでいる上流層のひとびとは、(警察の横暴の被害者であるのみならず)多くの犯罪の被害者ともなるわたしたちのリアルをわかっていない、と漏らしていたという。ニューヨークでも先日黒人の市長が誕生したが、このひとは元警察官で、警察の予算削減は治安の悪化をまねくと批判していたのだけれど当選したと。ニューヨークでも警察の縮小によってやはり治安が悪くなった地区もあり、また、人種差別的に偏向しているとみなされた保釈金制度が改革されて凶悪犯罪でなければ比較的容易に保釈されるようになったらしいのだが、それによってなんども保釈されてはおなじ犯罪をくりかえすという人間も出てきているようで、とある窃盗犯は今年で四六回逮捕された、とかいうことも起こっているらしい。たとえば刑務所廃止論者、すなわちabolitionistの道行きはきわめて険しい、彼ら彼女らの理想は果てしなく遠いなあとおもう。
  • ほか、ホンジュラスの大統領選で台湾との断交を主張し中国に接近しようとしている野党候補が勢いを得ているとか、カンボジアのフン・センがASEAN内で存在感を増しているとか。書評面には『客観性』という本がとりあげられており、きちんと紹介を読んでいないのだが、客観性を追究するとされる科学的思考の歴史においてもその客観性にいくつかの種類と変遷があり、いまわれわれがつうじょうかんがえるような意味での客観性概念は一九世紀につくられたものにすぎない、みたいなはなしをしている本のようだ。
  • 食事を終えると皿を洗い、風呂も。蓋の縁がぬるぬるしてきていたのでそれもこすっておいた。出ると茶をつくり、帰室。コンピューターとNotionを用意してきょうのことをまずここまで記した。部屋の空気はぬくもっており、茶を飲むと暑いのでジャージのうえを脱いで肌着になった。出かけるまでに一一日以降の日記をできるだけすすめておきたいのだが、三時には出なければならないから(いまは正午をまわったところ)こころもとないし、木曜日はまだけっこう書くことがあるのでたぶんその一日すら終わらない。
  • とおもったが、おもいのほかに指がすばやくテキパキとはたらいて、一時半までで一一日の日記はしまえることができた。一一日を書くまえに二〇分か三〇分ほど「読みかえし」も読んで、岸政彦の『断片的なものの社会学』からの引用があつまっているところだったのだが、文章を読みかえしながらこの本はやはりなかなか良い本だなとおもった。
  • それから出発の時間まではたぶん書見をしていたはず。蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)。三時くらいになって身支度。よそおいはGLOBAL WORKのカラフルなシャツにUnited Arrows green label relaxingで買ったスラックスっぽいブルーグレーのズボン、そしていつもながらのモッズコート。余裕を持って出発。三時半なので道のうえにはもう日なたがないが、南の山はまだ西陽につつまれて緑の質感をあかるく浮遊させていた。(……)さんの宅のあたりまで来ると坂の脇に繁った濃緑のこずえのなかに太陽が見え隠れし、ときおり集束的なかがやきをあらわすとともに葉のすきまをひかりの液で埋めている。坂道に木洩れ陽ははや薄く、光線の角度が低くなったためにもう路上に宿るものもなく、右手の古びた法面のなかで溜まった葉っぱに注目をうながすかのようにぼんやりあかるむ二、三の小円があるのみだった。
  • 最寄り駅で乗車。山帰りのひとで満員だった。乗ったところにひとりぶんのスペースがかろうじてあるのみだったので、リュックサックをおろしてまえに持ち、扉のほうをむいて片手をガラスにあてながら揺られる。ときおりまぶたに閉ざされた目の前を視界いっぱいにひかりの色が(……)に移動して乗り換え。発車まで間がいくらかあったのでぞろぞろと移っていくひとびとから逃れ、いそがずに先頭へむかった。小学校の石段のうえにあるイチョウはまだ意外と黄葉していない。脇の丘の樹々はもう緑の統一をくずして調和のない多彩さを発揮しており、おりおり黄色をはさむとともに赤系統の色もつくっているが、後者の色味はまださほどつよくない。いちばんまえの車両に乗り、いちど本をとりだしたが、なんとなく心身の表面がほんのすこしだけざらついているような気がしたので、(……)あたりまで休むかと決めて瞑目した。そうして意識をリフレッシュさせ、じっさい(……)から書見。「藤枝静男論」を読みすすめた。(……)についても乗り換えずそのまますわりつづけたが、だいたいみんな特快に乗るのでこちらはけっこう空き、とちゅうでとなりの席もあいたくらいで楽にすごせた。本に目を落としつづけていたが(……)を越えて線路が高架にのぼると視界の端でそれを察知したようでおもわず顔が上がり、見れば果てまで起伏なくひろがる平らな町並みのむこう、もうひかりが遠のき青がつめたくなってきた北の空がさらにひろがりつづけており、町の屋根屋根から抜けて鉄塔が数本立っているのがそこに目立って、さいしょは横にはなれて散在していたそれらはしだいに距離を廃して近寄っていき、すべるようにあつまるとある地点で一瞬、てまえから奥まで縦一線にかさなりあうやいなや、すぐにまたはなれておのおのの場所にもどっていった。
  • そうして(……)まで、席で書見をしながら過ごした。降車。リュックサックから携帯をとりだして連絡が来ていないことを確認し、ホームをあるく。ひとがたくさんあつまっている上り口は避けてもうひとつさきに行き、階段をのぼると、尿意があったのですぐ脇のトイレへ。放尿。となりでやっていた中年から高年くらいの男性は小便を終えるとこちらのほうに横向きになって、時間をかけてもたつきながらズボンのチャックをしめていた。手を洗ってハンカチで拭きながら室を出ると(……)へ。目的地は(……)なので(……)。階段を下りているときから電車がホームに来ていたが急ぐのも面倒臭いし、(……)はすぐに来るので意に介さず、下りるとちょっとさきのほうへ移動。柱にちかい場所に立って目の前を左右にとおりすぎていくひとびとをやり過ごしながら数分待ち、来た電車に乗った。まもなく降車。
  • (……)という街ははじめてきたがホームはおおきくない。左右にホームドアが完備されている。出口に向かってあるいていくと、階段からのぼってきたふたり連れの若い男性が韓国人らしかった。ことばがそう聞こえたのだが、しかし声が聞こえるまえからなんとなくそういう印象があって、どの点で判別しているのかじぶんでもよくわからない。階段通路を行くと上りと下りを示すために壁や足もとに描かれている表示が原色的な赤と青で、このつよい配色は韓国的なものなのか? とおもったが、そこに根拠はない。改札を抜けてごったがえしているあたりを見回ったが、(……)くんらのすがたは見えなかった。それでしばらく周辺をうろついたり、改札付近に突っ立って駅内から来るひとびとのほうを見やったりしていたがあらわれないので、とりあえず(……)くんに電話をかけたもののつながらず、またうろついていると着信があって出れば(……)さんだった。駅を出て通りをわたってすぐそこに(……)があるが、そこを折れた道にいるというので横断歩道をわたりながら了解し、いわれた路地にはいるとすこし先に四人あつまっているすがたがあって、あれだなと見分けられた。(……)くんが手をあげて振ったのでそれにこたえながらちかづいていき、あいさつ。どうも、(……)です、とかいわずもがなの名乗りを述べた。このときだったかあとでだったか、たぶんお会いできてうれしいですとか言ったときに、(……)さんがほんとうに存在してるかどうかみんなうたがってたんで、とか、(ZOOMの映像は)精巧なホログラムかと、とか言われたので、実在してましたと笑った。それでともかく飯を食いに行こうと。特別目的地は決まっていないようだったが、土地勘はむろんまったくないのでじぶんはただついていくのみである。あるきながら(……)さんとならぶと、(……)さんが意外とおおきくておどろきました、といわれたので、ひょろひょろですよ、とかかえし、でもたしかにこのなかだと(……)くんが意外とおおきいですね、とつづければ、ぼくはチビなんで、みたいな言がもどったが、たしかに(……)さんはそこまで背丈がたかくなく、このなかだといちばん低かった。(……)くんの念頭にはおそらく「(……)」という店があったようだが(LINEで行きたいと言っていたし、このときも口に出していた)、路地をすすんでいるうちに突如として立ち止まって、そうだ、おもいだしたというようすで、あそこの店が知り合いのおすすめなのだとマンションのほうを指してみせた。ネパール料理屋というか、そもそも専従の料理屋ではなく、スパイスとかを売っている店の奥で食事もできるという穴場的な店らしい。店名は「(……)」。ここをすすめたという知り合いは「(……)」と呼ばれていたが、これは(……)にいたひとらしい。それでどうしますか、行ってみますか、みたいなかんじになり、うまければなんでも、とこちらが言うと、うまいかどうかは正直保証できないが、あまりできない食事ができるとおもうと返り、ともかくも見るだけ見てみようかとまとまって階段をのぼった。のぼったところにはまずたしか「(……)」とかいうなまえの美容室があって、なかにふたり待ち客がすわっていたが、そのまえを過ぎてつぎに行き、入り口のところでうかがっていると、なかにいた浅黒い肌の男性(とうぜんネパール人のはずである)が、いくらかカタコト的な調子で、どんなご用ですか? だったか、なんの用ですか? みたいな問いを発したので、食事できますか? とたずねると肯定が返り、人数を聞かれたので、もうここにはいってしまうか、行ってみよう、とまとまった。それで入店。店内はせまい。はいってすぐの周囲はたしかにスパイスやらなにやら棚に雑多にならべられており、男児がふたり、床のうえでにぎやかにさわぎながら遊んでおり、男性はたびたび彼らをうるさい! うるさいよ! と叱った。子どもらも主に日本語を喋っていたとおもうし、男性が叱りつけるのも日本語のうるさい! だったのだが、のちにすがたが見えた母親らしき女性はこのひとも日本人ではないように見えた。スタッフはほかにあとひとりかふたり、男性を見たとおもう。はじめの男性とべつにもうひとりいたのはたしかだが、さらにもうひとりいたか、通路をとおった人間がひとりだったかふたりだったかさだかでない。たぶんそのうちのひとりが厨房で料理をつくっていたのではないかとおもうのだが。ともかくも店の奥に通されて、そこにはかなり密着的に詰めればギリギリ四人かけられないこともないというくらいのテーブル席が狭いスペースに三つほど用意されていて、その先が厨房というか料理場になっているようで、男性は注文を聞いてそこにつたえるときにはネパール語をはなしていたとおもう。かなり細い通路をはさんで左右に分かれ、こちらは左側のテーブル、(……)さんの右隣につき、店の入口側にあたる向かいには(……)さんがつき、(……)さんもはじめはそこにいた。というのは右手のテーブルが片側しか空いておらず、もう片方は狭くて座れないようになっていたからで、(……)くんがそこにひとりだけはいって孤立していたのだが、店員の男性が彼の向かいでスツール的な椅子に座ってなにかやっていたので、なんでこのひとここにいんの? なにやってんの? とおもっていたところ、それはスツール椅子の高さを下げていたのだ。それで、ここ座ってください、と席が用意されたので、(……)さんがそちらに移って三人とふたりに分かれた。男性は笑みを浮かべることがなく、マスクで顔の下は見えないものの目つきはすこしするどいといえばするどく、愛想はあまりなかったが、しかし水が減っているとお水いりますかと言ってたびたび補充にきたりして、接客はわりと丁寧だった。それで水とおしぼりが配られ、メニューを見て注文。メニューは一枚の紙もしくはシートで、おすすめのプレートもしくはセットが三つ、写真つきで上部にならべられ、下部にはランチセットとしてもろもろの品が五種か六種くらい記されてあり、裏面はその他さまざまな単品のものが無数に取り揃えられてあった。みんな上部の三種のなかのまんなかのプレートを選ぶことにして、さらにこちらがソーセージを(さいしょは唐揚げを頼もうとおもったのだが、そう言うと男性は唐揚げはいま切らしているとこのときはやや日本人的な眉の曲げ方でことわってきたので、ソーセージに変更した)、(……)さんが水牛の餃子を頼み、みんなで分けて食った。飲み物は(……)さんがビールで、(……)さんがコーヒーだったとおもうが、ほかのふたりはわすれた。こちらはべつに飲み物はいらなかったのだが、飲み物はどうですかという店員のすすめにしたがってみんな頼んでいったので、そのながれに乗って、じゃあジンジャーエールをと注文したところ、このジンジャーエールはめちゃくちゃ薄くて炭酸も風味もぜんぜんないような代物だった。
  • 頭上にはそう高くない天井の近くに電車の網棚のようにものを置くスペースが通されてあり、そこに箱がたくさん置いてあったり、壁にはネパールの風景らしき山やら湖やらを描いた絵がかかっていたり、また周囲にはこまごまとしたちいさなものが置かれていたとおもうが、そんなかんじで雑然としていたものの、われわれがいるあいだほかに客は来なかったし(店を出るときになってちょうど入れ替わり的にべつの一組がはいってきた)、飾り気がなく庶民的で意外と過ごしやすいというか、落ち着く気がした。入り口にちかいほうでは子どもらがあそびまわっており、たまにわれわれのテーブルのあいだをとおっているかなりほそい通路を行き来してもいた(男性もたびたびそこを通るが、席がせまいのですこしそちらにはみ出すようにしていた片足をそのときは引っこめなければならない)。また、こちらの位置から見て前方、通路の入り口あたりにはカウンターがあり、その下は壁だったが、その壁の一部にちいさな扉が取りつけられて開閉するようになっていて、まだまだ背丈のちいさな子どもはそこを開けてカウンター内のスペースに出入りしていたので、あ、そういうかんじなのね、とおもい、また、のちほど女性も身をかがめてそこをくぐり抜けていたので、あ、大人もそういうかんじなのね、とおもった。それで食べ物はさいしょにこまぎれにされたソーセージが届いた。なんの肉なのかわからないが、やたらと柔らかく、しっとりしたような肉で、ふつうにうまかった。餃子も肉汁があふれており、またカレー的な風味のスパイスも付属していてうまく、(……)さんが、うま、これはうまい、と満悦していた。メインとして頼んだプレートはいろいろな種の食べ物がそろえて載せられたもので、まんなかにあったのがたぶん加工米だったのだとおもう。これは味がまったくなかった。その右横に、ほんとうはすこし違うのだがベビースターラーメンをこまかく割った見た目というかそんなようなかんじの品があり、こちらはすこし塩気がついていた。左隣は豆。それが中央の列で、下は右から大根の漬物、ソーセージ、ソテーかなにかしたジャガイモ、上部左にはキュウリとニンジン(これも漬物だったのかもしれないが、味つけはほぼかんじられなかった)、そしてラム肉なのかなんなのかわからないがタマネギのこまかなソテーと混ぜたなにかの肉(黒々とした色で、かなり固く、顎の訓練になるくらい何度も噛まないと飲みこめなかったがふつうにうまい)という構成だった。メニューにも、おつまみという文字が見えたが、これはメインの食事というよりは、酒のつまみとしてバリバリ食うみたいなかんじなのではないか(しかし(……)くんによれば、ネパールではこれを主食として食べるらしい)。どういう食い方をするのが正解なのかわからなかったが、加工米に味がないから両隣のものと混ぜて食えばけっこううまいなと混ぜはじめ、最終的に上下も混ぜてバリバリ食った。乾き物で腹に溜まるし、ゴリゴリ咀嚼するのに時間もかかるので、一皿食べればだいぶ満腹する。(……)さんなどすこし食べ切れなくて残していたくらいだ。いくつかの品には辛味がふくまれていて、こちらは辛いものが得意でないのでたびたび水を口にふくみながら食べすすめたが、いちばん辛かったのは大根の漬物だったとおもう。漬物といって日本のそれとはかなり違い、たぶんピクルスにちかいかんじなのだとおもうが、くすんで黄色っぽいような色をうっすらと帯びたなかに胡椒みたいな黒い点が付された見た目で、けっこう辛かった。肉もいくらか辛かったが、これはさほどではない。あと忘れていたが、(……)さんがラーメンを頼んでいた。きょうは夜にこうして飯を食うということで朝からほとんど食べていなかったので、ぜんぜん行けると言っていた。(……)くんによれば(……)にもこういうプレートのネパール料理(カジャというらしい)を出す店があるといい、そちらのほうがうまいと。おそらく日本人に合わせた味になっているのだろう。この店のほうがより本場的なのだとおもう、とのことだった。
  • (……)

(……)

  • この食事のあいだにはなしたことは、映画『ONODA』のことしかおぼえていない。午前中からこれを見てきた(……)さんと(……)くんにはなしを聞いたのだが、まあすごい映画だったと。時間も三時間あってながく、かなりボリュームがあって重たい映画だったようだ。太平洋戦争が終戦をむかえてもひとりフィリピンのジャングルにのこってその後三〇年ほど作戦行動を遂行しつづけていた小野田寛郎という軍人を題材にした作品で、しかしつくったのはわりとさいきんのフランスの監督らしい。小野田は諜報部隊の一員で、彼がのこったフィリピンの島は戦略上重要な拠点だったらしく、いつか援軍がやって来ると信じていた彼は、そのときのために島の各地を探索し、どこになにがあるのか調査したり、地形を調べたり、川や山になまえをつけたりして情報を整理していたのだという(山だか丘だかに、むかしつきあっていたか好きだったかした女性にちなんで、「~~の乳」だか「~~の胸」だかという名をつけたというのは笑った)。だからマジで、いずれまた戦闘をして、島を占領するというつもりでいたのだろう。各地になまえをつけたり、敵もしくは他者の気配を敏感に警戒しながらあるきまわるというのは、もろロビンソン・クルーソーだなという印象。食べ物はどうしていたんですか、とたずねると、小野田とおなじ部隊だった一員に農家の出身で植物にくわしいひとがいたらしく、彼に、これは食べられる、これは毒があるがここだけ取れば食べられる、これはこう調理できるといったかんじでいろいろ教わっていた知識が役に立ち、森のものを取ってまかなっていたという説明が(……)さんからあった。小野田は諜報員としての教育や訓練を受けていたので、地元のひとなどが戦争はもう終わったとつたえに来ても、それをすべてじぶんをだますためのプロパガンダであるとおもって拒絶していたらしい。いちどなど、小野田の親族だか、あるいは友だちの遺族だかわすれたが、見知った顔が説得に来ても、なんだか似ているひとがいるな、敵方はよくも巧妙にこんな人間を用意したものだが俺はだまされない、というかんじでやはり応じなかったと。小野田がそこまで作戦遂行にこだわったというのは、隊長だか上官からの命令があったからで、後続の援軍がやってきて攻撃するときのためにおまえは絶対に生き残らなければならない、なにがあっても生きていなければならない、と命じられたそれをまもってずっとひとりでたたかっていたのだという。すごすぎて笑うしかないが、(……)くんにいわせれば「絶望的」な映画であり、ドグマ的なものを非常にかんじさせられたと。戦前の日本がそのような狂気じみた超人的一徹の徒をつくりだしてしまったという事実にはそらおそろしいものをかんじざるを得ないが、右翼というか、いまだに皇国史観に賛同していたり、愛国的軍人をあがめるようなひとにとっては、小野田はおそらく理想的な軍人の鑑、英雄中の英雄ということになるだろう。そんな人間がいったいどのようにして武装解除し、戦争が終わったということに同意したのかむろん気になるところだが、いわく、バックパッカー的なひとりの男性(青年?)がそれをみちびいたという。このひとは世界中を旅してまわっていたらしく、当時の日本人としてはたぶんけっこうめずらしいタイプの人種だったのではないかとおもうが、そのひとが小野田に会いに行き、酒をくみかわして説得したとかいう。小野田に会ったときは、会えてうれしいです、会いたいとおもっていました、と感激し、野生のパンダ・小野田さん・雪男の順番で出会いたいとおもっていた、と言っていたらしい。そのひとがどうにかして関係を築き、酒をいっしょに飲みながら、小野田さんは何か国に行ったことがありますか(とうぜん日本以外にはこのフィリピンの島だけのはずである)、ぼくは五〇か国いじょうをまわって見てきました、とかはなして、戦争が終わったということを納得させたらしい。そういうわけで終戦が受け入れられ、武装解除がなされるわけだが、そのときも生き残っていた上官だか元軍人がやってきて、武装解除詔勅だかわからないが文書を重々しく読み上げ、玉音放送をながすという正式な儀礼がおこなわれたといい、さいごまで軍人としての矜持と形式を生きなければやはり終われなかったわけだ。ちなみに(……)くんによれば、小野田は戦後(というか帰国後)日本の空気が合わずブラジルだかに移住して農場を経営していたらしいのだが、テレビで日本の若者がホームレス狩りをしているということを知って衝撃を受け、こんな日本であってはならないと若者の教育をこころざし、ふたたび帰国して教育団体みたいなものをつくって活動したという。それじたいはふつうにいいことだとおもうのだが(そこでおこなわれた教育の内容によるが)、その後は日本会議にくわわって、妻も日本会議のけっこううえのほうにいるらしく、まあそりゃ日本会議のようなひとびとからすれば神みたいな存在だろうな、というかんじ。
  • 店を出たのは七時半か八時かそのくらいだったのではないか。わからない。もうすこしはやかったかもしれない。とちゅうで時計を見て、まだ六時かとおもったのはおぼえている。会計へ。目つきのするどい男性がタブレットをつかって計算し、八四〇〇円だというのでこちらが一万円を出してとりあえず支払いをすませた。それでありがとうございました、ごちそうさまでしたと礼を言って退店。ひとり一七〇〇円をあとで精算。喫茶店に行って駄弁ろうというわけで路地を駅のほうへ行ったが、そのあいだ周囲のひとを見るに、コリアンタウンといわれて有名だけれど先ほどのネパールのひとのような、東南アジアとか南アジア方面の出身だとおもわれる浅黒い肌のひとなんかもたくさんいるし、ひとびとが意に介さずうろうろぶらつくなかを車ががんばって通る道に接した商店など見れば、店先でおおきなドリアンや、色がめちゃくちゃくすんでいて絶対にうまいとはおもえないバナナなどを売っている八百屋と軒をひとつづきにしたそのとなりになにか服とかこまごましたものを売る店がちぐはぐに合わさっていたりして、じつに雑駁な町空間となっており、こういうところで育つのと、我が町のような田舎、現在でも外国人がそこまでは多くない田舎町で育つのとではぜんぜん違うだろうなとおもった。
  • 駅近くの通りに出ていくらか店を見たものの、どこもまだコロナウイルス状況のなごりか営業がみじかくて八時くらいで閉まってしまうらしく、(……)まであるいて行きましょうかとなった。それで駅横の路地を行く。すすんでいくと道は非常に暗く、またほそくせまくなり、左右は亡霊じみて暗んだボロアパートとかが見られ、その戸口というか塀の下部につけられた蓋つきライトがまえをとおるものの気配におうじてかろうじてひかりを灯したりはするものの、それは気のせいみたいなほんのかすかなものでほとんど意味がないのではないかとおもわれるくらいで、たとえば女性がひとりで通るのはぜったいに怖いにちがいない、ひったくりとか暴行が起きてもおかしくないような裏路地だった。行く手には一本、たかくそびえたったビルがのぞいていた。道中はだいたい(……)さんととなりあってはなしながらあるいた。(……)
  • 道中はまた、音楽のはなしが多かった。(……)さんも高校時代、あと大学もだとおもうがバンドをやっていて、ドラムを叩いていたようだ(ZOOMで映った部屋にはベースがあったとおもうが)。良かったらセッションでもと二、三回さそわれたが、スタジオにはいってちょっと遊ぶくらいならいつでもやる気はある。きちんと曲をやるとなるときついし、また遊ぶといっても似非ブルースくらいしかできないが。あと、いますぐつかえるようなエレキギターが手もとにないが。こちらも高校大学といちおうバンドをやっていたわけだけれど、どんなものをと聞かれたのでそのあたりはなした。高校時代に聞いていたのはもっぱらハードロックだというと、さらに具体的に聞かれたので、もう定番のDeep PurpleLed ZeppelinBlack Sabbathはぜんぜん持っていなくてあまり聞かなかったと付言する)、Guns N' Roses、Mr. Big、となまえを出すと、もろハードロックですねという反応がかえり、"Colorado Bulldog"の曲名が出たので、やりました、ぜんぜん弾けないですけどねと笑った。"Colorado Bulldog"はイントロの超速弾きを一時期練習したことがあって、あれはPaul Gilbertはじっさいには指をめちゃくちゃひらいて2→5→7・4→7→9みたいな二弦単位の高速レガートで弾いていたのだったとおもうが、じぶんはレガートができなかったので12フレット付近で六弦からはじめてひたすらオルタネイトピッキングで弾いてやろうという愚かさを発揮し、ひところけっこうなはやさまで行っていた記憶がある。それにつづけて(……)さんは、Daddy……brother……とかいいかけて例のいわゆる「ドリルソング」も持ち出したので、三年のときの文化祭でやりましたよと応じると、いいですねえとかえった。"Daddy, Brother, Lover And Little Boy"(だったか?)をやったのは体育館での後夜祭ではなく、文化祭本篇中の音楽室で、音楽室で軽音楽部が演奏を披露する機会があたえられたというのは、たしかこの三年時だけだったのではないか。一年のときはやったおぼえがないし(ほかのバンドはどうだったかわからないが)、二年時のじぶんは一日目のクラスでのしごとが終わると午後のはやい時間からさっさと帰って、本番にそなえて自室で汗だくになりながら三時間か五時間くらい"Burn"を練習した記憶がある。ただ、われわれではなくて(……)とか(……)とか(……)(あまりにもなつかしいなまえ!)がHYの"AM11:00"を音楽室でやっているのを見た記憶もあり、これは三年時ではないような気がするから、二年か一年のときにも音楽室でのバンド演奏はあったのかもしれない。(……)は三年のときか二年のときにはテニス部のさいごの試合があるとかで文化祭当日にはいなかったのではなかったか。そのあたりふつうにどうでも良いのだけれど、(……)さんとのはなしにもどると、ぼくはヘヴィメタル方面にはあんまり行かなくて、ハードロックっていうかまあブルース的なかんじがちょっとのこってるくらいのやつが好きでしたね、たとえばAngraとか、ああいうほうはまあべつに嫌いではないけど、よく聞くわけじゃなかったです、とはなし、それで高校の文化祭では、一年のときが"Highway Star"、二年で"Burn"をやったんですけど、三年でおなじバンドのメンバーだったやつがなぜかHelloweenをやろうって言い出して、"Eagle Fly Free"をやりました、と笑うと、ツーバスじゃないですか、たいへんだったでしょうというような反応がかえった。じっさい当時の(……)はかなりがんばっていたし、こちらもああいうドコドコやりながら八分裏にスネアを入れていくリズムのうえで弾いたことがそれまでなかったので、ズーズクズーズクという一六分の刻みを合わせるのに苦労して(どうしても目立って聞こえるスネアをおもてにせずに裏で取るというのが難しかった)、放課後の教室で汗だくになりながらたくさん練習した記憶がある。
  • (……)さんのほうは高校時代に人間椅子にはまっていた友人がいて、そこでいろいろおしえられたという。人間椅子ってなまえだけはなんとなく聞いたことがありつつもそれいじょうなにも知らなかったのだけれど、たしかわりとコアなほうではなかったかという漠然としたイメージがあったので、そういう雰囲気でやや知ったかぶったような反応をかえすことになってしまった。その印象にはまた、なんかノイズだかハードコア方面でそんなようななまえのバンドあったよなというかすかな記憶が寄与していたもので、とはいえこの会話の時点からそれは人間椅子とはべつのバンドだということははっきり判断されていたのだが、このかすかな記憶というのはたぶん非常階段のことである。非常階段を聞いたことはない。もうひとつくらい似たようななまえのコアなバンドがあったような気もするのだけれど、わからないし、たぶんそれは思い違いだとおもう。人間椅子というのは(……)さんのはなしによれば、東北のほうの土着的というか、まあおどろおどろしいようなイメージみたいなものを、方言もとりいれながらうまくロックとして形式化しているグループらしい。いまWikipediaを参照してみると、たしかに「日本の3ピース[5]ロックバンド[1]。1987年、青森県弘前市出身の和嶋慎治と鈴木研一によって結成された。ブラック・サバスを彷彿とさせる70年代風ブリティッシュ・ハードロックのサウンドに、日本語・津軽弁での歌唱、怪奇をテーマとした世界観の歌詞を乗せた、独特の音楽性を特徴とする」とのこと。そりゃおもろいじゃあないですか。日本の音楽だとじぶんはあと、七〇年代に関西とか福岡のほうでやっていたブルースのひとびとを掘りたいというのがひとつあって、当時はけっこうおおきなシーンになっていたらしい。サンハウスとかそのへんで、そこにいた鮎川誠がシーナ&ロケッツを結成することになり、このバンドは有名で、何年かまえにもWilko Johnsonといっしょにライブをやったりしていたはず。しかしそのあたりまだまったく聞いたことがない。
  • あと、(……)さんはAC/DCをよく聞いたらしく、その影響でSGを買ったくらいらしい。そういうはなしをしているうちに(……)につき、めっちゃ久々に来たわ、となった。とはいえいままでそう遊んできたわけでもなく、(……)の店などぜんぜん知らないので、(……)くん、(……)さん、(……)さんがまえをあるいていくあとをひたすらついていくだけなのだが、やけに広い横断歩道を渡る直前くらいで(……)さんが、日本のラウドもよく聞いていたと言ってなんとかいうバンドのなまえを出したのだけれど、これはまったく知らない名だった。(……)さんじしんも、いままで聞いているっていうひとに出会ったことがないという。ラウドと言っていたが、いわゆるミクスチャー的なかんじなのか、たとえばDragon Ashみたいなやつをもっとコアにハードにしたかんじ、みたいな説明があった。それでいま検索してみたのだけれど、これはPay money To my Painというバンドのことだったかもしれない。なんかそんなような語感だった気がする。日本のラウドロック方面では欠かせないバンドだったようだが、ボーカルのKというひとが二〇一二年に急逝して活動停止したという。「RIZEなど同世代のバンドと親交があった」とWikipediaにあるが、RIZEはCharの息子がやっているバンドで、このひとたちの曲はこちらが高校生だかそのくらいのときになにか一曲だけテレビに乗って、メジャーな領域でながれた記憶がある。RIZEの元メンバーだというTOKIEというベーシストは浅井健一がやっていたAJICOのベースとして聞いたことがあり、またもうひとつ、なんとかいうインストバンドの音源をむかし持っていた、とおもったが、これはunkieだ。けっこう格好良かった記憶がある。あと、TOKIEとはたぶんなんの関係もなかったはずだが、おそらく同時期に聞いていたものとして記憶が刺激されたものとおもわれ、なんかCosmoなんとかみたいななまえのプログレHR/HM的なスリーピースインストバンドがあったなとおもいだし、気になっていま検索を駆使し、突き止めた。しばらく調べてもそれらしきものが出てこないので記憶を探りなおしてみると、なんかギターがRichmanとかいうなまえだった気がする、という情報が出てきたので、Richmanというギタリストを探してみるとJeff Richmanというフュージョン方面のベテランがいた。これだな、とおもった。SantanaとかJeff Beckとか、いろいろなトリビュート作品に参加しているひとだが、たしかにそんな記憶があった。それでこのなまえの関連を調べてみたものの、しかしこちらがおもっているバンドは出てこない。それでおかしいなとおもいつつ、diskunionのページにいたり、ここでふつうにバンド名検索すれば出てくるじゃんと気づいてcosmoでHR/HMカテゴリを検索すると、Cosmosquadというバンドが出てきて、これだわと確定した。『ACID TEST』というのがこちらが持っていた作品だ。二〇〇七年発売。ギタリストはJeff Kollmanというなまえだった。ドラムが大仰でパワフルなスタイルでB'zのサポートをやっていたShane Gaalaasだったので、たぶんこの線から知って入手したのだろう。いまはなき地元の「(……)」に売っていたか、それかもしかすると興味を持って取り寄せ注文したのかもしれない。
  • それで喫茶店はひとつ目に見に行ったビルの最上階にある洒落たような店がいっぱいで入れないということだったので引き返し、トイレにめちゃくちゃ行きたいとみんな口々に言いながらあるいて、こちらでも見覚えがある広場的な通路にいたって、そこにあった「(……)」という店が良いのではないかとなって入店。本式らしいメイドの格好をした女性店員が給仕をする店で、入り口で五人だと通路をはさんで分かれてもらわなければならないと言われ、了承してなかへ。手を消毒し、一階くだって地下のフロアへ。客はほぼおらず、われわれがはいった時点でさきにいたのはたぶん一組だけで、めちゃくちゃ空いていた。通路をはさんでと聞いていたので店員が通るようなふつうの通路をはさんでグループを分けなければならないのだとおもっていたのだが、そういうわけではなく、おなじテーブルにあつまってはならないということだったらしく、片側がひとつづきのソファ席になっている区画で、ふたつのテーブルに分かれてはいることができた。ポジションはソファ側の右にこちら、左のテーブルのおなじ側が(……)くん、こちらのまえに右から(……)さん、(……)さん、そして(……)くんのまえが(……)さんだった。じぶんは例によってココアを頼み(ラム酒つきということで少量の酒がそそがれたごくちいさな器が付属していたが、これはけっきょくつかわなかった)、ほかの四人はそれぞれコーヒーやらなにやらで、たぶん全員飲み物とともにケーキを注文していたとおもう。(……)さんがモンブランだったかわすれたがなにかを頼んだのだが、しばらくして女性店員がやってきて、それはもう終わってしまったと言い、彼女が提示した四つくらいの選択肢のなかからレアチーズケーキがあらためて選ばれたのはおぼえている。けっこうみんなトイレに行きたくなっていたわけだが、注文をしたあと雑談をしているとちゅうで(……)さんがしずかに席を立っていなくなったのを受けて(……)くんが、ああやってなにも言わずにしれっと行くんですよ、みんな行きたかったのに、と笑っていた。
  • はなした話題はだいたいやはりこの本が気になっているとかこの思想家が気になっているとかそういうこと。アリストテレスのはなしが出たひとときがあった。(……)くんが(……)アリストテレス全集を順番にさらっているのだという。ただアリストテレスのばあい、こまかな内容というよりは、彼が問題にアプローチしたやりかたや手順とか、つくったカテゴリーや枠組みとか、そのへんのほうが重要で、正直詳細なところまできちんと研究しようという気にはならないと。すごく勉強にはなるが、あくまで勉強、というかんじのようだ。快楽は薄いのだろう。こちらとしてはアリストテレスは『動物誌』にいちばん興味があるつもりで、それは要するに博物学にたいする興味で、博物学にたいする興味というのは要するに系統分類とかというよりは、観察者が動物とか植物とかをことばでスケッチするその書き方にたいする興味で、だからつまるところ描写にたいする興味に帰結するのだけれど、『動物誌』はそういう著作だと聞いている。ほか、まあ『詩学』とか『ニコマコス倫理学』とかもふつうに読んではみたいが、ニコマコスにかんしてはそのなかでふつうに奴隷制肯定というか、奴隷制は前提のものとして記されていたはずだし、アリストテレスをいま読んでどうかんがえるか、どう活かすかというのはなかなかむずかしそう、みたいなことを(……)くんか(……)さんが言っていた。『詩学』とか『弁論術』はおもしろいというか、読んだほうがいいと(……)さんは言った。『弁論術』は要はあいてをどのように説得するかという言語技術論なのだとおもうが、たとえば聴衆にかたりかけるときはまず明快な結論から述べたほうが良い、そうすればひとびとは演説者がはなすあいだにじぶんのあたまのなかでなぜそういう結論になるのか、根拠や論理の道筋を予測するので、それをなぞるようにはなしをすればより説得力を生むことができる、みたいなことを言ったりしているらしく、だから(……)さんとしてはけっこう自己啓発本的なスキル紹介のように響いたようで、自己啓発書とか読むんだったら『弁論術』読んだほうがいいのにとおもいました、とのことだった。アリストテレスはそういうふうに、聞き手を説得し納得させるという意味での修辞学を重視したひとらしく、ただ正しいことを言ってもあいてを説得できるとはかぎらず、受け容れられないこともあるとかんがえていたようなのだが(なぜそういう認識を持っていたかについてもちょっと触れられたような記憶があるのだが、その点は忘れてしまった。アテナイの民主政の崩壊以後の混乱した時代に生きたから、みたいなことだったか?)、それはきわめて重要なポイントだとじぶんはおもう。ひるがえってプラトンはおそらくそうではなかった。彼は弁論術というのは悪しきソフィストが強弁をおしとおすための堕落した技法だとかんがえていたはずで、また哲学者は真実在をおいもとめ観想するにいたる崇高な存在だと認識していたはずであり、それがプラトンじしんの明示的な主張かどうかはともかくとしても『国家』のなかではその哲学者が王となる哲人国家のヴィジョンをあきらかにしている。またおなじ『国家』中で、詩人というのは真実在であるイデアをコピーしたものに過ぎない事物をさらに言語によってコピーするわけだから、ミメーシスのさらにミメーシスをしている卑しい連中でしかない、みたいなことを書いていたはずで、あと神々にかんしても詩人たちは虚偽を述べている、神とか英雄は善やちからそのものである崇高な存在だからたとえば悲嘆の感情に屈して泣いたり嘆いたりすることなどあるわけがないのに、ホメロスでさえそのようなことを語り、神をおとしめひとびとをたばかっている、したがってわれわれの国家には虚偽の徒である詩人は必要ない、みたいなことも述べていたはずだが、しかしプラトンいぜんには詩と哲学はおなじものだったはずでしょう、とこちらは言った。プラトンソクラテスいぜんの、断片としてのこっているイオニア自然哲学者なんかはだいたい詩とか箴言のような形式で思想を語っているはずだと。プラトンがそういうふうに文学と哲学を峻別して前者をおとしめる発想を導入したところからはじめてそうなったわけだが、弟子のアリストテレスがそれにたいして修辞学、言語の修辞的な側面を再評価してかんがえたというのは、文学好きとしてはやっぱり興味がありますね、とはなした。はなしのなかに出てきた文献としては、アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』という、わりとさいきんみすず書房から出たという上下本がひとつある。あとこれは飯屋でのことだったが、フィリップ・セリエ『パスカルと聖アウグスティヌス』という法政大学出版局叢書・ウニベルシタスの本も(……)くんがおしえてくれた。このセリエというひとはフランスのパスカル研究の権威らしく、彼が編集したセリエ版全集というのがいまいちばんメジャーなものになっているとか。
  • あとなにかのタイミングでガタリの名が出たというか、たしかはなしを受けてこちらが名を出したのだったとおもう。ガタリという人間がおもしろそうで興味があると。というのは、これはいぜん(……)さんから聞いただけの情報なのだけれど、ガタリはずっとガチガチの活動家として政治運動をしてきたひとであり、ドゥルーズとの共著もだいたいガタリがてきとうにまとまりなくはなしたことをドゥルーズがひろってつなぎあわせるみたいなかんじでつくられたのだという。また臨床の現場でもずっとはたらいていたはずで、『カオスモーズ』は、まだ読んでいないのだけれど、病院で精神疾患の患者たちがどのように集団のなかで主体性を立ち上げていくのかというようなことを、じぶんの経験をもとにして書き語った本だという漠然とした認識を持っている。くわえてエコロジー方面にも行っているし、横断性というものを重要視していたらしいがまさしくそれにふさわしく、じぶんの具体的な現場を持ちながらもいろいろ幅広く手がけていた、めちゃくちゃでなんかやばそうなひと、という印象をじぶんは持っている。ひとつにはじぶんじしんがわりとこじんまりとまとまった神経症的な人間なので、そういうカオス的な人物に興味とかあこがれみたいなものがあるのだとおもうし、もうひとつには非常に具体的な現場に根ざして地に足ついた(政治的・社会的)活動というものをやるのにじぶんは躊躇してしまうような、面倒臭がったり、その大変さをすすんで引き受けようとはしない人種だとおもうので、活動家というタイプの人間に興味があってそこからまなびたいということがある。それでガタリが気になっているのだけれど、さいきん本屋に行ったらガタリがブラジルに行ったときに現地の活動家と対談したり講演したりしたときの記録をおさめた本が出ていたという情報もみなに知らせておいた。
  • (……)
  • 一〇時で閉店だったので会計して退店。そろそろ帰宅へ向かわねばならない時間だが、さいごに(……)のほうに行って、読書会の本と日程だけ決めましょうか、ということになった。(……)くんはきょう、朝の六時に寝て八時に起きるみたいなありさまだったらしく、それで午前中から映画も見に行ったので、へとへとに疲労困憊して死にそうになっていた。読書会はいぜんもオンラインでやっていたが、またこのメンツで月一で、今度はじっさいに会って飯でも食いながらやりましょうか、ということになり、課題書の候補としては『ボヴァリー夫人』が挙がっていた。ネパール料理を食っているあいだにそのはなしが出ていて、河出文庫の訳が良いという評判だという情報が出たので、山田𣝣のやつですね、ぼくは一回読みました、森鴎外の、孫? だったかな、それでジャクってなまえなんですよ、蓮實重彦の師匠にあたるひとで、ゼミのあとの飲み会で、いいかおまえら、知ってるか、『感情教育』ってのはな、終わらねえんだ、って言って、そのことばが蓮實のその後の一生を決めたらしいです、とエピソードを紹介した。このはなしはけっこういろいろなところで語られていたはずだし、講談社文芸文庫の本のうしろのほうについている年譜でも触れられていたはず。いぜん『ボヴァリー夫人』を読んだのはたしか鬱様態から回復してすぐのころだったはずで、だからかんじるべきことをそんなに十分にかんじとれたとはおもわれないし、もういちど読むことになんの異議もない。河出の訳も持っているから都合が良い。それで駅南口のほうにあるいていき、うえにのぼって、ギターを鳴らしながら下手くそな歌をうたう弾き語りの女性(まえをとおりすぎたときには斉藤和義の"歌うたいのバラッド"をやっていて、のちにそのすがたの見えない広場ではなしていたあいだには"勝手にシンドバッド"が聞こえてきたが、この後者はぜんぜんちゃんと歌っておらず、なんかすごかった)がすこしひとをあつめている横をとおって広場的なスペースへ。そこでしばらく立ち話をして、会の日程は一二月一九日(日)、課題書は『ボヴァリー夫人』と決まった。場所や時間など、こまかいところは未定。そうして帰路につくことに。
  • やけにひろい横断歩道を渡って駅の口にはいり、(……)さんはべつのほうなのでここで別れ、(……)さんも家は(……)なので別れ。三人で改札をくぐり、こちらだけ(……)でふたりはいっしょなので別れた。(……)さんにはさきほど、きょうで顔を合わせるのもしばらくなくなりますけど、お会いできて良かったですと言っておいたが、ここで、からだに気をつけて修論をがんばってくださいとかさね、(……)くんには、とにかく寝たほうがいいよ、眠くなったらさっさと寝ちゃったほうがいいよ、といたわりをかけたが、じぶんじしんも夜ふかし組なのであまり説得力はない。また、(……)くんは眠いのを強いてやることをがんばっているというよりは、たぶん眠くならなくてながく起きてしまい、その結果つぎの日に用があったりすると睡眠がほとんど取れずやばい、みたいなかんじだとおもうので、あまりあたらない助言ではあった。それで(……)にくだり、ちょうどやってきた特快に乗車。南側の扉際につき、ガラスにまっすぐ向かい合って手すりをつかみ、立ち尽くしたまま瞑目して心身を休めた。さすがに疲労感はあった。おなじ扉前の片側には、灰色のパーカーを着てフードをかぶった若い女性がいて、このひとの目がけっこうよどんだかんじというか、フードによって顔もすこしかくしているようなようすだったし、なにかにたいする不満とか苛立ちとかばあいによっては憎しみとかを秘めているかのような、もしかしたら精神的にまいっていたりあやうかったりするのだろうかという印象をおぼえるような雰囲気だった。身の運びもなんとなくゆらりとしたかんじで、とちゅうの駅で止まって乗客が乗り降りしたさいなど、車内のうごきが終わって席が空いていないことがわかったあともしばらく、座席端の手すりのところから車両内をじっと見ていた。
  • (……)で降車し、乗り換え。席に座ることができて、瞑目のうちに閉じこもって回復を図ったが、ここで胃のほうから空気があがってくるかんじがつづいてなかなか苦しかった。むかし、飲み会に行った帰りなどよくなっていた現象で、そのときはジンジャーエールとかグレープフルーツジュースとかをたくさん飲んで胃酸が過多になったために起こるものだとおもっていたのだが、きょう飲んだのはやたら薄かったジンジャーエールは除外してかんがえれば水とココアのみである。ネパール料理の加工米とか豆とかが乾いてバリバリしていたので、消化が大変だったのかもしれない。それでやや苦しみながら揺られ、(……)でふたたび乗り換え。その後の帰路はわすれた。

・『岩波 女性学事典』
エリザベート・バダンテール『XY 男とは何か』
高田里恵子『文学部をめぐる病い』
・ロンダ・シービンガー『女性を弄ぶ博物学
田中美津『いのちの女たちへ』
・駒沢喜美『魔女の論理』
・女たちの現在を問う会『銃後史ノート戦後編8 全共闘からリブへ』
ジュディス・バトラージェンダートラブル』
・イヴ・K・セジウィック『男同士の絆』
上野千鶴子『家父長制と資本制』
加賀まりこ『とんがって本気』
・中村方子『ミミズに魅せられて半世紀』