2021/11/15, Mon.

 カミナリの音と光がかけぬける夏の嵐の
 今夜の東京 午後十時ごろには
    大量の雨と傘
 これはいまのところ小さなつまらないことだ
 でもとても重要なことになりうる
 いまから百万年後に考古学者が
 われわれの廃墟の中を通りぬけ、われわれを想像で
    描きだそうとするときには

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、93; 「考古学の旅の小さな船」 A Small Boat on the Voyage of Archaeology; 東京 一九七六年六月五日)



  • 覚醒して、ベッド脇に置かれてあるスピーカーのうえの時計を見て九時半ごろを認識したのだが、しばらくしてから起きあがって携帯を見るとそれは八時半のまちがいだったことが判明した。スピーカー上のアナログの目覚まし時計は短針がちょっとずれ気味でわかりづらいことがあるのだ。きょうも空が真っ青でまっさらな海となっている晴天で、寝床で陽を浴びながら九時半にしてはいきおいが弱いなとおもっていたのだが、じっさいには一時間はやい時間だったのでとうぜんである。例によってしばらく喉を揉んだりしてから起き上がって携帯を見ると、八時五四分だった。水場に行ってきてもどるとふたたび臥位になり、脚をマッサージしながら書見。蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)。藤枝静男論を読み終え、安岡章太郎論へ。この安岡章太郎論が蓮實重彦がはじめて日本の現代文学について書いた評論らしいのだが、そのせいか、藤枝静男論とくらべると文章のキレが弱いような気がする。分析の手法とか言っていることは収録された三篇(志賀直哉藤枝静男安岡章太郎)のどれも大差ないわけだが、文章や論のながれかたとか、細部のことばえらびとか、漠然とおぼえる熱量みたいなものとかは藤枝静男論がいちばん充実しているような気がする。あと、蓮實重彦の文章ってきちんと本のかたちで公刊されたものでも、ここにはほんとうはなにかのことばがはいっていたはずでは? という欠語めいた部分をはらんだ文とか、構造的対応としてかっちりはまりきっていない文とかが意外と見られて、こんなに丹念に読む人間なのに、じぶんの書いた文章はあまり推敲しないのだろうか? とまえから不思議なのだけれど、安岡章太郎論はそういう意味で文章がこなれきっていないようなところが比較的おおい気がするし、藤枝静男論のほうがぎゅっと詰まったような感触をおぼえる。
  • 一〇時過ぎで切り、瞑想。二〇分ほど座って肌の感覚をやわらげた。上階へ。イヤフォンを耳につっこんだ状態の母親にあいさつ。ジャージに着替えながら南の窓外を見やれば、一〇時半の陽射しが近間の瓦屋根をてらてら白くつやめかせている。うどんを煮込むように用意してあったので、それを鍋にぶちこんで熱しつつ、隣のコンロではハムエッグを焼いた。それを米に乗せ、うどんも丼によそって卓に持っていき、食事。きょうは新聞が休みなのできのうのものをまたひらき、立憲民主党の党首選について読んだりしつつ食べ、平らげると皿洗い。きょう、父方の祖母が父親によって病院に連れていかれているらしい。入院するのだと。くわしいことを知らないし母親もあまりよくわかっていないのだが、たしか体内に血管をひろげる金具だったかわすれたがなにかはいっていて、それを取り替える手術をするのだとか。その金具のせいなのか、祖母はからだがかゆくてたまらず、難儀しているらしい。
  • 風呂を洗う。きょうも窓をあけると、そとの景色はここ連日となにもちがいがないが、となりの敷地に散っている黄色い葉の数だけはいくらか増えたような気がする。浴槽をこすって出ると、茶をつくって帰室。コンピューターを用意してNotionに記事をつくったりちょっとウェブを見たりしたあと、きょうもOasisをながして「読みかえし」を読みはじめた。109番から124番まで。とちゅうでトイレに立って腹を軽くしていると、母親が個室のそとから行ってくると呼びかけてきて、洗濯物を(ベランダの)端のほうに寄せておいたからあとで入れてくれとのこと。「読みかえし」はだいたい石原吉郎の詩のところだったが、「葬式列車」がやはりよくできているなとおもわれた。一行一行のながれや、それらが数行でまとまったパート(行開けはなく、全篇接したかたちでつらねられてはいるのだが、あきらかにブロック的なまとまりの感覚がある)のながれかたがととのっており、すぐれて音楽的な(あるいは物語的な、というべきなのかもしれないが)構成感覚をおぼえる。そのなかで、さいごのほうにある「誰が機関車にいるのだ」という一行だけが浮いているというか、この一行だけでひとつのパートを構成しているとおもわれるのだけれど、この一行が境界線として置かれ、リズム的に変化を導入することで、さいごのパートがしめくくりとしてお膳立てされてきわだつという効果を生んでいるようにおもう。
  • ここまで記して一時一六分。
  • その後、ふたたび蓮實重彦を読んだ。三時半までで一気に読了した。蓮實重彦は特有の長たらしくうねうねした文体とか、量とか程度とかをあらわす副詞のこまかい活用によるもってまわったような言い方のニュアンスとか、ときに形容句をともなった漢語的名詞の多用が生むふてぶてしさみたいな感触などのくみあわせによって、独特の読み味をあたえられる書き手であり、その文章を読みにくいという向きもけっこうあるのだとおもうが、この本にかんしていえばながながしい文はまだあまり出てこないし、作品に書きつけられている言葉そのものの布置やつながりや対応関係を徹底的に具体的に分析するというその批評スタイルからして、観念的な論述の方面に向かうことがほぼないので(蓮實重彦自身の一般論的な意見とかかんがえとかはこの本のなかにほぼまったく記されておらず、ただ、「文学」とか「作家」とか「読むこと」とかについてときおりそれが表明されるのみだが、それは論として論じられるというよりは、この本でおこなわれている批評的実践を演じるにあたっての前提として触れられたり、ときに再確認的にそこに立ち戻ったりするものとしてある――ただ、一般的な「意見」とかはないとしても、テクストに触れる蓮實重彦自身の生理みたいなものは、その読み方とか頻出する語句とか、高評価するテーマや記述とかからけっこうにおいたつような気はする)、つまり抽象概念をもちいてこむずかしい議論を展開するようなことが(すくなくともこの本では)ないので、論述がつねに具体的で一歩一歩地に足ついてすすんでおり、だからじっさいかなり読みやすい。するするというような調子で読んでしまった。こちらとしてはこういう緻密で禁欲的なテクスト分析をベースにしながらも、そのさきでどうにかうまく一般的主題にひらいていくような議論がいちばんおもしろいのではないかとおもっているのだけれど、マクシム・デュ・カン論がたぶんそういうことをやっているはずで、だから浅田彰もあの本は「傑作」だと断言していたのかもしれない。
  • きのう、電車のなかで藤枝静男論を読んでいたさいちゅうには、一、二箇所、ここはすごいなというか、ちょっとおお、と興奮させられるような記述があって、そうなるとやはり藤枝静男の作品じたいを読んでみたくなるわけで、そういうふうにじぶんが批評分析するテクストに読者をみちびきいざなうちから、紹介者としての手腕はやはりさすがの卓越ぶりだなとおもった。だれが書いていたかわすれたけれど、映画作品そのものを見ているときよりも、蓮實重彦が書いている映画についての文章(もしくは描写?)を読んでいるときのほうがより映画を見ているような気分になる、みたいな評言をどこかで目にしたおぼえがある。
  • 勤務。(……)