夜ではなく
灯の欠如砂漠のうだるような暑さではなく
降るはずなのに降らない雨人間性が人間らしさを失い(end25)
人を人とも思わず人でなしにすることではなく
人間性が人間らしさを見極められず
人とも思われず人でなしにされた人が
人であることを奪い返し取り返すためにやり返さなくなったこと悪意のある人々の不快な怒号や非難の声ではなく
恐ろしいほどの沈黙
善良であると自認する人々の [註1: マーティン・ルーサー・キングの言葉より]夜ではなく
灯の欠如こそが
我々を暗闇に留めるその暗闇の中で
思い出すべきは(end26)
敵の言葉ではなく
仲間の沈黙 [註2: 同右](ニール・ホール/大森一輝訳『ただの黒人であることの重み ニール・ホール詩集』(彩流社、二〇一七年)、25~27; 「恐ろしいほどの沈黙」 Appaling Silence)
- 八時半ごろにいちど覚めて、そこでもう起きるつもりだったのだがいつの間にかまた意識をうしなってしまい、まどろみのなかで一一時にいたった。しかたあるまい。深呼吸をすこししてから一一時二〇分に離床。きょうの天気は曇り。布団を剥いでベッドの奥へとたたんでおき、床におりると部屋を出て水場へ。顔を洗ったり口をゆすいだり、用を足したりうがいをしたり。もどってくると瞑想をした。三分か五分かそのくらい深呼吸をしてからだ全体をほぐしてから静止。きょうは下半身がややこごり気味で座っていると左足がすこししびれてきたのだが(その時点でたぶん二〇分くらいだった)、なんだかんだつづけてちょうど三〇分ほど。時刻は正午だった。姿勢を解くとしばらく脚を揉んで痺れが去っていくのを待ち、それから上階へ。
- 食事は鮭。また、五目ご飯が炊かれてあったのでそれも椀に盛る。新聞からは昨晩につづき大谷翔平の記事とマルコムX暗殺関連を瞥見。マルコムX殺害の実行者として逮捕された人間は三人いたらしく、今回無罪と判断されたふたりを除いたのこりひとりは容疑を認めているという。ムハンマド・アジズとすでに故人であるカリル・イスラム(だったか?)いがいの四人がかかわっていたと供述しているらしく、真相は謎のままだと。ムハンマド・アジズについてはドキュメンタリーが放映されたことをきっかけにしてニューヨーク地検の再調査がはじまり、事件のときに自宅にいた彼と電話したという新証言が見つかったり、きのうの記事にも触れられていたとおりFBIが都合の悪い証言を隠していたという事実が発覚したと。
- その後、立憲民主党の代表選について。きのうの一時ごろだったか、風呂を洗って出てくるとテレビで四者が会見前にならんで座っているところが映っていてちょっと見やったのだが、そのときは泉健太がまっすぐ背すじを伸ばしていかにも真面目そうなようすで座っており、ちょっと硬い感じも受けたのだけれど、それにたいして小川淳也はすこしだけ余裕のありそうな雰囲気だった。しかしきょうの新聞記事に載っている写真(四氏が差し伸べた手をかさね合わせた記念撮影)を見ると、ほかの三人がほほえんでいるなかで小川ひとりだけ無表情の硬い顔をしていた。新聞記事にはそれぞれの候補の推薦人も載っていたので、議員などぜんぜん知りはしないがすこし見てみると、菅直人は西村智奈美を推薦しており、これは彼女が菅の派閥に属しているからである。石川大我というひとは同性愛者の議員でLGBTの権利拡大に熱心なひとだったとおもうが、彼も西村智奈美を応援しており、やはり彼のような立場の人間としては女性を推すということになるだろう。階猛 [しな・たけし] というひとはなんか政策通みたいな、勉強会とかをひらいてよく研究しているみたいな評判をどこかで聞いた気がするが、小川淳也を推薦していたはず。まあ候補者四人は全員それぞれの派閥に分かれているので、だいたいそこに属している議員がそのまま推薦しているのだろうが。西村智奈美は先述どおり菅直人がリーダーの派閥で、逢坂誠二は党内最大派閥の「サンクチュアリ」所属(リベラル勢のあつまりで、枝野幸男もここにいる)、小川淳也は野田佳彦がリーダーの派と書いてあったはずで、泉健太は国民民主党から来た人間だからそちらのほう。小川淳也がどういう立ち位置なのかあまりわからないのだけれど、リベラル派ふたりにたいして「穏健保守」と呼ばれている支持層をとりもどそうとする泉健太および国民民主党出身のひとびと、という大雑把な構図だろう。四者とも来夏の参院選でも野党候補を一本化するということは前提として共有しているようだが(これにかんしては小川淳也が先頭で口火を切り、ほかの三人もそれに追随した、みたいな書き方になっていた)、共産党との連携にかんしてはみなあいまいな態度で評価を濁したとあった。
- 食べ終わったころ、髪をととのえに行っていたらしい母親が帰宅。食器を洗い、彼女が買ってきたものを冷蔵庫に入れ、風呂も洗う。出てくるときのう母親が買っていたケーキと茶を持って帰室。一服し、ウェブを見たあと(昨晩メールを送ったSCOOLの予約が完了したという返信が来ていた)、きのうの一九日の記事にひとこと足して投稿し、「読みかえし」。またもOasis。一時くらいから一時半くらいまで読んだのち、きょうのことをここまで記して二時過ぎ。
- そのあとはルイーズ・グリュック/野中美峰訳『野生のアイリス』(KADOKAWA、二〇二一年)を読んだとおもう。寝床にごろごろしながらさいごまで読み終えてしまった。そんなに印象にのこる詩集ではなかった。じぶんとのあいだになにかが発生する瞬間を呼びこみむかえることができなかった。テーマじたいはじぶん好みなぶぶんもおおいとおもうのだが。出勤までのことはあまりおぼえていないが、静座しながらMichael Feinberg『Hard Times』を聞いた時間があった。また、帰宅後にちょっと休んだあと、夕食を取りにいくまえにも聞いた。これはなかなか強力なジャズで、Michael Feinbergというベースはぜんぜん知らなかったが骨太で充実した音をしているし、参加しているひとたちもみんなうまくて、フリーまでは行かないが譜割りやリズムがどうなっているのかよくわからないところがあったり、ほどよくアウトしたフレーズをたたみかけたりする場面もおおく、かっこうがよい。曲はめちゃくちゃ凝っているわけではないけれど拍子や展開に工夫があるものがおおくて、有名曲とかスタンダードにあたるのは#2の"Nardis"だけだろうが(#3 "The Husafell Stone"という曲にもあきらかに聞きおぼえがあって、たぶんHerbie HancockかFreddie Hubbardあたりが六〇年代につくった曲かなにかを下敷きにしているのではないかという気がするが)、これも範囲ごとでビート感を変えて総体的に緩急をしこんでいる。Jeff 'Tain' Wattsも手数がやたらこまかくてバシバシうるさいくせにさらに重さもあるごついドラマーだから、ベースの重厚さとスタイル的に調和していたのではないか。この日に聞いたのは#9 "Monkeys Never Cramp"までで、一曲のこっているのだけれど、細部でよくわからない箇所もおおかったので、くりかえし聞きたい。
- たしか出勤前に歯磨きなどをしながら(……)さんのブログを読んだはず。帰宅後も読んだかもしれない。したは一七日分からの引用だが、この記事は帰宅後に休んでいるあいだに読んだのだったとおもう。一四日の記事でガタリの『カオスモーズ』について、集団のなかで患者の主体性が立ち上がってくるさまを病院でのじっさいの経験にそくして記述した本だと漠然と理解している、みたいなことを書いたのだけれど、この引用を読むかぎりではその理解はずれていそうだ。「言表は個人としての主体に帰属させるべき行為ではなく、むしろその言表の生産される現場を社会の集団や権力関係のなかで捉えることが必要だというのである。この立場からは、主体ではなく、むしろ集団的主体性が問われることとなる」とあるのだから、個々の「患者の主体性が立ち上がってくるさま」を描き考察するというよりは、集団としての主体性、環境や構造のような水準がより問題となっているはずだろう。まあ、さっさと原著を読めというはなしなのだが。
AOにおける精神分析批判のもう一つの要点は、精神分析の「主体化」へのアンチテーゼである。主体化とは、「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」というラカンの公式に示されるように、精神分析がシニフィアンを必ず主体と結びつけてしまうことを指している。つまり、精神分析はあらゆる言表行為を個人としての主体に帰属させ、そうすることによって「言表行為の主体」を形成してしまうのである。
反対に、ガタリの立場からは、言表行為の主体は存在しない。存在するのはただ言表を生産するアジャンスマン(さまざまな次元の構成要素からなる異種混交的な編成)だけである。つまり、言表は個人としての主体に帰属させるべき行為ではなく、むしろその言表の生産される現場を社会の集団や権力関係のなかで捉えることが必要だというのである。この立場からは、主体ではなく、むしろ集団的主体性が問われることとなる。そして、その実践のなかでは「共通規範を逸脱する主体の欲望的特異性にそれ相応の場所」が付与される。つまり、集団的アジャンスマンは「特異性の〈素材〉として現出するあらゆるものと連結することのできる開かれたシステム」なのである(Guattari, 1977, p.39/104頁)。人間は、つねに何らかの集団のなかにあるが、それでも集団の規範を逸脱する特異性がつねに轟き、生じている。スキゾ分析の任務は、その特異性を抑圧から解放し、「前人称的な複数の特異性を開放すること」にほかならない(Deleuze & Guattari, 1972, p.434/下272頁)。
(松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.398-399)
- 四時半くらいに出勤にむけてものを食べに行った記憶がある。五目ご飯がのこっていたのでそれを食べたのではないか。あと即席の味噌汁も飲んだような気がしないでもない。腹をすこし埋めると、身支度へ。しかしそのまえに、五時一〇分から一〇分だけまた「読みかえし」を読んだのだった。熊野純彦『レヴィナス』中の記述(154番)ひとつを二回読んだだけで時が尽きてしまった。それからわずかにストレッチをしたり、歯を磨いたり、服を着替えたりして出発。こちらが玄関を出たあとから出てきた母親が、月が赤くてすごいみたいなことを漏らしたが、たしかに扉をくぐったさいに、東の坂沿いの樹々に隠れつつも赤の色が低いところにのぞいているのを目撃していた。道を行くあいだ振り返ってみても、鍛冶場で焼けたような赤さの月、ほとんど満月だが上端だけかすかに薄れているそれが、おしなべて雲がかっているはずの白墨色の空でそこだけきりきり刳りぬかれたようにはっきりと浮かんでいた。五時半を過ぎたころあいなので道はとうぜんもう暗い。
- 最寄り駅にはいるとホームの先のほうへ。駅まで来たあとは階段通路を行きながら、月が消えたなと暗い空に視線を吸いこませていたのだが、ホームを行けば正面、東の空に、こんどはあまりはっきりせず色もにぶくなったすがたのなかに雲の黒い線を横にながして裁断された赤さがあって、切り絵のように貼りついていたそれはしかし、ちょっと見ないでいるうちにもうすぐ呑みこまれてしまい、ふたたび見やったときには指紋程度の希薄さしかなくなっていた。
- 乗車。満員。しかし扉際から一歩下がるくらいはできたので、そこで頭上の吊り革をつかむ。右手に白人の一団。四人ほどの男女だったはず。左隣りでは比較的若い男と比較的歳を取った男がはなしていて、歳を取った男のほうがだれか女性について、だれかがねらっていたのにゆっくりはなれていたらもう男をつくってた、みたいなことを言っていた(じっさいにはっきり聞こえたのは「もう男つくってた」ということばくらいで、かなり想像によるおぎないがはいっているが)。そのあとでべつの女性について、目のまえの若い男がねらっているということだったのか、あるいはたんじゅんに性質の評価だったのか知らないが、あの子はだいじょうぶ、ゆっくりしてても、みたいなことも言っていた。目を閉じて揺られていると右腕のあたりになにかが当たったので開けてそちらを見やれば、そこにいた中年くらいの女性が降車にそなえて荷物を身に寄せたさいにぶつかったらしく、あいてはすみませんとちいさく言って恐縮してきたので首を何度かうごかして会釈する。そうして目的の駅について降りるとぞろぞろと吐き出されて向かいに乗り換えていくひとびとのなかを横に渡っていき、改札へ。駅を出ると、ロータリーのなかでつつましやかなものではあるがイルミネーションがはじまっていた。きのうの夜に見たおぼえがないので、たぶんきょうからはじまったのではないか。職場へ。
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)さんとともに退出。いっしょに駅にはいり、(……)とかはなしながらホームへ。(……)がもう出るまぎわだったのであいさつを交わして別れ、じぶんは反対側へ。出口のないようで不思議な土曜日の夜なので、それに似つかわしく酒を飲んだものがけっこういたようで、(……)さんが乗っていったときにはしたたかに酔っているらしく歩調も語調もあやういような、ほとんどバイオハザードのゾンビみたいにおぼつかないようすの中年いじょうの男性が電車の脇でよろよろしていたし、(……)に乗って発車を待っているあいだも、~~、三六歳です! とかおおきな声で自己紹介している女性とそれを受けてなんとか言っている男の声がどこからか聞こえてきた。疲労感はなかなかつよかった。時間にしてみればまあ五時半に家を出たとして帰り着いたのが一一時だからたかだか五時間半にすぎないはずなのだが。二、三時間はたらけばそれだけでもうふつうにつかれる。また、やはり眼鏡をながくかけていると額や頬骨、頭蓋がかたくなってかなりつかれるなということを再認識した。この夜は風呂場などでそれをほぐすのになかなか苦労したものだ。
- 帰路にとくだんの印象はない。帰ると休み、ブログを読んだりし、その後Michael Feinberg『Hard Times』を三〇分くらい聞いて零時を越えた。夕食は五目ご飯ののこりやスンドゥブなど。新聞を読もうとしたがやはりあたまがかたくて困難そうだったので、夕刊で一記事読んだだけであきらめたはず。その一記事というのはウィスコンシン州ケノーシャで昨年八月だかに人種差別に反対する抗議デモのさいちゅうに路上で発砲し白人をふたり殺したカイル・リッテンハウス(Kyle Rittenhouse)が無罪となったという報で、この青年はとうじわずか一七歳、現在一八歳で、有志があつまった武装自警集団(vigilante)に参加していた人間であり、事件とうじは右派メディアをいどころとしているたぐいのコメンテーター的な評論家(TV pundit)が、まだ一〇代の青年が国を憂いて銃を取りストリートに出ているというのに政治家はなにをしているのか? 彼を大統領にしたいくらいだ、とか言っておおげさに彼の行状を称賛していたはず。たしかミシガン州知事のGretchen Whitmerにたいする誘拐計画があきらかになって数人逮捕された事件をつたえるGuardianの記事のなで、そういう情報を読んだおぼえがある。それでNotionを検索してみたところ、やはりそうで(直接的にWhitmerの事件じたいをつたえる記事ではなく、それを受けて、テロリスト(domestic terrorist)を"militia"と呼んでその実態を曖昧化するメディアの報道を問題視する意見記事だったが)、Arwa Mahdawi, "Enough with militias. Let’s call them what they really are: domestic terrorists"(2020/10/10, Sat.)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2020/oct/10/militias-domestic-terrorists-gretchen-whitmer(https://www.theguardian.com/commentisfree/2020/oct/10/militias-domestic-terrorists-gretchen-whitmer))がそれである。問題の情報は以下のぶぶん。
It’s not just the White House that’s complicit, it’s the media. Kyle Rittenhouse, for example, the 17-year-old accused of killing two protesters in Wisconsin last month, was celebrated as a vigilante by rightwing outlets. “How shocked are we that 17-year-olds with rifles decided they had to maintain order when no one else would?” Tucker Carlson asked on Fox News. Far-right pundit Ann Coulter tweeted that she wanted the teenager “as my president”. The New York Post, meanwhile, published photos of Rittenhouse cleaning up graffiti; he was framed as a concerned citizen rather than a cold-blooded killer.
To be clear: double standards aren’t just a rightwing media problem. A study conducted by Georgia State University last year found that terror attacks carried out by Muslims receive on average 357% more media coverage than those committed by other groups. While this is clearly racist, it’s also dangerous. White supremacists, plenty of evidence shows, are the deadliest domestic threat facing the US. By downplaying the threat of white nationalist terrorism, by finding politer ways to refer to it, the media have allowed it to proliferate. So please, let’s call things by their name. Enough with the “militias”, these people are terrorists.
- Kyle Rittenhouseは故意殺人とか未必の故意とか、五つくらいの罪状に問われていたらしいのだが、地元の裁判所で一二人の陪審の全会一致の判断によって(原則として全会一致をめざすらしい)無罪となったという。彼は銃撃によってふたりの白人を殺害し、ひとりに重傷を負わせたというが、事件の直前に彼が銃を持っている被害者から追いかけまわされているようすをうつした映像があるらしく、それで弁護側の正当防衛だという主張、また本人の、じぶんは身をまもろうとしただけだ、という訴えが事実上みとめられたと。検察側は控訴できないらしい。ニューヨークなどで抗議デモが(この文を書いている二一日時点からすると)すでに起こっており、今後もつづいて混乱となる可能性もあると。
- 新聞をあきらめたあとはテレビに映っていた『ごほうびごはん』というドラマを見た。このドラマはいぜん、第一回目が映っていたのもちょっと見たことがある。主演の女性は桜井日奈子というらしく、母親は見ながら、ほんとうにおいしそうに食べるねと笑って褒めていた。彼女がうな丼をつくる場面があって、(食にかんしてはたびたびそうであるように)うなぎというものをさいしょに食おうとおもった人間もいったいなにをおもってそうしたのかわからんなあとおもったのだが、たしかそれとおなじ場面でながれていたBGMが、あきらかにJackson 5のゆうめいな曲のパクリというか、それを踏まえているのでは? というかんじだった。Jackson 5なんていちども聞いたことがないので知らないのだが、これは"I Want You Back"で、やたらゆうめいでCMとかでつかわれていたはずなので曲だけは聞いたことがあったのだ。Richie Kotzenが『Peace Sign』のさいごで(たしか日本盤のみのボーナストラックとして)カバーしていたので、それでギリギリ記憶していた。なんかイントロがこれに似たかんじだった気がするのだけれど、よく聞こえていたわけではないし、じっさいにはべつに似た音楽ではなかったのかもしれない。いま"I Want You Back"をながしてみたが、Motownやばいな、というほかない。