2021/11/21, Sun.

 私は忠誠の誓いを立てた そそり立つポールに掲げられながら
 半ば弛み垂れ下がった旗に そして
 一つでも…不可分でも…すべての人に自由と平等を与えるのでもない我が共和国に [註1: フランシス・ベラミー(一八五五 - 一九三一)が一八九二年八月に作成した「忠誠の誓い」を改変]

 私は祈ってきた あなたがたの [﹅6] 主への祈りを、あなたがたの [﹅6] 神に対して
 あなたがたの似姿に作られた神に…私をあなたがたの悪行から救ってくださいと
 しかしその名は虚ろであり、黒人の祈りを叶える気もない [註2: 聖書「マタイによる福音書」六章九 - 一三節を改変]
 この世でも 閉ざされた天国でも

 魂は明け渡した、せめて名は奪わないでくれ [註3: 一九九六年の映画「クルーシブル」におけるダニエル・デイ=ルイス演じるジョン・プロクターの台詞]

 多くの苦しみ焦り怖れに悩んだ
 この五十と七年の間に
 私の血と汗と涙(のすべて)が流れ込む
 あなたがたが私を捨てたあらゆる谷間に
 私は歌った…「我が祖国、汝を讃ふ [註4: サミュエル・フランシス・スミス作の「我が祖国、汝を讃ふ」(一八三一年)より] 」を…
 歌えと言われれば

 私は喝采も送った 夕暮れの陽が消えるころに
 あなたがたの大きな縞模様と輝く星が
 はためく姿に その下にはあなたがたが自由と宣言した土地
 勇者の故郷 それなのにすべての人を自由にする(end30)
 勇気はない [註5: 米国国歌を改変]

 魂は明け渡した、せめて名は奪わないでくれ

 私は信じた あなたがたの言う通りコロンブス
 正確な航海術によって
 西に向かって帆を上げ東にあるインドを見つけようとし
 アメリカを発見したと
 見つからなくなっていたわけでも見つけられたかったわけでもないのに
 住民も見つからなくなっていたわけでも見つけられたかったわけでもない
 それなのに新しい名前を付けられた 自分の名前ではないものを

 魂は明け渡した、せめて名は奪わないでくれ

 自由が呼びかけてきたとき 呼ばれるべき(end31)
 名がなければ、自由にはなれないのだから 名は奪わないでくれ

 (ニール・ホール/大森一輝訳『ただの黒人であることの重み ニール・ホール詩集』(彩流社、二〇一七年)、29~31; 「私の名前」 My Name)



  • 「読みかえし」、157番。マルセル・プルースト井上究一郎訳『失われた時を求めてⅠ 第一篇 スワン家のほうへ』(ちくま文庫、一九九二年)より。したのぶぶんの執拗さというか、~~な匂いという表現をひたすらならべていくさまはなかなかすごいなとおもった。ただそれだけではなく、声に出して読んでみるとこれがなかなかリズムがよいというか、なにか気持ちのよいところがあって、井上究一郎の訳はかなりこまかく読点を置くし、いまの文章の感覚とはちょっとちがうなというところがあったり、現在の感覚として精度がたかいかというと意外とそうではないとおもわれるところもあったとおもうのだけれど、この箇所は読点にしたがって口に出してみるとひとつのながれが生まれるかんじがあり、やはりさすがなのだなとおもった。
  • 82: 「その二つの部屋は、田舎によくある部屋――たとえばある地方で、大気や海のあちらこちらがわれわれの目に見えない無数の微生物で一面に発光したり匂ったりしているように――無数の匂でわれわれを魅惑する部屋、もろもろの美徳や知恵や習慣など、あたりにただようひそかな、目に見えない、あふれるような、道徳的な生活のいっさいから、無数の匂が発散するあの田舎の部屋であった、それらの匂は、なるほどまだ自然の匂であり、すぐ近くの野原の匂とおなじように季節の景物なのだが、しかしそれはすでに居すわった、人間くさい、部屋にこもった匂になっている、そしてそれらの匂は、いわば果樹園を去って戸棚におさまった、その年のすべての果物の、おいしい、苦心してつくられた、透明なゼリーの匂、季節物であって、しかも家具となり召使となる家つきの匂、焼きたてのパンのほかほかのやわらかさで、ゼリーの白い霜のちかちかしたかたまりを緩和する匂、村の大時計のようにのらりくらりしていて几帳面な、漫然とさまようかと思うと整然とおさまった、無頓着で先の用意を怠らない匂、清潔な白布の、朝起きの、信心家の匂、平安をたのしみながら不安の増大しかもたらさない匂、そのなかに生きたことがなくただそこを通りすぎる人には詩の大貯蔵槽に見えながら、そのなかにいれば散文的なたのしみしかない匂である」
  • 覚醒は九時二二分だったはず。それから寝床で喉を揉んだり深呼吸したり、あときょうは腹も揉みながら(昨晩風呂のあとに茶を飲んだのだけれど、そうすると寝るまえくらいにはなぜかやたらと腹が張っていたので)だらだらして、一〇時八分に離床。水場に行ってきてからまたベッドにころがって書見した。熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』(講談社、二〇一七年)。おもしろい。『判断力批判』を中心として趣味判断や美にまつわるカントの所論を追っていくもので、かなりわかりやすいとおもう。そうはいっても論述のながれをよくおぼえているわけではないし、また細部で意味の射程がつかみきれない語もあるにはあるが、なにより文章の質感がとてもなめらかで、ほとんどすべすべしており、熊野純彦の本はどれもそうだ。文体の円滑さによって乗せられてするすると読めてしまう(するすると読めるというのはかならずしもつねに褒めことばになるわけではないとはいえ、ここでそう言うことに否定的な含意はないし、むしろいくらかの羨望をまじえてさえいる)。これはふつうの書き手はひらかないだろうという語もひらいていることがままあり、それもやはり過去の著作においても同様だが、きょう読んだなかだったらたとえば22に「ふつうのいみでの普遍性 [﹅3] 」という一節があり、「意味」をひらくためにはなかなかおもいきりがいるような気がする。おなじく22にあるそのつぎの段落の冒頭は「とはいえたほう」という七文字ではじまっていて、「たほう」単体ならまだしも、この七字の字面はほかではまず見かけないものだとおもう。「たほう」がひらいているのだからとうぜん、それにたいする「いっぽう」もひらくわけで、16ページにはその組み合わせが見られるが、ところが63ページにいたるとこの二語は漢字になっており、一七八五年に公刊された『倫理の形而上学の基礎づけ』にかんして、「一方で、第一批判で予告されていた形而上学の第二部門に対する序論であるとともに、他方で、第二批判を公刊するまえに道徳哲学をめぐるみずからの基礎的視角をやや一般むけにあらかじめ提示したものである」という説明の一文が見て取られる。「一方」「他方」の双方に「で」という助詞一文字がついているので、それが漢字とひらがなの選択においてなんらかの影響をおよぼした可能性があるかもしれないが実情はむろん知れず、さきにふれた「意味」についてもいつもかならずひらいているわけではなく、36ページには「美と善が独立なことがらであることが、趣味による判定には関心のいっさいが欠けていると語られるさいに、意味されている消息のひとつなのである」と漢字のすがたであらわれる。そしてそのつぎの37ページではまた、「美が経験されるさいの自由な適意は感性的で、あるいみでは動物的な次元からの解放を、そのかぎりでの自由をふくんでいる」とふたたびひらがなになっているけれど、これにかんしてはおそらく、「意味する」という動詞形でつかわれるか、名詞としての「いみ」でもちいられるかの別なのではないか。つまり、熊野にしても「いみする」とは書けないのではないかという気がするのだが、べつにそんなことはなく、のちにあっけらかんとそういう表記が出てくるか、あるいは気づかなったところですでにつかわれていたのかもしれない。いずれにせよ、おなじ語でも箇所によって漢字とひらがなでつかいわけているものがこの本のなかにはいくつかあるとおもうのだけれど、それらにかんして明白な法則性があるのかいなかは確定しがたく、だからといって気まぐれにつかいわけ、てきとうに書いているというかんじはまったくなく、個々の箇所の文脈や見え方によって適宜判断しているのではないかと推測する。
  • 一一時半ごろまで読んだのだったか。きょうの天気は曇りで、明確に青さは見えず、濃淡さまざまな雲がほつれもなくつなぎあわさったさきに透ける色もほとんどなかったが、それでもときおり太陽が雲の窪みにはいってひかることもあった。上階へ行き、ジャージにきがえて食事。きのうの五目ご飯をスンドゥブで混ぜておじやにしたものと、それだけではすくなかったので冷凍のドリアや煮物のあまりを食べた。新聞は書評面を瞥見したくらい。ジョイスの『ユリシーズ』の紹介があり、加藤聖文が武井彩佳の『歴史修正主義』をとりあげていた。この中公新書の新刊は読みたい。ほか、一面から二面にかけて北岡伸一が寄稿していたのでそれも。北岡は国際協力機構(JICA)の理事長をやっているのだが、それでカブールが陥落してタリバンが制圧したさいに現地職員の安否を心配して退避のためはたらきかけたと。現地職員とその家族や関係者のみならず、北岡の懸念の対象はあとふたつあり、それが警官として育成された女性らと(一五〇〇人ほどとあったか?)、アフガン人元留学生だと。このうち女性警官らにかんしてはタリバンがひきつづきはたらきつづけてもらうと表明したので危険度は相対的にすくないと判断されたが、仲間として尽くしてくれた現地職員らについてはなんとか脱出させたくて、岸信夫防衛相に直接自衛隊の派遣を頼みにいったという。それでもけっきょくまにあわずにあとすこしのところで例のテロが起こってしまい、自衛隊機によって脱出できたのはたしかひとりだけだったはずで、ほかはその後陸路で隣国にのがれたりしてなんとか退避した。元留学生らについてはまだアフガニスタンにのこっているひともおおく、当人たちが脱出をのぞんでいるのかもわからないが、日本はこういうばあいにしかるべき人間を見捨てるようなことはせず、人道と人権を重視する外交をおこなう国であってほしいと。それは国益にもつながるはずであり、安全保障の観点からして人権を重要視するにあたって、岸田内閣が元防衛大臣だった中谷元を人権担当の総理補佐官に任命したのはたいへんけっこうだと評価していた。日本でまなんでいたアフガニスタン人の元留学生については酒井啓子が先日彼らをすくうべきだという要望を政府に提出して記者会見をしたという記事もあったが、それについてもほんのすこしだけ言及されていた。
  • 皿と風呂を洗い、帰室。茶を飲みつつ、きょうも「読みかえし」。一時すぎから一時間くらい読んだ。だいたいプルースト。それからひさしぶりにギターをいじる気になったので隣室へ行き、あそぶ。まあまあわるくはない。ほぼ似非ブルースだけ。やはりジャカジャカやりたいので、いちど(……)の練習室を三時間くらい借りてみるのもよいかもしれない。ギターに満足したあとは自室にもどってまた書見。いま74ページまで読んでいてまあまあはやい。
  • Oasisがながれるなかで静座。静座という語がきのうの記事を書いているときにふと出てきてつかったのだが、瞑想や坐禅というよりもこの語のほうがぴったりするのでこれをつかうのがよいかもしれない。検索してみるとWikipediaに記事があって、狭義には儒教の身体的実践について言うらしい。「朱子学創始者である朱熹は24歳のときに師である李侗から、感情や意識が働く以前の心(性)を養う「未発の存養」の方法として静坐を伝授されたという」、「朱熹は仏教の禅の座禅を思考を断絶するものだとして退け、しっかりと意識をもちながら心の安静な状態を維持するものを静坐とした。 しかし、人の日常は未発ではなく、外部からの刺激によって情が励起する「巳発」の場面がほとんどであり、静坐を極めても心の問題が全て解決するものでもないとも考えた[1]。 朱熹儒教経典に見られる「敬」を重視し、日常的な場面でも心を安静の状態に置くこと(居敬)を求め、静坐をその一部に位置づけた。一方で静坐にも一定の意義を認め、静坐での呼吸法について『調息箴』という書物を著している。その後、朱子学では明の陳献章が静坐を重視したことで知られており、陽明学では王畿らに静坐への言及がある」とのこと。仏教的坐禅が「思考を断絶するもの」なのかは微妙な問題だとおもうが、「しっかりと意識をもちながら心の安静な状態を維持する」というのはまさしくじぶんがやっているそれの説明としてただしいとおもう。「感情や意識が働く以前の心(性)を養う」というのも、なんとなくわかるような気がするというか、なにかしら示唆的なものをかんじる。「静坐を極めても心の問題が全て解決するものでもない」などというのはあたりまえのことである。
  • 四時四〇分で上階へ。アイロン掛けをする。母親がけっこうやってくれたようで、かけるべきはだいたいじぶんのワイシャツくらいだった。食事もスパイスカレーをつくるというのでまかせることに。ワイシャツの処理を終えると下階にもっていき、部屋のそとにかけておいて、それから蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)の書抜きをした。書抜きもなかなかできない。音楽はOasis『Familiar To Millions』をつなげたが、"Stand By Me"がやはりよく、とくにB部にはいって"so what's the matter with you?"と言うさいしょのところがいちばんよくて、観客らがシンガロング的に合唱している声がきれいにそろっており、雲につつまれた月が周囲にうつしだすひかりの暈みたいに拡散しながらもさわやかなひびきでボーカルに添っているのがきもちよい。書抜きは意外と時間がかかって三箇所しかできず。指をうごかしながら、なんかなげえなという印象だった。講談社文芸文庫は字数がおおいのだろうか?
  • 七時ごろになって食事へ。カレーや生サラダ。新聞からは国際面を読んだ。北京支局長だかの吉田健一(かの文芸評論家とおなじ名、おなじ字である)が香港で毎年おこなわれていた天安門事件追悼の光景がもう見られなくなったことをなげき、中国共産党にとって都合の悪い歴史の風化や修正的解釈がすすむことへの危機感を表明した記事と、パキスタン政府がパキスタンタリバン運動(TTP)という国内の過激派と停戦合意したことをつたえる記事。アフガニスタンタリバンが仲介して実現したらしく、タリバンを後援してきたパキスタン政府としては、彼らに停戦合意を仲介してまとめる能力があることを国際社会にしめし、一定の評価を得させたいという思惑があるのではないかとのこと。パキスタン政府もタリバンを援助しているし、パキスタンタリバン運動もなまえのとおりタリバンを支持し奉じる組織なのだが、シャリーアにもとづく統治を要求するTTPと政府はながねんあらそっているらしく、一〇月だけでもTTPによるテロ事件が一〇いじょう起きたと書いてあった気がする。停戦がつづくかどうかは不透明。
  • 食後に部屋にもどってからはきのうの日記を綴り、九時過ぎくらいまで書いて、たしかここでしあがったのだったとおもう。日記はまたのちほど、この日のこともとちゅうまで綴った。九時半かそのくらいまでベッド縁に腰掛けて打鍵していたらからだがだいぶつかれたので、たおれこんで休息。このときはたぶんウェブをまわってだらだらしたはず。そうして一一時ごろにいたって入浴へ。風呂のなかではいつもどおり静止して肌やからだの感覚に意識をむけた。さいしょは換気扇がついていたので聞こえなかったのだが、やがてそれが停まると窓外でいつのまにか降っていた雨のひびきがガラスをとおってながれてきて、しばらくするとおだやかになったもののこのときにはそこそこ厚く、こもるようにひろがっていた。もう冬にちかくて乾いた晴れもおおく、雨の音を聞くのがひさしぶりだったためか、ひびきがあってもそのにおいとか雰囲気とか空気のつめたさとかがちっとも喚起されず、なんとなく違和感があるというか、いまにそぐわず実感できないようなかんじがあった。零時過ぎまでながくすごす。出て水を飲み、手にユースキンを塗って自室にもどると、きょうのことを記したはず。一時くらいまでだったか。それからまたつかれに負けて、枕とクッションにからだをもたせかけてやすんでいるうちに意識があいまいとなり、三時をむかえたところで起きるときょうはここまでだなと明かりを消して布団のしたにはいった。