ソシュール以前の一九世紀の歴史言語学を考えてみますと、言語をもっぱら文字に書き取り、あるいは古文書に書き取られていた言葉の記録を文献調査することによって研究す(end45)るという方法によるものでした。文字を手段として言語を研究し、言葉がどのように変化していったのかを歴史的に研究しようというのが歴史言語学です。ソシュールの整理によると、そうした言語学の研究のあり方は、言語の通時態(diachronie)の研究である「通時態言語学(la linguistique diachronique)」と呼ばれます。そのような通時的な観点にもっぱら基づく言語学のあり方から、電話モデルに示されたように、その場でAさんとBさんがお互いに同じ時点で言葉をキャッチボールする、やりとりするということを基本にして、同じ時点で何が起こっているのか、頭の中でどのようなことが起こっているのかということをモデル化して理解することから言語の研究を始めようと考える立場への転換がソシュールによって引き起こされたのです。後者は言語を話者たちが話している状態において、コミュニケーションの同時性において研究する、言語の「共時態(synchronie)」の研究であり、ソシュールによって「共時態言語学(la linguistique synchronique)」と呼ばれることになります。言語を同時性において研究する共時態言語学こそが言語学の原理的な出発点であり、言語の通時態の研究はその延長上で考えられるという、共時態モデルの言語学研究へのパラダイム転換を「ことばの回路」は表しているというわけです。
(石田英敬『現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、45~46)
- 作:
信号をぶっ壊せほら空のため無償の青に老い先を知る
コンビニとたたかいばかりこの街の東西南北愛はどちらに
雷鳴をはじめて聞いた夜こそが出産なのだ恋の秘密の
雲に聞け解決不能の俺たちは何億年もかれらのとりこ
- この日は一一時半の覚醒とおそくなった。瞑想は実行。休みの日なのでたいした印象事もなく、いつもどおりだいたい読むか書くかしていただけ。読んだのは読書の本線である熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』(講談社、二〇一七年)がひとつ、それに「ことば」と「読みかえし」のノートをそれぞれ、(……)さんと(……)さんのブログ、といつもどおりのラインナップに、あさって古谷利裕が出る鼎談イベントにでむくので、「偽日記」で佐々木敦の『半睡』とか山本浩貴の作品について書かれた記事を読んでおいた。そのどちらの作品も読んでいないし、荒川修作とかマドリン・ギンズについてもぜんぜん知らないのではなしの内容が理解できるかうたがわしいが。ほか、工藤顕太「「いま」と出会い直すための精神分析講義」を一回目から三回目まで読み、蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)の書抜きもできた。
- 昼に食事を取ったときにテレビでは阿佐ヶ谷姉妹のドラマがながれていて、いままでなんどか目にしたことがあるのだけれど、エンディングのクレジットで阿佐ヶ谷姉妹のうちのいっぽう(だいたいつねに焦点化されてより中心的にえがかれている、したがって主人公と言うべきほう)が木村多江だということに気づいた。たしかに言われてみれば木村多江なのだけれど、なまえを目にするまでまったく気づいていなかった。
- 新聞記事としてはベラルーシのルカシェンコ大統領がEUの非難や制裁を避けるために移民保護を演出しているというやつを読んだ。みずからポーランド国境の前線にでむいて指示を出し、倉庫を開放して厳寒のなか野宿していた二〇〇〇人ほどを受け入れたという。BBCのインタビューで、一部の当局者が移民の越境を支援したということはあったかもしれないとみとめながらも、ベラルーシが移民を意図的にEUへのいやがらせとか攻撃につかっているという主張にたいしてはとうぜん否定し、国境を閉ざすポーランドにたいしてはナチスとおなじやりかただと批判したらしい。
- 日記はこの日のことはまったく書かず(つくった短歌をメモしておいただけ)、前日の記事をなんとかしあげるだけでちからつきてしまった。それも書きはじめたのがおそく、完成したのは深夜。なんか音読とか、いろいろ読むほうに意欲がむいたので。入浴したのは一一時過ぎで、けっこうからだがこごったりつかれたりしていたのだけれど、湯のなかできょうは無行動に静止するのではなく深呼吸というか、息をゆっくり吐くことをくりかえしていたところ、全身がみるみるほぐれていくのがかんじられてすげえなとおもった。腹をしぼってなるべく吐ききるところまでやらなくても、かるいちからでゆっくり吐いていってリラックスするくらいのかんじでじゅうぶんほぐれる。それで心身がやわらかくなったので短歌でもつくるかというあたまがしぜんと湧いて、そうしてこしらえたのがうえに記してあるやつである(さいごのひとつだけはあとでつくったものだが)。就床は四時五分だったがそのまえにもMichael Feinberg『Hard Times』をながしながらやはり深呼吸した。さすがにその時間になるとからだも揺らいで、冒頭二曲分しかできなかったが。しかし寝るまえとか寝床にはいってねむりを待っているあいだに深呼吸しておけば、眠りの質は格段に変わり、滞在もみじかくなる。それでここから六時間後には床をはなれることができたわけだ。