2021/11/27, Sat.

 すべての記号は解釈項を生み出し、その解釈項は第二の記号の表意体となり、さらにそのプロセス――セミオーシス――は「無限の解釈項の連続」を作り出します。それでは、(end69)この図式で「対象(object)」といわれている項は、記号ではない事物ということなのでしょうか。パースは、「対象」は思念や記号自体であることもあるし、また記号の外にある事物でもありうると言っています。ただしいずれにしても人は「対象」については「表象作用(representation)」の中、つまりセミオーシスを通してしか知ることができないと述べています。上に見た紋白蝶の例で考えますと、蝶は記号の外の対象というよりは、記号の表象作用の中で〈指向対象〉の位置を与えら(end70)れているにすぎず、記号の働きにおける位置(ポジション)の問題であると考えることもできます。またこの「対象」に始まるセミオーシスはこの「対象」との出会いによって始まったわけではなく、人間の知覚や思考の活動がそもそも記号の連鎖であるとすると、それ以前に続いていたセミオーシスの連鎖の中で起こった新しいプロセスであると考えることができます。つまり「対象」はつねに記号のプロセスにすでに取り巻かれてしか存在しないのです。
 (石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、70~71)



  • 八時前くらいから覚めていたとおもうが、最終的に九時四〇分の起床。このころには天気がよくて空は快晴、ひかりもよくとおって顔があたたかかったのだけれど、その後にわかに雲が湧いてきて正午前現在では巨大な薄白さが空を覆い、水色は南の果ての最下端にすこしのぞくばかりとなっている。水場に行ってきてから瞑想。四〇分座った。九時五〇分から一〇時半まで。よろしい。そのくらいながくじっとしていればからだはそうとうはっきりしてよくまとまる。
  • 上階へ。ジャージにきがえようとしていると父親が、おまえベルトないってどんなやつよときいてくるので、茶色のほそいやつがまえにあったんだけど、貸してなかった? とききかえせば、父親は元祖父母の部屋に行ってそれらしいものを持ってきたので、たぶんこれだなと受け取った。それからきがえて食事。煮魚や唐揚げ一粒などをおかずに白米。新聞からは南アフリカコロナウイルスの新型変異株が発見されたとの報を読む。きのうのテレビのニュースですでに情報を見かけてはいた。いまのところこの変異株での感染者が発見されているのは南アフリカと隣国ボツワナ、それに香港でふたり、イスラエルでひとりらしい。英国は南アとその周辺六か国くらいからの直行便を禁止、日本も禁止ではないがこれらの国から帰国する日本人にたいしては隔離をもとめると。英政府当局者の発表によると、あたらしい変異型はデルタ型よりも感染力がつよくワクチンがききづらいかもしれない、という。香港の感染者というのは南アから入国したインド籍の男性がひとりで、隔離先のホテルに滞在中に陽性が出たといい、その後このひとのむかいの部屋にいた中国人の男性にも陽性反応が出たとのこと。
  • 食事を終えるとちょっと窓外を見やったが、すると川向こうの屋根のさきで樹々にかくれた裏から煙がにわかに顔を出し、さいしょは密にかたまった濃い白でぬぼーっとしたかんじの間の抜けた生物のように緩慢にもたげていたが、すぐに宙にひらいて風通しよく拡散し、風景の一角をひかえめにいろどった。そのうえの山の高いあたりはオレンジの砂をかけられたふうに染まっており、さきほど煙のみなもとをかくしていた川沿いの樹々のつらなりは梢のならびを虫の足か口のごとく肉感的にうねらせているし、山のほうでも低みでうごきが見えるからあちらでは風がけっこう吹いているらしいが、我が家のまわりにはその気配はかんじられない。近間の屋根の一面が水でつくられた鱗のように白さを溜めており、空中にもひかりをはじいてただよう一片がおりおりあらわれて、それは虫のようにしか見えないのだけれど、そのじつ枝からはなれて旅に出た枯葉なのだろう。
  • 食器を洗ってかたづけ、風呂も洗う。出るとゴミ箱を持って帰室。茶を飲むとやはり緊張したりからだがやや不安定になるということがわかったので、勤務や外出のまえには飲まないことにした。そのかわりにきょうは白湯を一杯持ってきて、すすりながらからだをあたためる。Notionを用意したあと、(……)そうしてまずきょうのことをここまで記述。過去から順番に書くという原則をさっそくやぶってしまったが、やはり見た風景をわすれないうちに書いておきたかったので。うえの段落をnoteに投稿したついでに、過去の記述をちょっと見かえす気になって、「じぶんの文」を溜めているマガジンで七月の欄をひらき、さいしょに出てきた七月二七日のやつを読んでみたのだけれど、これがまあよく書けているなとおもわれた。ひらがなのひらきのバランスがよい。「丘のほうを埋めているヒグラシの音をききながら立ち尽くしているとスズメが数羽つれだってどこかからあらわれ」のあたりなど字面からしてなめらかにながれており(「ききながら」とか「つれだって」をひらがなにしたのがきいている)、その後の文のきりかたやはじめかたのリズムもよい。四か月まえのじぶんもなかなかよくやっている。この日はけっこうととのえて書いたのだろうか? あまり一筆書き的にさーっと書いたというかんじでもなさそうなのだが。たぶんじぶんのばあい、一筆書きとか手癖的に書くと、一文がだらだらながくなりがちだとおもうので、さいしょの文とか、「見ていればまた数羽つれだってそこにわたっていく」の文のようにみじかく置かないのではないか。多少リズムをかんがえて書いたのかもしれない。あるいはべつにそんなことはないのかもしれない、ただ書いたらふつうにこうなったのかもしれない。

 風はとぼしく、線路まわりに伸び上がった草はほとんど揺れない。太陽が支配権をおよぼしている北西の空は小川にながされた薄衣みたいな雲に淡く触れられていて、その雲ばかりでなく地の水色も間近のみなもとからそそがれるひかりを吸ってそれじたい透けるように澄んでいる。北側は東のほうももうすこし濃い水色がひろがっているのだが、ふりむいてみれば南は雲が溶けた筋肉のようにつらなっていて、いくらか淀んだ様相だった。丘のほうを埋めているヒグラシの音をききながら立ち尽くしているとスズメが数羽つれだってどこかからあらわれ、線路を越えて正面、梅の木の梢とそのうえの電線にとまる。見ていればまた数羽つれだってそこにわたっていく。おおかたは電線のうえにおちついて、横に何匹もならんでとまっているすがたの、指人形というか逆向きに生えた実のようなかんじで、左右にいたいけにうごくものもあり梅の梢に飛び降りるものもあり、梢は上部に陽を受けているが風がないからスズメがそこに降りるときだけ日なたと蔭の細片がいりまじるようにうごき震えるのだった。

  • この日も大部分は忘却。勤務中のことだけ記す。(……)