じっさい、パースの記号解釈の概念を手掛かりにして、現在行われているような生命についての情報科学的理解に生かしていこうという研究も生まれてきました。これはデンマークの生化学者であるジェスパー・ホフマイヤーが提唱している「生命記号論(Biosemiotics)」という学問です。
パースの記号論は、生命を一方向へと送られる情報プログラムとして機械論的決定論の枠組みで考えるのではなくて、生命を意味解釈のプロセスとして考えることを可能にするとホフマイヤーは語っています。ホフマイヤーの生命記号論は、生命を生み出してきた宇宙のプロセス全体を記号過程と捉え、生物たちのみならず細胞や組織までがメッセージをやりとりする「記号圏」として生命の世界を記述しようとします。この見方に立てば、生命にとって物質とは記号を生み出し伝達し記憶するための媒質(=メディア)である。生命とはその記号を解釈する意味解釈の活動であるということになります。生命をこのよう(end81)に理解することで、究極的には、人間における意味活動の問題が、生命の記号解釈の活動の進化論的な延長上に位置づけられることになるのです。
じっさい、生物たちは自然の環境からメッセージを受け取り、その意味を解釈して自らを適応させ、エネルギーや栄養素を摂取して生存を維持し、生命活動を活性化させることで新しく生命を生み出している。同じように、人間はメディアという意味環境を通して記号や情報を取り入れて生活を営み、意味活動を活性化させ人生の意味を新しく生み出している。生物に生態系があるように、人間の意味活動にも「意味の生態系」の概念を想定してみたらどうでしょうか。人間の社会や文化が、メディアを生態系として成立している様子が見えてきはしないでしょうか。
(石田英敬『現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、81~82)
- 九時にはっきり覚醒。昨晩は風呂から帰ってきたあとに意識をうしなってしまい、四時ごろになっていちどめざめたのでそこで明かりを落としてそのままねむった。金曜の夜もそうだったし、きのうもそうで、二五日以降の日記がぜんぜんすすめられていないというのにそうなってしまったことにわずかながら怒りをおぼえる。この間に記憶もうしなわれてほんらいなら書けたはずのことが書けなくなっているはずで、労働がなければ疲労することもなく、すくなくともある程度は書き物をできていたのにというストレスである。この朝はまたもや快晴で、寝床で陽を受けながら深呼吸をくりかえしてからだをととのえた。九時半をまわったところで起き、水場に行ってきてからまたあおむいて書見。熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』(講談社、二〇一七年)。一〇時半くらいまで読みすすめてから瞑想。二〇分くらいすわったはず。ほんとうはもうすこしできたほうがよい。
- 階上へ行って食事。きのうの残り物である。すなわち、餅をなかに巻いた肉と大根やエノキダケの味噌汁に白米。新聞はざっと瞥見するのみでまだちゃんと読んでいない。ベトナム戦争で米軍によって撒かれた枯葉剤の影響がまだつづいているみたいな記事や、愛知県で中学生が同級生を刺し殺した事件の続報などがあった。社会面の後者はすこしだけのぞいたが、加害生徒は被害生徒のふるまいをいやだとかんじているみたいなことを以前から漏らしており、学校のアンケートでそういう気持ちを書いていたので教師はそれをとりあげてはなしを聞いたり、被害生徒にあいての気持ちをかんがえて行動するようにと注意したりしていたのだという。被害生徒は生徒会役員に立候補したらしいのだが、加害生徒はそのさいに応援演説をたのまれて、ほんとうはいやだったけれどことわりきれなかったということも言っていたらしい。その後も学校側はいちおうアフターケアを図ってはいたようで、その後どうか、大丈夫か、という聞き取りをして大丈夫だという回答をえていたらしい。
- 食後は皿を洗い、風呂もよくこすった。茶を用意。帰室してNotionを支度。ウェブをすこし見たあとにOasisをひかえめにながして「ことば」と「読みかえし」を音読。それからきょうのことをここまで記してほぼ一時。
- この日は休日だったのでやはり印象的なことはとりたててない。Michael Feinberg『Hard Times』をきいたくらい。この日は瞑想をおおくやって、全部で三回すわったとおもうのだが、そのうしろ二回はこのアルバムをともづれにしていた。いや、そうではないか。聞いたのは四曲目から八曲目にすぎないから、たぶん一回の瞑想だったはずだ。曲名は、"Walk Spirit, Talk Spirit", "Interlude - Three Flowers", "Janky In The Middle", "Every. Damn. Day. (Burn It Down Blues)", "Lauren's Song"。さいしょの#4はソウルジャズ風味というか、たとえばRamsey Lewisなんかをちょっと連想させるような、ブルース進行(では正確なところないのかもしれないが)を下敷きにした曲で、Orrin Evansがピアノソロの後半でアウトフレーズをこまかくつらねているのがかっこうよい。Jeff 'Tain' Wattsもわりとながめのドラムソロをやっていて、フリーではなく拍子にあわせたやりくちなのだが、ピアノおよびベースのキメを基準に聞くとドラムソロはやや速足というか、ペースの感覚が前のめりでどんどんすぎていくような感があり、また箇所によっては前後に微妙にぶれているような気もするのだけれど、ぶれているといってそこでも正確無比な連打感はうしなわれておらず、意図的にコントロールしてやっているのか判別がつかないところで正確にぶれているような印象で、だからキメとはすこしことなったJeff 'Tain' Wattsのなかの内的統一性が確保されているようにかんじられ、ジャズの連中はやっぱりこういうところすごいなとおもう。五曲目はほかの曲ではオルガンやキーボードを弾いているLeo Genoveseというひとがピアノを弾いてMichael Feinbergのベースとデュオをやっているのだけれど、ヨーロッパ的な雰囲気のという形容をただしいのかわからないけれどつかってしまうような、品の良いピアノをベースとしながら、ソロはきらびやかなぶぶんもあり、さいごのほうではCecil Taylor的にぐしゃりと破綻した速弾きもやってみせていて、それもかっこうよかった。ぜんぜんなまえを知らないひとだったが、Wikipediaを見てみると、Esperanza Spaldingの諸作に参加している鍵盤なのだ。