2021/11/30, Tue.

 しかし、そのようなシニフィアンの「意味」の呼びかけは、主体に欲望のシニフィアンの存在を思い浮かべさせる。つまり暗示する。それが「ないんだけどある」とコピーが言っているような事態です。主体の欲望の真の代表としてのシニフィアン、「ほんとうにほしいもの」というものは「ある」と主体は「おもう」のだけれども、そして「それだけはほしいとおもう」わけですけれども、その主体の「うれしいとおもう」喜びは、じつはシニフィアン全体の戯れからしかその所在を明らかにすることはできないという、非常にパラドクシカルな状況に、人間の欲望はおかれているのだというわけです。
 ラカンは、こうした欲望のシニフィアンが作る連続的関係、s1の記号は、s2, s3, snとの関係を通してしか自分を実現することができないという横の関係を「メトニミックな(換喩的な)関係」と述べました。それに対して、欲望の主体とそれを代表するシニフィアンの縦の関係、上の辺の項と下辺の主体Sとの関係を「メタフォリック(隠喩的)な関係」と呼んで区別しています。欲望のシニフィアンは、欲望の主体の代わりとして、置き換え、メタファーの関係にあるのですが、その主体の「意味」は、主体の代理をするシニフィアンと他のシニフィアンとの連鎖による、メトニミーの関係としてしか実現しない。私の欲望の真の意味、つまり私の欲望の真理は、つねに部分的にしか到達できないという(end141)わけです。
 私が身につけ、私を取り巻き、私が気に入っている様々なしるしは、私の欲望の「真理」の代理、つまりメタファーとして、私の欲望をイメージ的に表しているわけですけれども、そのしるしの意味は、じつは他のすべてのイメージのネットワークの働きを通してしか到達することができない。「ほしいものがほしい」という欲望の論理は、こうしたイメージの作用の回路に宿命的に身を置くことを意味しているというわけです。
 「ほしいものが、ほしいわ。」というコピーが表しているのは、ですから「ほしいもの」は、つねに逃れ去っている「欲望の真理」の「欠如」の記号としてしか存在しない。「ほしいもの」をモノの無限連鎖を通して求め続けることも、ただひとつの「ほんとうにほしい」モノを負の形で願い求めることも、ともにシニフィアンからシニフィアンへ、モノからモノへという無限の欲望のゲームへと、主体を導くことになるという欲望のロジックを告げているというわけです。
 (石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、141~142)



  • 目がさめて携帯を見ると九時五分だった。昨晩消灯して床についたのは四時二五分だったので、四時間半ほどではやばやとさめたわけだが、寝るまえに布団のなかで深呼吸していたのでからだはかるく、意識もはっきりとしており、二度寝におちいる気配はなさそうだった。カーテンをひらけばきょうもひかりがあり、きのうとちがって淡青一色に塗りひらかれた空に雲も消えた快晴だけれど、さすがに一二月も目前となるとひかりの感触もいくらかよわよわしくなっており、肌にじりじりという感覚はまるでない。布団のしたにはいったまま深呼吸をくりかえし、同時に喉やこめかみをもんだり脚を伸ばしたりして時間をつかい、九時五〇分にいたって離床した。ダウンジャケットをはおって水場へ。数日前から空気が冷えていよいよ冬のものとなっている。用を足してくると瞑想した。九時五五分から二三分ほど。平常。
  • 上階へ。両親はきょう、千葉の伯父(父親の次兄で、もうずいぶんまえ、じぶんがまだ子どものころになるがノイローゼかなにかになって自殺した)の墓参りにいっているので家のなかが無人でしずかである。窓外はこずえの緑がひかりをはらんでなかに蔭をこめながらも総体としてかすんだようになっている例のあかるさで、屋根もいくらか白さを乗せられて水面となり、朝陽は空中のぜんたいに浸透している。ジャージにきがえて急須の茶葉を捨てると食事。きのうのカレーの残滓をもちいたドリアがあったがそれはあとで出勤前にいただくことにして、冷凍の簡易でちゃちな豚肉と卵をいっしょに焼いた。米に乗せて卓にはこび、醤油をかけて黄身と米を混ぜながら食べる。新聞は一面を見ればオミクロン株の発生拡散を受けて日本も水際緩和策を一挙に転じ、外国人の新規入国を年末まで全面停止(「禁止」ということばはつかわれていない)するとあった。南アフリカ周辺の九か国(にたしかアンゴラをくわえて一〇か国)から帰国する日本人については一〇日間の隔離をおこない、その他イギリスなどは一週間ほど、オーストラリアや香港など他地域は四日間の隔離を設定したという。ついでにオミクロン株にかんしていえばきのうの新聞に、WHOが習近平に配慮してギリシャ文字をふたつ飛ばしてオミクロンの名をつかったらしい、という報道もあった。コロナウイルス命名はアルファとかデルタとかギリシャ文字をもとにして順番につけられているらしいのだが、今回「ニュー」と「クサイ」というふたつの文字が飛ばされてオミクロンにいたっており、それはWHOの説明では、ニューは英語のnewとまぎらわしく、クサイは一般的ななまえであるため無用の混乱や不快事を避けたということで、このクサイをアルファベットでつづるとXiとなり、したがって習近平の名字「習」を英語化したものとおなじなのだと。きょうの一面にはまた秋篠宮文仁親王が五六歳の誕生日をまえに会見してインタビューにこたえたという報もあって、長女眞子と小室圭の結婚について、婚儀がおこなわれなかったことは皇族の儀式がかるいものだという印象をあたえることになってしまい、申し訳ないと謝罪したという。しかし儀礼をおこなわないというのはじぶんが決めたことだとして、おのれの責任を強調したようだ。眞子元内親王複雑性PTSDにかんしては週刊誌報道が一因となったぶぶんもあるだろうとし、週刊誌にはまったく事実無根のことも書かれているが、それらをひとつひとつとりあげてただしていくのはたいへんな労力がかかる、ここを越えるのはゆるされない、ここを越えたら反論しなくてはならないという一定の報道基準をもうけることが必要だと述べたという。そのいっぽうで、週刊誌には傾聴すべき意見も書かれていると言っていたのが、皇族らしいふところの深さというものなのか、ちょっとおどろいたが、はなしがインターネットに転じれば、たしかにそうとうひどいことも書かれているという認識を述べ、週刊誌であれインターネット上の書きこみであれ、誹謗中傷はゆるされることではないという点を明確に断言したらしい。小室眞子が結婚によって「公」の立場よりも「私」を優先したという論調があるらしいのだが、それについては、女性は皇族会議で結婚相手がさだめられる男性皇族とはおのずから事情がちがうところがあり、「公」と「私」という概念がたんじゅんにあてはまるものなのかどうか、と疑問を呈したという。
  • 食事を終えるとさきほどつかって油っこくなったフライパンに水をくんで火にかけ、そのあいだに食器を洗い、また洗面所で髪をととのえた。それから沸騰したフライパンから湯をこぼしてペーパーで拭き、風呂場に行って浴槽をこする。窓をあければとなりの敷地のびりびりになった旗が風になでられてくるくるまわりながらなびいているその影がガードレールのうえに乗り映っており、本体を見れば死にかけの一反もめんといった無惨なありさまで、くまなくすべて日なたを敷かれた道のさきでは林に臙脂やオレンジの色が増えていて、その縁をなす石壁のうえにはきょうもたおれはじめた船のマストみたいに電柱の影がえがかれていた。
  • 出ると白湯を持って帰室。コンピューターを用意。LINEをのぞくと(……)くんが自由間接話法について、関口存男がいう「扮役」という概念がヒントになるのではないかと書籍の一ページの画像を載せていたのでコメント。『西洋哲学史要』という本だというが、検索してみると波多野精一の著らしかった。波多野精一というなまえはたしか岩波文庫にはいっていたとおもうが、それいじょうなにも知らない。それからきょうのことをさっそくここまで記述。しかしそうするともう一二時二〇分。きょうもまた三時か四時まえくらいには出なければならず、その後八時か九時くらいまで労働になる。二六日以降をできるだけ書きたいけれど、まあきのうで難事がすんだのであとまわしでもよいといえばよい。職場でちょっとした説明文書をつくらなければならないのだが、あっちでやるのも面倒臭いしほかにもやることがあるし、ふつうに自室でやったほうが気楽に決まっているので家にいるうちにつくってしまおうかとおもっているけれど、できるかどうか。
  • できるかどうか、などといいながらも、そのことばを書きつけた直後からすぐさまとりかかりはじめ、三〇分ほどですみやかにかたづけた。楽勝である。こちとら、毎日文を読み、書いている人間だ。メールに添付して職場のアドレスに送っておいた。時間外労働なので室長にばれるとすこしまずいが、セキュリティの関係上、職場のパソコンからでないとふつうにメールは見られないはずなので、きょう行って痕跡を始末しておけばばれない。なにかの問題でメールからダウンロードできなかったばあいのためにGoogle Driveにもアップしておくという念の入れようだ。じぶんはわりとこういうかんじで終わらないしごとをうっちゃることができずがんばってしまうタイプで、じつのところきのうも指示されていた時間を越えてはたらいていたし、鬱病などになりやすいといわれるところの「責任感があって真面目な人間」にそこそこあてはまっているはずで、パニック障害にならずにふつうに社会に出て正職についていたら、やりたくもないしごとを真面目にこなして消耗し、鬱様態におちいっていたにちがいない。そうかんがえると学生の時点で発作が起こってくれてたすかったと言えば言える。ある種の防衛反応だったと見ることも不可能ではない。あそこで発作が起こらなくとも、おそかれはやかれどこかで精神が狂っていただろうという確信がじぶんにはある。
  • その後上階に行って洗濯物を取りこんだ。もどってくるとここまで書き足して一時半。
  • 出るまでのあいだのことはよくおぼえていないのでまたしても省略。フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』(河出文庫、二〇〇九年/初出・中央公論社、一九六五年)を読みはじめた。たぶん有名な点なのだとおもうが、さいしょの数ページだけすがたをあらわしそのうちまったく消えてしまう話者の一人称単数「僕ら」の使用はたしかに奇妙で、なんの必然性もないように見える。そのあたりのふしぎさについても書いてはおきたいが、そうするのはいまではない。この日も前日と同様、三時四〇分ごろに出た。(……)さんに遭遇。まだすこし距離があるうちから行ってらっしゃい、と声をほうってくるので、どうも、こんにちはとか返すが、たぶんこの時点ではこちらの声は聞こえていないのだとおもう。ちかづいたところであらためてあいさつし、もう冬ですね、いよいよ、さむいので気をつけて、などとかけてさきへすすむ。
  • 最寄り駅のホームに立って空を見れば雲はおおくて巨大なからだがひろくを占めており、北西にひらいた一角にきわだつおおきさはしかしなかなかすばやく右へながれて、天にはしる風のつよさをうかがわせる。ながれは地上にもいくらかは降りてきて線路のすきまに生えのこった草をゆらしていたがたいして顔が冷えた記憶はなく、雲は東へむかっているのかとおもいきや当の東にも湧いている白灰色はひだりへゆったり推移しており、ひだりをむけば右へ、右をむけばひだりへというわけで、そろって一路北をめざしているようだった。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • その他記憶がないので省略。
  • 作:

 われわれは生きるのだ無償性のみを夜はそうしてかがやきとなり

 旅人は誇りを欠くなかれだけが彼我のあわいを知っているのだ

 なまぬるい雨をつたって時が来る夏のありかをたしかめるため

 シャツはまだきみの記憶をすすがれず午前八時の風にまぶしい