2021/12/5, Sun.

 その夢は、『或る年の冬 或る年の夏』のそれに続く部分に明瞭なかたちをとってあらわれてくる。左翼の非合法的な活動にごく曖昧なままかかずらわり、「オケラ」の一人として警察に挙げられた留置場でのことである。

 ――調べが済んだ次の夜、彼は夢精し、それからすでに三、四回は繰り返していた。夢の相手として現われるのは、いつも首のない、局部をそなえただけの女 [﹅11] であり、そこへ向って手続きなしの機械的排出であった。

 ここにおいて、藤枝的「存在」と性欲とをめぐる関係は、徹底して無償の勃起性として完全な姿をとることになる。夢にあってすら、女性は、すりぬけ、逃げさり、遠ざかることで未知の世界への彷徨を強いる不在の影ではなく、むき出しで圧しつけがましい性器そのものとしてあり、彼らに「機械的排出」をせまるのだ。だから、藤枝自身がしばしばそう口にするように、その作中人物たちは執拗な性欲の発現に悩んでいるのではいささかもない。そうではなくて、女たちがその周囲をぎっしり埋めつくし、ちょっと歩けば出逢ってしまう地続きの世界に氾濫しており、距離の彼方に身を隠すことなく、密着を、接合をも追ってきてしまうことが耐えられないのだ。なぜ、女たちは逃げ去り、拒絶の身振りを演じてくれないのか。息をつめ、身をふるわせながら、迷い、煩悶し、失意に陥り、深い(end111)諦念に身をまかせようとする瞬間、不意に世界が微笑みかけるような気がして、性急な追跡の姿勢をとったりすることの楽しさを、自分に許してはくれないのか。「人体に於いて醜の最たるものは生殖器である」というレオナルドの言葉に接すれば、「これを書いたとき、彼の頭に浮んでいたものは女性の性器ではなかったでしょうか」などとたちまちもの知り顔で彼にいわせてしまうのは、女たちの、藤枝的風土における徹底した顕在ぶりではなかったのか。「身長は一五二糎、体重は四三瓩、血液はA型、手足が小作りでふっくらと丸味のある身体つき」で、「細身のモンペに白運動靴という恰好」の『空気頭』のA子を、「皮膚が蒼く、乳が幼く、手足の先きがチョロチョロと細っこいようでいて、いかにもエロチックでねばっこくて、おもちゃにして折り曲げてみたくなるような、あの背景の暗い」クラナッハの描いたレダの像になぞえらているだけでは何故いけなかったのか。だが、A子はレダの画像の向う側にとどまり、ありえないはずの類似を「私」に弄ばせることを許さず、画布を破りこちら側に歩み進んできてしまう。藤枝的「嫌悪」と「恥辱」とは、この不躾な侵入をあっさりうけいれ、それとともに距離の彼方へと伸ばすべき視線を、いま、ここにあるものそれ自体へと向けてしまう点からきているのだ。それは、「芸術」が刻々と「現実」によって犯され、豊かな想像力による遠近法を喪失し、ただ平板で、誰もが苦もなく足を踏み入れることの可能な世界へと埋没してゆく過程にほかならない。起伏のない平坦な地表の拡がりとは、「現実」に犯され収縮し、距離感と遠近法とを(end112)日に日に失ってゆく「芸術」の無残な形骸そのものではないか。藤枝的「存在」はあたりに氾濫する女性たちと計らずも手をたずさえ、陰影と凹凸とを「芸術」から追い払い、日頃踏み固めている土地の地続きの地点に、もはや「現実」でも「芸術」でもない醜い光景を躍起になって捏造してしまうのだ。藤枝的「自己嫌悪」と「恥辱」とは、「現実」が不可避的にもたらす緊迫性とも、「芸術」が夢みることを許す瞬間の幻影とも無縁のものとして、ただだらしなく [﹅5] その存在を人目にさらす醜さのことである。それは、とどのつまり『春の水』や『或る年の冬 或る年の夏』の章がどうしても受け入れることのできなかった「プロレタリア文学」の世界、「形式から云えばただの『私小説』じゃないか、ちがうのは中身だけじゃあないか……、君たちの軽蔑する古臭いブルジョワ小説とこれと、書き方のどこがちがうのだ」と章がいまいましげに口にする「プロレタリア文学」の言葉の、無自覚な誇張でありむなしい自己顕示そのものなのだ。だから、章が「プロレタリア文学」を認めえないのは、それが彼の世界と無縁の文学的営為だからではいささかもない。主題や、作品の風土や、作者の置かれた環境のきわだった異質性にもかかわらず、いまなら「エクリチュール」と人が呼ぶであろう「書き方」の水準に於て、誰もが無意識に踏み固めている平坦な文学的地平をいささかも遠く離れるものではなく、その意味で、章自身が浸りきっている「醜さ」そのものにあまりに似すぎていたからなのだ。
 (蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)、111~113; 「藤枝静男論 分岐と彷徨」; 「Ⅱ 恥辱と嫌悪、そしてその平坦な舞台装置」)



  • きのうの記事にもちょっと書いたのだけれど、書きたいこととか印象にのこったことのみを記す断片性に移行したほうがよいのでは? という気にまたなっていて、ようするにもっと楽に書けるようなかたちにしたほうがよいだろうと。油断するとなるべくすべて書かなきゃみたいな、一日をことばと記述で埋めてあまりすきまがないようにするみたいな、順番に記憶をさぐっていってどの場面からもなにかしら書くことをひろいあげるみたいな、そういうことになってしまいがちなのでよくない。よくないわけではないが、それはやはりたいへんなので、平常としてはもっとたらたら楽勝にできるモードがいいだろうと。いぜんもなんどか、そんなにこまかく書かないでいい、一日一行でもいいわとか、とにかく楽につづけられるようにしようとかかんがえて、日記じたいにもそう書きつけ、そのようにしようとしたことがあったのだけれど、なぜかいつのまにか記録の全覆性へと回帰してしまっている。さいきんはそう追いつかないこともおおいから、「~~については忘れた」みたいなことをたびたび書きつけているけれど、そもそもそのことわりの文言じたいが、ほんとうはその場面も書くべきだ、そこにあったことをほんらいは書かなければならなかったという認識を前提化しているいいかたで、やや特殊であり、世のたいはんの日記はおそらくそんなことばはふくまずに、そもそもおおきく印象にのこったことのみを断片的に書きつけるものになっているはずである。じぶんもそういうふうにしたほうが楽でいいだろうと。順序もこだわらず、印象事をおもいだした順に書くやりかたがやはりよいだろう。とはいえ、毎回おもうのだけれど、こういうことを書いてもそのうちにまた気分が変わってがんばって記録するようになることがほぼ必定で、だからこういう自己言及的な表明というのはまもるべき原則の整理やじぶんにたいするいいきかせというよりも、実質的にはそのときの気分がこうだったということの記録にしかなっていない。
  • 天気はひきつづき快晴。起床は一一時半とおそくなった。
  • 三時一七分から四二分くらいまで座ったのだが、このときは瞑想というより深呼吸をくりかえした。ゆっくりながく吐く呼吸をくりかえすタイプの瞑想というかまあ身体法も、やはりからだをととのえるのに有効だろうとおもってひさしぶりに正式な時間をとってやってみたのだが、これがやはり有効きわまりなく、とにかく全身がかるくほぐれていく。こちらのタイプの静座も毎日一回でも時間をとったほうがよさそうだ。じぶんのかんがえでは瞑想というものの本義は能動性の徹底的な不在ということなので、意識的に吐くことをおこなうこれはあくまで呼吸法であり、瞑想とはちがうととらえているのだけれど、どちらにしてもからだが調うのには変わりない(ただし、そのととのいかたにはけっこうな違いがあるが)。いぜんはむかし聞きかじったヨガの方式にしたがってなるべく空気を吐ききるようにつとめていたのだけれど、それをあまりがんばるとからだはたしかにめちゃくちゃほぐれてあたたまるけれどかえってつかれるし、瞑想とか呼吸法とかが宗教にまつわる高尚な精神的意味はのぞいてなんのためにあるかといえば、心身を安楽にするために決まっているので、がんばりすぎて負担がおおきくなっては本末転倒である(安楽をもとめることでかえって苦が発生するという逆説はひじょうに仏教的な契機であり、つまり釈迦が明確に洞察したことがらである)。あくまでじぶんのからだの楽な感覚にそくしてやるのが吉だというわけで、あまりちからを入れてさいごまで吐こうとせず、自然な範囲にまかせたが、それでもとたんに肉体として存在することが楽になる。
  • 五時であがってアイロン掛け。炬燵テーブルの端に台を置いてやっているその目のまえには、ヤマト運輸の宅配用小型ボックスに松ぼっくりがたくさん入れられており、しずんだ緑色っぽい調子の箱にはメルカリでおくるさいはどうのとか書かれてあったので、売るのかもしれない。クリスマスの飾りなどをつくるのに買うひとがいるのだろう。箱にはいったそれら松ぼっくりは木の皮らしい茶色をのこしたものもあったが、煤でつくられたようにくすんで血の気のない死にかけの顔みたいな灰色のものが多かった。
  • 父親は(……)かなにかの会合ででかけていった。酒も飲むもよう。夕食はうどんにしようと母親と申し合わせてあったが、それでアイロン掛けを終えると台所に。母親がもうつゆはつくってくれていたのでうどんをゆでる。一三分とかかかるとあってめんどうくせえなとおもったが、"Champagne Supernova"を口ずさんだり脚を伸ばしたりしながら鍋のまえで待った。うどんをゆでる直前には流しをかたづけ、それから小便をしにトイレに行ったが、膀胱をかるくしたついでに便器やトイレットペーパーホルダーのうえや、便器の水が吐き出されるところの周辺などを念入りに掃除しておいた。うどんをゆでると水にさらして煮込み、そのまま食事。新聞から書評面を読んだ。右ページしかまだ読んでいないのだけれど、逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』、カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』(仲野徹選)、小林和夫『奴隷貿易をこえて 西アフリカ・インド綿布・世界経済』(加藤聖文)、倉田徹『香港政治危機 圧力と抵抗の2010年代』(国分良成)、師茂樹最澄と徳一 仏教史上最大の対決』(佐藤信)とどれもおもしろそう。『同志少女よ、敵を撃て』というのは独ソ戦に従軍した女性兵士らに題材をとった長編小説だといい、「今年のアガサ・クリスティー賞で圧倒的な評価を受け」たらしく、「膨大な史料や関係者の証言などを調べ、戦争の過酷さとともに、それに翻弄された女性たちの物語として昇華させた」と述べられている。カルロ・ロヴェッリは『時間は存在しない』のひとではなかったかとおもったがやはりそうで、この本では、「量子論的にいうと、森羅万象が「空」である。だから、物質から人間の意識まで、なにものも実体より関係こそが意味を持つ」と結論しているといい、最先端の量子力学で解明された物理的原理をはるかむかしにさきどりしていた仏教の世界認識ってやばくない? とついおもってしまいそうになるけれど、そういうことでもないとおもう。仲野徹は「こんな読書体験は初めてだった。一気に読み進めて、読了した時は面白すぎて興奮が冷めやらなかった。それも、よく理解できないところがたくさんあったにもかかわらず、だ」と冒頭で称賛している。あと、昼間に読んだ書評面の入り口では、「コロナの時代を読む」みたいなシリーズで国分良成岩波現代文庫キッシンジャー回顧録をとりあげており、海外文学の古典を紹介する欄ではブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』がとりあげられていた。今年はニクソンキッシンジャーを中国におくりこんだ米中関係改善の契機からちょうど五〇年にあたっていたわけだが、キッシンジャーはいまだにアメリカの対中国政策にけっこう実体的な影響力を持っているらしく、その中国観はいまだに参考になると。彼のかんがえではマルクス・レーニン主義のようなイデオロギーは表面にすぎず、中国政治の本質というのは「皇帝政治」であり、またその戦略的原理は孫子にもとづいたもので、つまりぜったいに勝てるような戦いをしかけるというか、かならず戦いに勝てるような状況をととのえることこそが戦いなのだというような思考にしたがったリアルポリティクスだと。具体的なところでは、さまざまな紛争で中国はまず積極的な一撃をしかけて、その後すぐに交渉に入るという事例が多いらしく、だから交渉のために一撃があるのだとキッシンジャーは洞察しているらしい。『巨匠とマルガリータ』はいぜんから岩波文庫で目にしていたが、二〇世紀のソ連文学でもっとも読まれているのではというくらいに人気になった作らしく、スターリン治世下では発表できないままブルガーコフは死に、何十年か経ってから検閲版、そして完全版とだんだんあかるみに出てひろく受け入れられたという。内容をぜんぜん知らなかったのだけれど、黒猫とか悪魔とか大舞踏会とか裸エプロンの美女とかそういうポップでファンタジックなモチーフがわちゃわちゃしているみたいな小説のようで、そんなかんじだったのかとおもった。悪魔というあたりわかりやすいが『ファウスト』を下敷きにしているというか、その系譜にあるたぐいの作品らしく、作中で世間からバッシングを受けて原稿を燃やしてしまった作家がいるようなのだが、悪魔がその原稿を復活させながら、「原稿というものは、けっして燃えないのですよ」みたいなことばを吐くと言い、その点、この作品じたいがたどった運命を語っているかのようだと述べられていた。
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